塙保己一記念館に行ってきました。(塙保己一翁と天神信仰・般若心経・香の根岸さんの活動の紹介について)

 

 

 

 

 

 

 

今年は塙保己一翁没後200周年記念の年です。

塙保己一翁(1746年~1821年)は、武蔵国児玉郡保木野村(現:埼玉県本庄市児玉町保木野)生まれの江戸時代を代表する盲目の国学者です。 

 


塙保己一翁の偉業

◆『群書類従』(666冊)の編纂・刊行

群書類従の展示(塙保己一記念館)

※部門別に展示されているので、どの部門が多く編纂刊行されていたかわかりやすいです。

 

塙保己一翁は、安永8年(1779年)34歳のとき、『群書類従』出版の決意をし、41年という長い歳月をかけて、文政2年(1819年)74歳のとき、『群書類従』(666冊)を完成させました。

 

現在、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。

 

「群書類従の版木 17,244枚」 ※文化遺産オンラインより

「群書類従の版木 17,244枚」は国指定重要文化財となっており、現在温故学会会館に所蔵されています。

 


◆和学講談所

寛政5年(1793年)48歳のとき、塙保己一翁は、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所」を創設し、多くの弟子を育てました。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注ぎました。

 

和学講談所の画像

 

 

「和学講談所模型図」(塙保己一記念館所蔵)

 

和学講談所屋敷平面図(塙保己一記念館所蔵)

裏六番町にあった和学講談所の平面図。後に手狭になったため、表六番町に移転しました。

 

和学講談所の場所を表す江戸図の画像

明和8年(1771年)江戸図(塙保己一翁記念館所蔵) 

塙 保己一翁は、四谷「西念寺横丁」の雨富検校屋敷に弟子入りします。

四谷周辺には、保己一が通った『平河天満宮』や、『和学講談所』があります。

 


「当道座」について

~厳しい階級社会の「当道座(とうどうざ)」には、72もの階級があり、最高位の「総検校」にまで上り詰めることのできる者はほんの一握りでした。塙保己一翁は、「当道座」での修業を積み苦労を重ねながら「総検校」となりました。

 

7歳で失明した塙 保己一翁は、15歳で江戸に出て、「当道座(とうどうざ)」雨富須賀一(あめとみすがいち)検校に入門しました。

 

「当道座」とは、盲人の職業団体(自治的組織)です。江戸時代には、幕府からも認められ、寺社奉行の支配下に置かれました。

当道座の官位は、大きく分けると、最高位の「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」の四官(しかん)がありました。「四官」はさらに「十六階」、「十六階」はさらに「七十三刻(きざみ)」に細分化されており、73もの階級がありました。

 

雨富検校のもとに入門した塙保己一翁は、名を千弥(せんや)と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めました。ところが、生来不器用で上達せず、加えて、座頭金の取り立てがどうしてもできず、絶望して「牛が淵」で自殺しようとしました。自殺する直前で助けられた保己一翁は、雨富検校に学問への想いを告げたところ、「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められました。

 

学問の道に進んだ保己一翁は、雨富検校の隣家に住む旗本・松平乗尹(まつだいらのりただ)から学問の手ほどきを受け、さらに乗尹はその向学心に感心して、国学・和歌は萩原宗固(はぎわらそうこ)を、法律は山岡浚明(やまおかまつあきら)を紹介し、文学・医学・律令・神道など広い学問を学ばせてくれました。

 

18歳で「衆分(しゅうぶん)」となり、名を保木野一に変え、30歳で「勾当(こうとう)」に昇進。雨富検校の本姓である「塙」を称することを許され、「塙保己一」と名乗ります。34歳のとき『群書類従』の出版を決意します。38歳で「検校(けんぎょう)」に昇進。74歳のとき、『群書類従』は、41年の歳月をかけて完成しました。

そして遂に、76歳のとき、塙保己一翁は当道座の最高位である「総検校(そうけんぎょう)」となりました。

 

当道座は、入門して総検校になることのできる者はほんの一握りで、多くは、座頭(衆分)で終わりました。そのような厳しい階級社会の中であっても、塙保己一翁は、雨富検校をはじめ多くの人に支えられながら、『世のため、後のため』の精神と驚異的な意思の強さで、偉大な事業を成し遂げられました。 

 


◆当道座の組織階級概念図

当道座の組織階級概念図

◆四官・十六階・七十三刻(きざみ)

当道座の画像
当道座の画像

(出典)加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,p.180~181,p.197/当道HPの中の「七十三刻」より

※当道の階級は全部で73の刻目に細分化されています。 そのうち、名称を持っている階級は67です。残る6刻が何であるかについては諸説あるようですが、「正検校5刻」(「十老」のうち上位から二老・三老・四老・五老・六老の5名)と「総検校」(一老)を加えて合計73刻とするのが、従来広く唱えられてきたそうです。十老とは、「晴の検校」に昇進した者の上位10人のことです。最高位の一老が「総検校」です。 

 

「封事状(ふうじじょう)告文(つげぶみ)」(塙保己一記念館所蔵)※埼玉県指定文化財

 

天明3年(1783年)に塙 保己一翁が検校に昇進したときの告文。

宛名は「花輪検校」となっていますが、耳で聞いた筆者が間違えたものと思われます。

 


塙保己一翁と天神信仰について

◆北野天満宮(京都市上京区)

「北野天満宮 社殿」※国宝

北野天満宮HPより

北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社です。天暦元年(947年)に創建されました。

平安時代に学者・政治家として活躍した「学問の神様」菅原道真公をお祀りしています。天神さん・北野さんとも呼ばれ、福岡県太宰府市の「太宰府天満宮」とともに天神信仰の中心で、全国各地に勧請が行われています。学問に勤しむ多くの学生が参拝に訪れます。

創建以来、たびたび火災にあっており、現在の社殿は、慶長12年(1607年)豊臣秀吉によって造営されたものです。八棟造、権現造りと称され、国宝に指定されています。

 

『都名所図会6巻・北野天満宮』 ※北の天神より

 

◆『北野天満宮』と塙保己一翁

 

塙保己一翁は、学問の神であるとされた菅原道真公を篤く崇敬していました。

 

■明和3年(1766) 21歳のとき、 雨富検校より旅費を受け、父とともに伊勢神宮に参り、ついで京都・大阪・須磨・明石・紀伊高野山等をめぐり60日ほど旅をします。この時、京都の『北野天満宮』に参詣し、以後、自らの守護神と定めました。

「伊勢より京都にのぼりて、神社仏寺などまうでありきけるが、北野にまゐりてことにたうとく思はれければ、永く一身の守護神とせられき」

『温故堂塙先生伝』(中山信名著)

 

その後も塙 保己一翁は何度も北野天満宮を訪れています。

 

■1779年(安永8年)、34歳のとき、菅原道真を祀る京都の「北野天満宮」『群書類従』の刊行を誓いました。

これは、「各地に散らばっている貴重な一巻、二巻といった書を取り集め、後の世の国学びする人のよき助けとなるよう」にとの保己一の考えによるものでした。

 

■寛政5年(1793年)48歳のとき、「和学講談所」を創設したとき、その敷地内に『天満宮』を勧請しています。

 


◆和学講談所内「天満宮」に掲げられていた社号扁額

(塙保己一史料館所蔵)※埼玉県指定文化財

 


◆天満宮にかかっていた「軒丸瓦」

「天満宮の軒丸瓦(のきまるがわら)」(塙保己一史料館所蔵) ※埼玉県指定文化財 

塙保己一翁が和学講談所敷地内に勧請した天満宮にかかっていた軒丸瓦です。

 


◆菅原道真公を祀る『平河天満宮』への日参

 

塙保己一翁は、「平河天満宮」の熱心な信者としても知られます。

平河天満宮へ毎日参詣して、『群書類従』を完成させました。

 

平河天満宮は、ご祭神を菅原道真公とする、東京都千代田区平河町に鎮座する神社です。

社伝によると、文明10年(1478年)、太田道灌によって川越の「三芳野天神(現・三芳野神社)」より勧請され創建されました。当初、創建の地は江戸城内で、江戸城の拡張とともに現在の地に遷座しました。

徳川将軍家や紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家等の祈願所として崇敬を集めました。

塙保己一翁や、江戸後期の医者であり蘭学者である高野長英によっても熱心に信仰されました。

江戸三大天神(亀戸天神社・湯島天満宮・平河天満宮)として知られています。 

 

江戸名所図会に描かれた平河天満宮

※御朱印神社メモより

 

浮世絵「江戸の花名勝會」に描かれた平河天満宮

※御朱印神社メモより

 

大正11年(1922)の平河天満宮

関東大震災によって社殿が焼失するも、鳥居は天保15年(1844年)造営のもので現存。

※御朱印神社メモより 

 


◆塙保己一翁の墓

塙保己一翁の墓の画像

「四谷愛染院(新宿区若葉)」にある塙保己一翁の墓 ※新宿区指定史跡

 

塙保己一翁の墓は最初、江戸四谷「安楽寺」にありましたが、明治30年(1897年)に廃寺となったため、愛染院(あいぜんいん)に移されました。墓碑銘は「前総検校塙先生之墓」。法号は「和学院殿心眼智光大居士」。

 

菅原道真公の墓所は太宰府天満宮です。社殿の下には、今も菅原道真の御遺体が安置されています。

かつて、太宰府天満宮は、「安楽寺(あんらくじ)」ともいいました。(元は、安楽寺の敷地内に天満宮が建立され、神仏混合で安楽寺と天満宮が共存していましたが 明治維新の神仏分離令により、安楽寺は廃寺となりました。)

生涯を通して天神様を厚く崇敬し続けた保己一翁と菅原道真公の墓所は、同じ名前の「安楽寺」でした。

 

 


塙保己一翁と般若心経について

~般若心経を43年間毎日100回、一日も欠かさず唱えて、群書類従の成就を祈願した~

「保己一の決意」(塙保己一記念館より)

保己一は、小さなことで腹をたてると、大きな仕事はできないと思い、願いを叶えるために、天神様に『般若心経』を毎日100回読むことを誓いました。

ある時、ゲタのヒモが切れたので、近くの版木屋に入って直してもらおうとしたところ、ヒモを投げ捨てられ、追い出されてしまいました。塙 保己一は大変悔しい思いをしましたが、追い出した版木屋の人は、自分を励ましてくれたのだと考えて、腹をたてることはしなかったそうです。 

 


◆塙保己一翁と般若心経

「南無天満大自在天の掛軸」(塙保己一翁記念館所蔵)※埼玉県指定文化財

塙 保己一翁は、学問の神である天神様を信仰しました。(仙洞院筆の掛軸)

 


◆保己一翁の信仰した天神座像

塙保己一の信仰した天神座造の画像

「天神座像」(塙保己一翁記念館所蔵)※埼玉県指定文化財 

 


◆塙保己一翁の驚異的な意思の強さ

~『般若心経』を、毎日100回43年間で198万回あまり唱え続けた~ 

「般若心経巻数帳(はんにゃしんぎょうかんすうちょう)」

(塙保己一記念館所蔵)※埼玉県指定文化財

 

「般若心経巻数帳」は、『群書類従』編纂成就のため、般若心経百万読誦(どくしょう)の誓いをたて、それを記録したものです。安永8年(1779年)から文政4年(1821年)までの43年間に、般若心経を198万回余り読んだことが記されています。43年間1日も欠かさず、毎日100回以上読んだことになります。 

 


塙保己一翁の偉業を感じる活動

◆香の根岸さんの活動

第4回本庄まちゼミと香の根岸さんのゼミ『もっと知りたい香りの秘密!』(2021年2月~3月開催)

 

「2020年本庄すまいる日和」と香の根岸さんのプログラム『邪気を払う香り袋作り』(2020年11月開催)

 

本庄市の「香の根岸」さんは、本庄市の地域活性化事業「本庄まちゼミ」や、「本庄すまいる日和」などの講座を通して、塙保己一翁の偉業を現代に伝える活動をされています。

 

●『群書類従』

「遊戯部」358巻 『薫集類抄』(くんじゅうるいしょう・平安時代後期) 

「遊戯部」359巻 『後伏見院宸翰薫物方』(ごふしみいんしんかんたきものほう・鎌倉時代末期) 

 

●『続群書類従』第19輯下 【遊戯部 飲食部】 

 

上記文献には、秘伝としての香の調合法が掲載されています。

根岸さんの講座では、群書類従に収められている調合法通りに原料を調合して、その後、本庄市の伝統工芸品として知られる「本庄絣(かすり)※」製の香り袋に入れて、日本古来の香を鑑賞することができます。

 

※本庄織物(本庄絣)は、本庄および児玉郡下で産する絹織物です。県の伝統的手工芸品に指定されています。手くくり絣・板締絣(いたじめがすり)・捺染加工絣(なっせんかこうがすり)など、単純な絣柄から巧緻を極めた絣模様のものまで幅広く製造されています。

 

塙保己一翁の編纂した『群書類従』を通して、古の伝統を今に伝える根岸さんの活動は素晴らしいと思いました。

 

香の根岸さんホームページはこちらです 

 

『群書類従』遊戯部(358巻・359巻)

 

『続群書類従』第19輯下(遊戯部 飲食部)

 

練香の原料となる粉末と、本庄絣製の香り袋

 


◆塙保己一記念館展示解説パンフレット