ご挨拶

戸谷 充宏の画像
(有)戸谷八商店 代表 戸谷 充宏

 

 

2019年11月に開催の「こだま芸術祭」への参加を機に、戸谷八商店のホームページを開設させていただきました。

(※こだま芸術祭についてはこちらへ)

 

これからは、こちらのホームページで、本庄まちゼミや、本庄こだま周辺地域のイベント、中山道「本庄宿」の歴史等について、随時発信させていただきます。

 

埼玉地域の郷土愛を育む活動をする一人として少しでも貢献できたらと思っています。

 

 

 

11代目 戸谷八郎左衛門
11代目 戸谷八郎左衛門
戸谷八郎左衛門の画像
本庄商業銀行前の11代目 戸谷八郎左衛門。長いひげの人として地域の人に親しまれていました。
戸谷間四郎の画像
12代目 戸谷間四郎。十間道路開通と鉄道誘致に尽力した。

 

 

 


『TSR(東京商工リサーチ)情報誌 日本一の彩の国づくりvol.27(2018年新春特集号)』の中の特集記事「埼玉の100年企業を訪ねて」より

 

十間道路にある「戸谷間四郎記念碑」

 


◆戸谷家小史

 

元々は利根川水系に複数の拠点を持つ廻船問屋等をしていました。

西暦1560年に本拠地を世良田村(現在の太田市)から本庄の地へ移し、新田家家臣の末裔であり利根川のネットワークで結びついていた仲間でもあった「花の木十八軒」と共に本庄宿の開発に従事することになりました。

 

初代草分け名主の家として「神社仏閣」の招聘を始め、町造りの基本設計に携わり、幕府より特別に屋敷門として赤門を作ることを許されました。

 

1633年以降本庄宿の名主は、1名(戸谷)から4名(戸谷・森田・諸井・内田)へ増えることになりました。

 

ところが、1751年にそのうちの1名が本庄宿を揺るがす揉め事を起こしてしまいました。

 

戸谷家として160年以上にわたって務めてきた名主役でしたが、宿内での騒ぎを速やかに収拾するために、連帯責任の考えのもと当事者だけでなく、自らも名主役を辞することを決断いたしました。

 

以後方向転換して、陶磁器・砂糖などの商いに力を入れるようになりました。(※よく間違われるのですが、江戸後期に豪商として有名だった「戸谷半兵衛」家は、「戸谷八郎左衛門」家の分家にあたります。)

 

 

明治以降は「本庄商業銀行」「戸谷繭乾燥場」「本庄館製糸場」といった繭を扱う会社の設立にも関わるほか、上毛電鉄線を誘致(結局は実現しない)するために、私財と広大な土地を提供して現在の「十間道路」を開通させるなど地域開発に努めました。県知事より産業功労者表彰を受けました。

 

なお「戸谷八」の所在地は450年間にわたり、同じ場所(本庄宿本町)にあり、間口(約45m)奥行(約90m)とも本庄宿開発当初と同じ規模を現在も維持し続けています。

 

 

◆家訓・企業理念

 

中世の世良田村時代から続く「自主独立」と「連携」の精神。

 

「花の木十八軒」に関係する末裔には、一方で財界刷新活動等を積極的に行ってきた「諸井家」の人々がおり、また一方で明治後期以降の言論界で特異な存在感を示し続けた「石川三四郎」氏(私の曽祖父の小学校時代の同級生)などがいます。

 

我が家「戸谷八」は本庄宿唯一の草分け名主の家だったという縁もあり、こういった方々を含め、地域の皆様と緩やかな連携を保ちつつ共に歩んでまいりました。 

 

代々受け継がれてきた「自主独立」と「連携」の精神を大切にしながら、本業と共に本庄に寄り添っていきたいです。