2021年8月23日(月)朝日新聞の夕刊の連載記事『まちの記憶 本庄・児玉』の中で戸谷八商店が紹介されました。

2021年8月23日朝日新聞(夕刊)に掲載された連載記事『まちの記憶 本庄・児玉』
2021年8月23日朝日新聞(夕刊)に掲載された連載記事『まちの記憶 本庄・児玉』

 

2021年8月23日(月) 朝日新聞の夕刊の記事『まちの記憶 本庄・児玉(埼玉県本庄市)』の中で、戸谷八商店が紹介されました。

 

記者の方(佐藤啓介氏)には、本庄の人たちの特性、”自主独立の精神”と、”身分を問わない助け合いの精神”について話させていただきました。

 

約450年前の本庄は、上杉、後北条、武田の三大勢力が入れ替わり争う「三つ巴の戦い」が続いた地でした。

そのような中、本庄は単なる「草刈り場」だったのではなく、いち早く「自主独立の精神と技術」を育んだ場となったのだと思います。

慶長17年(1612年)、小笠原信之は下総国古河藩2万石に加増移封され、本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となりました。早くに廃藩したことで武士ではなく、商人主導のまちづくりが行われました。商人主導のまちだったので、前田藩等、外様の大名たちが気を遣うことなく利用してくださいました。その結果、さらに人々が集まり中山道で最大の宿場町になることができたと考えています。

大飢饉や天災のときも、本庄宿では豪商達が宿内民の救済に当たりました。

 

約450年前の「三つ巴の戦い」の時代、本庄宿を作った先人たちは、非常に苦しい状況の中で、後ろ盾もない中、自分たちだけの力でお互いに助け合ってなんとか生き延びてきたと伝えられています。

 

このような助け合いの精神が、本庄地域の特色だと考えています。 

 


◆中山道最大の宿「本庄宿」

『中山道分間延絵図・本庄宿』(埼玉県北部地域振興センター本庄事務所「中山道最大の宿『本庄宿』の再発見」をもとに作成)
『中山道分間延絵図・本庄宿』(埼玉県北部地域振興センター本庄事務所「中山道最大の宿『本庄宿』の再発見」をもとに作成)

 

『本庄宿』は、中山道六十七次のうち江戸から数えて10番目の宿場町です。

本庄宿の総鎮守「金鑚神社(かなさなじんじゃ)」は西側にみえます。その南東に、初代戸谷半兵衛が建てた「天明の飢饉蔵」がありました。

 

武蔵国最後の宿場である本庄宿は利根川の水運で大きく発展し、天保14 年(1843 年)の「中山道宿村大概帳」によると、本庄宿は、家数1,212軒、人口4,554人を数える中山道最大の宿場町に発展しました。

(旅籠屋数は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋70軒となっています。問屋場(といやば)は、本町、新田町、中町に合計6か所設けられました。)

 


◆飢饉に人々を救った慈善家・戸谷半兵衛

3代戸谷半兵衛光寿(1774~1849年)
3代戸谷半兵衛光寿(1774~1849年)

 戸谷家の分家筋にあたる戸谷半兵衛は、関東一の豪商として知られます。

本庄宿新田町(現本庄市立図書館前)で呉服・太物・小間物・荒物を商いました。

 

本店は本庄宿の『中屋』を創業し、江戸室町に支店である『島屋』を、神田三河町にも店(金融業)を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていました。「現金無掛値」商法で多くの利益を上げました。

 


◆本庄宿『天明の飢饉蔵』

~1788年に建てられた3階建ての蔵。本庄宿最大の火事「伊勢屋火事」をも防いだ巨大な蔵でした。(現存する関東地方最古の蔵は、1792年建築の国の重要文化財である川越の「大沢家住宅」と言われています。)~

 

「消滅寸前の飢饉蔵全景」 ※「本庄蔵・二棟の運命」『本庄地元学だより』P169(増田 未来望著・本庄まちNET)より
「消滅寸前の飢饉蔵全景」 ※「本庄蔵・二棟の運命」『本庄地元学だより』P169(増田 未来望著・本庄まちNET)より

 

戸谷半兵衛は代々慈善家としての側面もありました。

初代半兵衛のときは、神流川に土橋を掛け、渡船を置き無賃渡しとしました。天明の大飢饉の時、『天明の飢饉蔵』を建設し、米や手間賃を支給し人々を救済しました。この蔵は、1846年に起きた本庄宿最大の火事「伊勢屋火事」を防火したと言われています。

さらに、3代目半兵衛のときは、旅人の安全の為、神流川の渡しに高さ3mもする豪華な常夜燈を寄進しました。

また、俳諧面では、中央俳壇を本庄宿に招いたり、囲碁界では、囲碁の名人である本因坊丈和の才能を開花させるなど、文化面での影響も大きかったと言われます。 

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「目の前の窮民救済のために直接に働いた戸谷半兵衛の功績もまた大きい。

慈善活動は初代半兵衛光盛(1703~1787)に始まり、2代半兵衛が若くして没したため、祖父に育てられた3代半兵衛光寿(1774~1849)がこれを引き継いでいる。

神流川の架橋渡船の設置については浮世絵『本庄宿・神流川渡場』でもよく知られているところであり、遠くは高野山麓の慈尊院に渡る紀ノ川にも無賃渡船を寄進している。宿内では久城堀の相生橋元小山川の馬喰橋を石橋に架け替えている。

半兵衛による多くの慈善活動の中に貧窮者への救済がある。

明和8年(1771)、宿内困窮者130軒に大麦を配給、翌9年には宿内非常金を備蓄、更にその翌年にも宿内扶助金として300両を上納している。

天明3年(1783)、浅間山噴火に起因する凶作の武蔵・上野の村々の救済に1,000両と麦100俵を上納、更に宿内の貧窮者救済に63両2分と鐚銭120貫文を拠出している。

これと並行して生活困窮者への賃金支援を目的に土蔵を新築して日当を支給している。

『天明の飢確蔵・お助け蔵』と呼ばれてきたが残念ながら平成27年に解体されてしまった。

 

祖父の遺志を継いで3代半兵衛光寿も何年にもわたり、橋・渡船の維持費の負担をしており、他にも寛政4年(1792)凶作の陸奥・常陸・下総の村々へ小児養育金として150両、文化3年(1806)江戸室1,000両、文化13年(1816)足尾銅山不況に1,000両、文政4年(1821)旱魃の児玉郡・緑野郡に100両、同8年(1825)疫病流行の上州入須川村に7両、同9年(1826)利根・勢多・吾妻郡の村々へ麦300石を上納している。

江戸時代の3大飢饉とされる天保飢饉では天保4~8年の5年間、毎年50両を宿内救済に出金している。

戸谷半兵衛は『中屋』木綿小間物屋として店を興し、江戸にまで進出した関東有数の豪商であるが、その財を慈善や貧窮者の救済に充てており、恩恵を受けた人々は数知れない。」『本庄のむかし こぼればなし(P107)』(柴崎起三雄著)より

 


◆本庄市が世界に誇る偉人 塙保己一翁

※延喜3年(1764年)5月5日~文政4年(1821年)9月12日

 

今年は、塙保己一翁没後200周年記念の年です。

 

塙保己一翁は、江戸時代中期から後期の国学者で、本庄市が世界に誇る偉人です。

武蔵国児玉郡保木野村(ほきのむら[現埼玉県本庄市])に生まれ、7歳で失明。

15歳(1760年)のとき、江戸に出て、雨富須賀一検校(あめとみ すがいち けんぎょう)に入門。歌を萩原宗固、法律を山岡浚明(やまおか まつあけ)に、国学を賀茂真淵(かもの まぶち)に学びました。

48歳(1793年)のとき、『和学講談所(わがくこうだんしょ)』を開設し、多くの弟子を育てました。

74歳(1819年)のとき、41年かけて『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』(666冊)を完成させました。『群書類従』は、現在、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。

76歳(1821年)のとき、盲人として日本で最高位の『総検校(そうけんぎょう)』に昇進ました。同年(1821年)9月12日に天命を全うしました。

 

視覚に障がいがありながらも、不撓不屈の精神で努力し、『世のため、後のため』と言って常に人の役に立ちたいと考えて行動した塙保己一翁の生き方は、ヘレン・ケラー、渋沢栄一翁など、多くの人々に感動を与えています。 

 

令和3年(2021年)は、没後200周年を記念して、様々な事業が行われます。

※こちらの記事もご覧ください。

 



◆塙保己一翁を尊敬していた渋沢栄一翁

埼玉県の3偉人 ~『塙保己一(本庄市)』『渋沢栄一(深谷市)』『荻野吟子(熊谷市)』~

 

※渋沢栄一デジタルミュージアムHP埼玉ゆかりの3偉人をつなぐ MAP&情報」(PDF9.4MB)をもとに作成

 

塙保己一翁、渋沢 栄一翁、荻野 吟子さんの3人は、埼玉県を代表する偉人です。

 

渋沢栄一翁は、保己一翁を尊敬し、「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」の版木の保存に深く関わりました。

保己一翁の偉業を顕彰するため、明治42年(1909年)、学術文化団体『温故学会(おんこがっかい)』を創立し、また、「温故学会会館(塙保己一史料館)」の建築にも協力しています。現在、温故学会会館には、『群書類従』の版木 17,244枚 (国の指定重要文化財)が全て当時のまま保管されています。昭和2年(1927年)の開館記念式典では、渋沢栄一翁が出席し、祝辞を述べています。

 


◆渋沢栄一翁が温故学会に寄贈した書『温故而知新』(温故学会所蔵)

   ※『埼玉県立歴史と民俗の博物館大河ドラマ特別展 青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』パンフレットより
  ※『埼玉県立歴史と民俗の博物館大河ドラマ特別展 青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』パンフレットより

栄一翁は郷土の偉人・塙保己一翁を敬愛されていました。

温故学会のために、渋沢栄一翁が揮毫しました。

 


◆渋沢栄一翁にとっての塙保己一翁

 渋沢栄一翁は、塙保己一翁について以下のように述べています。

『検校 (塙保己一) は一面より見ると、学者であり、知識人であり、また歌人である。しかし、別の面から見ると、実業家であり、同時に政治家でもあった。』

 

「保己一は国学者として活躍し、和学講談所を開いて教育者としても活動したことに加え、さらに和歌を学び、群書類従の編さんでは多くの和歌関連書物を収録しました。また群書類従刊行のために多くの借財をして出版事業を行ったことは実業家の仕事であり、当道座の総検校に昇進し、当道座の運営や群書類従編さんの資料調査等で幕府や御三家、さらに大寺院や神社と交渉も度々行っていました。栄一は保己一のこういった事績から、上記のように話したのではないでしょうか。

 

栄一は、記憶力以外は自らも実践していったことなので、若くして学んだ論語の世界と、塙保己一の生き様は、正に自分の人生哲学に強く関わっていたものではないでしょうか。出典:本庄市HP「 塙保己一と渋沢栄一」より