「深谷商業高等学校記念館(二層楼)」に行ってきました。

 

 

2020年10月25日(日)、深谷商業高等学校記念館(二層楼)に行ってきました。

 

深谷商業高校は、地元の有力者であった渋沢栄一翁大谷藤豊(ふじとよ)氏たちが尽力し、大正10年(1921)に創立され、校舎である二層楼は、翌年の大正11年(1922)に完成しました。

校歌で「巍峨壮麗(ぎがそうれい)の二層楼」と歌われています。

※巍峨壮麗(ぎがそうれい)とは「山や建造物などが高くそびえ雄大で美しい様」の意味です。

 

平成25年(2013)には、大修復が完了し、過去の工事で白色系に塗り直されていた外観が、創建当時の「萌黄色(もえぎいろ)」に蘇りました。

 

記念館(二層楼)は、毎週日曜日に一般公開されています。

 

 

 

 

 

 

◆二層楼案内図

 

 

◆貴重な文化遺産としての二層楼

深商記念館「二層楼」は、学校創立の翌年、大正11年(1922)4月15日に竣工しました。建設したのは群馬県高崎市の井上組、高崎の観音様を建てた会社で、設計者は埼玉県技師濱名源吉です。

 

当時としては四隣に比肩するもののない立派な建物で、校歌にも「巍峨壮麗の二層楼」と誇らかに歌われております。二層楼は長く本館教室として使用され、授業を通して多くのことを学び、友情を育み、数えきれない思い出とともに、この深商の輝かしい伝統と、深商生の堅い絆を築いてきた校舎であります。木のぬくもりとともに、たくさんの思い出が伝わり、卒業生にとって「心の故郷」であり、深商生にとって「希望のシンボル」として親しまれてきました。

平成12年(2000)には、フレンチルネッサンス様式を基調とした、大正時代の建築技術の粋を集めて建設された貴重な建物として、国の登録有形文化財の指定を受けました。

 

中央部分には尖塔、左右対称の構成、玄関は重々しい車寄せ、階段の彫刻風の手摺りや広い踊り場、錘を利用した上下開閉式の窓、屋根には洋風なドーマ窓(ドーム窓)、土台には、渋沢栄一が関わった日本煉瓦製造会社の上敷免レンガが使われています。外壁は幾何学模様の張り板等、明治後期から大正期にかけての学校建築の特色がよく表れた木造かわらぶき二階建てのモダンな洋風校舎です。

 

しかし、長年風雨にさらされ、ペンキがはげ、雨漏りや、壁や柱などの傷みも目立ち、痛ましい姿をさらす状態となりました。また耐震性の問題もあることも判明し、阪神・淡路大震災後は、鍵が掛けられ使用されなくなり、取り壊し論が幾度となく浮上しました。「二層楼がなくなったら深商が深商でなくなる」と多くの卒業生が危機感を募らせました。この学舎の危機に、全国の文化財ファンから存続を求める声も数多く寄せられました。

 

この度、県当局より、創建当時の姿をとどめた学校建築の貴重な県民の財産として、全面的な手厚い保存措置を講じていただきました。改修工事は、およそ2年の長期に渡り、この間、学校法人ものつくり大学の技術指導、社団法人埼玉建築設計監理協会の技術協力、丸和工業株式会社の建築施工をはじめ、業界第一戦級プロの皆様のご尽力により執り行われました。修復にあたっては「可能な限り当初の姿を伝える」ことが重視されました。

 

修復前の二層楼は、過去の工事で外壁が塗り直されており、白色系の外観をしていましたが、この度、ものつくり大学横山研究室によるコンピュータ解析の結果、創建当時は、外壁は萌黄色(もえぎいろ)、窓枠は鮮やかな緑色、尖塔や屋根窓は深緑であることが判明いたしました。

 

髙橋 福八同窓会長の、「開校に尽力した渋沢栄一扇が見たのも萌黄色、開校に尽力した町の人たちの魂がこもった校舎だからこそ、創建当時の色に復元することに意義がある」との英断により、見事に復元され蘇りました。

昔から、この二層楼の形状には、母性的なおもむきがあると言われております。我が子をじっと見守る母親のように、この二層楼が未来永劫、本校に学ぶ生徒を見守ってくれることを願っております。(「巍峨壮麗の二層楼 国登録有形文化財 深谷商業高等学校記念館」パンフレットより)

 

 

 

 


 

 

 

 


◆渋沢栄一翁の書(1階の展示室)

大正11年(1922年)10月渋沢栄一が深谷商業高校を訪れた時にその場で書いたものです。

「至誠」と「士魂商才」は深商の校訓となり、現在も渋沢栄一の教えが受け継がれています。

 

 

渋沢栄一翁

 

 

 

「至誠」

 

 

「士魂商才」

 

 

 

 

 

 


◆創立功労者 大谷藤豊(おおたに ふじとよ)氏

「大谷家は江戸時代中期から続く中山道深谷宿の有力商家である。

父親(大谷藤三郎)をはじめ周囲の念願であった国政進出の道を捨てた大谷藤豊は、常に故郷深谷への貢献を第一と考え、埼玉県会議員、深谷町長を務めた人物である。

学校創立に際し、学校敷地1万坪の土地と、学校創設資金3万円の多額を寄付して深谷町立商業学校の建設に貢献した。

藤豊は県立商業学校招致期成同盟会の筆頭幹事として大いに活躍した。

毎日、大谷邸裏門から桑畑越しに、二層楼を「わが子」のように眺めていたという。正に深商創設の立役者であった。」(写真説明パネルより)

 

 

(町立商業学校設置費寄付者芳名)

 

 


◆階段

洋風建築らしいレトロな造りの回り階段。踊り場上部には採光窓も配置されています。

 

 


◆屋根裏(2階の廊下中央)

天井が張られていない屋根裏には、創建当初の「棟札」2枚があります。

 

 

◆棟札2枚

棟札には、建設関係者の他、現在まで不明であった設計者 濱名源吉の名前が記されています。

 

 


◆深谷商業学校平面見取図

 

 


◆定規時計

精工舎が製造した掛け時計(※精工舎は現在のSEIKO)

 

 

 

 


◆展示新聞(一部)

「渋沢翁も見た萌黄色」

 

 

「学生時代からの行動派(高橋福八同窓会長)」

 

 

「妥協せず独立独歩で(いせや社長 土屋嘉雄氏)」

 

 


◆本校舎落成写真

(大正11年4月)

 

 

◆教室

 

 

◆校長室

 

 

◆会議室

 

 

◆茶華道室

現在は学生の部活動などで活用されています。

 

 


◆渋沢栄一翁によって植樹された松

大正11年(1922)10月1日

「この松は渋沢栄一翁が大正11年10月、完成したばかりの二層楼にて講演を行った際に、渋沢翁によって植栽されたもので、その時に「至誠」「士魂商才」の書も残した。

これらの言葉は本校の校訓となり、今も渋沢栄一翁の教えが受け継がれている。」(案内板より)

 

 


◆深谷商業高等学校記念館(二層楼)パンフレット


 

 

 

 


 

【深谷商業高等学校記念館(二層楼)】

 

住所:埼玉県深谷市原郷80番地

開館日:毎週日曜日(年末年始を覗く。臨時休館あり。)

開館時間:午前10時〜12時/午後1時〜3時