「台町の獅子舞」は埼玉県指定無形民俗文化財になっています。以前は7月14日・15日と決められていましたが、現在は、7月の本庄祇園祭り(7月海の日直前の土曜・日曜)に合わせて獅子舞は八坂神社に奉納されています。
大正院は、八坂神社へ獅子舞を奉納するときのスタート地点です。
獅子舞は、八坂神社への奉納後、町内各所を廻ります。
夜に大正院に戻ってから、大正院「薬師堂」で「納め舞」を舞います。
※写真は『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より抜粋のもの
台町に残る獅子頭(龍頭)のうち、最も古いとされる中獅子の顎下に、「寛文八戌申出来仕」と刻まれてあり、獅子舞の起源は寛文8年(1668年)と推定されます。
以下は、柴崎起三雄著『本庄のむかし』からの引用です。
「本庄宮内少輔実忠は弘治2年(1556年)、本庄城を築いた際に裏鬼門にあたる久城堀崖上(現大正院辺)に金鑚神社を勧請した。その後、金鑚神社は久城堀の洪水被害を受け新田町(現宮本町)へ遷座し(注)、跡地は薬師如来の修験道上とされた。
開発当初の台町は金鑚神社を氏神としていたが、金鑚神社移転後は、本庄氏が天神林(旧城内)に祀った天満宮を町内の氏神として信仰したと考えられる。
しかし、その天満宮も宿場中心部の繁栄に従って寛文7年(1667年)に寺坂町へと移転する。
金鑚神社に次いで天満宮も移転したことで、台町ではよく1668年に新たに津島神社(祭神:牛頭天王 ごずてんのう)を天満宮跡地に勧請し、これを祝って獅子舞の奉納を始めたと考えられる。獅子頭の銘文がこれに当たる。(中略)
また、疫病追走には川下に社を祀り、疫病神を送り流すのが一般的で、その後本町と台町とで協議し、津島神社を現在の八坂神社の地に移転したと思われる。」
つまり、獅子舞奉納の起源は、元々あった台町の氏神様が移転してしまったために、1668年、新しく台町の氏神様として、津島神社を天満宮跡地(天神林)に勧請したときの祝賀奉納だったと述べられています。
(注)裏鬼門として大正院に置かれていた金鑚神社が、元和9年(1623年)に洪水被害後、新田町(現宮本町)に移転するまでの一時期、戸谷八郎左衛門屋敷内(戸谷八商店)に金鑚神社は置かれました。
「本庄城築城の際に金鑚神社が久城堀脇(現大正院薬師堂付近)に祀られたが、元和9年の大水で破壊し、寛永年間に現在地に移転するまでの一時期、戸谷八郎左衛門屋敷内に置かれたこともある。」(「本庄人物事典」柴崎起三雄)
「現在の獅子舞の宮参り順路は、これらの歴史的経緯をたどるように、大正院薬師堂より中山道を東に進み、天神林を経由して台町八坂神社に参詣して舞を奉納する。
また、役庭と称される場では、それぞれ舞や所定の長唄、端唄が歌われる。」(柴崎起三雄著『本庄のむかし』より)
※『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より抜粋
本庄祇園祭りの日にあわせて2日間、獅子舞が演じられる。
朝の部・夜の部の2回
【高張(たかはり・提灯)2名、金棒挽(かなぼうひき)2名、拍子木(ひょうしぎ)2名、裃(かみしも)4名、詩(裃)6名、笛(裃)4名、獅子3頭(法眼・雌獅子・老獅子)、獅子付き添い2名、裃(かみしも)3名】
上記順で構成されるのが基本で、前後の裃は町内の有力者がつとめる。
【初日(宵祭り)】
大正院境内薬師堂前→八坂神社(宮参り)→町内を巡行(「平庭」の舞を7か所で上演する)
一部上演場を「客庭」と呼び、「天神林」・「鹿の子」・「われわれ」の3つを上演する。
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【二日目(本祭)】
【朝の部】
大正院境内薬師堂前→八坂神社→下薬師→お仮舎→南沢→八坂前→お頭→相性橋→薬師堂
上記の順路を厳守している。
時により、薬師堂の前に、大正院の境内、成田山でも上演する。
これらの場所を「役庭」と呼び、「二庭込め」の上演を行う。
また、八坂前では1年おきに「橋渡り」を上演し、「天神林」と「袴」は、各庭場で必ず上演する。
下薬師は長唄の中にも歌い込まれており、露坐の石造薬師が祀られている。
お仮舎は町内の会議所前に建てられ、隠居獅子3代が安置される。
また疫病除として希望者には、獅子頭を子供の頭にかざすことも多い。
【夜の部(夕食後)】
南沢→八坂前→お頭→相性橋(中山道を東から西へ移動しながら上演する)→大正院境内
最後に大正院境内に戻ってから、不動堂(成田山)前と薬師堂で上演する。
薬師堂前では舞の後、八坂神社までの街道下りのさわりを演じ(納め舞)、獅子頭を薬師堂に収めて会議所にひきあげる。
また、薬師堂出発時から巡行の行列に小学生による縦笛が加わるが、お仮舎の上演では、横笛だけの演奏で獅子を舞う。
※『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より抜粋
保存会は、獅子舞の練習期間を2週間とし、翌週の日曜日を獅子作りとする。
また、水引(縮緬 ちりめん)を新調するため、絵柄の選定をする。
獅子洗いは、朝6時解体された獅子頭(本体、顎、角)を昔ながらの経路をたどり(現在は地形、環境が変わってしまい昔に近い形で努力している)、
元小山川に向かい、決められた場所、旧大堰付近(改修工事のため川の流れが変わっている)、を御神酒と塩で浄め、川が汚染されているため、模擬洗いを行い、八坂神社へ帰って来て、同境内獅子洗い場にて改めて洗う。
中日頃、獅子舞順路と場所並び、番組の編成を行う。獅子作りについては、翌週日曜日、吉村誠嗣・早川一之・谷山和正氏を中心に、洗った獅子頭に顔料(膠 にかわ〉と酒で溶いたもの)を塗り、墨で隈取り(くまとり)を絵描き、朝を綯(な)い、その麻紐で本体・顎・角を組み立て、水引(新調の縮緬)を縫い付け、獅子の毛を付けて、獅子頭が出来上がる。
獅子舞奉納儀式の一部となっている元小山川は、本庄の人々にとって今も、疫病追走という意味をもった象徴的な場所であると思われます。