関連人物

 

 

 

◆「花の木18軒」のメンバー

 

 

450年前、新田家家臣の末裔「花の木18軒」の仲間は慣れ親しんだ世良田から離れ、本庄へと結集した! 

 

 

利根川のネットワークで結ばれた仲間「花の木18軒」

 

 

 

 

 

◆新田家家臣の末裔としての「花の木18軒」

 

 

新田義貞(「月百姿 稲むらか崎の明ぼのの月」月岡芳年 作)
新田義貞(「月百姿 稲むらか崎の明ぼのの月」月岡芳年 作)

 

 

楠木正成(前田青邨画「大楠公」)
楠木正成(前田青邨画「大楠公」)

 

 

 

■『諸井貫一記念文集』では、楠正成の死後、諸井家は、南朝の忠臣新田義貞を頼って上野国一本木付近に土着し、その後、1559~1560年頃に本庄に移住したことが書かれています。

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「吾が諸井家の祖先は勤王(きんのう)の志篤く楠氏に従って南朝の為に尽瘁(じんすい)してゐたが、正成(まさしげ)戦没し~中略~遂に同じく南朝の忠臣新田氏を頼って上野国へ来たり一本木付近に土着するに至りしものである。(P492)」

「「一本木諸井家の一族たりし諸井監物が一本木を去って中山道の新天地の開拓に志し、同志と共に本庄へ移住したのは大体永禄二、三年の頃である。(P493)」(出典:秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻』1969)

 

 

 

■『本庄村開発旧記』では、関根、戸谷、内田の3名が世良田から本庄に移住したことが記載されています。

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「新田義貞公譜代関根兵庫、戸谷隼人、内田行春の3名が世良田より本庄に引き移り、茅野(ちの)、藪等を切り開き田畑を開墾する。猪、鹿が多く作物を食い荒らす。」(出典:真塩治右衛門『本庄村開発旧記』1826)

 

 

 

 


 

 

◆戸谷家

 

 

11代目

11代目戸谷八郎左衛門。長いひげの人として地域の人に親しまれた。
11代目戸谷八郎左衛門。長いひげの人として地域の人に親しまれた。

 

 

 

 

本庄商業銀行前の戸谷八郎左衛門
本庄商業銀行前の戸谷八郎左衛門

 

 

12代目

12代目戸谷間四郎。十間道路を開通し、坂東大橋や上毛鉄道の誘致に尽力した。
12代目戸谷間四郎。十間道路を開通し、坂東大橋や上毛鉄道の誘致に尽力した。

 

 

幻の本庄線
幻の本庄線

 

 


本庄の名望家
本庄の名望家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■戸谷家小史(歴代)

 

 

 

 

 

 

 

■戸谷半兵衛

 

 

 

江戸時代の豪商として有名な3代目戸谷半兵衛
江戸時代の豪商として有名な3代目戸谷半兵衛

 

 

 

埼玉文書館で開催された「戸谷半兵衛展」

(開催期間:平成30年4月24日(火)~7月22日(日))


 

 

 

 

■初代「戸谷半兵衛」

 光盛 通称戸谷三右衛門(1703~1787)

本庄宿で太物、小間物、荒物などを商う「中屋」を興し、財をなして江戸、京都にも支店を持つにいたる。明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する。

 

 

 

■3代「戸谷半兵衛」

光寿(1774~1849)

父が早世したため祖父の後見を受けて2歳で跡目を継ぐが13歳で祖父を亡くし、その後は母の再婚相手である義父横山三右衛門の助力により商才をみがき、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸22ヶ所、京都3ヶ所を所有。「関八州持丸長者富貴鑑」「諸国大福帳」等に名を連ねる豪商となる。その財は立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守等への大名貸しだけでも15万数千両に及んだ。寛政4年陸奥、常陸、下総の村々への小児養育費として50両、文化3年公儀へ融通金千両、文政4年岩鼻代官所支配の村々の旱魃(かんばつ)救援金百両を拠出。文化9年京都知積院へ大理石石畳を寄進。また神流川無賃渡しを継続し、文化12年旅人の安全を祈り神流川に常夜灯を建立している。翌13年足尾銅山不況の際に金千両を上納、吹所世話役を仰せつけられる等、数々の慈善事業により苗字帯刀を許されている。名主格年寄役を勤めるが、俳号を双烏と名乗り、俳諧面での活躍も大きかった。(参考文献:柴崎起三雄『本庄人物事典』 2003)

 

 

 

 

 


 

 

 

◆諸井家の人々(諸井3家)

 

 

 

「遠祖を楠正成とおなじ橘諸兄とし、正成の湊川合戦討死後、諸井家は上州に退いて土着、200余年後の本庄市築城に際して当地に移り、本庄村の開発に尽力し、「花の木18軒の古百姓」の一軒と称された。その後、一族は3家を興して本庄宿の発展に貢献した。その屋敷位置から、「東諸井」「北諸井」「南諸井」の名で呼ばれた。(P228)」(「本庄のむかし」柴崎起三雄より)

 

 

 

 

諸井貫一によって奉納された「寳登山神社の大鳥居」( 埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞 )
諸井貫一によって奉納された「寳登山神社の大鳥居」( 埼玉県秩父郡長瀞町大字長瀞 )

 

 

 


 

 

■東諸井家(郵便諸井)

 

 

 

「全員反対したものだけが、一考に値する。経営者はこうしたマイノリティの論理を駆使しなければならない」(諸井 貫一の言葉)

 

 

 

 

諸井泉衛(せんえい)
諸井泉衛(せんえい)

 

 

諸井恒平(つねへい)
諸井恒平(つねへい)

 

 

諸井貫一(かんいち)
諸井貫一(かんいち)

 

 

諸井虔(けん)
諸井虔(けん)

 

 

 

(東諸井家)

諸井監物(かんぶつ)を初代とし、上州から本庄に移住。

・明治5年(1872年)、10代諸井泉衛(せんえい)が初代郵便局長となる。

・居宅を事務所に営業したため、「郵便諸井」と呼ばれる。

・明治12年(1879年)に建築した和洋折衷型の住宅は、埼玉県指定文化財である。

・11代諸井恒平(つねへい)は、秩父セメントを創始。

・恒平の長男 12代諸井貫一(かんいち)は、初代日経連会長。日本経済界のリーダーとして活躍した。

・恒平の兄弟、子供たちは各界で活躍し業績を残している。

 

 

 

 

諸井家住宅(埼玉県指定文化財)
諸井家住宅(埼玉県指定文化財)

 

 

 

 

東諸井家の人々

 

 

 

 

■系図

 

 

渋沢栄一(栄一は佐久の甥)
渋沢栄一(栄一は佐久の甥)

 

 

◆諸井家と渋沢栄一の縁戚関係

 

 

【渋沢家と2重の縁で結ばれた東諸井家】

■初代渋沢宗助(宗安)の娘「加與(加代)」が本庄の「諸井仙右衛門(7代)」と婚姻

 

■3代宗助(誠室)の娘「佐久」が本庄の「諸井泉衛(10代)」と婚姻

 

 

 

 

 

 

■北諸井家(宿屋諸井)

・中山道北側(現在の本庄市中央)に屋敷のあったことから北諸井」と呼ばれる。

・北諸井家は旅籠屋を営み、「宿屋諸井」として知られる。

・諸井次郎親保は、照若町に名園「五州園」を開く。

・明治27年に諸井孝次郎が「本庄商業銀行」の設立にもかかわるが、その後本庄を離れる。

 

 

 

■南諸井家(本屋諸井)

・諸井五左衛門を代々襲名

・中山道南側(現在の本庄市銀座)にあったことから「南諸井」と呼ばれた。

・最後の名主諸井興久は、1889年初代本庄町長に就任した。

・興久の息子諸井巴は、「春風書店」を開業したことから「本屋諸井」とも呼ばれる。

 

 

 


 

 

◆石川三四郎

(明治9~昭和31)1876-1956

 

 

山王堂村五十嵐九郎の三男に生まれ、3歳の時に石川家の養子となります。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家でした。本庄小学校卒業。明治34(1901)年に東京法学院(中央大学の前身校)を卒業。

翌35年萬朝報社に入り、幸徳秋水、堺利彦等の影響を受け、萬朝報が日露戦争開戦論側に立つと、幸徳、堺等と共に同社を脱退し平民新聞を発刊して戦争反対を唱えました。社会運動家として活動を続けてきた三四郎は、明治36年「平民社」に合流し、平民新聞等を通じて「非戦論」を訴えました。「政府=支配者」を無くし相互扶助を基調する「アナキスト」としても知られ、生涯を通して社会主義思想による平和をうたい続けました。

この時期、田中正造と行動をともにし足尾銅山鉱毒事件に取り組みました。同40~41年、足尾銅山暴動事件の報道内容を罪に問われ、獄中でカーペンターやクロポトキンの著作からアナーキズムを学びました。その後、明治43(1910)年の大逆事件を始めとする社会主義運動に対する弾圧に身の危険を感じ、大正2(1913)年ヨーロッパへ脱出。亡命中に出会った、フランスのルクリュ一家とともに百姓生活を送ります。この生活が石川の思想を深化させました。第一大戦後の大正9(1920)年日本に帰国後、デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民思想を主張します。大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としました。(農本思想とは、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において異なるものでした。)

大正12(1923)年の関東大震災直後には警察に「保護」とい名目で留置されます。(病気等で)危機的状況でありましたが、親交のあった侯爵徳川義親が「身元引受人」になってくれたことで危機を脱します。大杉栄死後は、三四郎は、日本アナキズムの中心人物の一人となりました。

現在、図書館本館2階には石川三四郎記念室が設けられており、生涯を通して願い続けた平和への思想に触れることができます。

参考文献:北沢文武『石川三四郎の生涯と思想 完結編』(鳩の森書房、1976)/柴崎起三雄『本庄人物事典』 2003/本庄市HP 

 

 

 

 

石川三四郎
石川三四郎

 

 

郷土の偉人石川三四郎の記念碑(本庄市若泉公園内)
郷土の偉人石川三四郎の記念碑(本庄市若泉公園内)

 

 

田中正造(足尾銅山鉱毒事件を告発。石川三四郎が師と仰いだ)
田中正造(足尾銅山鉱毒事件を告発。石川三四郎が師と仰いだ)

 

 

 

 

 

石川三四郎と関係のある人々