中山道最大の「本庄宿」

◆中山道六十七次

~「本庄宿」は江戸から数えて10番目の宿場町~

中山道69次の画像

 「本庄宿」は、中山道六十七次のうち江戸・日本橋から数えて10番目の宿場町です。 

武蔵国最後の宿場である「本庄宿」は、利根川の水運で大きく発展し、中山道最大の宿場となりました。

 

戸谷八商店 まちゼミ 朝日新聞掲載の画像
(2019年1月11日掲載 朝日新聞)

『関八州田舎分限角力番付』(関八州の豪商番付)には、中山道「本庄宿」の戸谷半兵衛(とやはんべえ)が大関格に番付されています。

 

利根川の水運で陶磁器を運んでいた江戸時代の木箱の画像

利根川の水運で陶磁器を運んでいた江戸時代の木箱 

 

『大日本沿海輿地全図』(伊能中図 関東より) 

 


◆「五街道」

~家康公がいち早く取り組んだ街道整備事業~

「五街道」
「五街道」

「五街道」は、江戸・日本橋を起点とする5つの主要街道(東海道、中山道 、甲州道中、日光道中、奥州道中)です。 

徳川家康は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに勝利すると、いち早く街道の整備に取り掛かりました。

 

東海道(57次)の整備について

慶長6年(1601年)1月には、東海道に約40の「宿場(宿駅)」を決めて、指定された宿場(宿駅)には、公用で旅する役人や荷物を宿駅から宿駅へと送る「宿駅伝馬制度(しゅくえき てんませいど)」を敷き、これに必要な人手や馬を常備することを各宿場(宿駅)に義務付けました。

大坂夏の陣で豊臣家を滅亡(1615年)させると、2代将軍秀忠は、東海道の「大坂延伸」に着手。「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」「守口宿」の4宿を設置。3代将軍家光が1624年に「庄野宿」を設置することによって、東海道は、江戸から京都までの「53宿」と、江戸から大坂までの「57宿」が完成しました。

 

中山道(67次)の整備について

家康は慶長7年(1602年)には、中山道を整備します。

中山道の宿場は、江戸の「板橋宿」から近江の「守山宿」までの67宿。

(※東海道の宿場である草津宿、大津宿を含めて「中山道69次」という場合もあります。)

信濃国の木曽を通ることから「木曽街道」とも呼ばれました。浮世絵師・渓斎英泉(けいさい えいせん)と歌川広重(うたがわ ひろしげ)による『木曽街道六拾九次(きそかいどうろくじゅうきゅうつぎ)』には、江戸・日本橋と京・三条大橋を結ぶ69か所の当時の宿場町の様子が描かれています。

 

中山道には「木曽の棧(きそのかけはし)、太田の渡し、碓氷峠が無くばいい」と唄われたように、「三大難所」と呼ばれる難所があったものの、東海道と比べて、陸路が多いため川止めを受けることが少なく、安定して通ることができたので、中山道も多く利用されていました。江戸幕府14代将軍の徳川家茂に嫁いだ皇女和宮も、京都から江戸への嫁入りの際には中山道を経由しています。(※文久元年(1861年)、「本庄宿」の田村本陣にも皇女和宮が宿泊した記録が残されています。)

 


◆中山道最大の宿場町「本庄宿」

「中山道宿場の規模」
「中山道宿場の規模」
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』より
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』より

『宿村大概帳(しゅくそんたいがいちょう)』は、天保14年(1843年)に、江戸幕府が直轄する五街道およびそれに付接する諸街道の宿と沿道について精密に調査したものです。

『中山道宿村大概帳』には、「板橋宿」から「守山宿」までの中山道67宿についての調査記録が掲載されています。

 

天保14 年(1843 年)の『中山道宿村大概帳』によると、「本庄宿」は、人口4,554人(※1位)・家数1,212軒(※1位)・旅籠70軒(※3位)・本陣2軒・脇本陣2軒を数える中山道最大の宿場町に発展しました。

(※は中山道内順位)

「本庄宿」の町並みは17町35間(約1.92km)と長く、中山道67次の中でも、3番目の長さがありました。

中山道では「本庄宿」に次いで大宿なのは、宿場の人口数で見てみると、近江国の高宮宿(64番)、武蔵国の熊谷宿(8番)、上野国の高崎宿(13番)、美濃国の加納宿(53番)となっています。

 

「問屋場(といやば)」は、本町、新田町、中町に合計6か所設けられ、問屋は6名いました。 

「当初は関根兵右衛門家が勤めていた。その後五人増え、天和二年(1682年)以前に六名になった。そして、一名が一か年間づつ順番に『年番問屋』となり問屋場事務を担当し、ほかの非番の問屋五名がこれを補佐した。問屋場は年番問屋の家に置かれるため、年番問屋が代るごとに問屋場も替わった。江戸時代後期の問屋は、本町の森田善左衛門、森田助左衛門、中町の内田伊左衛門、諸井治郎兵衛、新田町の戸谷伝右衛門、江原茂右衛門であった。」(『本庄市史(通史編Ⅱ)』より) 

 

1625年に参勤交代が制度化され、本庄宿では、「田村本陣」「内田本陣」が設置されました。(下図参照)  

 

加賀前田侯が江戸の母訪問の際に田村作兵衛方に本陣を置いたのが田村本陣のはじまりと言われています。

参勤交代に中山道通行を指定された大名は、上野、信濃、越中、越後、加賀、美濃等39藩でしたが、これ以外にも幕府の許可を得て通行する大名もあり、本陣の設置によって、往還が整備され、旅籠屋も増加し、本庄の宿場町は大いに繁栄しました。

『中山道分間延絵図』の中山道本庄宿の画像
『中山道分間延絵図』の中山道本庄宿の画像
『中山道分間延絵図』の中山道本庄宿の画像

『中山道分間延絵図・本庄宿』(埼玉県北部地域振興センター本庄事務所「中山道最大の宿『本庄宿』の再発見」より)

 

 

「本庄宿絵図」(正徳2年)
「本庄宿絵図」(正徳2年)

【宿場について】

宿場は、「宿駅」とも呼ばれ、街道の拠点となったところです。宿という名前は、平安時代の末期頃から使われだしましたが、江戸時代に徳川家康によって「宿駅伝馬制度(しゅくえきてんませいど)」が定められ、五街道が整備されるとともに宿場は発展していきました。  

 

◆「宿場の機能と役割」について

1.「人馬継立(つぎたて)」

必要な馬や人足を常備し、幕府の公的な人や荷物を、隣の宿場へ送り継ぐこと

※このため各宿場では、荷物を運ぶための人馬を常備することが義務づけられていました。東海道では100人100疋、中山道では50人50疋、その他の街道では25人25疋の「伝馬人足(てんまにんそく)」の設置と継立が義務づけられました。

 

2.「継飛脚(つぎびきゃく)」

幕府の公文書を、隣の宿場へ送り継ぐこと(大名・御三家も利用不可)

※幕府の「継飛脚(つぎびきゃく)」、後に、諸藩の「大名飛脚」、大名・武家・町人の利用した「飛脚問屋」などの制度が発達しました。

 

3.「宿泊施設」

本陣・脇本陣・旅籠など

 

宿場の最も重要な役割として、公用の人や荷物を次の宿場まで継ぎ送るという非常に重要な業務がありました。

1の「人馬継立」と2の「継飛脚」の仕事は、「問屋場」で行われました。

伝馬(てんま)や飛脚を管理する「問屋場(といやば)」は、宿場の中心となる最も重要な施設でした 

 


◆人や荷物の運び方

『本馬(ほんま)』『乗掛(のりかけ)』『空尻・軽尻(からじり)』『人足(にんそく)』『長持(ながもち)』『宿駕籠(しゅくかご)』

宿場での人や荷物の運び方
宿場での人や荷物の運び方

参考:

『本庄市史(通史編Ⅱ)』

とよはしの歴史「人馬の擁立」

コラム「物流今昔」  

 


◆問屋場(といやば)の様子を描いた浮世絵

問屋場の画像

初代歌川広重「東海道五十三次之内 庄野 人馬宿継之図」 (神奈川県立歴史博物館蔵)

※東海道への誘いHP「宿場についてー問屋場とはどういう施設ですか?」より

武士の供が問屋場の役人に書類を提出し、宿役人が証文と思われる文書を確認しています。

外では人足たちが前の宿場から運ばれてきた荷物を新しい馬に積み替えています。 

 


◆豪商 戸谷半兵衛

3代目戸谷半兵衛光寿
3代目戸谷半兵衛光寿
「関八州田舎分限角力番付」に西方の大関格として位置づけられています
「関八州田舎分限角力番付」に西方の大関格として位置づけられています

戸谷半兵衛は、関東一の豪商として知られます。

(※戸谷半兵衛は戸谷家の分家筋にあたります。)

本庄宿新田町(現本庄市立図書館前)で呉服・太物・小間物・荒物を商いました。

本店は本庄宿の「中屋」を創業し、江戸室町に支店である「島屋」を、神田三河町にも店(金融業)を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていました。「現金無掛値」商法で多くの利益を上げました。

『関八州田舎分限角力番付』(豪商番付)には、中山道「本庄宿」の戸谷半兵衛(とやはんべえ)が大関格に番付されています。

 

戸谷半兵衛は代々慈善家としての側面もありました。 

「目の前の窮民救済のために直接に働いた戸谷半兵衛の功績もまた大きい。

慈善活動は初代半兵衛光盛(1703~1787)に始まり、2代半兵衛が若くして没したため、祖父に育てられた3代半兵衛光寿(1774~1849)がこれを引き継いでいる。

神流川の架橋渡船の設置については浮世絵『本庄宿・神流川渡場』でもよく知られているところであり、遠くは高野山麓の慈尊院に渡る紀ノ川にも無賃渡船を寄進している。宿内では久城堀の相生橋元小山川の馬喰橋を石橋に架け替えている。

半兵衛による多くの慈善活動の中に貧窮者への救済がある。

明和8年(1771)、宿内困窮者130軒に大麦を配給、翌9年には宿内非常金を備蓄、更にその翌年にも宿内扶助金として300両を上納している。

天明3年(1783)、浅間山噴火に起因する凶作の武蔵・上野の村々の救済に1,000両と麦100俵を上納、更に宿内の貧窮者救済に63両2分と鐚銭120貫文を拠出している。

これと並行して生活困窮者への賃金支援を目的に土蔵を新築して日当を支給している。

『天明の飢確蔵・お助け蔵』と呼ばれてきたが残念ながら平成27年に解体されてしまった。

 

祖父の遺志を継いで3代半兵衛光寿も何年にもわたり、橋・渡船の維持費の負担をしており、他にも寛政4年(1792)凶作の陸奥・常陸・下総の村々へ小児養育金として150両、文化3年(1806)江戸室1,000両、文化13年(1816)足尾銅山不況に1,000両、文政4年(1821)旱魃の児玉郡・緑野郡に100両、同8年(1825)疫病流行の上州入須川村に7両、同9年(1826)利根・勢多・吾妻郡の村々へ麦300石を上納している。

江戸時代の3大飢饉とされる天保飢饉では天保4~8年の5年間、毎年50両を宿内救済に出金している。

戸谷半兵衛は『中屋』木綿小間物屋として店を興し、江戸にまで進出した関東有数の豪商であるが、その財を慈善や貧窮者の救済に充てており、恩恵を受けた人々は数知れない。」『本庄のむかし こぼればなし(P107)』(柴崎起三雄著)より 

 

また、「俳諧面」では、中央俳壇を本庄宿に招いたり、「囲碁界」では、囲碁の名人である本因坊丈和の才能を開花させるなど、文化面での影響も大きかったと言われます。  


◆神流川の渡し場

中山道本庄宿の画像
『支蘓路(きそじ)ノ駅 本庄宿 神流川渡場』渓斎英泉 (けいさい えいせん)作

渓斎英泉(けいさい えいせん)は、本庄宿から5.5キロ離れた、武蔵国と上野国との境界にある『神流川の渡場』を描いています。

中洲までは橋が架けられ、国元に帰る大名行列(信濃国・高遠藩の行列)が渡っている姿があります。

土橋は、初代戸谷半兵衛光盛が架けさせたものです。出水で橋が流された場合に備えて渡し船も用意し、無賃渡しとするために金100両を上納しました。

手前にある常夜灯は、文化12(1815)年に3代戸谷半兵衛光寿が寄進したものです。

 


◆天明の飢饉蔵

~1788年に建てられた3階建ての蔵。本庄宿最大の火事「伊勢屋火事」をも防いだ巨大な蔵~ 

「天明の飢饉蔵」(増田未来望「本庄地元学だより22号」より)
「天明の飢饉蔵」(増田未来望「本庄地元学だより22号」より)

 

天明の大飢饉のときに、困窮者に米と手間賃の支給を目的として建てられた「お助け蔵」です。この蔵は、1846年に起きた本庄宿最大の火事「伊勢屋火事」を防火したと言われています。

※平成27年(2015年)に解体