今年は郷土の偉人『塙 保己一翁』没後200周年記念の年です。

~カメラもレコーダーもない時代に、「世のため、後のため」日本の壮大な全歴史文化をデータベース化した天才。たとえばそのおかげで、小笠原諸島の帰属問題を解決し、荻野吟子を女医第一号へと導いた等、数々の記念碑的な功績がある~

 

 

2017年6月23日、Googleの検索ロゴが塙保己一翁になっていました。

塙保己一翁の偉業に敬意をはらい、生誕271周年の日を記念してロゴが作られたのだと思います。

※塙保己一翁は、延享3年5月5日(1746年6月23日:新暦)に生まれて、文政4年9月12日(1821年10月7日:新暦)に逝去されました。

 

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以下は、塙保己一翁のGoogleにおける説明文です。

 

「ヘレン・ケラーが1937年に塙保己一の記念館を訪れたとき、尊敬する学者について、「彼の名前は水の流れのように世代から世代へと受け継がれると信じています」と語った。確かに、保己一の遺産の痕跡は、今日多くの分野で見つけることができます。 1746年に武蔵の国本庄で保己一は生まれました。彼の生家はつつましい家でした。彼の影響力は川のように、法律、政治、経済、歴史、そして医学にまで及んでいます。生前中でさえ、保己一の影響は広範囲に及んだ。彼は国学研究(文献学と哲学)の500冊以上のコレクションである群書類従を編集することで最もよく知られています。後年、保己一は和学講談所を設立し、熱心な生徒たちに日本の古典を教えました。保己一の初期の人生は容易ではありませんでした。7歳で、彼は視力を失いました。しかし、彼の驚くべき記憶力は地元の学者を感動させ始め、研究生活を追求するように促され、最終的には国内で最も学んだ男性の一人になりました。塙保己一の遺産は、粘り強く持続的な学習、献身的な教育、そして忍耐力であり、日本の学問と文化の中で今も生き続けています。」

 



塙 保己一翁の生涯と偉業

延喜3年(1764年)5月5日~文政4年(1821年)9月12日

 


◆塙保己一の偉業を紹介する動画

~共生の精神が生んだ偉人 全盲の国学者 塙 保己一~

 

(埼玉県公式チャンネル動画より)

 

 【リンク】

■塙保己一史料館ホームページ

総検校塙保己一先生遺徳顕彰会(そうけんぎょう はなわほきいちせんせい いとくけんしょうかい) 

■本庄市ホームページ 

■埼玉県ホームページ

■塙保己一賞 

※埼玉県では、平成19年度から塙保己一の精神を受け継ぎ、障害がありながらも社会的に顕著な活躍をしている方、障害のある方のために貢献をしている方・団体に「塙保己一賞」を贈呈しています。

 


◆塙 保己一翁の生涯

生涯をかけて6万冊ともいわれる文献を暗記。『世のため、後のため』の精神のもと、34歳で編纂を志し、41年の歳月を経て、666冊にも及ぶ群書類従を完成させた江戸時代の盲目の国学者・塙保己一翁~

 

塙保己一の銅像の画像

 

・延享3年(1746年)武蔵国児玉郡保木野村(ほきのむら[現 埼玉県本庄市])に生まれる

・7歳のとき、病気がもとで失明する

・11歳のとき、母を失う

・15歳で江戸に出て、検校:雨富須賀一(あめとみ すがいち)に入門する

・明和6年(1769年)歌学者:萩原宗固(はぎわらそうこ)の勧めで、晩年の賀茂真淵に学ぶ

・安永8年(1779年)34歳のとき、『群書類従』出版の決意をする

・寛政元年(1789年)立原翆軒(たちはらすいけん)の推薦で、彰考館で行われていた水戸藩による『大日本史』の校正に加わる

・寛政5年(1793年)48歳のとき、「和学講談所」を創設し、多くの弟子を育てる

 ※松平定信から「温故堂」の名をつけてもらう

・文政2年(1819年)74歳のとき、41年かけて『群書類従』(666冊)を完成させる

・文政4年(1821年)2月、盲人として日本で最高位の「総検校(そうけんぎょう)」に昇進

・同年9月に天命を全うする

 

 

埼玉県の三大偉人であり、本庄市の誇る「塙保己一翁」。塙保己一翁は、江戸時代後期に活躍した全盲の学者です。41年の時間を費やして、日本の古代から江戸時代初期にいたるまでの書物『群書類従』を集大成するという大偉業を成し遂げられました。また、多くの弟子を育て、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注がれました。塙保己一翁は、ヘレンケラーさん、渋沢栄一翁、荻野吟子さんなど、多くの人たちに敬愛されています。

 

 

母手縫いの「巾着」(塙保己一記念館所蔵) ※埼玉県指定文化財

本庄市HPより

保己一が江戸に出るときに背負ったと言われる「お宝箱」(塙保己一記念館所蔵) ※埼玉県指定文化財

本庄市HPより 

「塙保己一の生家」 ※国指定史跡

(埼玉県本庄市児玉町保木野325)

塙保己一史料館HPより

 


◆『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』編纂事業

~『群書類従』の版木 17,244枚 は、国の指定重要文化財になっており、現在、温故学会会館にて全て当時のまま保管されている

 

「群書類従の版木 17,244枚」(温故学会会館所蔵) ※国指定重要文化財

※文化遺産オンラインより

 

塙保己一は安永8年(1779年)34歳のとき、古書の散逸を危惧し、「各地に散らばっている貴重な書を取り集め、後の世の国学する人のよき助けとなるように」と群書類従の編纂を決意し、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓いました。

少量で散逸しやすいものを中心に、古代から江戸時代前期までのあらゆる貴重な文献を網羅し、法律・政治・経済・教育・道徳・宗教・社会・史学・文学・美術・音楽・言語・風俗・遊芸その他各分野にわたり、分類収録されています。

文政2年(1819年)74歳のとき、41年の歳月かけて、『群書類従』(666冊)は完成しました。日本で最初で最大の百科叢書でした。群書類従の版木は、温故学会が所蔵管理されています。 

 

 

「群書類従」という名前の由来は、中国の歴史書『三国史』の中の、『魏志』応劭伝(おうしょうでん)の一文にある、「五経群書、以類相従」によるものといわれています。「様々な典籍が混乱した状態にあるものを、類を以ってそれぞれ位置付ける」という意に解釈できます。

 

 

■『群書類従』の構成

群書類従の展示(塙保己一記念館)

※部門別に展示されているので、どの部門が多く編纂刊行されていたかわかりやすいです。

 

 

群書類従の収録文献数は1,277種で、それらを以下の25部門に分類し666冊にまとめられています。

 

【25部門】

神祇(じんぎ)・帝王(ていおう)・補任(ぶにん)・系譜(けいふ)・伝(でん)・官職(かんしょく)・律令(りつりょう)・公事(くじ)・装束(しょうぞく)・文筆(ぶんぴつ)・消息(しょうそく)・和歌(わか)・連歌(れんが)・物語(ものがたり)・日記(にっき)・紀行(きこう)・管弦(かんげん)・蹴鞠(けまり)・鷹(たか)・遊戯(ゆうぎ)・飲食(いんしょく)・合戦(かっせん)・武家(ぶけ)・釈家(しゃっけ)・雑(ざつ)

※「群書類従の収録文献一覧」は、Wikipediaの「群書類従」に掲載されています。 

 

 

■原稿用紙の起源となった版木

塙保己一翁は、群書類従の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させました。

現在の原稿用紙の基本様式となっています。

 

『群書類従』の版木1枚の大きさは、横470mm×縦230mm×高15mm、重さ 1.5kgです。

文字数は、縦20文字、横10行が2段で400字に統一してあります。

 

※塙保己一史料館ホームページより

 

 


◆和学講談所の設立

~寛政5年(1793年)、幕府に申請し設立された国学の研究施設。保己一翁は、ここで『群書類従』編纂プロジェクトを行い、多くの門弟を育てた~

 

 

塙保己一翁は、寛政5年(1793年)、江戸幕府の許可を受けて、和学の研究・教育機関『和学講談所』を設立しました。

和学講談所では、多くの門弟を育てるとともに、水戸藩から依頼された『大日本史』の校正をはじめ数々の史料編纂事業を行いました。

文政2年(1819年)には着手以来41年をかけて『群書類従(666冊)』の刊行が実現しました。

 

 

■和学講談所の場所

当初は麹町に開設されたが、後に「表六番町」(現在の東京都千代田区三番町)に移転しました。

嘉永年間(1850年頃)の地図(古地図 with Map Fanより)

 

 

■「塙検校(はなわけんぎょう)和学講談所跡」

(東京都千代田区三番町24)※現在は撤去されています

千代田区観光協会HPより 

 

 

■和学講談所の玄関に掲げられていた木額「温故堂」

 

和学講談所の校名は、保己一の依頼により松平定信が『論語』の「温故知新」からとって「温古堂」と名付けられました。

水戸藩主の水戸治保によって書かれ、保己一翁の弟子によって彫られました。

当初は「温故堂」と呼ばれましたが、次第に正式名称として「和学講談所」と呼ばれるようになりました。

 

 

■和学講談所復元図

塙保己一翁が幕府に願って設立した和学講談所の配置復元図。成沢福松図。

総検校塙保己一先生遺徳顕彰会ホームページより

 

「和学講談所模型図」(塙保己一記念館所蔵) ※各建物名は上記復元図をもとに加えさせていただきました。

 

 

■和学講談所内「天満宮」に掲げられていた社号扁額

(塙保己一史料館所蔵)※埼玉県指定文化財

 

■天満宮にかかっていた「軒丸瓦」

「天満宮の軒丸瓦(のきまるがわら)」 ※埼玉県指定文化財

本庄市HPより

塙保己一翁が和学講談所敷地内に勧請した天満宮にかかっていた軒丸瓦です。

塙保己一翁は、21歳のとき、父とともに京都の北野天満宮を詣でた際に、菅原道真を守護神と定めました。

 

 

■和学講談所から「東京大学史料編纂所」へ

~和学講談所は、江戸幕府が終焉を迎えるとともに廃止されたが、歴史研究分野『史料』に関しては、「東京大学史料編纂所」に引き継がれ、『大日本史料』の刊行という姿に形を変えて現在も引き継がれている~

「東京大学史料編纂所」(東京都文京区)

Wikipedia ©Daniel L. Lu (user:dllu) より

明治34年(1901年)から「東京大学史料編纂所」にて編纂・刊行され続けている『大日本史料』

UTokyo BiblioPlazaより

 

 

〈歴史分野の史料編纂事業は、東京大学史料編纂所へと継承された〉

1868年(慶応4年)和学講談所は、江戸幕府が終焉を迎えるとともに廃止されましたが、和学講談所が所蔵していた『史料』(歴史研究分野の編纂史料)は、明治政府の「修史局」を経て、「東京大学史料編纂所」へと引き継がれました。

東京大学史料編纂所では、明治34年(1901年)から現在まで『大日本史料』(日本史の史料集)の編纂と刊行事業が続けられています。

〈記述スタイルも継承〉

『大日本史料』の記述スタイルは、はじめに綱文(要約文)を記し、その後にその事項の史料(日記、歴史書、古文書など)を原文で引用するという形になっています。これは和学講談所の「史料」と同じものであり、塙 保己一翁の記述スタイルが今も研究の現場で生かされていることがわかります。

 

(かんな情報教育研究会「塙保己一資料室」より)

※かんな情報教育研究会の会長は、浅田進氏です。浅田氏には親子ともども大変お世話になっています。

 

 


塙 保己一翁の影響

 

 

◆ヘレン・ケラーの生きる支えとなった塙保己一翁

温故学会を訪問し、塙保己一のブロンズ像に手を触れるヘレン・ケラー

 

塙保己一が亡くなってから115年後の昭和12年(1937年)、ヘレン・ケラーは温故学会を訪れ次のように語りました。

私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされた育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。

先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう

※塙保己一史料館ホームページより

 

 


◆埼玉の三大偉人

~時代を異にして活躍した3人は実は意外なところで結ばれていた~

 

埼玉の三大偉人は、自らの障害を乗り越えて『群書類従』の編纂を成し遂げた塙 保己一(本庄市出身)、様々な企業の設立や育成に携わる一方で、多くの社会事業にも尽力し近代日本経済の礎を築いた渋沢 栄一(深谷市出身)、新たな分野に果敢に挑戦し、日本で最初の女性医師になった荻野 吟子(熊谷市出身)です。

お三方の偉業は一見関係の無いように思えますが、実は不思議な関係性がありました。

 

※埼玉ゆかりの三偉人については(PDF:1,349KB) 

※塙保己一パネル(PDF:2,381KB)

※渋沢栄一パネル(PDF:2,808KB)

※荻野吟子パネル(PDF:1,293KB) 

  


◆渋沢栄一翁と「温故学会」

~埼玉の偉人・塙保己一翁の偉業を顕彰するために、渋沢栄一翁らが中心となって明治42年(1909年)設立された~

 

■温故学会

 

渋沢栄一翁は現在の深谷市に生まれた大実業家です。第一国立銀行をはじめ、鉄道、製紙、造船など500社にも上る企業の設立に関わり、また、福祉や教育など約600もの社会事業にも尽力されました。社会事業のうちの一つが「温故学会」の設立でした。

温故学会は、明治42年(1909年)、塙保己一翁の偉業を顕彰するため、渋沢栄一翁、井上宮中顧問官井上通泰(いのうえみちやす)、文学博士芳賀矢一(はがやいち)、保己一曾孫塙忠雄(はなわただお)の4氏により温故学会が設立されました。

 

「温故学会」によって、塙保己一翁の残した文化遺産が現在も伝えられています。  「温故学会」の現在の理事長は、齊藤幸一氏(第4代理事長)です。

 

「温故学会」について詳しくはこちらへ

 

 

■温故学会歴代理事長

 

初代(1909年~):塙忠雄氏(保己一翁の曾孫)

第2代(1923年~):斎藤茂三郎氏(堀忠雄氏に師事。1927年「温故学会会館」を設立)

第3代:(1963年~):斎藤政雄氏

第4代:(2010年~):齊藤幸一氏

 

「温故学会」事業内容と歴史より

 

 

■温故学会会館(国の登録重要文化財)

「温故学会会館」 ※国登録有形文化財

(東京都渋谷区東2丁目9-1)

塙保己一史料館HPより

 

温故学会会館は、『群書類従』の版木を管理・保存する目的で、塙忠雄の後を継いだ斉藤茂三郎第2代温故学会理事長が、渋沢栄一翁、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て建てられました。大正15年(1926年)8月に着工され、昭和2年(1927年)3月に完成した。会館の設計・施工は清水組(現・清水建設)によるものです。

公益社団法人温故学会により運営され『群書類従』などの版木約2万枚の保存・展示を行っています。

 

温故学会会館が、現在地(渋谷区東)に建てられた経緯と、渋沢栄一翁とのかかわりについて、第4代理事長の齋藤幸一氏は以下のように述べられています。

「初代理事長の塙忠雄が亡くなった後、忠雄に師事していた私の祖父・斎藤茂三郎が第二代理事長に就任しました。そして『群書類従』の版木を安全に保管するという遺志を継ぎ、渋沢栄一に協力を仰いで、昭和2年に皇室御料地であった現在地に会館(塙保己一史料館)を建設しました。この辺りは、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、國學院大學博物館、氷川神社、金王八幡宮といった名所もある都内有数の文教地区で、高台に位置するため水害の心配もありません。そうしたことから、この場所が文化財を保管するのにふさわしいということになったんです。」(渋谷区広報「塙保己一が『群書類従』を通じて現代に伝えるメッセージ(PDF701KB)」より)

 

齋藤理事長は、「文化財はただ“寝かせておく”ものではなく、多くの人に見て知ってもらうことで、時代を超えて“生かされていく”ものです。塙保己一のことを知らないという方も大歓迎ですので、ぜひ気軽に来館して、『温故知新』を体感してみてください。」と述べられています。(同書より)

 

■温故学会会館開館式 昭和2年(1927年)のときの記念撮影

■渋沢栄一の書「温故知新」(温故学会所蔵)

塙保己一翁の偉業を顕彰する温故学会に、渋沢栄一翁が揮毫しました。

栄一翁は郷土の偉人・塙保己一翁を敬愛されていました。

 

※『埼玉県立歴史と民俗の博物館大河ドラマ特別展 青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』パンフレットより

 

 


◆小笠原諸島と塙保己一翁

~和学講談所が保存していた記録によって、列強諸国は領有主張を放棄し、小笠原諸島を守ることができた~

 

1786年(天明6年)林子平「三国通覧圖説」無人島ノ圖(国立国会図書館所蔵)

©http://boninsmile.com/2019/05/20/history_to_bonin/

 

小笠原諸島が、明治9年(1876年)、国際的に日本への帰属が認められた背景にも、塙保己一の功績がありました。

江戸時代より、日本と列強諸国(アメリカ、ロシア、イギリス)の間で小笠原諸島の領有権を巡っての問題が生じていました。

その解決策となったのが、塙保己一が創設した和学講談所に保管されていた小笠原諸島の「記録」です。

 

和学講談所には、「小笠原島は文禄2年(1593年)、小笠原民部少輔貞頼(小笠原貞頼)が高麗より帰朝の際に発見した島で、以降、小笠原島と呼ぶ。当時この島には住居はなく、そのため無人島とも呼ばれるようになった・・・」と記された資料が残っていました。

塙保己一が設立した和学講談所に保存されていたその記録によって、列強諸国は領有主張を放棄し、小笠原諸島を守ることができたのでした。 

※埼玉県HP「塙保己一と小笠原諸島」

 

 


◆荻野吟子を救った塙保己一翁

~令義解によって、女医第一号への道が開かれた~

 

荻野吟子(おぎのぎんこ)が日本で最初の女性医師になるのを手助けしたのも塙保己一でした。

 

荻野吟子は嘉永4年(1851年)現在の熊谷市俵瀬に生まれました。

自分の病の経験から女性医師の必要性を痛感し、医師になることを決意しました。

しかし、当時、女性には医師の道は閉ざされていました。

医術開業試験の願書を前例がないという理由で、何度も拒絶されていた吟子を救ったのは、保己一がまとめた平安時代の法律の解説書「令義解(りょうのぎげ)」でした。

 

荻野吟子は、この「令義解」に日本での女医の記載があることを知り、日本で最初の女性医師への道が開かれたのでした。

 

 

【令義解(りょうのぎげ)】

平安時代の法律の解説書「令義解」には、女医に関する規定が記載されていた

 

「令義解」(塙保己一記念館より)

「令義解」には「医疾令」という法律が収められており、女医に関する規定が記載されていました。(塙保己一記念館より)

 

※荻野吟子記念館HP

※埼玉県HP「荻野吟子を救った令義解」 

  


「塙 保己一翁の偉業」顕彰事業

 

 

◆市民による群読劇『塙 保己一物語』の上演

YouTube 群読劇「塙保己一物語」児玉公演より

 

本庄市では、2016年から2018年の3回にわたって群読劇「塙保己一物語」が上演されました。この群読劇は、市民による手作り劇です。(「塙保己一物語劇化実行委員会」会長:竹並万吉氏、脚本:根岸久氏、潤色・演出:志村智雄氏、撮影・編集:田中学氏)

 

2015(平成27)年に発足の「塙保己一物語劇化実行委員」が中心となって、本庄市民文化会館、児玉文化会館セルディ等で、上演されてきました。昨年2020年2月には、『子ども劇団』が立ち上げられました。

 

 

竹並会長は「JR上越新幹線・本庄早稲田駅前には江戸へ旅立つ15歳・塙保己一少年の像がある。塙保己一先生は、言葉、視力、聴力を失った三重苦のヘレン・ケラーにとって幼少のころから心の支えだった。米アラバマ州にあるヘレン・ケラーの生誕地『アイビー・グリーン』では生誕日の6月27日に合わせて毎年6・7月に野外劇場で「The Miracle Worker(奇跡の人)」という演劇が上演されている。本庄でも塙保己一先生の生誕日5月5日に小中学生、保育園児で構成された子ども劇団による「群読劇・塙保己一物語」を毎年上演したい」

齋藤邦明県議は、「上田前県知事も群読劇に参加されており、県内に広く知れ渡ってきている。今後、日本はもとより世界に塙保己一先生の偉業を発信していってほしい。さらに進化した群読劇ができることを期待している」と述べられています。(2020年2月18日本庄経済新聞より) 

 

「塙保己一物語」制作奮闘記

塙保己一翁の偉業顕彰活動にご尽力されている田中学氏による動画です。

 

 

◆平成28年(2016年)塙保己一翁の少年像建立

~【塙保己一翁没後195周年記念】15歳で江戸へ旅立ったときの塙保己一「旅立ちの朝」 少年像が建立されました~

 

塙保己一(辰之助)少年は、宝暦10年(1760年)に旅立ちました。

背中には「お宝箱」(身の回りの物を入れた素麺箱)の風呂敷包を背負い、帯には、母の形見の「巾着」をつけています。

平成28年(2016年)、塙保己一誕生195周年と本庄市・児玉町合併10周年を記念して、「総検校塙保己一先生遺徳顕彰会」によって、塙保己一翁の少年銅像が建立されました。

 

 


 

 

◆塙保己一翁没後200周年記念事業

広報ほんじょう4月号より

「温故学会」代表理事の齊藤幸一氏の文章「塙保己一検校(けんぎょう)没後200年に寄せて」が掲載されています。

 

◆埼玉県本庄市の情報誌『広報ほんじょう』では、塙保己一翁没後200年を記念して、塙保己一翁の「不撓不屈(ふとうふくつ)」の生き方を知り、残した功績を学ぶために、『塙保己一の生涯』が一年をかけて連載されます。

『広報ほんじょう』はこちらへ

 

 

■「塙保己一没後200周年記念」ロゴマーク

デザインの色は、保己一が鮮明に記憶していたという「ほおずきの赤」「スミレの紫」「ゆずの黄色」の3色をモチーフとしているとのことです。

本庄市HPより

 

 


塙 保己一翁ゆかりの場所

~「温故学会会館」・「塙保己一翁旧宅」・「龍静寺」・「塙保己一記念館」・「塙保己一の墓」・「塙保己一記念碑」~

 

◆「温故学会会館」(渋谷区)

竣工94年目を迎える歴史的建造物】大正12年(1923年)の関東大震災後、『群書類従』の版木を管理・保存する目的で、渋沢栄一翁もかかわりながら建設された

 

「温故学会会館」※国登録有形文化財

塙保己一史料館HPより

 

住所:東京都渋谷区東2丁目9-1

開館時間:午前9時~午後5時まで

休館日:土・日(祝は問い合わせ必要)

 

「温故学会会館」は、『群書類従』の版木を管理・保存する目的で、塙忠雄の後を継いだ斉藤茂三郎第2代温故学会理事長が、渋沢栄一翁、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て建てられました。大正15年(1926年)8月に着工され、昭和2年(1927年)3月に完成しました。

会館の設計・施工は清水組(現・清水建設)によるものです。

公益社団法人温故学会により運営され、『群書類従』などの版木(国指定文化財)約2万枚の保存・展示を行っています。

 

 

◆塙保己一翁の旧宅(生家)

「塙保己一の生家」 ※国指定史跡

塙保己一史料館HPより

(埼玉県本庄市児玉町保木野325)

※現在も住居としてお住まいになられているため、敷地内には入れません。外観のみの見学となります。

 

 

◆塙保己一翁が幼少期よく遊び、よく学んだという「龍清寺」

「龍清寺」(埼玉県本庄市児玉町保木野387)

埼北なびより

7歳の時に失明した保己一翁は、家の近くにある龍清寺でお寺の和尚さんなどから、字を教えてもらったり、本を読んでもらったりしたようです。境内には樹齢約300年の斜めに生えているカヤの樹があります。その形がまさに龍神が飛び立とうとしている様に似ていることから、「飛龍のカヤ」とも呼ばれています。本庄市指定天然記念物になっています。

龍清寺は、「児玉三十三霊場27番札所」です。境内に三日月不動尊(不動堂)があります。

 

 

◆塙保己一記念館

記念館では、記念館では「塙保己一の遺品及び関係資料」(埼玉県指定文化財)を収蔵展示し、保己一の残した偉業について紹介しています。

 

【住所】

〒367-0298

埼玉県本庄市児玉町八幡山368(アスピアこだま内)

午前9時~午後4時半

休館日:月曜日

 

本庄市HP「塙保己一記念館」

 

 

塙保己一記念館前の画像

■塙保己一記念館リーフレット

■関連書籍

『本庄市の人物誌1.盲目の国学者 塙保己一の生涯 』

※上記刊行物は「塙保己一記念館」にて購入(500円)できます。

※PDFファイルはこちらからダウンロード(11.7MB)できます。

 

 

◆塙保己一翁の墓

■四谷愛染院

寺「四谷愛染院(新宿区若葉)」にある塙保己一翁の墓 ※新宿区指定史跡

 

塙保己一翁の墓は最初、江戸四谷「安楽寺」にありましたが、明治30年(1897年)に廃寺となったため、愛染院(あいぜんいん)に移されました。

墓碑銘は「前総検校塙先生之墓」。法号は「和学院殿心眼智光大居士」。

 

塙保己一史料館HPより

 

■塙保己一公園(本庄市児玉町保木野)

「塙保己一公園」にある塙保己一翁のお墓

(埼玉県本庄市児玉町保木野322)

墓碑には「和學院殿心眼智光大居士 うき島か原にて 言の葉のおよはぬ身には目に見ぬも なかなかよしや雪のふしの嶺 保己一」と印刻されています。

 

 

塙保己一翁は没後文政5年(1822年)、江戸四谷の安楽寺に葬られました。その後明治30年(1897年)、隣接する愛染院(あいぜんいん)に改葬された時に、生家の荻野家の方がお墓の土を故郷児玉に持ち帰り墓所としました。

その後、明治44年(1911年)に、児玉郡教育委が主体となって別の場所へ移転しましたが、老朽化したことから、平成24年(2012年)没後190周年記念事業として現在の場所(塙保己一公園内)に移転しました。(お墓移転の経緯についてはこちらをご覧ください。)

 

お墓の右隣には、渋沢栄一翁が揮毫した「塙保己一没後100周年記念碑」があります。

 

 

◆塙保己一翁没後100周年記念碑(渋沢栄一翁揮毫)

塙保己一公園内にある「塙保己一没後100周年記念碑」 (大正12年4月12日建立)

(埼玉県本庄市児玉町保木野322)

題字『塙先生 百年祭記念碑』渋沢栄一翁によって揮毫されています。

 

■説明板「塙先生百年祭記念碑について」

「塙先生百年祭記念碑について

総検校塙保己一先生の没後百年にあたる大正十年(一九二一)、記念式典が盛大に行われました。この際、塙先生の偉大な業績を記した記念碑を建立することが計画され、全国から寄附を募り、大正十二年四月十二日に、この塙先生百年祭記念碑が建立されました。なお、題額は渋沢栄一、撰文は東京帝国大学名誉教授芳賀矢一、ともに塙先生の業績を高く評価し、温故学会の設立を行った人物によるものです。 総検校塙保己一先生遺徳顕彰会」

 

 

 

動画「塙保己一物語」

 (本庄ライオンズクラブ様動画)

 

 

 

「マンガ 塙保己一」

「マンガ 塙保己一 目で聞き、耳で読んだ」(著者: 花井泰子 挿絵:しいやみつのり)

塙保己一翁の偉業が心にしみるとてもいい本でした。