渋沢栄一記念館見学の後、尾高惇忠生家に行って来ました。

 

 

 

 

 

◆尾高惇忠

尾高惇忠の画像
1830 年(天保元年) ~ 1901 年(明治 34年)

 

 

 

尾高惇忠生家パンフレットの画像

 

 

渋沢栄一記念館のあと、尾高惇忠の生家(深谷市下手計236)に見学に行きました。

ガイドの方が2人おられ、渋沢栄一、尾高惇忠、喜作や、長七郎、平九郎についてとても丁寧に教えてくださいました。

 

生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てた築200年以上の深谷市指定文化財です。

 

尾高惇忠は渋沢栄一のいとこであり、学問の師でもありました。

  

 

天保元年(1830年)下手計村に生まれ、通称新五郎、諱は惇忠、藍香(らんこう)と号しました。

明治2年(1869年)「備前渠取入口(びぜんきょとりいれぐち)」事件を見事解決に導いたことが認められて、明治5年(1872年)には富岡製糸所の初代工場長を任されました。

 

 

「青は藍より出でて藍より青し」は、弟子が師匠の学識や技量を越えることを意味する言葉です。

 

渋沢栄一(青淵)と尾高惇忠(藍香)の関係をも表していると言われています。

『藍香ありてこそ栄一あり』とまで尾高惇忠は人々に称えられ、栄一の人生に大きな影響を与えました。

 

 

 

深谷市ホームページ(尾高惇忠生家)

尾高惇忠生家パンフレット(PDF:4.7MB)

深谷の三偉人と史跡めぐりガイドブック(PDF:3.2MB) 

 

 

 

 

◆高崎城乗っ取り計画

文久3年(1863年)密議の絵(尾高惇忠生家パンフレットより)
文久3年(1863年)密議の絵(尾高惇忠生家パンフレットより)

 

 

尾高惇忠生家の2階には、江戸時代末期、尾高惇忠や渋沢栄一、渋沢喜作らが尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋があります。

 

「20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。」(深谷市ホームページ)

 

 

 

◆乗っ取り計画中止後のその後

ガイドの方は、高崎城乗っ取り計画とその後についてとても丁寧に教えてくださいました。

 

 

■尾高長七郎

文久3年(1863年)、高崎城乗っ取り計画を企て、挙兵直前であった渋沢栄一や兄・惇忠を説き、その不可なることを訴え、これを断念させた。1864年江戸へ向かう途中、戸田ヶ原(現埼玉県戸田市)において誤って通行人を殺傷し、投獄される。出獄後の1868年郷里で病を養う中亡くなる。

 

■尾高(渋沢)平九郎 

栄一がパリへ行った後、渋沢栄一の見立て養子となった平九郎は、兄の惇忠や従兄弟の渋沢誠一郎(喜作)らとともに、振武軍を結成して倒幕軍と戦う。しかし飯能戦争で破れ逃げる途中、慶応4年(1868年)越生の黒山で敵に包囲され割腹自殺をする、

 

■渋沢誠一郎(喜作)

従弟の渋沢栄一とともに一橋家につかえ,幕臣となる。戊辰戦争では彰義隊を組織するが脱退し、尾高惇忠、平九郎と共に振武軍を結成し討幕軍と戦うが敗戦。(飯能戦争)。惇忠と成一郎(喜作)は箱館まで転戦し、のち五稜郭にこもる。維新後,大蔵省に勤めた後、明治7年渋沢商店を開き、廻米(かいまい)問屋・生糸売込問屋を営む。

 

■尾高惇忠 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、初め彰義隊に参加するが脱退し、渋沢喜作(成一郎)や平九郎と共に振武隊を結成して討幕軍と戦うが敗退。(飯能戦争)。この戦いで平九郎は自決し、惇忠と成一郎(喜作)はさらに箱館まで転戦した。明治維新後、大蔵省官僚となった栄一の縁で、官営富岡製糸場の経営に尽力した。

 

■渋沢栄一 

その後、喜作とともに京都へ向かい、渋沢栄一が江戸遊学の際に知り合った一橋家の重臣「平岡円四郎」の推薦で一橋(徳川)慶喜に仕官することになった。慶喜の勧めで慶應3 年(1867)に弟「徳川昭武(あきたけ)」に随行。(随行前に平九郎を見立て養子にする。)パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情にふれる機会を得る。明治元年(1868年)に、幕府が倒れ、帰国した後、日本で最初の合本組織「商法会所」を駿府(静岡県)に設立した。

 

 

 

◆尾高家家系図

 

 

 

◆尾高(渋沢)平九郎

渋沢平九郎 弘化4年(1847年)~慶応4年(1868年)
渋沢平九郎 弘化4年(1847年)~慶応4年(1868年)

 

 

 

 

 

◆尾高惇忠生家裏の煉瓦造り蔵

煉瓦造の蔵
煉瓦造の蔵

 

 

尾高惇忠生家の裏には、深谷市指定史跡の煉瓦造蔵がありました。

 

煉瓦は日本煉瓦製造(株)製のものが使われており、明治21年(1888年)以降の建築です。

 

 

 

「上敷免製」の刻印

煉瓦の蔵の周辺で発見された煉瓦。「上敷免製」の刻印がある
煉瓦の蔵の周辺で発見された煉瓦。「上敷免製」の刻印がある

蔵の周辺の煉瓦には「上敷免製」の刻印があり、日本煉瓦製造(株)製であることがわかります。

※「上敷免製」の刻印は、 日本煉瓦製造株式会社(埼玉県深谷市上敷免)が所有していた刻印です。 

 

 

 

◆煉瓦の積み方

ガイドの方によると、尾高惇忠生家裏の煉瓦造蔵は、「イギリス式」で煉瓦が積まれているとのことです。

 

 

煉瓦の積み方には、「フランス式」「イギリス式」などいくつかの積み方があり、世界遺産の富岡製糸場は、フランス式で積まれた建築物とのことです。

 

 

 

 

 

◆富岡製糸場のフランス積み煉瓦壁

富岡製糸場では、煉瓦壁はフランス積みで積まれています。(下記参照)

 

煉瓦の目地には、「漆喰」が使われているとのことです。

 

 

富岡製糸場のフランス積み画像

 

 

 

 

◆韮塚直次郎

1823年(文政6年)~ 1898年(明治 31年)
1823年(文政6年)~ 1898年(明治 31年)

 

 

尾高惇忠生家のガイドの方は、最後に、韮塚直次郎の魅力について教えてくださいました。

渋沢栄一や尾高惇忠を裏方で支え続けた陰の立役者だったということです。

 

韮塚直次郎は、地元(明戸)の瓦職人たちを束ねて、富岡製糸場を建設しました。

当時まだ煉瓦の製造方法さえわからなかった時代に、材料の粘土探しから始め、煉瓦を積むのに必要なセメントの代わりに「漆喰」を用いるなど独自の苦心を重ね、煉瓦を焼き上げることに成功しました。

 

 

 

「現在の深谷市明戸出身の韮塚直次郎は、富岡製糸場の建設において資材調達のまとめ役をつとめた人物です。製糸場は洋式の建物となることが決まっていましたが、明治時代となって4年あまりの当時ですから、それがどんな建物なのか、想像することも非常に困難なものだったことでしょう。主要な建築材料となる煉瓦も、まだその製造方法すら分かっていない中、直次郎は地元明戸の瓦職人たちを束ね、外国人技師バスティアンから煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しからはじめました。そして、富岡に近い笹森稲荷神社(現甘楽町福島)付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功したのです。

 その他にも、石材の輸送や瓦など、多くの資材調達を請け負った直次郎は、製糸場完成後の1875年(明治8)、笹森稲荷神社の本殿に縦5尺横 10 尺の大絵馬を奉納し、事業の成功を神に感謝しています。製糸場を東上空から見下ろした構図の絵馬は、甘楽町指定重要文化財となっています。

 直次郎は、1880年(明治 13)に永明稲荷神社(深谷市田谷)にも同様の絵馬を奉納しており、これは深谷市の指定文化財となっています。」

「富岡製糸場と深谷の偉人たち」パンフレットより

 

 

ガイドさんは、韮塚直次郎の研究が進んで、これからもっと評価されていくだろうとおっしゃっていました。

 

 

韮塚直次郎が奉納した絵馬
韮塚直次郎が奉納した絵馬

 

 

◆韮塚直次郎2つのお墓

 

 

■明戸(深谷市)の阿弥陀寺

韮塚直次郎の阿弥陀寺にある墓の画像

 

 

■富岡市の龍光寺

韮塚直次郎の龍光寺にある墓の画像

富岡龍光寺のお墓には、「武蔵人」と記されており、故郷を大切に思っていたことがわかります。

 

阿弥陀寺と龍光寺どちらも同じ形のお墓で、尾高惇忠の撰文があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


渋沢栄一 史跡マップ
渋沢栄一 史跡マップ