「五百羅漢寺のさざえ堂」と”らせん構造”を持つ建築

 

 

五ツ目の「五百羅漢寺さざえ堂」

~日本で最初のさざえ堂~

「五百らかん寺さざゐどう」(葛飾北斎『富嶽三十六景』)

※人々の視線、板目、屋根の梁の線がすべて富士を指す構図となっています。

(参考文献)葛飾北斎「富嶽三十六景」解説付きより

 

 

「天恩山 五百羅漢寺」は、本所五ツ目(現在の江東区大島3丁目付近)にあり、江戸の名所のひとつでした。

「さざえ堂」は、寺内にあった三層のお堂です。ここから富士山を眺望することができ多くの人で賑わったそうです。

葛飾北斎歌川広重の浮世絵や、江戸名所図会にも描かれるなど名所として知られていました。

 

 


 

「天恩山 五百羅漢寺」

◆宗派 黄檗宗(1948年黄檗宗より独立し現在は単立)

◆本尊 釈迦如来

◆開山 鉄眼道光(てつげんどうこう)1695年

◆開基 松雲元慶(しょううんげんけい)

※松雲は40歳で江戸に下向し托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造る

◆中興の祖 象3代住職の象先元歴

※享保11年(1726年)までに3代住職の象先元歴が、徳川吉宗の寄進「本殿」「東西羅漢堂」「さざえ堂」などからなる大伽藍を建立

 

◆明治41年(1908年)羅漢寺は目黒に移転「天恩山 五百羅漢寺」となっています。

※現在、五ツ目の跡地には曹洞宗の「羅漢寺」がありますが、こちらは、明治36年(1903年)、「祥安寺」が奥多摩町より移設されました。地元の意向を受けて「羅漢寺」と名を変えたものです。

 

 


 

 

◆日本で最初のさざえ堂

さざえ堂は、江戸本所の五ツ目(現在の江東区大島3丁目付近)にあった「羅漢寺」に安永9年(1780年)に築かれたのが最初です。

三層構造で、各層にそれぞれ西国札所観音(33か所)、坂東札所観音(33か所)、秩父札所観音(34か所)の合計百観音が安置されていたと考えられています。

堂内を右回りに登っていき、下りは別の階段でおりる構造になっていたと考えられます。

「右繞三匝(うにょうさんそう)」の建築様式として「羅漢寺三匝堂」は、最初のものであると考えられています。

 

 

 

「五百羅漢さざゐ堂」(歌川広重『江戸名所』) ※「錦絵で楽しむ江戸の名所」より

 

 

◆本所五ツ目の羅漢寺(江東区大島3丁目付近)

 

 

◆目黒に移転した「天恩山 五百羅漢寺」

 

「天恩山五百羅漢寺」はもともと本所五ツ目に創建され、五代将軍綱吉さらに八代将軍吉宗の援助を得て繁栄を誇り、「本所のらかんさん」として人びとの人気を集めていました。

安政2年(1855年)安政の大地震をきっかけに衰退し、明治41年(1908年)に目黒の現在地に移転されました。

 

「目黒のらかんさん」として親しまれている「天恩山 五百羅漢寺」の羅漢像は、元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて作りあげたものです。 500体以上の群像が完成してから300年の年月が経ち、現在は東京都重要文化財に指定されています。(現存305体)

 

 

 

羅漢(らかん)さんとは?

「らかんさんは お釈迦さまのお弟子さんで実在した人々です。お釈迦さまの説法を実際に聴き教えのとおりに修行に励んで煩悩を払い聖者になったのです。

修行を積んで煩悩を払い真実の智慧を完成した聖者をインドで「アラハン」と讃えました。

仏教が中国に伝わり「アラハン」の発音をそのまま生かして「阿羅漢」と表現。使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」と呼ばれるようになったのです。

お釈迦さまが亡くなられたときに集まった500人のお弟子さんたちが「五百羅漢」のモデルであるといわれています。

「らかんさん」は、後世の人々にお釈迦さまの教えを伝えていきました。「らかんさん」が存在しなかったら私たちはお釈迦さまの教えを知ることができなかったでしょう。」(天恩山五百羅漢寺(目黒)ホームページより)

 

 

 

移転後の「天恩山五百羅漢寺(目黒区)」と松雲元慶禅師作の羅漢像(305体)

 

 


◆「江戸名所図会」の中での「羅漢寺三匝堂」

「江戸名所図会」をもとに加筆

 

江戸時代の羅漢寺。本殿の左側に「西の羅漢堂」と「さざえ堂」、右側に「東の羅漢堂」があります。

上下に走る道路が五ッ目道路(明治通り)。手前の雲がかかった辺りが新大橋道路。奥の川が竪川。真ん中に「渡しば」と書かれているところが五つ目の渡しです。(五百羅漢寺資料より)

 

 

◆「西羅漢堂」と「本殿」での参拝の様子(江戸名所図会)

「江戸名所図会」をもとに加筆

 

羅漢堂は、コの字型の回遊風仏堂になっていて、本殿を中央にして、東羅漢堂西羅漢堂に分かれています。

五百羅漢像は、本殿と東西羅漢堂に安置され、参詣人が一方通行の通路を通ってすべての羅漢像を参拝できるよう工夫がされていました。絵では、東羅漢堂から入り、正面を経て西羅漢堂に向かっています。色々な表情をした羅漢が描かれています。

『江戸名所図会』などの絵画資料を見ると、参拝用の通路はゆっくり参拝する人たちのための板張りの通路と、旅人が土足のままでも参拝できる通路とに分かれ、それぞれの通路が交差しないようになっていました。

 

 


さざえ堂と”らせん構造”

 

さざえ堂は、江戸時代には珍しかった三層(外観2階・内部3層)の建物です。江戸時代後期に関東~東北地方に見られた特異な建築様式のお堂です。らせん構造をもち、外観がサザエに似ていることから通称でさざえ堂(栄螺堂)と呼ばれています。

一つのお堂を参詣するだけで、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番の100ヶ寺を参詣したことになるというユニークな発想が人気を集め、建築ブームが起こり、関東から東北にかけて多くのさざえ堂が建設されました。

 

※本庄と太田のさざえ堂は百体観音(西国三十三・坂東三十三・秩父三十四) 

※会津のさざえ堂は三十三観音(西国三十三)

 

建物内部はらせん構造の通路がめぐり、上りの通路と下りの通路はすれ違うことなく、一方通行となっていました。

三層にはバルコニーのような見晴台がありました。

 

さざえ堂のらせん構造は「右繞三匝(うにょうさんぞう」という仏教の礼法に基づいています。

仏教では、右回りに3回匝る(めぐる)ことが死者に対する最上の礼をつくすという意味があります。

「右繞三匝(うにょうさんそう)」の礼法にちなんで、さざえ堂は本来は「三匝堂(さんそうどう)」と呼ばれます。 

 

 

 


日本三大さざえ堂

◆本庄のさざえ堂(成身院)

 

 

埼玉県本庄市の成身院(じょうしんいん)、寛政7年(1795)建立・火災により明治43年(1910)再建、本庄市指定文化財

 

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 【成身院について】

■正式名称:平等山金剛寺成身院(びょうどうさんこんごうじじょうしんいん)

■宗派:真言宗豊山派

■御本尊:不動明王

■開山:元空上人(南北朝時代の康永年間1342-1344年頃)

■中興開基:足利持氏(1399年)

■中興開山:元昭大和尚(1399年)

■札所等: 児玉三十三霊場(第一番札所)

■本庄市指定有形文化財

 

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【成身院百体観音堂(さざえ堂)の歴史】~供養としてさざえ堂建立~

 

■天明3年(1783年)浅間山大噴火の犠牲者供養のため成身院69世元真上人が百体観音堂建立を発願

■寛政4年(1792年):百体観音像完成(元照上人

■寛政7年(1795年):観音堂完成

■明治時代の廃仏毀釈:成身院は無住寺となる

■明治21年(1888年):火災により観音堂焼失

■明治43年(1910年):現在の百体観音堂は、79世猪鼻元照和尚が、地元小平地区の寄進と尽力でにより20年余の時をかけて再建したもの(戦後の荒廃期には半数の観音像が盗難に遭う。その後観音像の寄進をお願いした結果、現在の姿となる。) 

 

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※「成身院さざえ堂」の詳細についてはこちらをご覧ください。 

 

 

 

 

本庄講が寄進した「如意輪観音像」 ※詳細はこちらへ

 

 


◆太田のさざえ堂(曹源寺)

 

 

群馬県太田市曹源寺(そうげんじ)の本堂、寛政10年(1798)建立、日本に現存するさざえ堂のなかでも最大規模、平成30年(2018年)国の重要文化財に指定されました。

本庄のさざえ堂と同じく、1階に秩父三十四観音、2階に坂東三十三観音、3階に西国三十三観音の観音像が安置されています。

 

 

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 【曹源寺について】

■正式名称:祥寿山曹源寺(しょうじゅさんそうげんじ)

■宗派:曹洞宗

■御本尊:魚藍観音菩薩(ぎょらんかんのんぼさつ)

■開基:新田義重(1187年)

■開山:天真祖英禅師(1335年)

■札所等:上州太田七福神(布袋尊)・関東百八地蔵尊霊場(第二十番札所)・新上州観音霊場三十三カ所(第七番札所)・新田秩父観音霊場(第二十四番札所)

■その他:群馬のあじさい寺とも呼ばれる

 

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 【曹源寺の歴史】~新田家ゆかりのお寺~

 

■文治3年(1187年) 寺伝によれば曹源寺は、新田氏の祖である新田義重(にったよししげ)が京都から迎えた祥寿姫(しょうじゅひめ)を若くして失い、その菩提を弔うために創建された寺が起源

■以来、新田氏歴代の祈願所となる

■建武2年(1335年) 新田義貞の請により天真祖英禅師(越前)が開山

■文安元年(1444年) 太田金山城主:岩松氏の家老横瀬氏(後の由良氏)が篤くこれを信仰し、横瀬貞俊が本堂を建設

 

■江戸時代末期に2回の火災によりその本堂は焼失し、唯一被害を免れた観音堂(さざえ堂)が本堂となる

 

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◆会津のさざえ堂(円通三匝堂)

 

 

福島県会津若松市、白虎隊の墓所がある飯盛山の中腹に「会津さざえ堂」があります。

会津のさざえ堂の正式な名称は、「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」

寛政8年(1796年)に建立されました。「二重らせん構造」の木造建築物としては世界に唯一のものです。 

二重らせん構造の会津さざえ堂は平成7年(1995年)、国の重要文化財に指定されました。   

 

 

【正宗寺(しょうそうじ)について】

■正式名称:旧飯盛山正宗寺(いいもりやま しょうそうじ) 

■厳島神社(飯盛山・明治以前は宗像神社)の別当寺

 

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【正宗寺の歴史】~廃仏毀釈で廃寺に~

 

■嘉慶元年(1796年)

正宗寺(しょうそうじ)の僧・郁堂(いくどう)禅師が、正宗寺の仏堂として、「さざえ堂(円通三匝堂)」を建立

※郁堂禅師は正宗寺の本寺であった馬場五之町実相寺(臨済宗妙心寺派)の住職 ※「三匝堂と栄螺堂」より

■明治の廃仏毀釈

・正宗寺(しょうそうじ)は廃寺となる

・宗像神社から厳島神社に名称変更

 

・「さざえ堂(円通三匝堂)」のみが民間所有となって現存

・最後の住職は宗潤(そうじゅん)

後に飯盛正隆(まさたか)と改名(宗潤養子の飯盛正信が厳島神社神職となる)

 

■さざえ堂(円通三匝堂)の所有者

「山主飯盛本店」

※山主飯盛本家は、さざえ堂建立以前から飯盛山を拝領した名家で、今もさざえ堂(円通三匝堂)を守り続けています。

現在の堂主は飯盛正徳(いいもり・まさのり)氏です。

※江戸時代からの「さざえ堂と飯盛家の歴史」については、【会津さざえ堂オフィシャルホームページ】のこちらご覧ください。

 

 

円通三匝堂を建立した郁堂和尚
円通三匝堂を建立した郁堂和尚

 

 

上りと下りのスロープをつなぐ「太鼓橋」
上りと下りのスロープをつなぐ「太鼓橋」

◆会津のさざえ堂の断面図

 

 

順路に沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りが叶います。

明治の廃仏毀釈で、三十三観音像は取り外されました。

明治23~37年には地元の有志たちによって「白虎隊十九士像」が祀られました。現在は「皇朝二十四孝(こうちょうにじゅうしこう)」の額が取りつけられています。)※「三匝堂・栄螺堂」を参照

 

会津のさざえ堂は、木造建築にも関わらず内部通路が、DNAと同様の「二重らせん」のスロープ構造になっている点が特徴です。内部には階段がなく、右回りのらせん状のスロープを上ると頂上に太鼓橋があり、橋を渡ると今度は左回りの下り坂で、気づいたら背面の出口に出ているという仕組みです。上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、人々はすれ違うことなく、参拝できます。

※会津さざえ堂オフィシャルホームページ

 

 


◆会津のさざえ堂「二重らせん構造」の由来は?

 

【日本大学理工学部教授 故小林 文次博士の見解】

 

「さざえ堂二重らせんの発想は、日本の仏堂建築の伝統から突如として異質の構想が産まれたとは考えられない。

享保5年(1721)の洋書解禁によりオランダから輸入された洋書の中に、秋田藩主で画家であった佐竹曙山のスケッチ帳にある二重らせん階段がある。これはロンドン出版のモクソン(1627~1700)著の写しであり、これを通じて一部に知られている事実があった。これは遠くダヴィンチにまで繋がっているものであり、これらとさざえ堂のつながりは定かではない。しかし西欧の例が単なる通路であったのに対し、中心部に観音像を配し、あたかもライトのグーゲンハイム美術館を思わせるような会津さざえ堂は単なる模倣ではなく天才的な創造と見るべきである。」※「さざえ堂と飯盛家」より

 

 

◆レオナルド・ダ・ヴィンチ考案説

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ考案説は、ダ・ヴィンチが設計したとされるフランスのシャンボール城にある二重らせん階段の発想が巡り巡って会津まで伝わったという説です。

《ダ・ヴィンチ⇒モクソン⇒佐竹曙山などの日本人⇒さざえ堂建立) 

 

 

■秋田藩主で画家の佐竹曙山(1748~85年)

 

佐竹曙山(さたけ しょざん)が残した写生帳に、二重らせん構造の図が描かれています。

 

享保5年(1721)徳川吉宗によって洋書が解禁されました。オランダから輸入された洋書の中に、 モクソン(1627~1700)の著書『実用透視画法』があり、蘭画家の曙山が、モクソンの著書を目にしてスケッチ帳に「二重らせん階段図」を描いたのではないかと小林博士は推察されました。

 

 

 


◆フランスのシャンボール城(16世紀初頭)

ダ・ヴィンチによる設計と伝えられるシャンボール城(フランス)の「二重らせん階段」  Ⓒhttp://www.rikiya.com/blog/archives/001261.html

「フランスノワール地方のシャンボール城」 ⒸThomas Steiner
「フランスノワール地方のシャンボール城」 ⒸThomas Steiner

 

 


◆レオナルド・ダ・ヴィンチの作品で表された”らせん”

ウィンザー素描集_RL12660v 濠の中に落下する水
ウィンザー素描集_RL12660v 濠の中に落下する水
ダ・ヴィンチによるヘリコプターのスケッチ
ダ・ヴィンチによるヘリコプターのスケッチ

 

 


【佐竹曙山の二重らせん階段図】

【モクソンの二重らせん階段図】

 

 


生命内部に存在する二重らせん構造

 

 

ⒸWikipedia「DNA(デオキシリボ核酸)」

 

 

◆「DNA二重らせんの直接撮影(2013)」

※左が写真 Ⓒhttps://pubs.acs.org/doi/10.1021/nn400071n

(2013年、京都大学のグループが、「周波数変調(FM) 原子間力顕微鏡 (AFM)」によって,水溶液中にある DNA二重らせん構造を原子間力顕微鏡で観察することに成功されました。)

 

 

「ワトソンとクリックの論文」 Ⓒhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/55302

 

 

DNAの二重らせん構造は、1953年、科学雑誌『Nature』に、ジェームズ・ワトソンフランシス・クリック(1962年ノーベル賞受賞)によって発表されました。

「DNAという高分子が安定した構造を維持するためにはらせん構造が最適なのではないか」と予想した2人はロザリンド・フランクリンという女性研究者がとったX線回折像(数学的なアプローチ)をもとに、実際にDNAがらせん構造をもっていることを突き止めました。平行逆向きに並んだ2本のDNA鎖が右巻きの”らせん”を描くという、たった1ページの論文が、分子生物学にパラダイム変換をもたらしたのです。

 

 

日本の生物学者である福岡伸一氏は、著書『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 1891)の中で、次のように述べられています。

「1953年、科学専門誌「ネイチャー」にわずか千語(1ページあまり)の論文が掲載された。

そこには、DNAが、互いに逆方向に結びついた二本のリボンからなっているとのモデルが提出されていた。

生命の神秘は二重ラセンをとっている。

多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった。

しかしさらに重要なことは、構造がその機能をも明示していたことだった。

論文の若き共同執筆者ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックは最後にさりげなく述べていた。

この対構造がただちに自己複製機構を示唆することに私たちは気が付いていないわけではない、と。」(本書プロローグより)

 

 

 


”らせん構造”をもつ建築

 

 

◆バチカン美術館の2重らせん階段

「バチカン美術館出口の2重らせん階段」 Ⓒhttps://hanabun.press/2020/03/23/kaidan05/
「バチカン美術館出口の2重らせん階段」 Ⓒhttps://hanabun.press/2020/03/23/kaidan05/

 

バチカン美術館の階段も「二重らせん構造」になっています。1932年ジュゼッペ ・ モモによる設計。

一見、一本道に見えますが、二重に(別に)作られています。そのため階段を上ってくる人と下りていく人がすれ違わない仕組みになっています。

 

 

ⒸWikipedia「サン・ピエトロ広場」
ⒸWikipedia「サン・ピエトロ広場」

 

 


◆国立西洋美術館(上野)

【世界文化遺産】ル・コルビュジエ設計の「国立西洋美術館」 Ⓒhttp://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/60863/

 

 

ル・コルビュジエ「無限成長美術館」、1939年
ル・コルビュジエ「無限成長美術館」、1939年

 

国立西洋美術館(1959年)は、フランス人建築家ル・コルビュジエが設計した日本で唯一の建築物です。

ル・コルビュジエのコンセプトは「無限に成長する美術館」。展示空間を渦を巻くようにらせん状に配置することで、巻貝が成長するように、作品の増加に応じて周囲の敷地に展示スペースを広げていくというコンセプトです。

 

ル・コルビュジエが長年追求した「無限に成長する美術館」のアイデアを実現した美術館は、世界に3つあります。

・「国立西洋美術館」(上野・1959年)

・「サンスカル・ケンドラ美術館」(インド・1957年)

・「チャンディガール美術館」(インド・1965年)

国立西洋美術館は、その中で最も完成度の高い美術館として評価されています。

 

 

 


◆ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)

Ⓒhttps://www.linea.co.jp/info/detail/?iid=435&mo=

 

グッデンハイム美術館(1959年)は、フランク・ロイド・ライトによって設計されました。

ライトは、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれます。

ライトは、浮世絵の蒐集家でもあり日本文化に影響を受けた建築家でした。

グッゲンハイム美術館は、「かたつむりの殻」とも形容されるらせん状の構造で、中央部分が吹抜けになっています。

らせん状の通路の壁面に掛けられた作品を見ながら順路を進むうちに自然に階下へ降りるような仕組みになっています。

 

 


◆太田市美術館・図書館(群馬県太田市)

Ⓒsoi

 

太田市美術館・図書館は、平田晃久氏の設計です。2017年春に開館。公共図書館と美術館としての2つの機能を備えています。様々な方向から気軽に入り通り抜けることができるように、建物の東、南、西3方向に出入り口を設置。建物は3階建てですが、5つの部屋がスロープによって緩やかにらせん状に連続して結ばれているので、街の中を歩くように自然に上の階に至ることができます。

 

「基本理念」

”まちに創造性をもたらす、知と感性のプラットフォーム”

太田市の未来を担う「創造的太田人」を育成する

 

「みんなで北口をつくる」

「建物が完成しても、本当に完成したことにはなりません。たくさんの人々が歩き、思い思いの時間を楽しむ、生きた場所になる必要があるのです。」※太田市美術館・図書館ホームページより 

 

 

◆平田晃久(ひらた あきひさ)氏

平田氏は、1971年生まれ。伊東豊雄建築設計事務所勤務を経て、平田晃久建築設計事務所設立。

第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞受賞。2017年村野藤吾賞受賞(太田市美術館・図書館)他多数。

 

 

■「からまりしろ」のある建築

 

平田氏は、建築を「"からまりしろ"を作ることである」と捉えています。

「からまりしろ」とは、様々な「もの」や「こと」がからまることができる「しろ=余地」という考え方です。

「生きているものの世界は、タンパク質のようなミクロの世界から森のようなマクロな世界まで、からまりあい連鎖する秩序の織物。山肌が雲を引き寄せるように、"からまりしろ"となるものが、そこにからみつくものを引きよせ、より高次のまとまりが形成されてゆく」

(『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』平田晃久著より)

 

平田氏は、建築を通して人工と自然とが絡まりあう場を探ってこられました。

 

 

「太田市美術館・図書館」は、設計条件に「市民を巻き込んだ設計案の検討」ということが組み込まれていたため、この建築ができるまで計5回の設計ワークショップを経て、たどり着いたとのことです。今回の設計を通じて経験したことについて、平田氏は次のように述べられています。

 

 

「これらの経験を通じて、筆者(※平田氏)としては、これまでとは違うフェーズで建築を考えることができるようになった気がしている。これまで、ものに即した水準で、形のある〈からまりしろ〉を志向することによって、生き生きとした建築をつくることを試みてきた。しかし、太田では、建築をつくるということそのものが、形のない〈からまりしろ〉となり、さまざまな反応を引き寄せつつ、形のある〈からまりしろ〉が生まれる一回性の出来事をつくりだしていた。

すなわちここでは「建築とは〈からまりしろ〉をつくること」である前に「〈からまりしろ〉とは建築をつくること」だったのである。

 

 

巨樹の魅力は、若い樹のように整った樹形ではなく、さまざまな履歴──雷が落ちたり、ところどころ枯れていたり、別の植物がからんでいたり──がその姿に反映され、そこにしかない全体像を持っているところにあるのではないだろうか。有形無形のからまりしろが輻輳(ふくそう)する出来事としての設計、二度と繰り返せない履歴を断層的に刻み込まれた建築は、巨樹のほうへ、人々の集まりから自発的に浮かび上がる未来の建築へ近づくきっかけを感じさせる。」(「10+1website『巨樹のほうへー〈からまりしろ〉とは建築をつくることである』」より)

 

 


「平田晃久展 Discovering New」(2018年)

平田晃久氏の作品(「TOTOギャラリー・間」にて開催) Ⓒ六本木未来会議

 

『思考の雲』(展示を読み解くための地図のようなもの) Ⓒ六本木未来会議

…「新しいかたち」「新しい自然」「新しいコミットメント」という3つの軸があり、それぞれの軸から4つずつ概念のキーワードが広がっています。

 平田晃久氏は、建築を”生命活動”として再発見することで新たな可能性を見出そうとされています。

 

 


◆RIBBON CHAPEL(広島県尾道市)

「スチールデザイン№25」(PDF)より

 

「Ribbon Chapel」は、広島県尾道市の小高い山の中腹にあり、瀬戸内の島並みが一望できる場所に立つ結婚式用の教会です。NAP建築設計事務所中村拓志氏による設計(2014年)。世界で初めての鉄骨二重らせん構造が実現されています。

この建物の特徴は、らせん自体が屋根や壁、床になることで全体を構成していることです。

 

2つのらせんは、それぞれ反対回りで上っていき、高さ15.3mで繋がって1本のリボンとなっています。これが展望台の役割を果たし、瀬戸内の島々を見渡すことができます。