2020年1月28日(火)埼玉県人会の新年賀詞交歓会に姉の恭子と一緒に出席させていただきました。
会場は、ステーションコンファレンス東京(東京駅八重洲北口サピアタワー6階)です。
会場の入口には、埼玉県人会の初代会長である渋沢栄一翁のパネルが展示されていました。
埼玉県人会には、評議員の田中庸三様からのご紹介で、今年度より入会させていただきました。
田中様は渋沢栄一翁が設立した「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」の砂土原寄宿舎OB組織「埼玉学生誘掖会舎友会」で現在幹事を務めていらっしゃいます。
新年賀詞交歓会では、岡本圀衞氏が、会長挨拶を述べられました。
続いて埼玉県知事の大野元裕氏と、埼玉県議会副議長の新井豪氏がご祝辞を述べられました。
また式では、「第12回善行賞」の表彰式が2団体1個人の方々に対して行われました。
会場には、各界を代表する著名な方たちが多く、その厳粛な雰囲気に圧倒されました。
◆澁澤幸子様ご講演「渋沢栄一を生んだ”東の家”と血洗島今昔」
ご講演では、澁澤幸子様が「渋沢栄一を生んだ”東の家”と血洗島今昔」と題して渋沢栄一と東の家との深い関係について述べられました。
澁澤幸子様は、著作家・トルコ研究家です。
お兄様にフランス文学者として有名な故澁澤竜彦様がいらっしゃいます。
ご自身のご出自である東の家での体験をもとに、ユーモアたっぷりにとても興味深いお話しを聴かせてくださいました。
◆渋沢一族各家の家の位置関係図
渋沢一族はもとは甲斐の武田氏の武将(甲斐国巨摩郡渋沢村)であり、武田氏滅亡後、深谷市血洗島に定住し、養蚕・藍玉の製造販売などで繁栄しました。
渋沢一族は、それぞれの家の位置関係から「東の家」「中の家」等と呼ばれていたとのことです。
■中の家(なかんち)
■東の家(ひがしんち)
■前の家(まえんち)
■遠前の家(とおまえんち)
■遠西の家(とおにしんち)
東の家から分家した
■古新宅の家(ふるしんたくんち)
■新屋敷の家(しんやしきんち)
尾高家(下手計)とは姻戚関係で結ばれているとのことです。
◆栄一を生んだ東の家
東の家は代々当主を「宗助」と呼んでいました。
1代目 宗助(宗安)
2代目 宗助(宗休)
3代目 宗助(誠室)
4代目 宗助(長徳)
5代目 宗助(長政)
6代目 宗助(長忠)
7代目 宗助(長康)
3代目宗助(誠室)の時、「東の家」が最も繁栄されたということです。
中の家に男の子が生まれず、家運が傾いたたため、東の家から婿入りさせました。それが栄一の父「元助」ということです。元助は中の家の「えい」と結婚し栄一が生まれます。
このような意味から、栄一は中の家で生まれたけれども、東の家が生んだともいえるのではないかと澁澤幸子さんはおっしゃっていました。
◆栄一は農民の子?
渋沢栄一は、自らのことを「農民の子」と言っていましたが、栄一の子供時代の「中の家」は、農民といっても、一般的な意味での農家ではなかったということです。
栄一は、幼少から論語や剣術を学んでいたことや、「中の家」が苗字帯刀を許されていたこと、藩主である岡部藩に500両(今の5000万円)を献上しているなど、当時の血洗島ではかなりの裕福な家柄の子だったということです。
なぜ栄一が農民の子と自称したかというと、一つは、謙遜の気持ちであり、もう一つは、「士農工商」という当時の社会制度に対する反発心なのではないかと澁澤幸子さんはおっしゃっていました。
◆本家は東の家
渋沢家の本家について、様々な文献がありますが、幸子さんが育ってきた中で、中ん家が本家だとは聞いたこともなかったということです。
栄一の子供時代の東の家の3代目宗助(誠室)の時代は、東の家が最も繁栄した時代であり渋沢家を束ねる長老格(本家的存在)にいたとのことです。
幸子さんの子供時代、東の家は大きく、「大澁澤」と呼ばれていたとのことです。
いかに当時の東の家が大きかったかの幸子さんの経験にもとづいたお話しはとても興味深かったです。
利根川の氾濫に備えて床下の高い造りだったということや、
柱はひとかかえするくらいの太さだったこと、
岡部藩主の殿様(安部氏)が東の家までお金を無心に来ていたという話、
殿様をお迎えするために離れを作ったという話、
江戸末期夜盗から身を隠すために、内蔵の中に隠し部屋が作られていたという話、
その隠し部屋に入るための内蔵の仕掛けの話や、
その隠し部屋に千両箱(現在の1億円)が置かれていたという話など、
想像以上のスケールの大きさに驚きました。
当時の東の家は残念ながら一部は移築されたものの、取り壊したということで、今思えばミユージアムにすればよかったとおっしゃった幸子さんのユーモアで会場は笑いに包まれました。
◆渋沢家の論語を重んじる精神の源
東の家2代目の宗助(宗休)の弟が「仁山(じんさん)」
「古新宅の家」という分家を作りました。
仁山は、漢学者(当時は学問と言えば漢学)で論語を教える学習塾を開きました。
仁山の影響で、その後、3代目宗助(誠室)・尾高惇忠・渋沢喜作・渋沢栄一に論語を重んじる精神が受け継がれていったとのことです。
◆東の家の3代目「誠室(せいしつ)」
東の家は3代目宗助(誠室)のとき、最も繁栄されたとのことです。
東の家を反映して、ビジネスマンであると同時に第一級の文化人であり、横浜生糸海外貿易にも関わり巨万の富を築きました。養蚕の手引書を著し無料で配布するなど社会公共のために尽しました。
◆4代目・5代目宗助のいとこたち
澁澤幸子さんは、東の家4代目・5代目宗助の頃のいとこたちは傑出した人物が多かったと述べられました。
■尾高惇忠…東の家の2代目宗助(宗休)の長女「やへ」が尾高家に嫁入り。その長男が惇忠。学習塾を開き、栄一・喜作が通う。喜作とともに新幕府軍と戦う。明治時代「富岡製糸場」の初代場長。
■尾高長七郎…乗っ取り計画を中止させた。30代で亡くなる
■尾高平九郎…幕末のイケメンベスト1・飯能戦争で27歳で亡くなる
■渋沢喜作…上野で彰義隊・振武軍結成・飯能戦争・函館戦争
■渋沢栄一…1840年生まれ。討幕・一橋家・幕臣・ヨーロッパで見聞を広める・官僚・実業家→日本近代化に貢献
■渋沢千代…栄一の最初の妻(栄一のいとこ)
1853年にペリーが来航してから、1868年に明治政府が誕生するまでの期間は激動の15年間でした。
その期間がどれくらい激動だったかを、4代目5代目のいとこたちを通してわかりやすくお話ししてくださいました。
◆渋沢喜作の痛快な人生
渋沢喜作(成一郎)は栄一と幼少時からともに育ち、行動を共にした大親友でした。
喜作は栄一より2つ年上のいとこでしたが、栄一以上に波乱万丈の人生を送りました。
討幕中止後、栄一とともに一橋家に仕え幕臣となります。
戊辰戦争では、上野で彰義隊頭取となり、飯能では振武軍を結成し、函館戦争で新政府軍と戦います。
その後3年間投獄され、官僚になった栄一に助けられ、大蔵省に入ります。
1873年には大蔵省を退職し、実業家に転身します。
横浜に渋沢商店を開業し、生糸貿易で実業家で大成功を収めます。
ところが投機好きがわざわいし、栄一に尻ぬぐいをしてもらったり、女性問題でもいろいろあったそうです。
澁澤幸子さんは、喜作は栄一以上に波乱万丈で痛快な人生だったと述べられました。
澁澤幸子様のご自身の体験をふまえての講演はとても説得力があり、勉強になりました。所々でユーモアを交えてくださり、とても楽しく拝聴させていただきました。
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埼玉県人会の新年賀詞交歓会にご招待くださいました田中様に改めて感謝申し上げます。
皆様すばらしい方達ばかりで自分の立ち位置が分からず戸惑いましたが、埼玉地域の郷土愛を育む活動をする一人として少しでも貢献できたらと思っています。