「台町の獅子舞」は埼玉県指定無形民俗文化財になっています。以前は7月14日・15日と決められていましたが、現在は、7月の本庄祇園祭り(7月海の日直前の土曜・日曜)に合わせて獅子舞は八坂神社に奉納されています。
大正院(だいしょういん)は、八坂神社へ獅子舞を奉納するときのスタート地点です。
獅子舞は、八坂神社への奉納後、町内各所を廻ります。
2日目の夜に大正院に戻ってから、大正院「薬師堂」で「納め舞」を舞います。
※写真は『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より抜粋のもの
~本庄氏時代の本庄城の旧家臣団の居住地「侍所」跡を「侍所臺村」と呼んでいた~
「徳川家康が江戸幕府を開くと江戸を中心とした交通網の整備が行なわれ、新たに御堂坂に中山道が開削されると、本庄氏時代に侍町であった久城堀東一帯の再開発がなされた。
『本庄開発旧記』に『…拙家共北ヨリ東ノ方ハ侍所臺村境迄…』の記述があることで、人々は旧家臣団の居住地(侍所)跡を『臺村(だいむら)』と呼んでいたことが分かる。
彼等には地形の高台という意識はなく、城(臺)跡地を再開発した町として『侍所臺村』と呼んだのである。
臺村は「臺新田町」とも呼ばれ、更に西の大新田町 (宮本町・泉町)と区別するため、臺新田町は臺町と呼ばれた。
現在では新字の台が用いられようになり、台地の台と解されるようになったのであろう。」柴崎起三雄著『本庄のむかし こぼれ話』P52~53より
台町に残る獅子頭(龍頭)のうち、最も古いとされる中獅子の顎下に、「寛文八戌申出来仕」と刻まれてあり、獅子舞の起源は寛文8年(1668年)と推定されます。
「本庄宮内少輔実忠は弘治2年(1556)、本庄城を築いた際に裏鬼門にあたる久城堀崖上(現大正院辺)に金鑚神社を勧請した。その後、金鑚神社は久城堀の洪水被害【※1】を受け新田町(現宮本町)へ遷座し、跡地は薬師如来の修験道場とされた。
開発当初の台町は金鑚神社を氏神としていたが、金鑚神社移転後は本庄氏が天神林(旧城内)に祀った天満宮を町内の氏神として信仰したと考えられる。
しかし、その天満宮も宿場中心部の繁栄に従って寛文7年(1667)に寺坂町へと移転する。
金鑚神社に次いで天満宮も移転したことで、台町では翌8年に新たに津島神社(祭神・牛頭天王)を天満宮跡地に勧請し、これを祝って獅子舞の奉納を始めたと考えられる。獅子頭の銘文がこれに当たる。(中略)
また、疫病追送には川下に社を祀り、疫病神を送り流すのが一般的で、その後本町と台町とで協議し、津島神社を現在の八坂神社の地に移転したと思われる。
同地は本庄城時代の東郭であり、東郭の守護として何等かの神社が祀られていた跡地とも考えられる。」柴崎起三雄著『本庄のむかし』P83~84より
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「金鑚神社が本庄宿の鎮守であるように、各町内にも氏神があり、多くは火防の神であったり防疫神であったりする。
台町地区は戦国時代には本庄城の城域であり、城の守り神として金鑚神社や天満宮が祀られており、廃城後も城跡地に開けた台町地区の氏神の役を果たしてきた。
その後、金鑚神社が寛永16年(1639)に現在地へ、また天満宮及び慈恩寺が寛文7年(1667)に寺坂町へ移転(本庄古記『上宿へ天満宮ト慈恩寺引遷事ハ寛文七丁未二月』)したことから、台町では天満宮(天神様)跡地に新たに津島神社(牛頭天王)を勧請(酢屋所蔵旧記帳『其跡へ今ノ津島神社ヲ御置座シ』)した。これを祝して氏子有志が翌8年(1668)獅子舞の奉納を始めた(獅子頭墨書『寛文八戊申出来仕』)。
『台町獅子舞靖国神社奉納舞記念誌』には『台町の津島様の氏子有志が…獅子舞の奉納をと考え興し、唄や笛・舞を習い覚え津島様に奉納したのが始まりであると伝えられている。』とあり、台町獅子舞は津島神社への奉納獅子舞であった。
台町ではこの時、同じ牛頭天王を祀る本町の市神様にも獅子舞を奉納したことから、以後も本町の祇園会にも奉納舞を行うことが恒例となった。」柴崎起三雄著『本庄のむかし こぼれ話』P58~59より
【※1】裏鬼門として大正院に置かれていた金鑚神社が、元和9年(1623年)に洪水被害後、新田町(現宮本町)に移転するまでの一時期、戸谷八郎左衛門屋敷内(戸谷八商店)に金鑚神社は置かれました。
「本庄城築城の際に金鑚神社が久城堀脇(現大正院薬師堂付近)に祀られたが、元和9年の大水で破壊し、寛永年間に現在地に移転するまでの一時期、戸谷八郎左衛門屋敷内に置かれたこともある。」(「本庄人物事典」柴崎起三雄)
「現在の獅子舞の宮参り順路は、これらの歴史的経緯をたどるように、大正院薬師堂より中山道を東に進み、天神林を経由して台町八坂神社に参詣して舞を奉納する。
また、役庭と称される場では、それぞれ舞や所定の長唄、端唄が歌われる。」(柴崎起三雄著『本庄のむかし』P84より)
※『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より抜粋
本庄祇園祭りの日にあわせて2日間、獅子舞が演じられる。
朝の部・夜の部の2回
【高張(たかはり・提灯)2名、金棒挽(かなぼうひき)2名、拍子木(ひょうしぎ)2名、裃(かみしも)4名、詩(裃)6名、笛(裃)4名、獅子3頭(法眼・雌獅子・老獅子)、獅子付き添い2名、裃(かみしも)3名】
上記順で構成されるのが基本で、前後の裃は町内の有力者がつとめる。
【初日(宵祭り)】
大正院境内薬師堂前→八坂神社(宮参り)→町内を巡行(「平庭」の舞を7か所で上演する)
一部上演場を「客庭」と呼び、「天神林」・「鹿の子」・「われわれ」の3つを上演する。
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【二日目(本祭)】
【朝の部】
大正院境内薬師堂前→八坂神社→下薬師→お仮舎→南沢→八坂前→お頭→相性橋→薬師堂
上記の順路を厳守している。
時により、薬師堂の前に、大正院の境内、成田山でも上演する。
これらの場所を「役庭」と呼び、「二庭込め」の上演を行う。
※また、八坂前では1年おきに「橋渡り」を上演し、「天神林」と「袴」は、各庭場で必ず上演する。
下薬師は長唄の中にも歌い込まれており、露坐の石造薬師が祀られている。
お仮舎は町内の会議所前に建てられ、隠居獅子3代が安置される。
また疫病除として希望者には、獅子頭を子供の頭にかざすことも多い。
【夜の部(夕食後)】
南沢→八坂前→お頭→相性橋(中山道を東から西へ移動しながら上演する)→大正院境内
最後に大正院境内に戻ってから、不動堂(成田山)前と薬師堂で上演する。
薬師堂前では舞の後、八坂神社までの街道下りのさわりを演じ(納め舞)、獅子頭を薬師堂に収めて会議所にひきあげる。
また、薬師堂出発時から巡行の行列に小学生による縦笛が加わるが、お仮舎の上演では、横笛だけの演奏で獅子を舞う。
※『台町獅子』(戦後50周年記念靖国神社奉納舞記念誌)より抜粋
保存会は、獅子舞の練習期間を2週間とし、翌週の日曜日を獅子作りとする。
また、水引(縮緬 ちりめん)を新調するため、絵柄の選定をする。
獅子洗いは、朝6時解体された獅子頭(本体、顎、角)を昔ながらの経路をたどり(現在は地形、環境が変わってしまい昔に近い形で努力している)、
元小山川に向かい、決められた場所、旧大堰付近(改修工事のため川の流れが変わっている)、を御神酒と塩で浄め、川が汚染されているため、模擬洗いを行い、八坂神社へ帰って来て、同境内獅子洗い場にて改めて洗う。
中日頃、獅子舞順路と場所並び、番組の編成を行う。獅子作りについては、翌週日曜日、吉村誠嗣・早川一之・谷山和正氏を中心に、洗った獅子頭に顔料(膠 にかわ〉と酒で溶いたもの)を塗り、墨で隈取り(くまとり)を絵描き、朝を綯(な)い、その麻紐で本体・顎・角を組み立て、水引(新調の縮緬)を縫い付け、獅子の毛を付けて、獅子頭が出来上がる。
獅子舞奉納儀式の一部となっている元小山川は、本庄の人々にとって今も、疫病追走という意味をもった象徴的な場所であると思われます。
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