中山道の開拓と発展

 

 

 

 

◆中山道の開拓

 

 

 

 

450年前、新田家家臣の末裔「花の木18軒」の仲間は慣れ親しんだ世良田から離れ、本庄へと結集した!

 

 

 

 

 

 

■本庄宿を作ったとされる「花の木18軒」の概要

 

 

 

「中山道が、本庄台地上に開通することが決まると、(小笠原)信嶺(のぶみね)は本庄宿の予定地の屋敷割りを行った。屋敷割りは、中山道の多くの宿場と同じような方法をとっている。間もなく[本宿(もとじゅく)]付近の旧城下町にいた人たちが、街道の両側に家を建てて移り始めた。この人たちは「本宿一八軒」と呼ばれ、新田家家臣の末裔と伝えられている人たちである。その一八軒は戸谷・関根・内田・森田・丸橋・諸井・田村・江原・小暮・今井・織茂・五十嵐・真塩氏などを言い、実数と合わないが、一八という語呂から『本宿一八軒』と呼んだのだろう。後に『花ノ木一八軒』とも呼ばれた。(p210)」出典:本庄市史編集室「本庄市史(通史編Ⅱ)」(1989)

 

 

 

花の木18軒が住んでいたとされる崖下の場所
花の木18軒が住んでいたとされる崖下の場所

 

 

 

 

■「花の木18軒」が本庄に結集した頃の関東の情勢

 

 

 

関東最悪の紛争地帯

「西暦1556年<弘治2年>に本庄実忠(さねただ)が現在の本庄市役所あたりに本庄城を築く。戦国時代のこの時代(簗瀬大輔氏によると特に「永禄三(1560)年から天正九(1581)年以前の約20年間、この地域は戦国大名の上杉家、後北条家、武田家の三大勢力が入れ替わり争う「三つ巴の争覇(そうは)」(P5)の場所だった。」

出典:簗瀬大輔他「戦国史ー上州の150年戦争ー」(上毛新聞社 2012)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

◆中山道の発展

 

 

 

 

 

 

 

 

■石川三四郎の描く「五十嵐家」と花の木18軒の歴史

 

 

 

「この小部落を開拓した一味は六百年前に新田義貞といふ一人の英雄とともに勤王の師を起して鎌倉幕府を打つた人々でありますが、新田氏が亡びて、故郷の上野(古代の毛の國)に蟄伏し、子孫代々好機の到るのを待つたのでせうが遂にその望を失ひ永祿三年(西紀一五六〇年)に私の出生地たる埼玉縣兒玉郡山王堂を開發したり、諸方を廻つて兵法や算書の指南をしたり、その間は利根川にて魚を取つたりして渡世したと開發舊記にあります。然るに半里ほど隔つた本庄村の方の仲間から頻りに、その村方の開發に加勢せんことを要請して來るので、親類相談の上、弟の九十九完道は依然山王堂村に留まり、兄の大膳長國一家が本庄村西部に移つて大勢の人夫を督して開墾することになりました。當時この地方は茅野や藪野が廣く、猪や鹿が多くゐて作物を喰ひ荒し難儀至極であるといふ仲間の訴へに基き、援に赴いた譯であります。この開拓により、後の中仙道が漸く開通する端緒が始められた譯であります。

ところが、この間に日本の政治組織と社會生活とに一大變化が齎されました。即ち、足利氏が倒れ、戰國時代が去つて徳川氏の統一事業が完成せられたことこれであります。そして全國各地の大小名は徳川氏への歸順を證明するために年々參勤交代することになりました。この參勤の通路として本庄驛を通過する中仙道は重要な役割を持つことになりました。新田氏譜代の面々は徳川家康の旗下に列した者も多かつたが、吾々の祖先達は『最早年久しく業家にありて世の治亂にかかはらず、安樂に住すること此上の望み御座無く候儘恐れながら御斷申上候』と云つて、いづれも世の榮華を顧みず百姓になりすましたのです。そして慶長十七年には、五十嵐大膳は百姓太郎右衞門となつてゐました。(p38)」

 

出典:石川三四郎『石川三四郎著作集 第八巻』(青土社、1977)

 

 

 

 

■諸井貫一の描く「諸井家」と花の木18軒の歴史

 

 

 

「吾が諸井家の祖先は勤王(きんのう)の志篤く楠氏に従って南朝の為に尽瘁(じんすい)してゐたが、正成(まさしげ)戦没し~中略~遂に同じく南朝の忠臣新田氏を頼って上野国へ来たり一本木付近に土着するに至りしものである。(p492)」

 

「一本木諸井家の一族たりし諸井監物が一本木を去って中山道の新天地の開拓に志し、同志と共に本庄へ移住したのは大体永禄二、三年の頃である。時恰も戦国時代であって永禄三年には桶狭間の戦いがあり、其四年前の弘治二年には川中島の戦があった。本庄に於ては此の弘治二年領主本庄宮内小輔(くないしょうゆう)が新に築城し旧居たる東本庄より移転して来たが、この附近は利根川に臨んだ広漠たる原野で児玉ヶ原と唱へられ、少数の農家が散在せる外は徒に猪鹿等の野獣の横行に委(い)するの有様であった。(P493)」

 

「諸井監物は武士であったが本庄へ移住してからは恐らく伝左衛門と改めたと推測せらるるのであって、而して伝左衛門の名は第四代迄続いてゐる。(P494)」

出典:秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻』(1969)