2021年6月6日(日)本庄早稲田の杜ミュージアム『世界をつなぐやきもの-陶磁器、遥かなる旅路。』展に行ってきました。

~エジプトアル=フスタート遺跡から中国、日本まで繋がる壮大な『陶磁の道』を辿る~

 

 

 

早稲田の杜ミュージアムに行ってきました。

現在、ミュージアム内の1F早稲田大学展示室で、「世界をつなぐやきもの-陶磁器、遥かなる旅路。」展が開催されています。

 

『世界をつなぐやきもの-陶磁器、遥かなる旅路。』展

 

◆期間:2021年年1月26日(火)~8月29日(日)

◆会場:本庄早稲田の杜ミュージアム 早稲田大学展示室

◆休館日:月曜日(休日の場合は翌日)

◆開館時間:午前9時〜午後4時30分

◆入館料:無料

 

 

本庄早稲田の杜ミュージアム 展示ケース配置図
本庄早稲田の杜ミュージアム 展示ケース配置図

 

 

「世界をつなぐやきもの展」のチラシの画像

 

 

展示室には、1978 年から1985 年にかけて実施された早稲田大学の「アル=フスタート遺跡」発掘調査出土された陶磁器の破片や、早稲田大学會津八一記念博物館で所蔵する陶磁器など、300点以上が展示されていました。

エジプトのカイロの南方向に位置する「アル=フスタート遺跡」からは、中国の南宋や元の時代につくられた中国の陶磁器の破片が大量に出土されています。出土された陶片は、7世紀から17世紀にかけての中国の各時代(唐、宋、元、明、清)にわたる、「龍泉窯(りゅうせんよう)」の青磁(せいじ)や、「景徳鎮窯(けいとくちんよう)」の青磁(せいじ)、白磁(はくじ)等です。

 

エジプトの遺跡から中国製の陶磁器片が出土されたということは、中国からアフリカへ東西の交易海路があったことを示しています。

 展覧会では、この海路のことを『陶磁の道』と表現されていました。

 

遙か遠くのエジプトの遺跡から出土された小さな陶磁器の破片をたどることによって、東西文化交流の、壮大なスケールの『海の道』を感じることができて、とても楽しかったです。

 

 

 

 

◆『陶磁の道』

~陶片の物語る、壮大な東西交流の歴史と文化~

 

東洋史・考古学者の三上次男氏は、この東西文明を繋ぐ道のことを、内陸の『絹の道=シルクロード』に対して、海上の『陶磁の道』と提唱されました。

 

『陶磁の道』 ※「世界をつなぐやきもの展」パネルより
『陶磁の道』 ※「世界をつなぐやきもの展」パネルより
「三上次男氏と陶磁の道」 ※世界をつなぐやきもの展パネルより
「三上次男氏と陶磁の道」 ※世界をつなぐやきもの展パネルより
『陶磁の道』(三上次男氏著)
『陶磁の道』(三上次男氏著)

 

「中世の東西世界に渡された一本の太い陶磁のきずな。それは同時に東西文化を交流させるかけ橋でもあったが、この海の道をわたくしはしばらく『陶磁の道』と呼ぼうと思う」(三上次男『陶磁の道』P230)

 

陶磁の破片は、見はてぬ夢をたくす魔法の小札(こざね)のようなものだ。中東の荒れはてた町あとや古窯址(こようし)のあちこちに、かれらはひっそりと小さい姿を横たえているが、飾りけもない可憐なそのたたずまいに、思わず手をさしのべ、拾いあげてしまう。するとそこから、部分のなかに秘められていた美しさが軽やかに歌をうたいはじめ、破片のなかにかくされていた歴史が身軽におどりだす。(中略)

これらは破片だけに、どれも、いかめしい顔付をしてはいない。彼らには近づくものを拒否しようとする完全品の傲岸さ(ごうがんさ)はなく、だれの手もとにも飛びこむ気やすさがある。その親しさのなかから、わたくしたちは完全ならざるもののもつ楽しさや、破片の美しさを感じとってしまう。だから拾いあげた陶片は、わたくしが話しかけると、たちまちみずからをおしひろげて、美しく思いのままの姿になってくれる。それはわたくしの求める理想の形姿であり、完全品では見出すことのできないゆとりのある創造の世界である。すこし大げさにいうと、御顔を欠いた唐招提寺の木彫仏や、ギリシア彫刻の胸像に接したときの感じと通じるものがある。

陶磁器の破片にとりつかれるのは、一つにはこうした楽しさがあるからであろう。」(同書P217~218)

 

 

◆「世界をつなぐやきもの展」冊子

『世界をつなぐやきもの』(早稲田大学會津八一記念博物館)
『世界をつなぐやきもの』(早稲田大学會津八一記念博物館)

 

 


◆景徳鎮窯(けいとくちんよう)

『青花牡丹唐草文獣耳壺(せいか りゅうぼたんからくさもん そうじこ)』

 

14世紀中国(元) ※早稲田大学會津八一記念博物館所蔵

 

「景徳鎮窯(けいとくちんよう)」は、中国江西省(こうせいしょう)の景徳鎮にある中国最大の陶窯(とうよう)です。

唐代に昌南鎮窯(しょうなんちんよう)として始まり、北宋の景徳年間(1004~1007)に景徳鎮窯と改称。青磁・白磁や影青 (いんちん) を産しました。また、元代になって染め付け、明代には赤絵の焼成(しょうせい)が盛んになりました。

景徳鎮で作られた陶磁器は、日本の伊万里焼やドイツのマイセンなど、世界的に影響を与えた陶磁器の原点とされています。(『世界をつなぐやきもの』早稲田大学會津八一記念博物館より)

 

 

 

◆龍泉窯(りゅうせんよう)

『青磁袴腰香炉(せいじはかまごしこうろ)』

 

13世紀頃 中国(南宋から元) ※※早稲田大学會津八一記念博物館所蔵

 

「龍泉窯(りゅうせんよう)」は、中国浙江省(せっこうしょう)西南部の龍泉市を中心に、唐から清の時代にかけて創業された青磁窯です。

越州窯(えっしゅうよう)や景徳鎮窯(けいとくちんよう)と並んで、貿易陶磁として東アジア、東南アジアから西アジアまで広く流通しました。

中国の祭祀道具である「鬲(れき)」を模した、張り出した腰から足が伸びる形が、袴を着けたように見えることから、日本では「袴腰」と呼ばれます。

(『世界をつなぐやきもの』早稲田大学會津八一記念博物館より)

 

 

◆「黒褐釉象形壺(こっかつゆうぞうがたつぼ)」

12世紀~13世紀カンボジア(クメール) ※早稲田大学會津八一記念博物館所蔵

 

既成の壺に、頭や足を後から貼り付けて象形を表現したもの。

こうした動物を模した容器は、クメール陶器に特有の器形です。

 

 

◆青磁獅子形香炉(せいじししがたこうろ)

17世紀~19世紀 中国 ※早稲田大学會津八一記念博物館所蔵

 

器面全体にオリーブグリーン釉がかけられています。

獅子の体から口にかけて空洞となっており、お香を焚くと、口と鼻孔から香煙が立ち込めるつくりになっています。

 

 

◆染付芙蓉手花鳥文VOC字入大皿

(そめつけふようしゅかちょうもん VOC じいりおおざら)

17世紀~18世紀 日本 ※早稲田大学會津八一記念博物館所蔵

 

佐賀の有田窯で生産された伊万里焼の大皿。中央に描かれたVOCは、オランダ東インド会社のマークで、1690年代頃から1710年代にかけて、オランダ東インド会社からの発注で海外輸出用に生産されたものと考えられています。

(本庄文化財Instagramより)

 

 


◆本庄で出土された陶磁片

■安保氏館跡(あぼしやかたあと)

埼玉県児玉郡神川町元阿保176

 

 

「安保氏館跡は、神川町大字元安保にあり、鎌倉時代初頭から戦国時代末まで続く、武蔵七党の丹党に属する安保氏総領家の居館跡である。(中略)

出土遺物には、中国陶磁器の青磁碗・皿・座敷飾りの青磁盤や青白磁梅瓶、緑釉陶器盤、国産陶器の常滑産片口鉢・甕、渥美産の甕、山茶碗窯系の鉢、山茶碗、長崎産の滑石製鍋、地元で作られた片口鉢や多量の「かわらけ」などがあり、戦国時代には内耳鍋、国産陶器として瀬戸産の鉄釉皿・折縁皿、灰釉皿、天目茶碗、すり鉢などがある。

安保氏館では海外から運ばれた品々も使われており、15世紀後半から16世紀由度には、景徳鎮窯の青花碗・杯・鉢・皿が出土している。」(「世界をつなぐやきもの展」案内パネルより)

 

 


 

 

■五十子陣跡(いかっこじんあと)

~戦国時代の始まりの地~

「享徳の乱は、1454年(享徳3年)、室町幕府の関東10か国の統治機関である鎌倉府の公方であった足利成氏(しげうじ)が、関東管領上杉憲忠(のりただ)を暗殺したことをきっかけに始まった戦いです。

この抗争は関東の国人(地方在住の武士)層を二分する大乱へと発展し、関東は畿内にさきがけて戦国動乱に突入しました。

五十子陣は、この享徳の乱にあたって築かれた上杉方の陣地です。」(「本庄の歩み」展示ケース案内パネルより)

 

五十子(いかっこ)は、本庄台地の最東端に位置し、利根川西南地域を支配していた上杉方にとって、利根川東北地域を支配していた足利方に対する最前戦の地として選ばれました。当時、この地は関八州の中心地でした。

※五十子陣の本郭跡の一部とされる場所には、現在、和風レストラン「てんぐ茶屋」があります。

 

 

「東五十子陣遺跡では、縦横に走行する区画溝・方形竪穴状遺構・井戸など多くの遺構が検出され、大型品をを含む大量の「かわらけ」のほか青磁・白磁・天目茶碗・すり鉢・内耳鍋・火鉢・硯・温石といった多彩な遺物が出土している。五十子陣では、戦に備え多くの武士が集い、宗祇が見舞いとして連歌を興行し、宴が開かれた。」

(「世界をつなぐやきもの展」案内パネルより)

 



◆本庄市展示室

 

本庄早稲田の杜ミュージアムは、2020年10月15日に開館した、本庄市と早稲田大学が所蔵する資料を共同で展示する施設です。「本庄市展示室」では、市内で出土した埴輪をはじめとする考古資料を中心に、映像や年表で「本庄の歩み」をたどることができます。

(前回、本庄早稲田の杜ミュージアムに行ってきたときのことはこちらをご覧ください。)

 

◆盾持人物埴輪(たてもちじんぶつはにわ)

本庄市マスコット「はにぽん」のモデルになった笑う「盾持人物埴輪」

その笑いは、古墳を邪悪なものから守るという「威嚇」の意味を込めた表情であると推察されています。

 

前の山(まえのやま)古墳出土の「盾持人物埴輪(たてもちじんぶつはにわ)」
前の山(まえのやま)古墳出土の「盾持人物埴輪(たてもちじんぶつはにわ)」

年代:6世紀後半

出土遺跡:前の山古墳

 

盾持人物埴輪は、前の山古墳の墳丘中段の埴輪列に配置されており、南向きに開口する石室入り口の左右両側から、盾面を外側に向けた状態で出土しました。中央の一体は、頭頂に筒形の器物をつけ、額と後頭部に飾紐を垂らし、大きな耳と鷲鼻、しゃくれた顎をもち、目は三日月形に切り抜かれ、口は口角を上げ、笑った表情を表しています。大きな口には上下に3箇所、何かが嵌め込まれていたと思われる窪んだ部分があります。人物埴輪には白い石を口に嵌め込んで、威嚇のため歯をみせる例があり、この盾持人物埴輪も本来は歯を剥き出した状態で笑っていた可能性があります。

(本庄早稲田の杜ミュージアムHPより)

 

(「盾持人物埴輪パネルより)

 

 

本庄早稲田の杜ミュージアムの各展示ブースにある説明パネルは、みやすくて、とてもわかりやすかったです。 

 

本展覧会では、各国の陶片をたどることで、東西交流の壮大な歴史を感じることができました。

さらに、阿保氏館跡(あぼしやかたあと)や、五十子陣跡(いかっこじんあと)等からも多量に陶磁の陶片が出土していたことを知って、東西交流の道が本庄にまでつながっていたことを直に感じることができてとても楽しかったです。