【渋沢栄一記念館】藍玉製造農家の番付表『武州自慢鑑 藍玉力競』について

 

 

2020年1月10日「埼北よみうり」掲載の「渋沢栄一と養蚕企画展」の記事
2020年1月10日「埼北よみうり」掲載の「渋沢栄一と養蚕企画展」の記事

 

 

 

「埼北よみうり(2020年1月10日)」に、「渋沢栄一と養蚕企画展」の記事が掲載されていました。

展示場所は、渋沢栄一記念館(深谷市)です。

 

2020年1月12日(日)、早速、企画展に行ってきました。

 

 

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◆企画展「渋沢栄一と養蚕」

 

期間:令和元年11月1日(金曜日)から令和2年1月26日(日曜日)まで

場所:渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市下手計1204)

概要:

世界遺産となり5周年を迎えた富岡製糸場。渋沢栄一は、明治政府でその設立に関わりましたが、これは養蚕が栄一生家の家業の一つであったためでした。本展示では、明治政府での業績をはじめ、栄一生家の周辺や渋沢家の人々にまつわる資料から、栄一と養蚕の関わりについて紹介いたします。

 

渋沢栄一デジタルミュージアムHPより

 

 

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◆『武州自慢鑑 藍玉力競』(藍玉製造農家の番付)

 

 

 

藍玉
藍玉

 

 

展示室には、渋沢栄一の貴重な書や写真などたくさんの資料が展示されていました。

 

入ってすぐのところに、『武州自慢鑑 藍玉力競』(藍玉製造農家の番付)がありました。

 

「1862年、22歳の時に作成した藍玉製造農家の番付『武州自慢鑑 藍玉力競』は、後に実業家として活躍する栄一のアイデアマンぶりを示すものだ。自らが行司役を務め、地域の農家が育てた藍の出来を相撲の番付に見立てて「大関」「関脇」「前頭」と格付けしたのだ。昇進を目指して、農家が競い合い、知恵を絞り、翌年の品質と収穫量を向上させようという狙いだ。栄一は当時から、良質の藍玉を加工製造することで利益を増やし、村全体、地域全体が藍の産地として力を付け、豊かになることを考えていたという」(nippon.comホームページより

 

渋沢栄一は22歳の時に、地域全体の藍の品質を向上させるために「番付表」というアイデアを用いました。

後に実業家として活躍する栄一の才覚(発想力・企画力・実行力など)を象徴していると思いました。

 

 

番付表といえば、大相撲の番付表があります。

江戸中期以降には大相撲の人気が高まり、大相撲番付表が出回るようになりました。

それをまねて、江戸時代以降、様々な番付表が作られました。

 

 

 

 

◆『関八州田舎分限角力番附』(江戸時代)

関八州の画像

 

 

 

 

『関八州田舎分限角力番附』は江戸を除いた関八州の豪商番付表です。

 

戸谷半兵衛は、西の大関格として番付されています。(上図参照)

 

 

◆『大日本老樹番附』大正2年(1913年)発行

文化遺産オンラインより
文化遺産オンラインより

 

 

埼玉の偉人の一人でもある本多静六も番付表を作りました。

『大日本老樹番附』( だいにほんろうじゅばんづけ)です。

 

『大日本老樹番附』は、本多静六が、老樹名木の保存を普及するために作成したものです。

番付表の東西は地理的なものではなく、東は闊葉樹(広葉樹)・西は針葉樹に分けられています。

 

スノキ、スギ、ケヤキ、イチョウなどの樹種ごとに、樹木の大きさを基準に順位付けられました。

 

東の横綱には、昭和27年(1952年)国の特別天然記念物の「蒲生のクス」(鹿児島県姶良市)が位置づけられています(西の横綱は無し)。推定樹齢約1500年、樹高30m、幹の太さが24.22mもあり、日本一の巨樹です。 

 

 

 

 


樹齢約1500年の「蒲生のクス」

※姶良市ホームページより

 

 

◆本多静六

日本最初の林学博士で「公園の父」

慶応2年(1866年)~ 昭和27年(1952年)
慶応2年(1866年)~ 昭和27年(1952年)

 

 

 「本多静六は、明治32年わが国最初の林学博士となり、造林学、造園学の確立に大きな足跡を残した。代表的な業績に明治神宮の森の造営、日比谷公園の設計などがある。

帝国森林会、日本庭園協会を創設して会長にも就任した。埼玉県人会副会長、埼玉学生誘掖会会頭として郷土埼玉県の発展のため尽力した。

また、生涯にわたって収入の四分の一を貯蓄・投資に回し、財産を築いた。そして所有していた奥秩父の山林を育英資金に使うため埼玉県に寄贈した。」

(埼玉県ホームページ「埼玉ゆかりの偉人」より)

 

本多静六は、日本最初の林学博士で、「公園の父」と呼ばれる人物です。

日比谷公園の設計を最初に、北は北海道から南は鹿児島県まで全国各地の公園の設計・改良を行いました。

 

静六はまた、明治神宮の森づくりにも携わりました。

明治神宮は、明治天皇の崩御後の大正9年に創建されました。

 

明治神宮の森づくりには、人の手をほとんどかけず、自然の力(多様性・多層性)によって約100年で自然の森になるという「天然更新」の手法が用いられました。

50年後、100年後、150年後の変化を示した林相図を示し、常緑広葉樹による人手のかからない天然林を提案しました。

 

時の総理大臣・大隈重信からの「伊勢神宮や日光東照宮のような杉林(針葉樹林)にしろ」という指示に反対し、粘り強く説得しました。

(参考資料:本多静六博士没五十年記念誌『日本林学界の巨星 本多静六の軌跡』より) 

 

 

 

(参考資料:本多静六博士没五十年記念誌『日本林学界の巨星 本多静六の軌跡』より)
(参考資料:本多静六博士没五十年記念誌『日本林学界の巨星 本多静六の軌跡』より)

 

 

 

明治神宮の森(参考資料:本多静六博士没五十年記念誌『日本林学界の巨星 本多静六の軌跡』より)
明治神宮の森(参考資料:本多静六博士没五十年記念誌『日本林学界の巨星 本多静六の軌跡』より)

 

 

本多静六が想定した森の未来予想図

※「鎮守の森プロジェクト」ホームページより

 

 

 

 

渋沢栄一記念館で、藍玉製造農家の番付表(『武州自慢鑑 藍玉力競』)を見て番付表のおもしろさを再認識しました。

江戸時代に庶民の間で流行し、明治、現在へと受け継がれている「番付表」は、多くの人々の心に響き、楽しませてくれる仕組みです。

その仕組みを発想力豊かに活用した渋沢栄一は、才覚あふれるアイデアマンだと改めて実感しました。