◆令和3年度総検校塙保己一先生遺徳顕彰会総会
(本庄ケーブルテレビ様2021年5月29日放送分より)
日時:令和3年(2021年)5月29日(土)午後2時
場所:本庄市児玉文化会館セルディホール
総会では、吉田信解会長を議長として、令和2年度事業報告・決算報告、令和3年度の事業計画・予算案等の議案の審議が行われました。
◆総会記念講演(公益財団法人温故学会 理事長 齊藤幸一氏)
『塙保己一先生の実像に迫る~マルチな才能の持ち主だった』
(本庄ケーブルテレビ様2021年5月29日放送分より)
続いて、総会記念講演として、公益社団法人温故学会(おんこがっかい)の齊藤 幸一(さいとう こういち) 氏 による『塙保己一先生の実像に迫る~マルチな才能の持ち主だった~』と題した講演が行われました。
公益社団法人温故学会は、塙保己一先生(1746~1821)の偉業を広く知らせる目的で、明治42年に設立された学術文化団体です。初代理事長は、塙保己一のひ孫にあたる塙忠雄で、当時の顧問には渋沢栄一翁をはじめ、國學院大學学長の芳賀矢一(はがやいち)、宮中顧問官であった井上通泰(いのうえみちやす)といった方々が名を連ねています。
齊藤氏は現在、「塙保己一史料館」を運営する他、講演活動等を行なわれています。
◆塙保己一先生について
塙保己一先生は、江戸時代の中頃(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気がもとで失明し、15歳の時に江戸に出て雨富須賀一検校(あめとみすがいち けんぎょう)に弟子入りし、『当道座(とうどうざ・視覚障がい者の組織)』に入りました。
34歳の時、日本に古くから伝わる貴重な文献の多くが焼失や散逸によって失われつつあることを危惧し、「学問をしたい人はだれでも、いつでも、どこでもしっかり必要な書物が読めるようにしてあげた い。先祖から託された日本の文化を絶やすことなく、しっかりと次の世代に伝えて い きたい。これこそ自分に与えられた使命だ」※「塙保己一物語」パンフレット(PDF:4,473KB)より と思い立ち、”世のため、後のため”に、「群書類従」の編纂、刊行を決意しました。その後、41年の歳月をかけて、古代~江戸時代初期の文献1270種を集めた「群書類従」530巻666冊が完成しました。
現在、「群書類従」は、日本史、古典文学を研究する上で不可欠の資料とされ、版木1万7244枚は国の重要文化財となっています。
◆出版会社の社長として~『群書類従』の刊行
まず、齊藤幸一氏は、【出版事業家】としての塙保己一先生の面について述べられました。
「群書類従」は、寛政5年(1793年)~文政2年(1819年)、14年かけて200組限定予約という形で出版されました。
金額は、48両(現在の約480万円)、紙代とすり代の原価のみの価格であり、儲けはまったくありませんでした。塙保己一先生は、自分の利益のためではなく、”世のため、後のため”に「群書類従」の刊行を行いました。
◆社会福祉法人の代表として~当道座の最高位『総検校』となる~
次に、齊藤氏は、【社会福祉法人の代表】としての塙保己一先生について述べられました。
当時の日本には、『当道座(とうどうざ)』という視覚障がい者の職業組合のような組織がありました。そこには厳格な階級制度がありました。
保己一先生はそこで鍼(はり)やあん摩、三味線などを習いますが、どれも身に付きませんでした。
座頭金の取り立てもどうしても出来ず、絶望して自殺しようとしました。自殺する直前で助けられた保己一は、雨富検校に「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで、学問の道に進むことを認められました。
塙保己一先生の学問に対する情熱はすさまじいものでした。様々な人に本を読んでもらい、生涯をかけて6万冊ともいわれる文献を暗記したと言われています。
塙保己一先生は、『当道座』において、たゆまぬ努力と、多くの人の支え、援助によって、衆分(しゅうぶん)、検校(けんぎょう)と昇格し、ついには、当道座の最高位である総検校(そうけんぎょう)にまで上り詰めました。
保己一先生は、目の不自由な仲間のことを忘れず、生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために力を注ぎました。
【塙保己一先生と当道座(とうどうざ)】
一番上が「検校(けんぎょう)」、次が「勾当(こうとう)」、3番目が「衆分(しゅうぶん)」、それ以外は平の盲人になっていました。「検校(けんぎょう)」になると、経済的に恵まれただけでなく、直参旗本と同等の身分として扱われました。
通常は、ほとんどが座頭(衆分)で終わってしまい、ほんの一握りの人しか勾当や検校になることができませんでした。
18歳→衆分(しゅうぶん)
30歳→勾当(こうとう)
38歳→検校(けんぎょう)
58歳→総録職(関八州おさめ)
※「江戸の惣録屋敷(そうろくやしき)」本所一つ目にありました。
60歳→十老入り
※「京都の職屋敷(しょくやしき)」当道座の総括機関として京都東洞院にあった役所です。
73歳→2老入り
74歳(文政2年・1819年)→「群書類従」完成
76歳(文政4年・1821年)→総検校(そうけんぎょう)【大名格】・9月12日死去
※当道座の総括機関としての実務は、2老、3老がおこなっていました。
※当道座において昇進の際には金銭が必要で、階級ごとに金額が定められていました。検校になるまでには、合計719両かかったそうです。
◆大学の学長として~『和学講談所』の創設~
さらに、齊藤氏は、【大学の学長】としての面の塙保己一先生について述べられました。
塙保己一先生は、寛政5年(1793年)、現在の大学にあたる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てました。
和学とは、国学ともいって、日本独自の精神、特に外国からの仏教や儒教などの影響を受けない日本古来の文化、日本人のこころを研究する学問を言います。
当時の国学者たちは、古語や古典文学の研究に忙しく、日本の歴史や律令を研究する余裕がありませんでした。その状況を心配した保己一先生は、研究と教育の役割を担う「和学講談所」を自ら設けようと考えたのです。
保己一先生は、和学講談所で多くの門弟を育てるとともに、水戸藩から依頼された『大日本史』の校正をはじめ、数々の史料編纂事業を行いました。文政2年(1819年)には、着手してから41年の歳月をかけた『群書類従』(666冊)の刊行が実現しました。
現在、和学講談所の『史料』は、「東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ)」に引き継がれています。
◆関西への出張
齊藤氏は、次に塙保己一先生が関西へ何度も出張されていたことを述べられました。
【関西出張の目的】
①文献調査
②当道座の職務
③出版費用の借用
(鴻池・住友から1000両)
保己一先生は、不自由な身にもかかわらず、書物のためなら遠くまで自分で出掛けたそうです。
また、齊藤氏は、『上京日々記』を紹介され、保己一先生が74歳(文政2年)の時、60年ぶりに「本庄」に帰郷したと思われるエピソードを述べてくださいました。
『上京日々記』は、塙保己一先生が総検校を拝命するために上京した時の旅の記録です。文化14~15年(1817~1818年)と、文政2年(1819年)の2度にわたる京都への旅の様子が記されています。
京都から江戸へ帰る途中、60年ぶりに故郷である「本庄」に向かっているときの保己一先生の思いは、どれほど深い喜びに満ちたものであっただろうかと感じました。
◆驚異的な記憶力 ~6万冊もの書物を記憶した~
保己一先生は、記憶力が驚くほどによく所蔵していた6万冊の本をすべて記憶していたと言われています。
齊藤氏は、保己一先生が伊勢神宮の「林崎文庫(はやしざきぶんこ)」と「豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)」を訪れた際、数万冊の中から7冊を選んだというエピソードを紹介してくださいました。
6万冊も記憶した本の情報が頭の中にあるからこそ、最も重要な7冊を選ぶことができたのだと思いました。
◆塙保己一先生から学ぶもの
齊藤幸一氏は、最後に、塙保己一先生から学ぶものとして、以下の3点を述べてくださいました。
①あきらめない気持ち
②怒らぬ誓い
(人様の力を頂戴して生きている)
③”世のため後のため”
(楽して儲けたいではなく、人のために何ができるかを考えて生きることの大切さ)
現在、『群書類従』は、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。
齊藤幸一氏の講演を拝聴して、その裏には塙保己一先生のマルチな才能と、熱い志、大変な苦労があったこと、そして、その志を支えていたものが、”世のため、後のため”という公益の精神だったことを学ばせていただきました。