「本庄宿」の寺社と市神様

◆本庄信明による「東本庄の館」【室町時代】

「東本庄稲荷神社」(本庄市総合運動公園・シルクドームのそば)

 

●1457年頃。本庄信明が五十子陣の後方守備として、北堀「東本庄の館」を建てる。

 

●児玉党が崇信する鑚神社」・「稲荷神社」・「天満宮」を館内に勧請。

※館が本庄台地の北崖(本庄城)に移された後も、城の鎮守として祀られた荷神社」(現在の本庄市総合運動公園・シルクドーム付近)が現存している。

 


《時代背景》

■五十子陣の頃の関東の勢力関係

~戦いの最前線としての「五十子陣」。古利根川(ふるとねがわ)を挟んで関東管領上杉氏と古河公方足利成氏が対峙していた~

 

 

『享徳の乱』(1454年~1482年)

 

●1454年、鎌倉公方足利成氏は、関東管領上杉憲忠(山内上杉氏)を謀殺して古河に逃げ、古河公方を名乗る。

「五十子陣」古河公方との戦いに備えて、関東管領上杉房顕が築城。1457年頃。

「五十子合戦」『享徳の乱』における激戦の一つ[1459年~1477年])古河公方足利成氏方と関東管領上杉氏方との戦い。

●1477年、上杉氏の対古河公方戦の最大の防御拠点だった「五十子陣」は、長尾景春によって落とされる。

 

●「長尾景春の乱」1476年~1480年に起きた山内上杉氏家宰の長尾家の跡目争い。

※1480年、太田道灌(扇谷上杉家の家宰)が長尾景春の乱を鎮圧。

※1482年幕府と足利成氏との和睦が成立して『享徳の乱』が終わる。

➡『享徳の乱』は、関東における二大勢力の激突。関東における戦国時代の始まりと位置付けられている。

 

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《享徳の乱のその後…》

 

『長享の乱』(1487年~1505年)

山内上杉家と扇谷上杉家は決裂し、両上杉家の抗争に突入する。

没落していた長尾景春は扇谷家に味方して再び山内家と戦うことになる。

この戦いによって上杉氏は衰退し、両上杉家は伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とする後北条氏によって滅ぼされることになる。(後北条氏の関東地方進出の端緒となった。)

 

「五十子陣推定図」『本庄歴史缶』(本庄市教育委員会1997)より
「五十子陣推定図」『本庄歴史缶』(本庄市教育委員会1997)より
「五十子古城図」 『本庄のむかし』(柴崎起三雄著)より
「五十子古城図」 『本庄のむかし』(柴崎起三雄著)より

◆「本庄氏 本庄城」【戦国時代(1556~1590年)】

 

●弘治2年(1556年)本庄宮内少輔実忠(ほんじょう くないしょうゆ さねただ)が、東本庄から本庄台地の北崖に館を移し「(前期)本庄城」を築城。2代目城主は本庄近朝

天正18年(1590年)後北条氏傘下として豊臣秀吉と対立し、小田原城へ籠城するも開城に際して自害。同年、本庄城も落城。

 

●実忠は築城にあたり、城の守護神として鬼門の方位(字・天神林)には、崇敬する「天神社(天満宮)」「椿稲荷神社」を勧請した。また、「天神社」の別当寺として、「神宮寺」を置いた。

裏鬼門(現・大正院薬師堂辺)には、児玉党の氏神である「金鑚神社」を東本庄の旧館より移して祀った。

 

 

【児玉党系図】

「児玉党系図」
「児玉党系図」

◆「小笠原氏 本庄城」【江戸時代(1590~1612)】

「小笠原氏居城期の城郭プラン推定図」 ※『本庄地元学だより 第31号』(増田未来望著)より
「小笠原氏居城期の城郭プラン推定図」 ※『本庄地元学だより 第31号』(増田未来望著)より
「本庄城想像図」 ※『本庄のむかし』(柴崎起三雄著)より
「本庄城想像図」 ※『本庄のむかし』(柴崎起三雄著)より

 

●天正18年(1590年)本庄氏滅亡後、小笠原信嶺が城主となる。

●久城堀東岸に築かれていた本庄氏時代の本庄城は廃して、久城堀西岸(現在の本庄市役所付近)に新しい「(後期)本庄城」を築城。

●信嶺没後、二代目城主は小笠原信之。慶長12年(1612年)信之は、古河へ加増移封(いほう)されて本庄城は廃城。これ以後、本庄は城下町から宿場町へと変わる

 

 

●信嶺は、本庄氏が崇敬してきた「椿稲荷神社」(現「城山稲荷神社」)を旧城内より新城内に移して祀った。本庄氏の故地である北堀にも、「若泉稲荷神社」に社殿を寄進した。

 

●小笠原氏は、本庄氏の崇敬した「天神社」を保護した。(境内地八反のほかに「天神林」五反を加えて保護した)

 

●本庄氏滅亡後に本庄城主となった小笠原信嶺も本庄氏の勧請した「金鑚神社」を産土神として崇敬し、本庄の鎮守とした。

※元和9年(1623年)金鑚神社は久城堀による洪水被害を受けて名主戸谷八郎左衛門屋敷に仮遷座するが、小笠原信嶺の孫(政信)により社殿の寄進を受けて、寛永16年(1639年)現在地の宮本町へと移転した。

 

 

●信嶺はまた、小笠原家累代の菩提寺は飯田市開善寺にちなんで、新たに町の中央に「開善寺」を創建した。

 

●二代目城主信之は、慶長8年(1603年)に「円心寺」を建立(※慶長元年に没した実父:酒井忠次を供養するため)。翌1604年には、円心寺の守護として「八幡宮」を造営。

 

 

 

■小笠原氏の系譜

「小笠原氏系譜」
「小笠原氏系譜」

◆小笠原氏転封後(1667年)「天神社」と「神宮寺」が遷座

 

 

●天正18年(1590年))本庄市滅亡後、新城主小笠原信嶺は本庄氏の祀った「椿稲荷神社」(現在の「城山稲荷神社」)を新城内に移し、本庄市が勧請した「天神社」も保護したが、小笠原氏が古河に転封されると、「天神社」は本庄氏の菩提寺「神宮寺」と共に衰微した。

 

その後、寛文7年(1667年)、神宮寺は「慈恩寺」として寺坂(現:照若町)に再興され、「天神社」も併せて境内地(旧本庄歴史民俗史料館前)に遷座された。小笠原氏時代には「金鑚神社」が鎮守とされたが、人々は「天神社」も古鎮守として崇敬してきており、大正2年(1913年)の町役場建設の際には、「天神社」は「天手長男神社」と共に「阿夫利神社」に合祀された。

 

※参照文献:

『本庄のむかし』(柴崎起三雄著) 

『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)

 

 


城下町から宿場町への移行後

~「市神様」と本庄祇園まつり~

 

◆本庄宿のなかの2つの「市神様」

本町の市神様(下天王社)と新田町の市神様(上天王社)

 

「中山道最大の宿『本庄宿』の再発見」(北部地域振興センター本庄事務所)をもとに作成
「中山道最大の宿『本庄宿』の再発見」(北部地域振興センター本庄事務所)をもとに作成

 

かつて、中山道「本庄宿」には、本町の市神(下天王社)と新田町の市神(上天王社)2つの市神様が中山道沿いに祀られていました。どちらも牛頭天王(後に素盞嗚尊)をご祭神としています。

寛文3年(1663年)、主要街道が鎌倉街道から中山道に変化し、市を維持することが難しくなった榛沢村(はんざわむら・現在の深谷市)から定期市の権利市神様を譲り受け、本庄宿において定期市が開設されました。

市は、月に6回の六斎市で、2と7のつく日(2日・7日・12日・17日・22日・27日)に開催されました。

 

新田町が2日・17日、中町が7日・22日、本町が12日・27日を市日と定め、それぞれ、上市、中市、下市と呼ばれました。

 

「市の割り振り」 ※『本庄のむかし』(柴崎起三雄著)P79より
「市の割り振り」 ※『本庄のむかし』(柴崎起三雄著)P79より

市日には、市開催場所となる中山道の両脇のところで、中山道を横切ってしめ縄が張られました。

 

 

本町の市神様(下天王社)は、田村本陣前の高札場脇に勧請されました。 

「田村本陣前高札場」 ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P28)より
「田村本陣前高札場」 ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P28)より
「田村本陣の門」
「田村本陣の門」

 

新田町の市神様(上天王社)は、戸谷伝右衛門宅前(現在の本庄市立図書館入り口付近)に祀られました。

 

『文政8年 商家高名録』の”木ノ下諸井”のページに描かれている「新田町の市神様(上天王社)」
『文政8年 商家高名録』の”木ノ下諸井”のページに描かれている「新田町の市神様(上天王社)」

※『本庄地元学だより』(増田未来望著)P264より


◆本庄祇園まつり

令和元年の本庄祇園まつりのチラシ
令和元年の本庄祇園まつりのチラシ

 

毎年7月に開催される本庄祇園祭り(海の日直前の土曜・日曜)では、2日間にわたり、各町内(本町・西富田・朝日町・泉町・末広町・照若町・仲町・宮本町)の大人みこしや、子供みこし、各団体のみこしなどが中山道を練り回ります。

みこしを逆さまにして廻す日本随一の『七軒町逆さ廻しみこし』や、東西に分かれてのみこしパレードとび職組合によるはしご乗りの披露なども行われ、近隣及び県外の観客多数を含め、大変な賑わいを見せています。

 

また、台町八坂神社の境内で、無病息災、五穀豊穣、地域社会の安全を願い獅子舞が奉納されます。この獅子舞は、埼玉県指定無形民俗文化財になっており、『台町の獅子舞』として広く知られ、別名『雨乞い獅子』と言われています。

 

 

■台町の獅子舞

獅子舞の起源は寛文8年(1668年)と推定され、現在、埼玉県指定無形民俗文化財となっています。

 

初代隠居獅子 ※『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より
初代隠居獅子 ※『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より

■台町の由来

~本庄氏時代の本庄城の旧家臣団の居住地「侍所」跡を「侍所臺村」と呼んでいた~

 

「徳川家康が江戸幕府を開くと江戸を中心とした交通網の整備が行なわれ、新たに御堂坂に中山道が開削されると、本庄氏時代に侍町であった久城堀東一帯の再開発がなされた。

『本庄開発旧記』に『…拙家共北ヨリ東ノ方ハ侍所臺村境迄…』の記述があることで、人々は旧家臣団の居住地(侍所)跡を『臺村(だいむら)』と呼んでいたことが分かる。

彼等には地形の高台という意識はなく、城(臺)跡地を再開発した町として『侍所臺村』と呼んだのである。

臺村は「臺新田町」とも呼ばれ、更に西の大新田町 (宮本町・泉町)と区別するため、臺新田町は臺町と呼ばれた。

現在では新字の台が用いられようになり、台地の台と解されるようになったのであろう。」『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P52~53より

 

 

■台町の獅子舞

2日目最終日の最後に舞われる大正院薬師堂前の台町獅子舞の奉納舞

※J YoshidaさんのYouTube動画より

本庄祇園祭りの2日間にわたり旧台町町内を大正院から八坂神社を結ぶように練り歩き、各所で舞を奉納します。

 

(台町の獅子舞についてはこちらもご覧ください。)

 


◆起源としての「市神様まつり」

 

「江戸時代、本庄宿は商業発展を目指し、月六回の定期市を開くことを定め、本町、中町、上町の三町が隣の榛沢村(はんざわむら)に交渉し、市開催の権利と市神様を譲り受けた。寛文三年(1663)のことである。

譲り受けた市神様の石宮は、中山道の田村本陣前に祀られ、本町が市神様の管理や祭などを仕切ってきた。

この市神様の祭礼が本庄祇園まつりの起源である。『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P57より

 

 

本庄の祇園まつりは、疫病の流行期である夏の市日である暦6月27日(現在の7月)とされ、当初は市神様前に宿役人や氏子が列席し、神職が祝詞をあげる程度のものであった。

 

その後、宝暦10年(1760)金鑚神社が神輿を新調し、宿内渡御を開始したのにならい、市神様を管理する本町でも明和4年(1767)に、大阪の宮屋九郎兵衛より神輿を購入し、翌5年、氏子域である本町、中町、上町の3町内を神輿渡御している。これが本庄の祇園まつりにおける神輿渡御の始まりである。(同書P58より)

 

※新田町の市神様は、享保3年(1718)現在の本庄市立図書館前の中山道端に新たに市神様を祀り6月17日を祭礼日としました。 

これにより本町市神社は下天王社、新田町市神社は上天王社と呼ばれるようになります。

 

 

『本町の神輿』(本庄市指定文化財) ※2021年7月7日本庄市役所市民ホール展示の時に撮影

明和5年(1768年)、氏子域である本町・中町・上町の3町内を神輿渡御しました。これが本庄の祇園まつりにおける神輿渡御の始まりといわれています。

本町の宮神輿は、明和4年(1767年)製作の約250年の歴史を持つ神輿です。

 


◆「市神様」とは

 

市神様は、市の取引や安全を守護し、市の幸を与えてくれると信じられている、市場に祀られる神様です。

祭神は「牛頭天王(ごずてんのう)」であったり、市の繁栄を祈念して交易の神である「市杵島姫(いちきしまひめ)」や福徳神(ふくとくしん)の「恵美須(えびす)」を祀ることもあります。

新市を開く時は、どこかの市から市神を勧請してくるのが常でした。市は単なる商行為にとどまらず、神のなせるわざであり、人々に豊かさをもたらすものであると考えられていました。市神様があって、はじめて物が売買でき、市が成り立つと考えられていました。

 

■境界領域に祀られる市神様

 「市は交易を行う所であり、人々の生活と密接なつながりをもつ所である。この市の事業と、その場の安全を守護してくれるものと信じられている神。小さな祠(ほこら)や、市神を彫った石柱もあるが、古くは丸い石であったらしい。村の境、船着き場、橋のたもと、四つ辻(つじ)など、境界を示す場所に祀られていることが多い。そのあり場所から、かつてそこで市が開かれていたことが推測される。」(日本大百科全書より)  

 

■市の聖域性と原初的機能

~市には、斎く(いつく)という神迎えの意味があり、人もモノも、「神との売買・交換」によって、浄められていた~

※(「斎く(いつく)」=身を浄めて神に奉仕すること)

日本中世の歴史学者である勝俣鎮夫氏は、市の本来的な原理について述べています。

「市場では、売手も買手も同じくその売買物を神に供物として捧げ、神からその交換物をそれぞれ与えられるというかたちで売買がなされたのであり、その本質は、神との交換・売買であった。(P191)」

したがって、「所有者とその魂を含む所有物との呪術的関係を断ち切ってしまう『浄め』の場として、市は存在した。(P190)」 

 

市は神々が降りてくる場である。市に入ったものは、神との交換・売買によって、神のものになるので、日常の世界・俗界から、人もモノも縁が切れるという状態が作り出される(『浄め』の場になる)と、市の原初的な機能について説明されています。

勝俣鎮夫著「売買・質入れと所有観念」『日本の社会史第4巻 負担と贈与』(岩波書店)より

 

 


◆牛頭天王(ごずてんのう)は素盞嗚尊(すさのおのみこと)

「牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神」(仏像図彙 1783年)
「牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神」(仏像図彙 1783年)
「須佐之男命」歌川国芳作
「須佐之男命」歌川国芳作
明治18年製作の台町の山車「素戔嗚尊」
明治18年製作の台町の山車「素戔嗚尊」

 

牛頭天王(ごずてんのう)は、日本における神仏習合の神です。インドで釈尊が多くの説法を行った場所と伝える「祇園精舎を守護する神様」といわれます。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、神仏習合の時代では、素戔嗚尊が仏に姿を変えた牛頭天王や、薬師如来であると考えられ、悪疫退治に力を発揮する神であるとされていました。

 

「京都盆地は洪水により疫病が起きやすく、疫病を鎮めるのに最も効果のあったのが、牛頭天王を祀る八坂祇園社の祭祀『祇園会』であったことから、各地で牛頭天王が祀られるようになった。また、祇園社のある八坂地区は京都の商業地区でもあることから牛頭天王は防疫神、商業神ともされた。」『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P57より 

 

「宗教に寛容な日本人は神徳から牛頭天王(インド)素盞嗚尊(日本)薬師如来(中国)は同一神であると考えていた。

文化・文政期に書かれた『新編武蔵風土記稿』には、市内に市神天王社2社(上天王・下天王)、牛頭天王社(大正院持)、牛頭天王(威徳院)、天王社(慈恩寺)の六社が見られ、防疫神である牛頭天王は各町内に祀られていたことがわかる。」前掲書 P59より 

 


明治以降の変遷

~明治以降、祭神の「牛頭天王」は「素盞嗚尊」に、神社名は「八坂神社」に統一された~

 

「明治維新になり、維新政府は日本神道を重んじ、それ以外は好ましくないとしたため、祭神の牛頭天王は素盞嗚尊とされ、京都の祇園社は地区の名を冠した八坂神社に改められたことから、全国の天王社もこれにならい八坂神社に変更され、台町の津島神社も八坂神社に改められた。」『本庄のむかし こぼれ話』柴崎起三雄著P59より

 

 

◆明治以降の”新田町”の市神様(上天王社)

~明治33年(1900年)に、金鑚神社境内へ移転され、現在は宮本町、泉町の氏神様に~

 

「金鑚神社」(本庄市千代田)

 

八坂神社(元 新田町の市神様・上天王社)
八坂神社(元 新田町の市神様・上天王社)

 

新田町の市神様(上天王社)につきましても、明治元年に「八坂神社」と改名されました。

明治33年(1900年)には、金鑚神社境内へ移転され、現在は宮本町、泉町がともに町内の氏神とされています。 

 

 


◆明治以降の”本町”の市神様(下天王社)

~城山稲荷神社に3神合祀された(稲荷社・八幡社・本町の八坂神社)~

 

 

 

「自動車の時代を迎えると(田村)本陣前に置かれた下天王と呼ぶ市神様(八坂神社)は中山道通行の支障となり、明治12年(1879年)、円心寺境内の八幡神社に合祀され、以後の祇園祭には中山道に御仮舎(おかりや)を設けて行われるようになった。

 

また、明治45年(1912年)には、八幡神社とともに城山稲荷神社に移転され、更に平成12年(2000年)、稲荷神社の社殿建て替えにともない、『稲荷、八幡、八坂(市神)の三神合祀殿』となり、八坂の石宮は合社殿の中に納まり、祇園まつり発祥の八坂神社(市神様)の姿は外から見えなくなり、その存在がいつか忘れられ、本町による御神幸祭の途絶えたことも一因して、台町の八坂神社が祇園まつり発祥の神社と思われるようになった。

 

本町では社殿建て替えを期に戦後途絶えていた『神輿の宮出し』を復活、更に平成27年(2015年)に城山八坂神社より中山道御仮屋まで、猿田彦が先導を務める『御神幸祭(ごしんこうさい)』を復活させた。」『本庄のむかし こぼれ話』柴崎起三雄著P59~60より

 

 

◆城山稲荷神社(本庄市)

~本町の八坂神社(下天王社・市神様)は3神合祀で祀られている~

城山稲荷神社(本庄市)
城山稲荷神社(本庄市)
城山稲荷神社(3神合祀殿)の内部 ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P28)より
城山稲荷神社(3神合祀殿)の内部 ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P28)より

城山稲荷神社社殿は「3神合祀殿」です。左から、「八幡社」・「稲荷社」・「(本町)八坂神社」が祀られています。

 

 

◆本町の八坂神社(下天王社の市神様)

(本町)八坂神社 ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P27)より
(本町)八坂神社 ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P27)より

本町祇園祭における復活の儀式

◆平成12年 城山稲荷神社での「本町の八坂神社 宮出し」の復活

神輿の宮出しの様子(平成12年[2000年]) ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P31)より
神輿の宮出しの様子(平成12年[2000年]) ※『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P31)より

平成12年(2000年)、本町では城山稲荷神社の社殿建て替えを期に、戦後途絶えていた『神輿の宮出し(入魂の儀)』が復活されました。

 

◆平成27年「本町祇園祭ご神幸祭」の復活

「本町祇園祭御神幸祭」(平成27年[2015年]) ※『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P60より
「本町祇園祭御神幸祭」(平成27年[2015年]) ※『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P60より

 

更に、平成27年(2015年)、城山稲荷神社に合祀されている「本町の八坂神社」より「中山道御仮屋」まで、猿田彦が先導を務める『御神幸祭(ごしんこうさい)』が復活されました。

 

 

◆「御神幸祭(ごしんこうさい)」とは

 

神輿渡御(みこしとぎょ)の目的は、神様を神輿に移して氏子域(町内)を巡行し、氏子の幸や商業の繁栄を祈り、またわざわい災厄を取り除き、疫病を追い払い、人々に神の威光を示すことにある。

 

神輿渡御(みこしとぎょ)に当たっては、神々が地上に降り立つ時に道案内役を務めたとされる猿田彦(さるたひこ)という神が神輿を先導し、神官や榊、旗、吹き流し、太鼓などがつき従う。この祭礼行列による巡行を御神幸祭(ごしんこうさい)と呼んでいる。」『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄著)P58り

 

「御神幸図」 『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P30)より
「御神幸図」 『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P30)より

 

「御神幸祭(ごしんこうさい)」では、「城山八坂神社」から神霊が宿った”みたま”を本町の神輿に移して、猿田彦を先頭に「中山道御仮屋(おかりや)」まで神輿渡御します。

 

 

◆「本町祇園祭 御神幸祭」のコース

~猿田彦を先頭に、「城山八坂神社」から「中山道御仮屋(おかりや)」まで本町の神輿が渡御~

 


本町に受け継がれている宮神輿・四神剣等

◆本町の宮神輿(みやみこし)と四神剣(四神旗)

本町の宮神輿(1767年製作・本庄市指定文化財)と、四神剣(幕には、左から、白虎[西]・朱雀[南]・青龍[東]・玄武[北]の絵が刺繍されています)
本町の宮神輿(1767年製作・本庄市指定文化財)と、四神剣(幕には、左から、白虎[西]・朱雀[南]・青龍[東]・玄武[北]の絵が刺繍されています)

 

本町の神輿(みこし)は、江戸時代中期の明和4年(1767) 大阪の宮屋九郎兵衛によって製作されたものです。(神輿には、「細工人 大阪北御堂筋宮屋九郎兵衛 明和四丁亥都市十一月」と墨書されています。)翌年明和5年(1768)より、市神様の祭礼日に神輿渡御(みこしとぎょ)が行われました。

現在、本庄市の指定文化財になっています。

 

 

 

 

「本町宮神輿の大鳥」
「本町宮神輿の大鳥」
『本庄祇園まつり発祥の地』ご由緒案内板
『本庄祇園まつり発祥の地』ご由緒案内板

 

本庄の祇園祭りは、今から約350年前の寛文3年(1663)に本町のこの場所から始まった。牛頭天王(ごずてんのう)を祀った市神様の祭で、京都と同じに祇園會(ぎおんえ)と呼ばれた。

明和5年(1768)に始められた神輿渡御(みこしとぎょ)もすでに240年の歴史を持つ。

この御旅所(おたびしょ)に安置されている神輿は当時のもので、大阪の宮屋九郎兵衛が、明和4年(1767)に製作し、現在は本庄市有形民俗文化財に指定されている。

神は神輿に乗り、疫病や災難を祓い神の恵み与えるために氏子域をまわり、休憩交流の場所が御旅所(おたびしょ)である。

獅子舞は、津島神社(牛頭天王)を祀る台町が、江戸時代初期に台町の開発を援助した本町に対する返礼として寛文7年(1667)に本町市神様にも奉納を始めたもので、以来、昭和初期まで神前奉納が続いた。

明治初年、国の宗教政策により、天王社が八坂神社と改名されてからは、祭神も素盞嗚尊(すさのお)とされた。

平成19年7月吉日 本町自治会」 ※『本庄祇園まつり発祥の地』ご由緒案内板より

 

 

『本庄の歴史と城山稲荷神社』本庄市本町(P29~32)より

 

本町には、江戸時代中期の明和4年(1767年)制作の初代神輿のほかに、渡御(とぎょ)に使われた「白丁装束」、「大正2年奉納の鉾旗(吹流し)」、「祇園祭典記録」、「神輿金弊」等、本庄祇園まつりの歴史を伝える貴重な品々が残されています。