2020年12月15日(火)金鑚神社「神迎祭(しんげいさい)」に行ってきました。


◆金鑚神社での「神迎祭」

2020年12月15日(火)、金鑚神社(本庄市千代田)の「神迎祭(しんげいさい)」に行ってきました。

 

神迎祭は、毎年、金鑚神社にて旧暦の11月1日に執り行われる行事です。

旧暦の10月(神無月)に出雲大社に集まっていた神々を、旧暦の11月(霜月)の1日午前0時に神社でお迎えします。

 

今年の旧暦11月1日は、12月15日でした。

 

Ⓒhttps://ameblo.jp/arinomama35/page-3.html  

参拝後、熊手と景品引換所で景品をいただきました。

※この景品は、本庄商店街の氏子の方たちが毎年奉納しているものです。 

景品引換所でいただいた景品は、小渕捺染(株)様の巾着袋でした。

(表に”神迎祭”、裏に”金鑚神社”とデザインされた手染めの巾着袋です。)

 

◆金鑚神社「神迎祭」の熊手

 

 

◆景品~小渕捺染(おぶちなっせん)様の巾着袋~


「小渕捺染(おぶちなっせん)様」は、創業してから今に至るまで、昔ながらの技法で手染めにこだわりものづくりをしています。今では本庄市にある唯一の捺染工場です。インクの調合から職人さんの手で行われ、生地の表裏に同じ柄を染める技法で染めています。

 

小渕捺染(株)様のブログ

 


出雲大社での「神迎祭」

「出雲の大社八百萬神どうけ遊び図」(古代出雲歴史博物館蔵)

出雲大社に集った神々が大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を中心に描かれている 

 

旧暦10月は、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月です。

出雲以外の地では、神様が留守になるので「神無月(かんなづき)」といいますが、出雲では「神在月(かみありつき)」と呼ばれます。

 

出雲大社では全国から神々をお迎えして、旧暦10月10日から17日まで

 

・神迎祭(かみむかえさい)

・神在祭(かみありさい)

・神等去出祭(からさでさい)

 

が執り行われます。

 

※出雲大社公式ウェブサイト 

 

◆旧暦10月11日 出雲大社での「神迎祭(かみむかえさい)」

「出雲大社神迎祭」短編(出雲市大社町) ※しまねっこCH様動画より 

 

出雲大社御朱印より 

 

出雲大社で執り行われる「神迎祭(かみむかえさい)」は、日本海から来訪する八百万の神々をお迎えする神事です。

場所は、出雲大社の西にある「稲佐の浜(いなさのはま)」です。

 

夕刻7時、稲佐の浜で御神火が焚かれます。注連縄が張り巡らされた斎場の中に神籬(ひもろぎ)が2本、傍らに神々の先導役となる「龍蛇神(りゅうじゃしん)」が海に向かって奉納されます。

八百万の神々の御霊がこの2本の神籬(ひもろぎ)にお宿りします。

稲佐の浜での神事が終わると、2本の神籬は、白色の絹の布で覆われ、「龍蛇神(りゅうじゃしん)」の先導で出雲大社に向かいます。

 

出雲大社までの道は直進するのではなく、迂回しながら、「神迎の道(かみむかえのみち)」と呼ばれる細い道を通って向かいます。

 

境内へ入ると、「神楽殿」へと向かいます。神楽殿では、「国造(こくそう)」である千家尊祐(せんげたかまさ)宮司による祝詞の奏上と、巫女による舞(御神楽)が奉奏されます。

 

神楽殿での神事が終わると「神迎祭」が終了となります。 

 

■稲佐の浜(いなさのはま)

八百万の神々が集まる「稲佐の浜」と弁天島

■2本の神籬(ひもろぎ)と龍蛇神(りゅうじゃしん)

「2本の神籬(ひもろぎ)」 出雲観光ガイドより

 

■神迎の道(かみむかえのみち)

■神楽殿(かぐらでん)出雲大社

「神楽殿」で執り行われる神迎神事 ※出雲大社御朱印より

Ⓒhttps://tabi-mag.jp/sm0164/
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◆10月11日~17日 出雲大社での「神在祭(かみありさい)」

※7日間の会議

 

「神在祭(かみありさい)」では、「神議(かむはかり)」という会議をします。

 

これから1年間、出雲大社のご祭神大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)と一緒に、人には知ることのできない様々な”縁”(男女の縁、友人、子宝、農作物の豊凶、商売など)を決める会議を行います。

 

会議場所は、出雲大社の御本殿ではなく、境外にある「上宮(かみのみや)」です。

 

地元出雲の人々は、この期間は、神議りに支障がないよう静かに謹んで暮らすことになっており、神在祭の間を「お忌みさん」と呼んでいます。

 

※神々の宿泊場所は、「十九社(じゅうくしゃ)」です。

「十九社」は東西にあるので、2本の神籬(ひもろぎ)が東西二手に分かれて、十九社に向かいます。

東の十九社には、出雲大社より東の神々が、西の十九社には、出雲大社より西の神々が宿泊されます。十九とは、"数限りない"という意味の数です。 

 

■神々による縁結びの会議

■「上宮(かみのみや)」7日間神々が会議をする場所

※「上宮」は、出雲大社境内ではなく境外にあります。

 

■「十九社(じゅうくしゃ)」神々のお宿

■出雲大社 境内図・境外図

◆10月17日 出雲大社での「神等去出祭」(からさでさい)

※出雲大社を去られる神々のお見送り

夕刻4時、東西の十九社にあった2本の「神籬(ひもろぎ)」が、「拝殿」に移動されます。

拝殿の祭壇に2本の神籬(ひもろぎ)、龍蛇、餅が供えられ祝詞が奏上されます。

その後、1人の神官が本殿楼門に向かい門の扉を三度叩きつつ「お立ち~、お立ち~」と唱えます

この瞬間に神々は神籬(ひもろぎ)を離れ出雲大社を去られます。

 


出雲~神在祭のある神社

【出雲市】

・出雲大社(いずもたいしゃ)

・日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)

・朝山神社(あさやまじんじゃ)

・万九千神社(まくせのやしろ)

 

【雲南市】

・神原神社(かんばらじんじゃ)

 

【松江市】

・熊野大社(くまのたいしゃ)

・神魂神社(かもすじんじゃ)

・売豆紀神社(めつきじんじゃ)

・多賀神社(たがじんじゃ)

・佐太神社(さだじんじゃ) 

 

出雲大社以外の神社にも神在祭があり、それが終わると万九千神社(まくせのやしろ)から神々はそれぞれの国に還られるといいます。

また一方、神在祭は本来、旧暦10月11日から25日までの15日間行われていたとの説もあります。11日から17日までを上忌、18 日から25日までを下忌と呼んで、出雲大社では上忌が残り、佐太神社には下忌が残ったのだともいわれます。(しまね観光ナビより)

 


◆出雲国風土記(いずものくにふどき)について

 

『出雲国風土記(いずものくにふどき)』は、天平5年(733年)に完成した、ほぼ完本の形で今日に伝わる唯一の「風土記」です。

「国引き神話」を始めとして、出雲に伝わる神話などが記載され、古事記・日本書紀とは異なる伝承が残されています。

一般の『風土記』が国司によって編纂されたのに対して、出雲の場合には出雲国造(現在の出雲大社の両国造家の祖先)によって作られています。そのため、『出雲国風土記』には、『古事記』や『日本書紀』と比べると、より地元の目線で書かれています。

出雲国風土記の中では、「佐太大神(さだのおおかみ)」「加賀の潜戸(くけど)」で生まれたと記されています。「佐太大神」は四大神(杵築・熊野・能義・佐太)の内の一人とされています。

 

◆国引き神話(くにびきしんわ)

昔、ヤツカミズオミツノノミコトが、出雲の国を見て、「八雲立つ出雲の国は、細長い布のように小さく、まだこれからの国だ。どこからか国を引いてきて縫い付けなくては」 と思い立ちました。

 

海の向こうを見渡して、新羅という国を見てみると、国の余りがあります。

そこで、大きなすきを手にとって、大きな魚の身をさくように新羅の土地をぐさりと切り離しました。

そこに、三つよりになった強い綱をかけ、霜枯れたかづらを「くるや、くるや」とたぐり寄せるように、

また、河船を「もそろ、もそろ」と引くように、「国来、国来」 と、言いながら、引き寄せました。

そうして、ぬいつけた国が、「杵築(きつき)のみさき」(日御碕から平田市小津付近)です。

このとき、引き寄せた国を固めるために立てた杭(くい)が、【佐比売山(三瓶山)】になり、

引いた綱は、「園の長浜(そののながはま)」となりました。

 

そのあとも北方の国(隠岐の島)から「狭田の国(さだのくに)」「闇見の国(くらみのくに)」を引き寄せました。

 

最後に北陸の都都のみさき(北陸の能登半)から、「美保のみさきの国」を引き寄せました。

このとき、国を固めるために立てた杭(くい)が【火神岳(鳥取県の大山)】になり、引いた綱は「夜見島(弓ヶ浜)」になりました。

 

こうして国引きを終えたヤツカミズオミツノは、「今、国引きを終えたぞ」と「意宇の杜(おうのもり)」に杖をつきたて、「おう(おえ)」と言いました。

 

出典:「ふるさと読本いずも神話」より(PDF:3.67MB)

 

■出雲に伝わる神話『国引き神話』【しまねっこCHより】


◆佐太神社(さだじんじゃ)

~神在祭は出雲で最も古い形を残している~

  

佐太神社(さだじんじゃ)は島根県松江市に鎮座する出雲国二ノ宮です。

奈良時代の『出雲國風土記』、平安時代の『延喜式』にも記載され、「出雲(杵築)大社」・「熊野大社」とともに出雲国三大社のひとつとして、出雲国における重要な地位を占めてきました。

 

奈良時代の『出雲国風土記』には「佐太大神社」とあり、古代には地方の祖神の「佐太大神」(さだおおかみ)を祀る神社として広範囲に信仰を集めていたと推測できます。

 

「盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。

江戸時代を通じて出雲國10郡のうち、佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半の3郡半の神社を支配下に置き、歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。」佐太神社ご由緒より 

  

佐太神社には八百万の神々の母神であられる「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」のお墓があります。

母神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、旧暦の10月に亡くなったという説もあることから、毎年この時期に八百万の神々が母神を偲んで訪れるとも言われています。

『神在祭』については、出雲国数社で執り行われるものの中でも、文献上最も古くかつ古い形を受け伝えています。

 

※佐太神社(さだじんじゃ)HP【ご由緒】

 

■佐太神社(さだじんじゃ)での『神在祭』

 

佐太神社の神在祭は「お忌さん(おいみさん)」と呼ばれ、祭の期間中は、騒音、喧噪などを慎む禁忌の祭でした。

 

旧暦の10月は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなったという説により、八百万の神々は毎年この月になると佐太神社に集まり、お墓参りをされると言われています。そのため、佐太神社での神在祭は、「お忌祭」と呼ばれています。

 

明治30年頃、神在祭を行う日程は、旧暦10月から新暦11月に変更され、上忌がなくなり下忌のみ執り行うことになったとのことです。

 

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【従来】

旧暦10月11日から25日までの15日間

◆「上忌」旧暦10月11日から17日(準備期間)

◆「下忌」旧暦10月18日から25日

10月18日:神迎祭

10月25日:神等去出祭

 

【現在】

下忌のみ執り行われています。

◆新暦11月20日:神迎祭

◆11月25日:神等去出祭

◆11月30日:止神送(しわがみおくり)神事

神等去出神事でお帰りにならなかった神々をお送りする神事です。 

 

■11月20日(新暦)20時~ 佐太神社(さだじんじゃ)での『神迎祭』

©ANAHITA STYLE
©ANAHITA STYLE

20時。直会殿内では修祓の祝詞が奏上されます。神官、そして境内を祓い、参列者もお祓いを受けます。

一通り祓い終わり、境内の灯りが落とされます。直会所から神官たちが参進されます。

入口前で祝詞が奏上された後、神官は入り口から境内に入っていきます。真ん中の正中殿、向かって右の北殿、そして左の南殿前で祝詞を奏上されます。

祝詞は全て「秘音」。聞こえません。最後に南殿脇で四方拝をなされ、社殿前から下がられます。

最後に結界の端の青木が結ばれます。これで神送りまで、結界の中には宮司さえも入る事がありません。社殿後ろの山からこの結界までの空間が神様の領域なのだそうです。(ANAHITA STYLEより)

 

■11月25日(新暦)20時~ 佐太神社(さだじんじゃ)での『神等去出祭(からさでさい)』

©marukome

 

佐太神社に参集した神々は、日本海が見渡せる神目山(かんのめやま)から舟に乗って旅立つとされています。

神社から北西約2キロの場所にある、日本海を望む神ノ目山(かんのめやま)に祭場(高天原とも呼びます)があります。

 

その祭場に、「池」と呼ばれる小さなくぼみがあり、海につながっているとされています。そこに土幣(つちべい)12本を円すい状に立て、しめ縄で八重に巻く。神事では池に神籬(ひもろぎ)を乗せた小舟を浮かべ、神々の旅立ちを見送るといいます。このとき齋主は秘音で「カコ※」と三度唱えます。すると、神領の小鳥が3羽死に、御舟を導くという古い言い伝えがあるとのことです。

(※「カコ」とは船の漕手、もしくは海鳥のことです。)

 

佐太神社の「神等去出祭」についてはこちらをご覧ください。 

 


■佐太神社(さだじんじゃ)とイザナミノミコトのお墓

イザナミが葬られた「比婆山(ひばやま)」から遷座したものとされています。

■比婆山(ひばやま)~イザナミノミコトの墓所(安来市伯太町)~

「古事記」によりますと、「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」とあります。 

 


■佐太神社(さだじんじゃ)のご本殿「三殿並立」

 

建造物としては、本殿は「三殿並立」という正殿、北殿、南殿が並立した珍しい造りとなっています。いずれも「大社造」です。佐太神社本殿三社は国指定重要文化財になっています。

  

【ご本殿(三殿)に祀られている12柱のご祭神】

 

◆「正殿」

【主神】佐太大神(さだのおおかみ)

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

伊弉冉尊(いざなみのみこと)

事解男命(ことさかおのみこと)

速玉之男命(はやたまおのみこと) 

 

◆「北殿」

天照大神(あまてらすおおかみ)

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 

◆「南殿」

素戔嗚尊(すさのおのみこと)

秘説四座(ひせつよんざ) 

 


■佐太大神(さだのおおかみ)について

~出雲國における最も尊く、古い大神のうちの一柱~

 

「佐太大神」は、『出雲国風土記』に登場し、神魂命(かみむすひのみこと)の子の枳佐加比売命(きさかひめのみこと)を母とし、神社から6kmほど北東にある海食洞・加賀の潜戸(かかのくけど)で誕生したと伝えられています。

※父は麻須羅神(ますらかみ)

 

出雲の国には『大神』と呼ばれる4柱の神がおいでになり、杵築・熊野・能義、そしてこのこの佐太大神が出雲4大神とされています。

古くから導きの神、道開きの神、福の神、長寿の神、交通・海上守護の神、地鎮の神として信仰されてきました。

 

神名の「サダ」の意味には、「猿田=サダ』説、「狭田国(さだのくに)」説、柳田国男による「岬」説があります。

 

加賀の潜戸(かがのくけど)は、佐太大神(さだのおおかみ)がお産まれになった処です。

大神がお産まれになろうとしていた時、弓矢がなくなった。その時、母である 枳佐加比売命(きさかひめのみこと)は、「わたしの生んだ子が 麻須羅神(ますらかみ)の子であるなら、亡くなった弓矢よでてきなさい」と祈願なさいました。その時、角つのの弓矢が流れ出てきました。これを見た母は「これはわたしの弓矢ではない」とおっしゃって投げ捨てられました。すると今度は黄金の弓矢が流れ出てきました。母はそれを手にすると『なんと暗い窟(いわや)であることか』とおっしゃって金の弓矢で窟(いわや)を射通されました。すると、どうしたことだろう。暗い窟が光り輝いたのです。」(松江観光協会HP「出雲の国神話」より)

 

■加賀の潜戸(かがのくけど)

~佐太大神(さだのおおかみ〉の誕生の地~

 

日本旅マガジンより

 

小泉八雲「これ以上に美しい海の洞窟は、そう考えられるものではない」(『知られぬ日本の面影』潜戸-子供の亡霊岩屋=In the Cave of the Children’s Ghosts)

島崎藤村「海の女神の住居であったということも、あながち誇張とのみは思われない」(『山陰土産』)

   

【加賀神社】

加賀港近くにある加賀神社はかつて潜戸大明神と称した古社で、加賀の潜戸から現在地に遷座したと伝えられます。

潜戸(くけど)そのものがご神体であったことがわかります。 

 


■佐陀神能(さだしんのう)

~全国で一番数が多い出雲流の神楽の源流~

「佐陀神能(さだしんのう)」は、佐太神社の祭礼「御座替祭」(ござがえまつり)に合わせて執り行われる神事舞です。「七座(しちざ)」、「式三番(しきさんばん)」、「神能(しんのう)」の3部で構成されています。

※「御座替祭」は、本殿や摂社末社18座のご座を新しい物に取替える祭りです。佐太神社の祭事の中でも重儀とされ、一年ごとの遷座祭ともいえる祭です。

  

佐陀神能(さだしんのう)の起こりは、江戸時代初期の慶長13年(1608年)頃に、佐太神社の神官が能楽の形式を京から持ち帰り、それまであった「七座の舞い」に能楽の形式を取り入れて創作されたといわれています。猿楽の影響も見られます。

  

佐陀神能(さだしんのう)「出雲流神楽の源流」とも呼ばれ、全国各地に伝わる里神楽に大きな影響を与えたと言われています。

芸能史的に高い価値を持つものとして、国の重要無形民俗文化財に指定され、2011年11月27日にユネスコ無形文化遺産に登録決定されました。

 

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◆9月24日の御座替祭20時~

「七座(しちざ)」

※「七座」は佐太神社で行われていた昔ながらの神楽です。神職が直面(ひためん)で、鈴や剣など、神霊が依り憑く採物(とりもの)を持って7曲の舞が演じられます。

 

◆9月25日の例大祭後、19時~深夜まで

御座替祭を無事終えたことを祝して「式三番」と「神能」が奉納されます。

※能形式の神楽です。

①祝言舞の「式三番」(しきさんばん、能では「翁」と呼ばれます。)

「神能」(着面による古事記・日本書紀を題材とした神話劇)

  

「佐陀神能(さだしんのう)は、能に近い神話劇としてとらえていただいた方がわかりやすいのではないかと思われます。歌舞伎や能の所作と流れを取り入れて、佐太神社で行われていた昔ながらの神事としての神楽や祭りと融合したものではないでしょうか。」

(神楽とわたしたちのくらしHP「出雲流の神楽」より)

 


◆万九千神社(まくせのやしろ)での『神在祭』

~八百万の神々は、万九千神社で直会をした後、それぞれの国に帰ります~

 

万九千神社は、出雲に集結された八百万神が最後に立ち寄られる神社と言われています。

「直会=なおらい(神々の宴会)」の後、旧暦10月26日に神々はそれぞれの国に戻られます。

 

■万九千神社(まくせのやしろ)のご由緒

「不動の霊地」とされる鎮座地周辺は、古代、出雲国出雲郡神戸郷(いずもぐんかむべごう)と呼ばれていました。

神戸(かむべ)とは、熊野大神と杵築大神の御神領のこと。

水路と陸路における交通の要衝として、また斐伊川(ひいがわ)下流域に広がる稔り豊かな大地の鎮めとして、重要な祭場として今に至っています。

 

万九千社(まくせのやしろ)の創祀、創建は定かではなく、奈良時代に編まれた『出雲国風土記』や平安時代の『延喜式』にみえる「神代(かむしろ)社」、「神代神社」が、のちの「万九千社(まくせのやしろ)」にあたると伝えています。少なくとも約1300年前には、その歴史をさかのぼることができます。

中世になると、当社は「神立(かんだち)社」(鎌倉時代頃)や「神達(かんだち)社」(安土桃山時代)と称されていました。

近世になると、「神立大明神」、「万九千大神」などと称され、明治維新以降は、立虫神社(旧村社)の境内社(旧無格社)、「万九千社(まくせのやしろ)として祭られています。

 

現在の神殿は、平成26年10月10日に明治11年以来、136年ぶりにお建て替えのうえ正遷宮されたものです。

(万九千神社HPより)

 

立虫神社は、出雲市斐川町併川地区の氏神さま、鎮守さまとして、地元の神立、千家に住む人々から親しみ深く厚い信仰が寄せられているお宮です。もとは斐伊川の中洲に鎮座していましたが、江戸時代前期、寛文10年(1670年)頃、洪水の影響により、現在の万九千社境内に遷されました。万九千神社と同じ境内にあります。

 

■万九千神社(まくせのやしろ)での『神迎祭』旧暦10月17日

©万九千神社
©万九千神社

17日の早朝、神迎えにあたる龍神祭(りゅうじんさい)を、宮司一人が、神社近くの斐伊川(ひいがわ)の水辺で秘儀として行う。そして、神籬(ひもろぎ)にやどられた神々を神社へとお遷(うつ)しする。この日をお忌み入り(おいみいり)と呼び、以後、境内周辺では、奏楽をはじめ歌舞音曲の一切を禁止する。

祭場の静粛と清浄を保ちながら、26日の例大祭、神等去出祭(からさでさい)を迎える。

大祭前夜の25日には、神職のみで前夜祭を行う。この晩、宮司等が社殿内に寝泊まりする「お籠もり」も行う。

(万九千神社HPより)

 

■万九千神社(まくせのやしろ)での『神等去出祭(からさでさい)』旧暦10月26日

26日夕刻、まずは、宮司家伝来の神楽を伴う湯立神事が境内に忌み火で湯釜を沸かして行われます(平成29年再興)。

これは、神々の旅立ちを前に、祭場、祭員、参列者はもとより、神々と人々の前途にまつわる全てのモノ、コトを清々しく祓い清めるものです。そして八百万神の御神威が弥栄に栄え益すことを祈ります。

 

続いて浄闇の中、御神前では、八百万神に出雲からのお立ちの時が来たことを奉告する「神等去出神事」(からさでしんじ)が厳かに行われます。神事では、宮司が幣殿の戸を梅の小枝「お立ち」と三度唱えながら叩く特殊な所作をします。

 

近世の記録や伝承によれば、この神等去出祭は、かつて神社の南方約数十メートルの地点にあった、屋号「まくせ」と呼ぶ民家の表座敷で湯立神事を伴うものだったとか、古くは社頭の東南に仰ぎ見る神名火山(現仏経山)の麓で火を焚いて神々をお送りしたとも伝えられています。

(万九千神社HPより)

 


◆金鑚神社(本庄市)での「神迎祭」

旧暦の10月(神無月)に出雲大社に集まっていた神々を、旧暦の11月(霜月)の1日午前0時に神社でお迎えします。

今年の神迎祭は、12月15日(旧暦11月1日)でした。