2020年11月21日(土)本庄市が舞台の「出没!アド街ック天国」が放送されました。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

最後は、まさか一分銀が出てくるとは思わなくて動揺しました(汗)

 

中山道一の宿場町、塙保己一翁、本庄まつり、養蚕のまち、蔵めぐり、百体観音堂など本庄の歴史についてとてもわかりやすく紹介いただきまして感動しました。

 

取材班の皆様、本庄での撮影、ありがとうございました!!

 

 

 


 

 


(補足)

本庄遷都論について

 

明治11年(1878年)、本庄に首都遷都の話が持ち上がったことがありました。

これは、日本赤十字の創立者の佐野 常民氏(1823-1902)によるものです。

当時の東京近海は、欧米船舶が往来し、いったん紛争が起きると政府所在地が攻撃される恐れのある状況にありました。

佐野氏は、外国船の攻撃を受けない地域で、水害の恐れがなく、水運が良く、高い山がなく、気候が温暖で、飲料水が確保できるという条件を指定し首都遷都を考案しました。その条件にもっとも適う土地として本庄市をあげられました。

 

他の候補地として、

①熊谷:荒川流域で水運の便はあるが地理的に低い位置にあり堤防決壊の恐れが大きい。

②前橋:利根川の流れが急で水運の便は良いといえない。

③高崎:浅間山からの風が強く寒さは厳しい。

④新町:多くの川があって時に河川が氾濫し水害を免れることができない。

 

などと指摘をされました。

 

5番目に取り上げた本庄については

「土地も広く気候も適当。勝(すぐ)れた風景、土と水に恵まれ、住民の健康上にも極めて良い。」と長所を列記した上で、開発工事の方法にまで言及。最後に「本庄は東京に勝る一大都市になること、期して待つべきであろう。」と結び、佐野氏は『遷都意見書』を起草しました。

 

残念ながら、この意見書は正式な提出とはならず、お蔵入りとなったのですが、戦後昭和36年(1961年)に、慶應義塾大学教授の手塚 豊氏によって発見されることになりました。

 

その後、手島教授の教え子であった竹並万吉氏が、手島教授より佐野常民氏の『遷都意見書」を紹介されたとのことです。

竹並氏は、漢字とカナ交じり文だった原文を現代語に訳して読みやすくし冊子にまとめられました。 

 

「幻の本庄遷都」とはなりましたが、本庄出身でない佐野常民氏によって、遷都の最適地とまで、本庄のよさを(風土的にも、歴史的にも)認めていただいたことはとても意味のあることだと思いました。

 

※竹並万吉氏は本庄市出身で、長年、埼玉県県会議員としてご尽力され、「群読劇 塙保己一物語」実行委員会の会長としてご活躍中です。

 

  

佐野 常民(さの つねたみ)氏 ⒸWikipedia
佐野 常民(さの つねたみ)氏 ⒸWikipedia
手塚 豊氏のご著書
手塚 豊氏のご著書

竹並 万吉氏

※本庄市野球連盟会長として本庄市長杯ボーイズリーグ大会の式典にご出席時の写真

 

 


養蚕のまち

◆旧本庄商業銀行煉瓦倉庫

明治29年(1896年)に建設された旧本庄商業銀行の寄棟瓦葺二階建ての煉瓦造の倉庫です。

かつて中山道の宿場町として栄えた本庄町は、幕末期から繭の集散地として繁栄を遂げ、明治16年(1883年)に日本鉄道(現高崎線)本庄駅が開業すると、繭と絹のまちとしての発展を遂げました。

この建物は、明治27年(1894年)に開業した本庄商業銀行で、融資の担保となった大量の繭を保管するために建てられました。絹産業が盛んであった本庄町の繁栄を伝える貴重な建物です。(本庄レンガ倉庫HPより)

 

「株式会社本庄商業銀行創業総会決議報告」画像

「株式会社本庄商業銀行創業総会決議報告」 ※本庄商業銀行創業当時(明治27年)の決議報告です

 

 

◆本庄市周辺地域の近代化遺産

利根川や烏川、神流川をはさんで群馬県と埼玉県両県には絹産業遺産が多く残されています。

2014年「富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県)」が世界遺産に登録されました。日本の世界遺産の中で近代化遺産としては初です。

本庄市内にも、「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」や「競進社模範蚕室」など、貴重な近代の遺産が存在します。

 

 

◆競進社模範蚕室(きょうしんしゃ もはんさんしつ)

競進社は、明治27年(1894年)に造られた、養蚕技術の研究施設です。最新の飼育法を学ぶため、日本各地から多くの生徒が集まりました。

競進社を創始した木村九蔵(きむらくぞう)は、高山社を創始した高山長五郎(たかやまちょうごろう)の弟にあたります。長五郎は「清温育」、九蔵は「一派温暖育」という蚕の飼育法を考案しており、両者は切磋琢磨しながら近代日本の養蚕業の進展に大きな役割を果たしました。(本庄市HP「競進社模範蚕室」より)

 

 

◆諸井家と本庄の繭市場の発展

左:「諸井家住宅(県指定文化財)」 右:「諸井泉衛とその家族 *諸井氏蔵」

 

富岡製糸場の初代場長となった尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)が、本庄の諸井泉右衛門(もろいせんえもん)らに生繭の買い付けを依頼したことがきっかけで、本庄は繭市場として発展を遂げたといわれています。

明治16年(1883年)日本鉄道本庄駅の開業が追い風となり、本庄は日本随一の繭の取引高を誇る市場になりました。製糸工場(最盛期で13社)ができ、規模の大きな養蚕農家も現れました。

東諸井家は富岡製糸場の原料の買い付けも請け負っており、関係書類や場長の尾高惇忠と取り交わした書簡などが多く残されています。(※上武絹の道より)

 

※諸井家についてはこちらもご覧ください。

 

「富岡製糸所御達書」 明治12年(1879) 埼玉県立文書館所蔵
「富岡製糸所御達書」 明治12年(1879) 埼玉県立文書館所蔵

 

 

 

◆大門家(だいもんち)

大正8年(1919年)に建てられた養蚕農家だった「高窓」の家をリノベーションした古民家カフェ。カフェでは手打ちうどんやドリンク、スイーツなどのメニューが楽しめます。

※古民家カフェ大門家のブログ

 

 


中山道最大の宿場町

 

 

 

 

皇女和宮がくぐったとされる「田村本陣」の門。

1861年京都から江戸の将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮が田村本陣に1泊したという記録が残っています。

 

 

 

現在も創業して100年を超える老舗が50軒以上残っています

 

 

本庄市は、埼玉県の西北部に位置します。

古くは鎌倉街道、江戸時代には中山道最大の宿場町として発展し、利根川の河岸など、交通の要衝として栄えてきました。

 

現在も、関越自動車道「本庄児玉インターチェンジ」や、上越・北陸新幹線「本庄早稲田駅」の利用により、手軽に東京、軽井沢、北陸方面、上越方面に行くことができる交通の要衝となっています。

 

「本庄宿絵図」(正徳2年)
「本庄宿絵図」(正徳2年)

 

 

 

 

 

 


塙 保己一翁

 

 

◆日本で最初のデータベース創設者

埼玉県の三大偉人であり、本庄が誇る偉人である「塙保己一翁」。

塙保己一は、延享3年(1746年)現在の本庄市児玉町保木野村に生まれました。

病気により7歳で失明したにもかかわらず、15歳の時に江戸へ出て学問の道に進みます。

安永8年(1779年)34歳の時、散逸の恐れがあった膨大な文献の収集と編纂を決意。

文政2年(1819年)、40年以上かけて、666冊にも及ぶ「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を完成させます。

日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの書物を集大成するという偉業を成し遂げられました。

 

 

 

◆ヘレンケラーの生きる支えとなった塙保己一

塙保己一のブロンズ像に手を触れるヘレンケラー

出典:埼玉県HP「塙保己一パネル(PDF:2,381KB)」

 

塙保己一が亡くなってから115年後の昭和12年(1937年)、ヘレン・ケラーは温故学会を訪れ次のように語りました。

「今日、こうして温故学会を訪問して先生の像に触れることができましたのは、日本の訪問の中で最も意義深いものでした。使い古された質素な机と、優しそうに首をかしげた先生の像に触っていると、先生のお人柄が伝わってきて、心から尊敬の気持ちがいっそう強くなりました。先生のお名前は、水が流れるように、永遠に後世に伝えられていくに違いありません。」

 

※埼玉県HP「ヘレン・ケラーと塙保己一」

 

 

 

◆埼玉の三大偉人

埼玉の三大偉人は、自らの障害を乗り越えて『群書類従』の編纂を成し遂げた塙 保己一(本庄市出身)、様々な企業の設立や育成に携わる一方で、多くの社会事業にも尽力し近代日本経済の礎を築いた渋沢 栄一(深谷市出身)、新たな分野に果敢に挑戦し、日本で最初の女性医師になった荻野 吟子(熊谷市出身)です。

お三方の偉業は一見関係の無いように思えますが、実は不思議な関係性がありました。

 

※埼玉ゆかりの三偉人については(PDF:1,349KB) 

※塙保己一パネル(PDF:2,381KB)

※渋沢栄一パネル(PDF:2,808KB)

※荻野吟子パネル(PDF:1,293KB) 

 

 

◆温故学会と渋沢栄一

群書類従の版木 17,244枚(温故学会会館所蔵・国指定重要文化財)

※文化遺産オンラインより

 

渋沢栄一は現在の深谷市に生まれた大実業家です。第一国立銀行をはじめ、鉄道、製紙、造船など500社にも上る企業の設立に関わり、また、福祉や教育など約600もの社会事業にも尽力されました。

社会事業のうちの一つが温故学会の設立でした。

渋沢栄一は塙保己一を尊敬していました。

明治42年(1909年)、保己一の偉業を顕彰するため、渋沢栄一、井上通泰、芳賀矢一、塙忠雄(保己一のひ孫)の4氏によって、「温故学会」が設立されました。

温故学会によって、塙保己一翁の残した文化遺産が現在も伝えられています。 

 

 

 

◆原稿用紙の起源となった版木

『群書類従』の版木1枚の大きさは、横470mm×縦230mm×高15mm、重さ 1.5kgです。

文字数は、縦20文字、横10行が2段で400字に統一してあります。

これが原稿用紙の起源になったといわれています。 

※塙保己一史料館ホームページより

 

 

◆和学講談所

和学講談所は、寛政5年(1793年)、塙保己一によって創立された和学の研究・教育機関です。

塙保己一は、ここで多くの門弟を育てるとともに、数々の資料等の編集事業を行います。

文政2年(1819)には着手以来41年をかけた群書類従を刊行しました。 

 

 

◆小笠原諸島と塙保己一

小笠原諸島が、明治9年(1876年)、国際的に日本への帰属が認められた背景にも、塙保己一の功績がありました。

江戸時代より、日本と列強諸国(アメリカ、ロシア、イギリス)の間で小笠原諸島の領有権を巡っての問題が生じていました。

その解決策となったのが、塙保己一が創設した和学講談所に保管されていた小笠原諸島の「記録」です。

 

和学講談所には、「小笠原島は文禄2年(1593年)、小笠原民部少輔貞頼(小笠原貞頼)が高麗より帰朝の際に発見した島で、以降、小笠原島と呼ぶ。当時この島には住居はなく、そのため無人島とも呼ばれるようになった・・・」と記された資料が残っていました。

塙保己一が設立した和学講談所に保存されていたその記録によって、列強諸国は領有主張を放棄し、小笠原諸島を守ることができたのでした。 

※埼玉県HP「塙保己一と小笠原諸島」

 

 

◆荻野吟子と塙保己一

荻野吟子(おぎのぎんこ)が日本で最初の女性医師になるのを手助けしたのも塙保己一でした。

 

荻野吟子は嘉永4年(1851年)現在の熊谷市俵瀬に生まれました。

自分の病の経験から女性医師の必要性を痛感し、医師になることを決意しました。

しかし、当時、女性には医師の道は閉ざされていました。

医術開業試験の願書を前例がないという理由で、何度も拒絶されていた吟子を救ったのは、保己一がまとめた平安時代の法律の解説書「令義解(りょうのぎげ)」でした。

 

荻野吟子は、この「令義解」に日本での女医の記載があることを知り、日本で最初の女性医師への道が開かれたのでした。

 

 

【令義解(りょうのぎげ)】

「令義解」には「医疾令」という法律が収められており、女医に関する規定が記載されていました。(荻野吟子記念館より)

 

※荻野吟子記念館HP

※埼玉県HP「荻野吟子を救った令義解」 

 

 

アンゴラ村長につきましては、高校生のとき、六高祭の関係で戸谷八商店に来てくださったのを覚えています。

本庄のよさをイキイキと紹介してくださってありがとうございます!!

 

※六高祭とは、本庄にある6つの高校(児玉白楊高校、本庄高校、児玉高校、本庄第一高校、本庄東高校、早稲田大学本庄高等学院)による合同文化祭です。毎年はにぽんプラザで行われています。

(詳しくはこちらへ)