本庄宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて10番目の宿場町です。
武蔵国最後の宿場である本庄宿は利根川の水運で大きく発展し、中山道最大規模の宿場となりました。
天保14 年(1843 年)の「中山道宿村大概帳」によると、家数1,212軒、人口4,554人を数える中山道最大の宿場町に発展しました。また、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠屋70軒となっています。
1625年に参勤交代が制度化され、このときに田村本陣と内田本陣が設置されました。(下図参照)
加賀前田侯が江戸の母訪問の際に田村作兵衛方に本陣を置いたのが田村本陣のはじまりと言われています。
本陣の設置によって、往還が整備され、旅行者が増大し、旅籠屋も増加し、本庄の宿場町は大いに繁栄しました。
戸谷半兵衛は、関東一の豪商として知られます。
本庄宿新田町(現本庄市立図書館前)で呉服・太物・小間物・荒物を商いました。
本店は本庄宿の「中屋」を創業し、江戸室町に支店である「島屋」を、神田三河町にも店(金融業)を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていました。「現金無掛値」商法で多くの利益を上げました。
戸谷半兵衛は代々慈善家としての側面もありました。
初代半兵衛のときは、天明の大飢饉の時、「天明の飢饉蔵」を建設し、米や手間賃を支給し人々を救済しました。
さらに、3代目半兵衛のときは、旅人の安全の為、神流川の渡しに高さ3mもする豪華な常夜燈を寄進しました。
また、俳諧面では、中央俳壇を本庄宿に招いたり、囲碁界では、囲碁の名人である本因坊丈和の才能を開花させるなど、文化面での影響も大きかったと言われます。
天明の大飢饉のときに、困窮者に米と手間賃の支給を目的として建てられた「お助け蔵」です。この蔵は、1846年に起きた本庄宿最大の火事「伊勢屋火事」を防火したと言われています。