2021年8月25日(水) 「埼玉県人会」主催の基調講演とパネルディスカッション『I Love Saitama! from Tokyo 2021!! 渋沢栄一と埼玉150周年』が、無観客で開催されました。

※当日の様子が2021年9月17日から動画にて配信されました。

 

 

「I Love Saitama! from Tokyo 2021!! 渋沢栄一と埼玉150周年」

 

2021年8月25日(水)、渋沢栄一翁と埼玉県150周年をテーマにした基調講演会とパネルディスカッションが無観客で開催されました。このたび、9月17日から基調講演会とパネルディスカッションの様子が動画で公開されました。

 

 

『2021年8月25日開催 基調講演会・パネルディスカッション』の動画はこちらをご覧ください。

 

司会進行:堀尾正明氏(フリーアナウンサー )

 

第一部

■会長あいさつ

岡本圀衞 埼玉県人会会長会長

■ご来賓あいさつ

大野元裕 埼玉県知事

木下高志 埼玉県議会議長

 

渋沢史料館の井上潤館長による基調講演

『今、渋沢栄一を探る』

・渋沢栄一91年の生涯の中から読み取れるもの

・いま、渋沢栄一がなぜ注目されるのか

・渋沢栄一から学ぶもの

 

第二部

パネルディスカッション(シンポジウム)

~渋沢栄一を語る~

〈パネラー〉(発言順)

小松 弥生氏(前埼玉県教育長)

井上 潤氏(渋沢史料館館長)

大塚 陸毅氏(埼玉県人会名誉会長)

岡本 圀衞氏(埼玉県人会会長)

池田 一義氏(埼玉県商工会議所連合会会長)

 

『埼玉応援宣言2021』

 

 

「一般財団法人埼玉県人会」ホームページ

 

 


第一部

◆会長あいさつ

(岡本圀衞 埼玉県人会会長会長)

 

 

◆ご来賓あいさつ

(大野元裕 埼玉県知事)

(木下高志 埼玉県議会議長)


◆渋沢史料館の井上潤館長による基調講演

『今、渋沢栄一を探る』

・渋沢栄一91年の生涯の中から読み取れるもの

・いま、渋沢栄一がなぜ注目されるのか

・渋沢栄一から学ぶもの

 

井上 潤(いのうえ じゅん)氏

・公益財団法人渋沢栄一記念財団業務執行理事

・渋沢史料館館長

・現在、企業史料協議会監事

・公益財団法人北区文化振興財団評議員

・公益財団法人埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)評議員等を務める

 

只今ご紹介賜りました渋沢栄一記念財団、渋沢史料館の井上でございます。

本日は埼玉県人会のこのような催しにお招きいただきましたこと、大変光栄に存じております。今、渋沢栄一という人物、大変注目を浴びていると言っても過言ではありません。先程司会の方からもお話がありました通り、2024年上期に新しい一万円札の肖像に決まったというところ、またそれを受けましてと言って過言ではないかなと思いますけれども、NHKで大河ドラマの主人公にということでお話をいただきまして、大いに目が向けられるようになってきました。もう間もなくお札の印刷の方が始められるということで、財務省の方からもここ数日連絡が来ているところでもあります。

 

 

 

 

その人物、今前にお示ししておりますのがそのもとになりました写真になります。渋沢栄一古希を迎えた数え70を迎えた時の写真、これがもとになりまして、新しい紙幣の肖像というふうになっていったわけでございます。私にとりましては今働き方改革等といろいろ呼称されておりますけれども、この写真の影響を受けまして、大いに働き方、ある意味違った意味で働き方改革を余儀なくせまられたというところでもございます。

さて、渋沢栄一という人物、これを機に大いに目が向けられたところでは、単なる実業家ということではない、限られた範囲での人物像ということがあったかもしれませんけども、本当のところはこういう人なんだというところ、いい機会が巡ってきたんだと思っております。改めて皆さんとともに、渋沢栄一という人物像を探ってまいりたいかなと思う次第であります。

 

渋沢栄一、生まれましたのが、1840年、天保11年という年でございます。江戸時代ももう間もなく終わりを遂げようかというところ、中国ではアヘン戦争が起こりました。西欧列強の脅威がアジアに押し寄せてくる、またその脅威は間もなく日本にも押し寄せてくるのではないかというようなことで、非常に不安な空気が漂う中で、渋沢栄一はこの世に生を授かっております。さらに、亡くなるのは1931年、昭和6年11月11日、この年は満州事変が起こった年です。

渋沢栄一の人生をずっとたどってみますと、東アジア激動の時代、それを生き抜いた人物と言えるかと思います。

今日、渋沢栄一を探っていくにあたりまして、まずはその人生を読み解いていきたいと思います。その人生を読み解く中において、今、我々の生きていく上において参考になるもの、示唆を得られるようなもの、そういったものをピックアップしましてお示しできればなというふうに思うところでもあります。

 

◆なぜ渋沢栄一翁のような人物が生まれ、育ってきたのか

渋沢栄一、数多くの実績を残しております。ただ、その実績を一つ一つ丁寧にご紹介する、これも大切なことかと思いますけれども、なぜ、このような人物が生まれ、そしてこのような人物が育ってきたのか、というようなところ、そのへんのところから見ていきたいと思います。まず、人間形成というふうなところだと思います。

もちろん、人が育ち形成されていく上においてはなんといっても父親や母親の遺伝子をしっかりと受け継ぐというところがあったかと思います。渋沢栄一もそのへんでは間違いなくしっかりと受け継いでいる人物だというところが見てとれます。大河ドラマ、ご覧になられている方もおられるかと思いますが、あの父親が厳しく指導する、またやさしく渋沢栄一を包み込むような形でいようとする母親の愛、そこに育まれて育っていったようなところが大いにあるのですけれども、もう一つは生まれ育った環境、これが渋沢栄一という人物を大きく育てていったということを言っても過言ではないかなと思うところでございます。

まずは、渋沢栄一、生まれ育った土地、地域、それから家といういったようなところから見ていきたいと思います。

 

◆渋沢栄一翁の生まれ育った地域の特性

~北に利根川、南に中山道という、人・モノ・金が行き通う大動脈をもち、早くから貨幣制度の発達した先進性を帯びた地域~

 

今お示ししておりますのは25,000分の1の地形図で深谷周辺の地図になります。主だった場所を1番から7番まで番号を付けてお示ししております。7番がJR高崎線の深谷駅になります。この深谷駅を起点に北西の方に2km程、4番と書いてあるところ、これが渋沢栄一が生まれましたところであります。生まれた当時は武蔵国榛沢郡血洗島村という物騒な村に生まれておりますけれども、現在は埼玉県深谷市大字血洗島、地名はそのまま残されていますけれども、その血洗島に生まれているということであります。その血洗島を起点に今度は見ていきますと、北に利根川が流れております。1番と書いてあるところです。

この深谷の地域、北関東の農村地域に属しておりまして、農作が盛んに行われているというイメージで捉えられるかもしれません。そういう中にあって、この1番という大河がまさに悠然と流れるところでは牧歌的な風景を描けて風光明媚な雰囲気が漂うところでイメージされるかもしれませんけれども、当時の河川というのは、物資輸送の大動脈だったのですね。その中にあって、その中継地点となる河岸というのがその流域にいくつもありました。血洗島の周辺には「中瀬」という河岸がありました。今の地図から見ますと流路から離れたところにありますけれども、舟運をもって舟で運ばれてきた多くの荷物を上げ下ろしし、またその荷物を取り扱う多くの商店、問屋が立ち並ぶ非常に栄えた町場が中瀬というところにありました。

今度は南に目を転じますと、5番と番号を付けました現在国道17号が通っております。その国道に沿うような形で江戸時代、「中山道」という主要街道の一つが通っておりました。これも大動脈と言って過言ではないです。街道筋には宿場という非常に栄えた町場がありました。深谷駅周辺の今でも市街地の地図マークが集まっているそのあたりに「深谷宿」があったというふうに見てとれます。

渋沢栄一が生まれた頃の「深谷宿」は、人口が大体1900名前後、本陣、脇本陣、旅籠は80数件が立ち並び、近江商人が土着したと言われておりまして、非常に栄えた町場でもありました。

人・モノ・金が絶えず行き通う大動脈が北と南に、その中継点となる河岸、宿場というものがあるということでは、交通の要衝、地域経済の要衝にはさまれた土地柄であったというところをまずお伝えしたいかと思います。

そしてこの地図からはちょっと読めないのですけれども、実は安定した耕作地がなかなか得られない土壌だったのですね。一つは田んぼがほとんどできませんでした。江戸時代というのは米社会というふうに思われていまして、主な税は米で納める、そのようなシステムがとられていたのですけれども、この辺一帯、米がとれないものですから、岡部という小さな諸藩に属していたこの地域の領主、安部という領主はいち早く金銭で税を納めるシステム、金納のシステムをとったというところで、貨幣というものに早くから慣れ親しんでいる人たちが多くいたということ、そして、安定した耕作地がないというようなところでは、農村地帯なのですけれども、農作だけでは生業がなかなか成り立たない家々があってそれに代わる諸職業に手を出す、養蚕が盛んに行われている地域でもありました。またこの地域特有のものとして藍染に使う藍の葉が多く取れた地域、武州藍といいますが、その藍の葉を買い集めて団子状にしました「藍玉(あいだま)」というものを作りまして信州・上州の紺屋(こうや)に売りに行くというようなことで、これが軌道に乗った家々が非常に豊かな家に育っていくというようなところで、今申し上げた通り農村地帯、単なる農作だけに明け暮れするのではなく、むしろ工業製品を生み出し、そしてそれを取り扱うという意味で商業活動も活発に行われる、諸産業がここに集約しているというような地域でもありました。

決して農村地域という言葉で一括りにできないような、先進性を帯びた地域、土地柄だったかなというふうに言えるようなところでもあったと思います。

 

◆渋沢栄一翁の家「中ノ家(なかんち)」

~地域の中核・まとめ役としての家。実践を通して経済観や経営手法を身に付けていった~

 

さて、その村で生まれた渋沢栄一の家、になります。古い地誌を見ておりますと、この血洗島、大体5軒の家で開かれた村であるということが知らされております。現在も受け継がれておりますこの血洗島の村社、諏訪神社の祭礼で諏訪神社を出まして獅子舞のお祭りなのですけれども、獅子舞が4社巡りといいまして、村に残る古い家々を祀る氏神を巡るというような習わしになっております。最後に渋沢栄一が生まれた家の中庭で舞うというような流れになっておりまして、1軒減ったような形になっておりますけれども、村を開いたといわれるような由緒ある家々を巡っていたことが見てとれるようなところがあります。

その中の1軒、渋沢栄一の生まれた家が由緒ある家として村の中において非常に重きを置かれるような存在でした。それゆえ、渋沢栄一も生まれた時から周りから注目を浴びるというような中にあって、何かしら中心的な存在として影響を受けていく、自分はそのような存在になっていくんだというところが自然な形で染みわたっていったようなところがあるかと思います。

 

渋沢栄一の父親、市郎右衛門といいますが、その人物が名主見習いという役割をしておりました。村全体をうまくマネジメントする、取り仕切るというようなところでとりまとめをしていました。その辺のところも自然な形で渋沢栄一は眺めていて、決して父親からあれをしろ、これをしろと言われるまでもなく、渋沢栄一の父親が村のために奔走するその後ろ姿、背中を見る中で、いろいろこういうふうにうまく動けば全体がうまくおさまるんだというようなところを身に付けていったところがあるかと思います。

 

 

 

市郎右衛門は、決して村をまとめるだけではなくて自分の家の経営にも非常に長けていた人でもありました。本格的に藍玉の商売を始めたというふうに言われております。そこから渋沢栄一が生まれた家というのは急成長を遂げていくんですね。ちょうど藍の価格も4倍、5倍へと跳ね上がっていくような状況にもありました。その中において非常に財をなしていく。村で1、2位を争うような豊かな農家へと成長させていったのが父親だったと言われているところがあります。

渋沢栄一も大体13歳、14歳ぐらいから家業を手伝っているというふうに本人は語っております。

今お示ししましたのが「藍玉通帳」(1852-1875年)といいまして、渋沢栄一の生まれた家で商いをしている様子が記された帳面になります。その中に、「代栄一郎」と記されたところがあります。当時、渋沢栄一は栄一郎というふうに通称名乗っていたようなところがありまして、父親の代わりに集金に行った様子が見てとれます。非常に厳格な父親、道義道徳を重んじる父親、この人の経営がこのようにうまく伸びていくんだ、事業が長続きしていくんだと、自然な形でまた自らも家業を手伝う中で実践を通して商業、そして経済というようなものが身に付いていったというところが見てとれます。まさに渋沢栄一、実践主義者として育っていったというところあるかと思います。

 

余談にはなりますが、渋沢家、どれくらい財を成すもとになっていったかということで、藍玉の売上高を見てみます。様々な家々と取引をしていました。平均で大体「1軒で1年100両」の売上を上げているということが見てとれます。取引先が大体100軒とすると、1年で10,000両。今の価格で換算しますと、大体1億の売り上げをあげるところで大きな財を成すおおもとがここにあったところも見てとれる気がいたしております。

 

◆渋沢栄一と学問

~尾高惇忠による特徴ある読書法で培われたもの~

旺盛な好奇心・鋭い洞察力・柔軟な思考・広い視野・幅広い情報収集をして総合的に判断し、的確に情報発信をする力が培われた。

 

 

さて、実践を通して経済、商業というものについて学んでいった渋沢栄一、では全く学問をしなかったかというとそういうわけではなかったのですね。満年齢でいくと5歳、6歳ぐらいからまず父親から漢籍を与えられて学ぶようなところがありました。たまたま隣村に尾高惇忠という10歳違いの従兄弟がおりまして、学者肌の従兄弟の尾高惇忠から学ぶ方がいいということで、リレー方式に父親からバトンを受けまして尾高の読書方法を授けられていくということになっていきます。毎日隣村まで日参していた、いわゆる私塾に通うような形で勉強も非常にしていたといっても過言でないというところですね。当時与えられた漢籍、漢籍類を素読し、丁寧に解釈を加え、そして一字一句暗記するというような読書法が中心だった時代に、尾高の読書法は大体ここからここまでの間にはこういうことが書いてある、あとはしっかり自分で読み込んで理解をしろと、では次に進む、ということで、前へ前へ進むということ、一つには自分でしっかり読み込んで理解を自分のものにしなければいけない、決して講義を聞いてなんとなく理解をできているようなつもりになって先に進むより、自分の中で腑に落ちる、納得するところまで読み込むというようなところを目指した。そして、次へ次へ、前へ前へというような読み方にさせたところには、できるだけ多くの文献にふれさせよう、多くの情報にふれさせようとしたところが見てとれるかなというところでもありました。与えられたテキスト、漢籍のたぐいだけではなくて興味関心のあるものだったら何でもいいから読みなさいというような指導もとっていたというふうに言われています。

渋沢の後の回想によりますと本庄に貸本屋があったと、そこへ足を運びました。また貸本屋が村々をめぐってくる際にいろんな本を借りて読んだというようなことで、読書好きだった渋沢はいろんなものに目を向けるようになっていったところがありました。例えばということで、「南総里見八犬伝」のような小説のたぐい、中国や日本の歴史書のたぐい、こういったものに目を向けるようになっていったというふうに言われております。

 

また、渋沢栄一が生まれた年、中国でアヘン戦争が起こったというふうに申し上げましたが、まさに西欧列強の脅威を非常に敏感に感じ始めた人たちが日本が乗っ取られてしまうのではないか、そんな不条理な状態を許しておくわけにはいかない、また、自分たちの生活を守らなければいけないという意味で、外国籍の人たちを排斥しよう、排除しようという運動、「攘夷」という考え方が芽生え、そしてそれが広がりが見え始めていたところがあります。

尾高惇忠もそういう影響を受けていた人物でもありました。その影響を受けたこともあったかもしれませんけれども、渋沢栄一自身もどんどん学問を深めていく上において世の中全体の不条理なもの、そういったものに目を向ける、それを排除しなければ、より良い社会、より良い生活に導けないんだことを強く感じていたところがあったかと思います。それで攘夷論といったところに深くのめり込んでいったところがあったのですね。

 

もう一つ不条理なものということでは、幕藩社会には、「士農工商」という身分制度がありました。武士だから、役人だからということで非常に威張り散らして、生産者である自分たちが汗水たらして得られた益をいとも簡単に搾取する、そのやり方に対して非常に不条理に感じていたところがありました。税は税としてきちんと納めている、それを、自分たちがお金に困るような形で農民から借金をするような形なんだろうけれども、それを命令口調で上から目線で、もちろんそういう身分制度の中ですからそういう形をとるのは当然なんですけれども、その姿、大河ドラマの中ではむしゃくしゃしてというようなことで、「承服ならねぇ」というようなセリフで渋沢栄一はよく口にしていたようなところがあります。まさにその感情が爆発するようなところにまでいったというところがあります。

 

 

◆江戸への遊学と不条理に対する反発、そして新たな決意へ

どんな形であっても、まずはこの体制の中に残る、生き残る、そうしてその中で自らが世の中を変えていくという決意~

 

その考えがどんどん募っていく中において、さらに学問を深めたいということで父親に談判しまして、江戸への遊学を試みております。海保漁村という人の塾で学んだり、千葉周作が開いた道場で剣術を学んだりしています。

 もちろんそこで、さらに学問を深めるとか、剣術を身に付けてよくなる、そんな思いがなかったわけではないのですけれども、渋沢栄一からすると、そういったところにはいろんなところから、いろんな思い、いろんな考えを持った人たちが集まってくる、その人たちとの交流の中で、一地域で思い描いていた自分の考えをどういう位置づけにあるのか、それを確かめてみたい、そんなつもりもあったようなところも感じられます。多くの人たちとの交流の中で「不条理に対する反発」を感じていた人たちが数多くいました。「官尊民卑の打破」そして、「攘夷」というような考え、同じような思い、同じような考えでいるんであればお互い手を携えて何か行動を起こさないかというようなことで、仲間を募り始め、そして行動計画を立てるというようなところに至ったところがあります。

 

学問の師である尾高惇忠の屋敷の2階でいつも議論をしていたというところが言われています。

渋沢栄一、先程尾高惇忠の学問を受けたということを言いました。いろんなものを数多く目を向けさせたというような学問の指導法があったわけですけれども、それによって、渋沢栄一という人物、元からそういう素養があったのでしょうけれども、何でも知ってやろう、聞いてやろうという旺盛な好奇心、それがますます沸き立っていくようなところがありました。そして、何でも知ってやろう、聞いてやろうというようなことで、目にしたもの、聞いたものその中からこれはというもの、これは将来に役立つ、これは今逃すべきではない、それを見抜く力、洞察力、鋭さ、そういったものも身に付けていったところもあります。そしていろんなものに目を向けるというところでは、それぞれにちゃんと頭を切り替えられる、柔軟な思考性、柔らかい頭の持ち主、そういった人間に育っていったところがあります。幅広い、いろんな情報、自分が思い描いている情報だけに目を向けるのではなく、ある時は自分と違う方向、そんな相反するような考え方、情報にまで目を向けて、いろんなもの、ありとあらゆる情報をかき集める中において、それをただ単に鵜呑みにするのではなくて、しっかり咀嚼して、自分のものとしてその中から指針を導き出す、そういうような人間、総合的に判断できる人間に育っていったようなところがあります。

 

そういうふうに育っていった人間がまさに暴挙を企てた時に情報が集まってくる中において同じような思いを持って同じような行動を取った人たちがこれまでにもいたということがわかってきます。ただそれによって世の中が改まったとは思えないというようなところを感じるわけですね。何が起こったかというと、その攘夷を起こした人たちが無駄に命を落としてしまっているようなところがある。自分たちも何かしら一石を投じて波風を立たせて影響を与えて将来の変化に向けていい道筋を付けようというようなところで思い立ったところもあったのですが、そこで命を落としてしまってその道筋がちゃんと遂げられるのかどうかそれを見ずして絶えてしまうというのは、本望ではない、そうであるならば、どんな形であっても、まずはこの体制の中に残る、生き残る、そうしてその中で自らが世の中を変えていく、そういう道筋を選ぶ方が得策である、そうすべきだということで考えに至ったところがあります。

考えられた暴挙、高崎城を乗っ取る計画を立てていました。攘夷の意を表すために横浜の外国人居留地を焼き討ちしようなんていう計画も立てていました。これを全部中止にしてしまいます。

では、その後、安閑として生活ができるかというとなかなかそうはいきません。当時はもう警察権力から目を付けられているようなところもありました。そこから少し目を外させなければならないということで身を隠す、出奔して村からしばらく身を隠す意味で旅に出ようということで、従兄弟の喜作とともに旅に出るというようなことになっていったわけです。

 

◆平岡円四郎と出会い、一橋家の家臣となる

国政への批判から、体制内での改革へ~

 

ただ、みすぼらしい根無し草のような状態のままで村を出たところで、身を隠すといったところで、あっという間に捕縛されてしまうだろうというようなことが感じられたんですけれども、その時にふと思い当たったのは、江戸へ遊学をしたというお話をしました。その時に、渋沢なり、従兄弟の喜作なり非常に評判が立っていたのですね。優れた人物がいるということで、それに目を付けたのが徳川御三卿の中の一家、一橋家の用人だった平岡円四郎(ひらおかえんしろう)という人物。俺の家来になれ、またひいては一橋家の家臣にならないかということで、スタートしていったのですね。

ただその当時は武士になるとか、ましては徳川の一派の家の家臣になるなんていうのはとんでもないということで断り続けていたのですけれども、いざ自分たちが根無し草のような状態になって身を隠さなければいけないということになった時に、それをうまく活用しようということで、江戸に出向く際に平岡の屋敷を訪ね、まずは名目だけですけれども、家来という名目をもらい、腰には2本差して武士の姿になって悠然と旅することができた、そして西へ西へとたどり着いた京都においてめぐり合ったのが一橋家の当主、慶喜でありました。平岡のあっせんのもとで謁見(えっけん)がはかられまして、謁見といっても慶喜が馬で走るその後を追って名前を名乗れというのが謁見の手法だったわけですけれども、それによって、一橋家の家臣ということになりました。

 

与えられた役割を忠実にこなす、また、より一層働きを考えているというところを非常に重きをおかれる存在になっていきました。

当時、一橋慶喜、「禁裏御守衛総督」(きんりごしゅえいそうとく)といって、御所を守る役割を担っていました。その割には一橋家の兵力が十分じゃないんじゃないかということで、これは渋沢栄一自身が進言したとも言われているものでもあります。

「一橋家の領地内にも多くの農民がいる、その次男坊三男坊に声を掛けて兵を募れば何百人かが集まって大隊が組めて十分な兵力を備えることができる、ましてや自分が農民出身である、同じように志ある農民に声を掛けて集めるという意味においては、私にそれを役割を与えてもらえれば、十分な機能を発揮させて功をあげてみせましょう」ということで、自己アピールもしまして、関東中心に、そしてまた西の方へと向かいまして、農兵募集というところをやっていたところでありました。

その領地内を歩くに際して、渋沢栄一と従兄弟の喜作両名が歩いたわけですけれども、ドラマの中でもありました。平岡から武士の名前にした方がいいということで、篤太夫(とくだゆう)と名乗った栄一、成一郎(せいいちろう)と名付けられた喜作、両名で一橋家の領内をくまなくまわったということになります。

 

行く先々でいろんな障害に遭います。

まったくそういう人間が来たからって相手にするんじゃないぞと、事前に村周辺では言いふらされていたところがありました。

ただその状況に怪しげな感じを受けた渋沢たちは、その原因をちゃんと突き詰めてそれを説得し、また農民たちの中にちゃんと溶け込んで自分たちの自己アピール等も含めて、その溶け込ませる中において自分たちの考えをちゃんと正しく伝え、それを理解せしめて農兵募集というものを無事成功裡に導いたようなところがあります。

 

その与えられた役割をただちゃんと遂行するというだけではなくて、やはりここでも渋沢栄一、いろんなところに目を向けるというところで、情報というものを非常に大切にしてあちこちを見ております。

 

その中の一つ、現在の兵庫県姫路あたりなんですけれども、木綿」が多く取れる地域があったと、一橋家の領地内の農民は、大阪の商人と直取引をしておりますので、非常に安く買いたたかれているんですね。ちょっと目を転じて姫路藩を見ると、藩として一つの手法を組み立てていて、農民からそれなりの価格で買ってやっている、そうすると、農民自体が非常に生産意欲がわいて、質がいい、また量が多く取れる、姫路藩の特産として木綿が取り扱われている。

藩としてちゃんと取引をして流通させている手法を見て、「一橋家も同じようにやれば、一橋の領地内の土地が繁栄する、そしてそこから得られる利益によって、農民たちも潤うだろうけれども、もう一つは一橋家自身が潤いにつながってくるんだ」というようなことを言っております。

 

「米」の質が非常にいい、ただ単に江戸に廻米(かいまい)として税として流すだけではなく、領地内に西宮、灘(なだ)といった非常に有能な酒造家がいる、そこに例えばお札を入れさせるような手法をもって、売るということを考えれば、酒造業の発展につながり、また、地域の繁栄、そして一橋家の財政が潤う。

 

「硝石」という火薬のもと、これも商品化・製品化すべき次から次へとそういう財政政策案を立案していったというふうに言われているところがあります。

 

それが功を奏するような形で一橋家に非常に影響を与えるようなところで、本当に重きをおかれるような存在になっていったというところでありました。

 

◆栄一翁の渡欧体験

~思想の転換、「新社会」との出会い~

 

そうこうしているうちに当主慶喜が15代将軍に就任します。

屋台骨が揺らいでいる幕府の状況の中で今将軍職を受けるということはまずよしてくださいということを、非常に真剣に渋沢栄一は慶喜に伝えるというようなことがあったと言われていますけれども、慶喜はそれを受けることになりました。

 

その時にそれまでに話がまいこんでおりました1867年パリで万博博覧会が開かれる。それに出品する、また使節団を派遣するということを慶喜自身が判断しまして、受け入れることになりました。

 

使節団を組むにあたって、将軍自らが政情不安定な国を離れるということは危険な状態であるということで、水戸にいたまだ13歳の弟の昭武(あきたけ)という人物を名代に立てまして、使節団を組むということになります。

その庶務会計係として抜擢された渋沢栄一だったわけですね。

非常にいい役割が与えられたと思っていもいいかなという気がいたしております。

 

ついこの間まで攘夷、攘夷、彼らの行動のもととなる決起文等を読んでおりますと、「外夷の畜生共をを残らず踏み殺し」なんて言葉が書いてあったりします。そんな言葉を強く発していた人間が、数か月後少し経ったところで、ヨーロッパに行ってほしい、はいわかりましたと素直に受けるところでは、節操がない人間のように見てとれるようなところがありますけれども、そこが、いい言葉ですね、柔軟な頭の持ち主だったというふうに、その成長した栄一の考え方、思想の転換がはかられているところが見てとれるかなという気がいたしております。

 

柔軟性というところでは、パリの方に出向いて行くのですけれども、これはずいぶん後になってから洋装スタイルをとる、髷(まげ)を切るというようなことを皆で心掛けたと言っているようなところがあります。

武士の魂というのは、やはり腰に二本差す、これができなくなる、それができなくなるのが口惜しいので皆抵抗するのですね。髷を切る、これも抵抗するところがあったのですけれども、渋沢はわりと柔軟に対処しよう、積極的に受け入れようとしていたようなところがあります。

 

せっかくヨーロッパに行くチャンスが巡ってきた、柔軟に生きるというところでは、新しい洋装スタイルを。より良い社会に導きたいと思っていた渋沢からすると、いつまでも過去の思いに縛られるのではなくて、思想の転換がはかられた時には、より一歩も二歩も前進している先進国の文明文化から多くのことを学び取りたい、そんな気持ちになっていたところがあります。ただ異文化のスタイルで現地の人と接したところで、決して目に見えないような障壁があって、十分に溶け込むことができず多くのことが得られない、そうであるならば、郷に入っては郷に従えで、現地の人に同化するような形で同じような文明文化を受け入れてその中でできるだけ多くのものを学び取りたいというような思いになっていたようなところがあったかと思います。

 

横浜を出立しまして、2か月かけて各地を転々と寄港しながら、パリの方に入っていきました。その出立直前から向こうでの様子をつぶさに記録に残されていたようなところがあります。

渋沢自身は記録係ではなかったのですけれども、同じ随行員として現地に赴きました、杉浦愛蔵(杉浦譲)という人物がその役割を担っておりまして、先に一旦日本に帰国する、その後を継いだのが渋沢でもありました。

渋沢は渋沢なりに何か思いあたるところを記録に残していたりしたようなところがありました。それをまとめて明治の時代になってからですけれども『航西日記(こうせいにっき)』という日記体の、いわゆる西欧の状況を紹介する、いわゆるハンドブック的なものをまとめたりしております。

出立のあわただしい様子、そしてなかなかそれまでの公式記録等では出てこないような、船酔いが厳しいだとか、また、食事の様子、一日二回の食事、そして三回のティータイムが西洋の人たちはとっている。そして私もパンにバターをぬって食べました。そして、ハムというもの(豚肉の塩漬け)を食べました。というようなことが書いてあります。テーブルの上にフルーツがあって、また豆を煎じたカッフェーなるものに、砂糖、牛乳を和して飲む、いわゆるカフェオーレのようなものを飲んでいる。その記述通りにあのドラマもうまく描けたかなというところでもあります。それを口にして、胸中すこぶる爽やかなり。

本当にそれが爽やかだったかどうかわかりませんですけれども、そうして柔軟に受け入れる、積極的な姿が見てとれる記録が残されています。

 

◆スエズ運河の大工事を見て

~「公益」を感じる~

 

さてその記録の中で一つご紹介したいのが、スエズ運河にさしかかったときの話です。まだスエズ運河は開通していませんでした。スエズからアレキサンドリアまで大体500~600kmを鉄道で移動しております。鉄道というのにも初めて乗りました。こういう輸送手段、できるだけ早く日本にも導入すべきということを強く感じたようなところがあります。ただ、帰国して幕末維新期の動乱の中ではその考えはいつになったらということで、思いあぐねていたようなところもありました。

 

渋沢栄一はそれ以上に、鉄道の車窓から見えた大工事の様子、どこの国の政策かと思いや、フランスのレセップスという人の会社が請け負ってやっているということがわかりました。会社って何だということになるんですね。もちろん日本にも大資本家といいますか、大きな財を持った人間がいて、その人が個人の財産(資本)を投じるような形で大事業が成されていったということはいくつもあったかと思われますけれども、個人の資本によってできるのはあくまでも限界がある、むしろ小資本をいろんなところから広く集めていって大資本にして大きな事業所を形作り、その大事業を請け負えるような形にするんだというところ。渋沢栄一の言葉を借りますと、資本を合わせると書いて「合本(がっぽん)」、この手法によって事業を推し進めていく、これが今後の日本にとっても必要だ。そうすることによって一事業主の事業ではないんだ、出資した皆の事業としてこれは位置づけられるものになるだろうというところを強く感じていた、これをいち早く日本でも導入すべきというふうに感じたところがありました。

 

もう一つ、渋沢は、レセップスという人が請け負った以上、その人に大きな利益がもたらさられるのは当然のこと、ただそうは言ってもこれが開通した折には、世界中のありとあらゆる人々に大きな利益がもたらされる、そんなところにまで目を向けているところがありました。当時ヨーロッパからアジアをずっと抜けて行こうとすると、アフリカ大陸を巡らなければならない、その時間、労力、経費それをいかに削減できるかというようなところではさすが先進国の人たちの考えること、自分の利益もさることながら、公の益「公益」というものを非常に重視している様子が見てとれる、渋沢も後に「公益の追求者」と称せられるようになりますけれども、その原点たるところが、こういったところにも見てとれるかなといたしております。

 

◆パリに着いて、パリの市中視察において

~「合本法」を知る~

さて、パリに着きました。パリの万博にも案内されますけれども、パリの市中をいろいろ視察、巡っております。案内人となったのはフリュリ・エラールという名誉総領事だったんですね。もともと銀行家で、フリュリ・エラール銀行の頭取をしておりました。

銀行に足を運びました。もちろん市中を見る上において名所旧跡を巡ったのは間違いのないところでありますけれども、株式取引所にも参りましたし、近代的な設備の整った病院だとか、学校、福祉施設、水族館や、植物園、競馬場、娯楽施設等にも足を運んでおります。やはり、人々が豊かな生活、より良い生活を送るためにはこういった娯楽の面にまで目を向けて豊かな環境づくりをしなければいけない。そのためには、こういう設備が必要だということを痛く感じていたところがあります。

この地図の下に道が通っておりますけれども、そのさらに下に、道が通っていて、そこにはガスがめぐらされている。そのガスによって灯される火は、夜でも昼のように明るい、このような設備、水道設備、そういったものにも目を向けて、いわゆるインフラが整備されている様子の中で、このような空間、生活空間を作ること、これをいち早く日本でも取り入れるべきことを強く感じました。

 

ただそれの施設、設備のみに目を向けるだけでなく、それぞれの経営維持、させる方法、そこに目を向けました。

「合本の手法」、皆によって資本を出し合い、大きな事業が形作られていく。またそれによって得られる利益が皆に公平に分配される。この「合本の手法」を非常に重んじていこうというふうに感じたところがあったかと思います。

 

◆パリ万博の会場において

~盛大さ・各国の出品物に驚嘆、日本の出品物の高評価に喜び~

パリの万博の会場へ行きました。

世界の最先端の技術を目の当たりにして非常に驚きをもって感じていたようなところがあります。いろいろ先端技術に目を向けた以上に、もう一つ渋沢が感じたのは、庭園部分に展示された日本のお茶屋さんなんですね。お茶をふるまうところです。日本から芸者3人を連れて行ってそのふるまいをさせていたということで、すみさん、さとさん、かねさんという3人を連れて行ったというふうに言われております。当時西洋で初めてこういうスタイルの人たちを見るということで、非常に物珍しく、評判が立ったというところ、多くの人たちが人だかりを作って眺めようとしたということ、またその着物を着せてもらうということにもアトラクション的にやっていたところがあるので、非常に興味を持っていたというふうに言われております。

出品物に対しても非常に評価が高かった、錦絵の類、陶磁器の類、日本の文化に多く目を向けられたというところがあります。渋沢栄一は、今ここにいろんな国々の人がやってくる。日本以上に先に進んでいる国々。そこにいち早く肩を並べさせなければいけないんだという思いの中にあって、早く追いつき、追い越せというような思いであると同時に、「現状においても日本の文化というものがそういう人たちに高く評価を受けている」というところでは非常に誇らしげに思ったということがありました。万博では順位付けをしてグランプリを日本として受けているところがありました。

 

◆万博を終えた後、ヨーロッパ一周旅行の中で

~「真の国力」の意味を感じる。政治の力、軍事の力ではなく、経済というものが基盤にあってその上に立って産業の振興を推し進め、それによって国力を強める考え方を学ぶ~

 

さて、万博の公式行事等も終えた後、ヨーロッパの各地を巡っていくことになります。

この中において、ベルギーへ足を運んだ時に、ベルギー国王から「これから世の中は近代化、産業化が進んでいく、そういう中にあって、鉄というものが絶対に必要になるんだ」ということを言われます。

「鉄を必要とする時は、製鉄国ベルギーの鉄をぜひ買ってほしい」ということで、今でいうトップセールスが行われました。

渋沢栄一、それを聞いて、まずその話は、栄一にしたのではなくて昭武にしたのですが、「この人はなんで13歳、14歳の少年にそんなことを言うんだ」というところの不思議さを感じたというふうに言っております。

それ以上にですね、「国王自らが商売のことに口を出すんだ」ということに驚きを感じたということです。

日本ではとても考えられない、利益を得ること、金儲けをすること、これは卑しいこととしてなかなか目を向けられるところではなかった。ただ、国を強くするというところでは、決して政治の力、軍事の力ではなく、経済というものが基盤にあって、そこの上に立って、産業の振興を推し進める、それによって国力が増していくという考え方が基本にあるということを痛く感じています。日本においても渋沢は、そういうふうにすべきだということを強く感じて日本に帰ってくることになりました。

 

◆パリからの帰国後

~静岡藩内で、「商法会所」を開設し収益を上げることに成功。ヨーロッパで学んだ合本法に則った会社組織というものを具体化した~

 

本来ならば、4、5年昭武の留学ということも考えられていたのですけれども、まずは幕府が倒れました。また、水戸藩を昭武が継承しなければいけないということになりましたので、2年足らずで帰国することになります。

 

帰国して横浜に着き、東京で事務処理をした後、静岡へ足を運びます。なぜ静岡へということになりますと、将軍職を解かれた慶喜が「宝台院(ほうだいいん)」で蟄居状態(軟禁状態)だったのですね。そこに帰国の報告をする。

そして、自らはもう役人になるつもりはない、ヨーロッパにおいて産業の振興というものを重んじることが大切なんだということを感じてきた。自分はそういう事業に携わる中にあって、世の中の繁栄を導きたいという思いにかられていくということを慶喜のもとで告げます。できれば幕末に自分の命を救ってくれた恩人でもある慶喜の身近なところでそれを成し遂げたいということを考えているところがありました。

 

当時、明治政府は各藩に貸付金をしていたのですね。「石高拝借金(こくだかはいしゃくきん)」というものになります。それを静岡藩も53万両借り受けておりました。その返済にあたって、年3分の利子、「十三ヵ年譜返済(じゅうさんかねんぷへんさい)」)という手法だったのですけれども、ちゃんと返済の手法が組み立てられているのだろうかということを渋沢栄一は役所に行って進言します。もしそれが考えていなければ返済が滞って藩自体が破綻してしまうよというようなことを言うのですけれども、預けさせてもらえるのであれば、それを預かって、自分はヨーロッパで学んできた合本法に則った事業を立ち上げて、そこから得られる利益で十分返済が進む。また、それによって静岡自体の産業の発展にも貢献できるというような思いで、『商法会所規則』、いわゆる会社の定款のようなものもまとめていたというようなところでもありました。

帰国して数か月後、ヨーロッパで見てきた会社組織というものを自分の中で組み立てられて具体化するというようなところにまで至っているところでは非常に能力の高さが感じるところでもありました。

 

「商法会所」は、今でいう銀行業務、そして商社を兼ね合わせたようなものであります。ほとんどの資本は政府からの借入れ金、その他には静岡藩、そして静岡藩の市民からも出資を募っているというところでは、非常に原始的なスタイルのものではありましたけれども、会社組織がここに組み立てられていたというところになっていきます。

 


◆【近代経済社会の基礎づくり】官の立場でのインフラ整備

~新たな国づくり、産業の振興を目指す~

ただ、そういう成果を放っておかなかったのが明治政府で、能力の高いやつがいるということで、出仕しろという命令が下って、泣く泣く東京に出てまいります。

明治2年(1869年)11月5日、「民部省租税正(そぜいのかみ)」ということで任ぜられるようになります。今でいう主税局長のような役割なんですね。

租税について全く知らなかったわけではないけれども、素人に近いような人間をこういう役割に与えるのはいかがなものであろうかということで、上司であった大隈重信に直談判に行ったということも言われております。

「ただ、産業の振興も大切、ただ、種をまくという上においては、畑をちゃんと作らなければいけないんだぞ」という大隈の言葉を信じ、また、「精鋭たちが募って新しい国づくりをこれから考えていってもらいたいんだ」ということ、「一役人になるということより、新しい国づくりに参画できる」というその意義を感じて、明治2年から6年まで明治政府の役人として、政府の中において基盤整備、インフラ整備に邁進したわけでもあります。

 

ただその時にですね、自ら進言したともいわれておりますけれども、「役所にいっても何をしていいのかわからない精鋭たちが多くいると、無駄に時間が過ぎてしまう。そうであるならば、今でいうプロジェクトチームのようなものを作って具体的に何をしようかということを考え、そしてそれに基づいて何をどういうふうに導けばいいのかという調査研究をし、そして建議案にまとめて具体的にそれを上申して形にしていく。それを着実に進めていかないと本当の意味でいつまでたっても新しい世の中には移っていかない」ということを進言します。

 

それで設けられた『改正掛(かいせいがかり)』の掛長(かかりちょう)として、渋沢栄一は租税関係の本務とは別に、兼務で改正掛長を担ったというふうに言われております。

 

◆「改正掛(かいせいがかり)」で行ったこと

~官の立場で文明開化の基盤整備(関与案件:約200件)~

 

何をしたかというと、例えば、これは郵便の関係の資料なんですけれども、定時で集配され、定額で料金が組み立てられる、またその料金の支払い方法として切手を貼るというようなことまで決められていくところがありました。こういうことを考えていくという上では、静岡で一緒に仕事をしていた前島密(後に郵便の父とも呼ばれる人)、この人間がこの道について非常に詳しい、プロジェクトごとにその道その道のエキスパートを呼び入れては具体的に形作っていったということが見てとれます。

 

貨幣制度、一両、二両、一匁、二匁、いろんな単位の貨幣が流通していたのを「円・銭・厘」という統一した単位で流通させようとしました。また、産業の振興のおおもととなるいわゆる金融基盤の確立ということでは銀行の設立、アメリカのNational Bank Actというものをそのまま訳した「国立銀行条例」にまとめまして銀行設立の柱を組み立てていきました。

 

会社組織のマニュアル本『立会略則』のようなものを示しているところもありました。

 

また富岡製糸場、これも生糸が輸出高世界一位に抜きん出てしまうようなところで、大量に作らなければいけない、均質なものを作らなければいけない、そんなところから政府があげて模範工場のようなものを作らなければいけないということで立ち上げられた。これも改正掛の一つの発案のもとで動いていったものになります。

 

文明開化の様子を描く錦絵というものは数多くあります。その中にあって、本日は「すごろく」を持ってまいりました。

鉄道の敷設、近代的郵便が整い、銀行が建ち、都市部整備がされるということで、まさに文明開化花開かせていく大きなもとがこの「改正掛」の仕事であった。2年間しか存続しなかったのですけれども、その間に取り上げた案件が約200件、今私達の生活のベースになっているものはほとんど改正掛が手をつけたと言っても過言でないくらい非常に精勤ぶりで奔走したその取りまとめを渋沢栄一が担ったといえます。

 

ただ、明治政府にの中にあって富国強兵の強兵の部分に力を入れる大久保利通のような人、またその他にもいろんな省庁から自分のところの省庁における予算請求がやたら飛び交ってくる。

 

国家財産のあり方、歳入と歳出のバランスをちゃんと考えてもらいたいというようなことをしきりに言うのですけれども、なかなかそれが受け入れられない、ということで、潔く上司の井上薫もあわせて辞表を叩き付けるような形で官を辞してしまいます。

 


◆【近代経済社会の基礎づくり】民間でのインフラ整備

~最初に手掛けたのが銀行。「第一国立銀行」を創設~

 

 

その後はずっと民間を貫き通したというところで、民間でのインフラ整備に邁進していくことになります。

大蔵省時代に立ち上げた国立銀行条例のもとで立ち上がった「第一国立銀行」

国立とありますけれどもこれは決して国の経営になるものではなくて私立の株式会社組織、三井や小野という大資本家が出資し、また一般の株式募集にも応えていたというようなところでの株式会社として立ち上がったものです。

 

これも軌道に乗せるためには本当に苦しい思いをしました。銀行自体知れ渡っている時代ではありませんでした。なかなかうまくいきません。そして、途中で国の方針転換等もはかられて破綻しかかる。そこを平身低頭、本当に我慢に我慢を重ねて、ちゃんと事情の説明を細かくし、銀行の利点というものを明確に説いてまわった。頭を下げるということでは全然惜しまなかった渋沢栄一。その誠意が認められる、信用がついてくるというような形で、銀行というようなものに対して無配の状態にも絶えてくださった方々が多くいたし、また、再建案を立ち上げるというところでは増資にも応えてもらえるようになって、なんとか軌道に乗せることができたというところにもなりました。

 

 

 

◆約500の会社の設立にかかわる

~インフラ整備から「合本法」・「道徳経済合一説」を実践、普及させる~

 

民間でのインフラ整備をめざす(経済・産業面から)

金融基盤を確立させ、多業種の企業を設立・育成

生涯関与した企業数:約500

→近代経済社会の基礎づくり 

 

インフラ整備から「合本法」・「道徳経済合一説」の実践、普及

 

 

 

それ以降、これからの世の中に必要な事業、それを「会社組織」でということで考えていったようなところがあります。

決して一業種、二業種ではないのですね。陸運もあれば、海運もあれば、保険もあれば、いわゆる紡糸、アパレル業界のような部分、それから帝国ホテル、帝国劇場、通信というようなところを含めてありとあらゆる分野にわたって事業を立ち上げていきました。

生涯関係した会社の数をかぞえると約500というふうに言われております。

ただそれをすべて自分のものにしようとしたわけではなのですね。財閥を築くわけでもなかった。あくまでも事業を世の中に定着させる、そして永続させる、そういうような道筋をちゃんと自らが指導的な役割として担っていったというところになります。

 

独占を嫌うという意味では、例えば岩崎弥太郎(いわさきやたろう)と比較されるところがあります。考え方の違いはあった。私的には昵懇(じっこん)の仲であったのだけれども、経済の発展を望む上において同じ方向を向いていながら、違う道筋をたどらなければいけなかったというところも当時からよく言われているところでありました。

 

 

また、個別の企業を立ち上げるだけではなく、企業間の意見交換の場というようなところでは、今の「商工会議所」のもとを立ち上げる、それはひいては世の中における世論形成を構築するところになる、その拠点しての位置づけも考えられていったようなところがあったというふうに思います。

 


◆社会事業の方に重きがシフトチェンジされていく

~栄一翁にとっての社会事業活動の3つの柱~

 

明治42年、古希の時にほとんどの会社をリタイアしてしまいます。

その後は、悠々自適な生活を送ったかと、渋沢栄一、本人自身のところでは「産業の振興」ということを強く望んでいたところがあります。ただ、世の中においてはそれを阻害する様々な要因あったのですね。

実業界で奔走している時もそれにめがけて、例えば民間の中で外交に力を入れてみたり、福祉の方にも手を差し伸べてみたり、教育の方にもちゃんと目を向けていた渋沢だったのですけれども、ほとんどの会社の役員等をリタイアして、重きが社会事業の方にシフトチェンジされていく中においてこの3つの柱に目を向けていくことが中心となっていきます。

 

①「日本の国際化と平和の推進」

②「社会福祉の整備」

③「教育・文化の整備」

 

◆渋沢栄一翁にとっての「民間外交」

~日本の位置づけを明確化・国際平和を思う~

一つは「民間での外交面」になります。

 

「日本の国際化を促進」

渡米実業団

日米人形交流

日本の位置づけを意識・国際平和を思う

 

アメリカとの協調関係なくして日本の経済発展はないというふうに思っている渋沢でありました。

その渋沢が非常に憂えたのは、明治の末年頃から日米関係が非常にギクシャクし始めます。それをなんとか解消するというところで、自ら役割として担ったのが「渡米実業団」、民間の経済ミッションとして団を組み、その団長としてアメリカに渡っています。3か月間かけて60都市を巡って現地においてお互いの気持ちをちゃんと理解せしめるように、胸襟を開いて語り合う、理解し合うというところでギクシャク感を除いて関係改善に導けるのではないかというふうに思っていたところがあったのですけれども、日本からアメリカに渡った移民を排斥する運動等もそれに覆いかぶさるような形で最終的には1924年「排日移民法」というのが成立してしまいます。

それをもって日本とアメリカの関係の悪化が本当に深まっていくようなところがありました。多くの人たち、それまで太平洋の懸け橋となって、いろいろ奔走していた人たちも撤退する中にあって、それに真っ向から向かい合ったのが渋沢だったのですね。成立したその法律も改正に向かえないかということで、努力も惜しみませんでした。民間の団体を作ってそれで交渉にあたったりもしていたのですけれども、なかなかうまくいかなかったというところが現実だったです。

 

そういう中にあって、「今の時だけを見るのではなくて、この先を見越して、今の子どもたち、先の担い手に対してもこの問題に対する意識を高める、また、平和という考え方、これをうまく植え付けていくことを伝えていこう」ということで、アメリカの宣教師シドニー・ギューリックの発案でスタートしたプレゼント交換、特に日本においては人形を愛でる風習があるということで、いわゆる友情人形、「青い目の人形」を全米で集めて12,800体を日本に贈ってくる、その日本の受け手の代表を務めたのが渋沢栄一だったわけですね。それを受けて日本から1県1体とする日本人形、「答礼人形」を贈ったということで、日米の人形交換による民間の草の根の交流をもって先々まで国内外の交流を深めていく、維持させていくというところの道筋を作っていったところがあると思います。

 

決してアメリカだけではありませんでした。アジアやヨーロッパの人たちと非常に深く接触していったところがあります。こういう民間外交に率先して動いていた渋沢栄一の考え方の一つには、当時戦争によって経済発展に導けるという人たちの考えがあったのは間違いないのですけれども、それを真っ向から反対したのが渋沢だったです。

なんといっても、産業の振興のおおもとにあるのは平和、そういう世の中にあってはじめて産業が振興する、そして人類は幸福に導かれていく、大きな幸福を増進させていくことができるのだということを強く主張する人でもありました。だからこそ、お互いをちゃんと知り合う、この道筋だけをちゃんと形付け、残していかなければならないというところで奔走したところがあります。

 

もう一つ渋沢は、近代化が進んだ日本という国を国際社会の中にしっかり位置づけたい、知らしめたいそういう思いで、民間の立場での外交に力を入れたところがあったかと思います。

 

<渋沢栄一にとっての民間外交、国際理解>

①日本の立場・位置づけの明確化

②平和こそ、産業を振興し人類の幸福を増進する道

③人間性と正義の原則は国際関係において有効、商工業の利益と合致

 

 

◆渋沢栄一翁にとっての「社会事業」

~社会事業は私の義務である~

 

<社会福祉の整備>

東京養育院を中心に

→偶然から必然の事業に 

 

次に取り上げたいのが「社会福祉の整備」です。これも何度も言いますが、経済発展、産業の振興を旨として渋沢栄一は奔走しました。それによって明治の20年代、30年代、それが花開き始めます。会社というものがどんどん立ち上がって花開いていきます。経済発展の様子も見てとれるようになってきます。ただ、そこで、皆が皆豊かな生活に導かれたかというと、そういうわけではなかったのですね。地方の人々が都市部に流失していく、地域における疲弊が生まれ、また都市部においては、人口が増加する、また日常の生活についていけないような困窮者もどんどん膨らんでいくというようなところで、渋沢栄一は自分がやってきたこと、どういう意味だったんだろうかとジレンマに陥るような状況にもなりました。

 

そんな中にあって明治の5年に東京では「養育院(よういくいん)」という困窮者救済の公的施設が立ち上がっています。設立の時には渋沢は関わっていなかったのですけれども、その後明治7年から少し関わりを持ち始め、明治9年にはここの事務長、そして明治12年には事業全体を取り扱う院長として、亡くなるまでそれを面倒見切ったところがありました。

 

まさに、その養育院には、設立当初から渋沢が花開かせてきた産業の振興の花開いた状況の中において、収容者が倍に増えている、やはりそれは自分がやってきたことを強く痛感していたところもあったのですけれども、ふと感じたのは、「やはり、経済政策だけの推進で経済発展に導けると思ったら間違いなんだと、そこに何かしら負の部分が生じはじめ、そこにもちゃんと目を向けてフォローアップしていかないと、全体でうまくトータルで丸く収めていくようなかたちで発展に導いていかないと、自分が思うより良い社会、産業の振興の目指すべき道というようなところまで導けないんだ」ということを強く感じるようになっていってこの福祉という事業に重きをおかれていったというところでもあります。

  

<渋沢栄一の社会事業への想い>

①偶然から必然の事業へ

東京会議所会頭として事業担当

→将来を視野に入れて、施設・事業の必要性を説く

②松平定信への敬慕

「社会事業の先駆者」としての位置づけから

③「社会事業は私の義務」

救護法の施行にむけての行動・発言

 

最初は財政の面倒を見るというところから、偶然の出会いだったということを言います。

ただ、「この福祉の事業自体は世の中にとって欠かすことのできない必然の事業である、これを続けなければ、永続させなければ、世の中自体、よい良い社会に導けない」ということで重きをおくようなところがありました。

最晩年においては社会福祉の方で言うのですけれども、「社会事業は私の義務である」そういうような言葉を発するぐらい強い思いをもって社会福祉事業、社会事業というものに目を向けていったところがあります。

養育院の院長は約60年近く関わっていたわけなんですね。銀行より長かった。どれだけ重きをおいていたかということが読み取れるかなと思います。

 

◆「教育」への熱き思い

~国づくりのための人づくり~

 

 

 

●教育・文化の整備

実業教育:商法講習所(現・一橋大学)

女子教育:東京女学館、日本女子大学校

→国づくりのための人づくり

 

 

そして、人を育てなければいけないとういことで、教育事業にも目を向けました。政府の方でもちゃんとした教育整備が行われておりましたけれども、目を向けなかったのが、商業教育、実業教育には手がつかなかった。そこに光を差し込ませました。

女性の高等教育、そこにも目を向けたところがあります。

森有礼という人がアメリカのビジネススクールをまねて作った「商法講習所」、ここを拠点に商業教育の発展を願った渋沢でもありました。「東京高等商業学校」へと導くことができました。さらにそれを大学昇格までにというふうに思ったのですけれども、これは文部省が逆に軋轢をかけてきて東京高等商業学校自体を廃止にするというようなことまで言われたのですけれども、そこを強いリーダーシップをもって停止させ、なんとか東京高等商業学校の維持、後の「東京商科大学」へと導くことができました。現在の一橋大学がそこになるわけです。

 

そして東京大学でも日本財政論を講義しました。自らが商業教育、実業教育を講義したというところもあったというふうに言われております。

女性の高等教育というところでは、鹿鳴館時代に、社交界で通用する女性をということで、伊藤博文と「女子教育奨励会」を立ち上げ、後の「東京女学校」の館長、理事長を務め、また女性の総合大学を目指すという成瀬仁蔵の考えに共鳴し、寄付等でバックアップするだけでなく、ここでも3代目の校長、亡くなられる年ですけれども、校長に就任して女子教育の普及に努めたというところでもあります。

 

●教育への熱き思い

立国の重要な要素としての認識→国づくりは、人づくり

官尊民卑の打破、将来も視野に入れて社会の安定をめざす

経済と道徳の統合、

女性の役割の再評価(男性と共に活動する環境づくり)、

福祉を重視する社会の育成、国際平和の希求

  

国をつくっていく上においては、それを成り立たせるための、支えるための人をつくらなければいけない、そういう信念のもとで教育への熱き思いが見てとれるかなと思うところでもあります。

 

 

◆惜しまれて、世を去る

昭和6年(1931年)11月11日、満91歳で永眠

生涯関係した会社の数が約500と言われます。それとは別に関わった社会事業の数、範囲が広がりますし、記念事業にも出ていますので数が増えていきますけれども、会社とは別に約600の事業に関わっています。一人で1000以上の事業に携わった渋沢栄一が昭和6年(1931年)11月11日満91をもってこの世を去っております。何万という人が葬列を見送っております。深々と頭を下げるこの姿からして、いかに惜しまれて亡くなった人かということが見てとれるかなという気がいたしております。

 

 

◆今なぜ、渋沢栄一翁なのか?

その人が亡くなって、今年で90年、決して過去の偉業に対して注目されているということではなくて、今私たちが生きるこの時代において十分生かせる渋沢栄一の考え、渋沢栄一の言葉、渋沢栄一の行動だったということになります。

 

 

☆今なぜ、渋沢栄一なのか?

渋沢栄一のとった行動規範に注目

 

●企業倫理の実践者

→道徳的な考えを持って正しく利益を求めることによって産業活動を活発化

させる必要性を広め、実行した人物として

 

●儒教精神(東洋文化)を貫いた人物

→今後の世界を考える上で、中国古典にある教えや東洋の伝統を新しい視点で

見直す時に、中国古典の教えを規範とした人物として

 

●社会貢献事業の先駆者

→本当の意味での社会貢献事業を実行した先駆者として

 

●リーダーシップを発揮した人物

→将来を見据え、確固たるビジョンを持ったリーダー像をもつ人物として

 

●高齢社会の模範生

→最後まで自分の身の回りのことができて、「愉快に生きる」とした模範的な

人物として

 

まずは、「企業倫理の実践者」。

企業等での不祥事が起こるたびに、やはり渋沢栄一の思いに思いをはせる、正しい利益を求める、それによって産業活動が本格的に活発化できる、そして、事業自体も永続できるし、それがひいては本当の意味での正しい利益としてずっと将来にわたって有効に活用できるようになるんだという思い。

渋沢栄一の『論語と算盤』という著作、そして肉声で残した「道徳経済合一説」というものによって普及されています。また、埼玉りそな銀行に掲げられている「道徳銀行」、こういう思い等が渋沢栄一の思いとして現在まで受け継がれています。その現代語訳も飛ぶように皆に読まれているというところでは本当に注目されているところがあるかと思います。

 

その道義道徳というところでは、「儒教の精神」を貫いているということで、世界的な経済哲学等で研究されている方々にも目を向けられているところがあります。中国でここ数年「儒商」というものに目が向けられています。このモデルが日本の渋沢栄一ということで多くの人たちが議論を重ねているところでもあります。どのような形で本来あるべき商人の像が描かれていくかということに注目したいと思います。

 

社会貢献事業の先駆者、「当の意味での社会貢献というのは、本業において社会のために責任を全うする、それによって、社会の発展に、経済の発展に導ける、それが大きな社会貢献なんだ」ということを貫いた渋沢栄一、その本質的な先駆者である渋沢栄一に目が向いているかなと思うところでもあります。

 

今閉塞感に満ち溢れたこの世の中にあって、確固たるビジョンを明確に示してくれる「リーダーシップ」を発揮してくれる人物が待ち望まれているところであります。そこに渋沢栄一が覆いかぶさるような形で望まれる像として注目されているかなというふうに見てとれます。

 

渋沢栄一、91年生きました。今、高齢化社会から「超高齢化社会」と言われる中において長生きしただけでも評価をうけるのですけれども、ただ単なる長生きだけではなかった。自分のことは最後の最後までやりましたし、最後の最後まで世の中のために奔走し続けた渋沢栄一、その生き方を「愉快に生きる」と称した渋沢栄一の生き方、まさに今、この高齢化社会の中における模範生として考えられるかなというところであります。

 

 

◆渋沢栄一翁から学ぶ災害からの復興

 

<渋沢栄一から学ぶ災害からの復興>

民間の力を結集しての復興

「物資の復興」の根本に「人心の復興」あり

仁義道徳による行動が真の復興につながる 

 

 

今災害が非常にあちこちで起こっております。その時に渋沢栄一も同じようなことで思いを語っているところがあります。「本当の意味での復興は物質面での復興ではない。傷ついた人の心が復興されてはじめて本当の復興につながるんだ。そのためにも、仁義道徳による行動が真の復興につながるんだ」ということを伝えようとしていたところがあります。

 

 

◆地域・地方振興に目を向けた渋沢栄一翁から学ぶ

 

<地域・地方振興に目を向けた渋沢栄一から学ぶ>

「地方は真に国家の元気の根源」

→中央の繁栄は、地方の振興によって期待できる

土地に適した振興案を!

→自治意識をもって

 

決して都市部に人が集まり、土地が繁栄しているように国が繁栄しているように見えるかもしれないけれども、そうではない、本当の意味での繁栄というのは、地方にある地方は真に国家の元気の根源である」という言葉を発していたところがあります。

その際にも、土地ならではの独自の振興案を、自治意識をもって組み立てていきましょうということを貫いたということをお伝えしたいと思います。

 

 

◆単なる実業家ではない「近代のオルガナイザー」・「公益の追求者」

 

<単なる実業家ではない「近代のオルガナイザー」、「公益の追求者」・渋沢栄一> 

渋沢栄一の行動から見出せる信念:

政治に対する経済の優位

「公益」の視点に基づく「民間」の行動が、政府「官」の

活動を補完するだけでなく、むしろ先導すべきものである

→日本の発展、国際社会への貢献

 

 

2019年4月9日財務大臣から新しいお札の肖像になぜ渋沢栄一が決まりましたかということで、記者から聞かれたその答えに、誰しもが知っている実業家だからですよという感じでお答えになられていました。

「単なる実業家ではない」ということを今日もお伝えさせていただければありがたいと思っております。

日本の近代化を推し進める創造者の一人であった、そして、つくり上げる上においてうまく全体をまとめる、組織化する「オルガナイザー」としての役割を果たした人である。

そして何といっても自分を成り立たせるのではなくて、世の中全体を豊かにする「公益を追求し続けた人」であるということ、これをお伝えしたいと思います。

 

 

そして、「官尊民卑」の打破という考えは、最後の最後まで貫いた人でもありました。

この考え、決して官と民が対立することを望んでいたわけではありません。官と民が一体となって世の中を考えていく時代が早く来てほしいというふうに望んでいた人でもあります。ただ、民間の人たちがどうしても官の側の人たちに思いを委ねてしまうところが強いと、それを少し戒めるような言葉で「そうではない、民間の人たちが自らが世の中を引っ張っていく、リードしていくぐらいの気持ちで事にあたらなければ、本当の意味での発展にはつながらないんだよ、世の中に対する貢献にはつながらないんだよ」ということを主張し続けた人であることをお伝えしまして、今日のお話を締めくくりにしたいと思います。本当にご清聴ありがとうございました。

 


第二部 パネルディスカッション(シンポジウム)

~渋沢栄一を語る~

◆小松 弥生(こまつ やよい)氏

~『青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』より~

 

小松 弥生(こまつ やよい)氏

・前埼玉県教育委員会教育長

・元文部科学省研究振興局長

 

私は実は渋沢栄一がたった4年で見限ってしまった官、役所に、40年くらい勤めてしまったそういう者なのですけれども、文化とか教育に関する仕事を行政で長くやっておりましたので、その観点からのお話をさせていただきたいと思います。先程の井上館長のお話の中にも渋沢栄一の後半生の方で社会福祉事業とか、教育、文化にも心を砕いたというお話がございましたけれども、その点について少し詳しく触れていきたいと思っております。

 

まず、NHK大河ドラマで盛り上がっておりますけれども、ちょうど渋沢没後90年埼玉県150周年、それから埼玉県立歴史と民俗の博物館も開館50周年を迎えています。

それから大河ドラマも60作目ということで、大抵、大河ドラマを行う年には、その主人公ゆかりの地で展覧会を行うということで、埼玉県立歴史と民俗博物館でも『青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』ということで展覧会を開かせていただきました。今年(2021年)の3月から5月にかけて行っておりまして、もう終わってはいるのですけれどもNHKさんのご協力、それから資料をお持ちの方の大変なご協力をいただきまして多くの方にご来場いただきましたことに、まず感謝を申し上げたいと思います。

実はこの博物館では以前にも渋沢栄一についての展覧会をやっているのですけれども、その時には、「実業家」としての渋沢栄一に焦点をあてて展覧会をやりましたので、今回はそこも含むのですけれども、実業家だけではない渋沢の業績、「社会実業家」としての顔に少し光をあてるという、そういう展覧会を行いました。

少し展覧会の構成をお話した方がよいかと思います。

 

 

NHK大河ドラマ特別展『青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』

会場:埼玉県立歴史と民俗の博物館

会期:令和3年(2021年)3月23日(火)~5月16日(日)

ホームページ:https://saitama-rekimin.spec.ed.jp/page_20201219235624

 

【展覧会の構成】

プロローグ「原点 血洗島」

第1章「転機 一橋家家臣から幕臣へ」

第2章「改革 明治新政府官僚」

第3章「経済 資本主義の礎」

第4章「社会 社会事業に生きる」

第5章「平和 民間外交」

エピローグ「遺産 論語と算盤」

 

※NHK大河ドラマ特別展『青天を衝け 渋沢栄一のまなざし』のチラシ(2021年3月23日~5月16日開催)

 

 

展覧会を行うと面白いことがたくさん出てきます。展覧会をやるには、開催前の大体2~3年前から資料を集めて様々な調査研究をします。その中から新しいこともたくさんわかってきます。今回は一つは明治時代の実業家の中には美術品を収集して後にそのコレクションをもとに美術館をつくった人がたくさんいるのですけれども、渋沢はそういった仲間ではないというふうに思われている。つまり、美術にはあまり興味がなかった人ではないかと思われているふしがあるのですけれども、実はそうではなかったということがとてもよくわかってきました。

渋沢は書籍もたくさん持っていたのですが、関東大震災で多くの収集品を失ってしまったのですけれども、震災後にも渋沢の家、青淵文庫に「家宝陳列室」というものがあったという記録がございましてそこにどのようなものが陳列されていたのかということはよくわからないのですけれども、お孫さんの渋沢敬三氏が博物館構想を持っていて、渋沢が収集していたもので博物館をつくろうとしていた、それも結局は実現しなくて、コレクションを各機関に寄贈したということなのですけれども、その中でこれまであまり知られていなかった作品も発見されています。東京国立博物館に「表慶館」という建物があります。これは大正天皇のご成婚記念の時に開館したもので、これは渋沢栄一が中心となって資金を集めて献納した建物なのですけれども、その会館記念展に円山応挙筆の「寿老西王母孔雀図(じゅろうせいおうぼ くじゃくず)」という絵画を渋沢が出品したという記録があります。それがどこにあるかわからなかったのですけれども、今回この絵が発見されまして、所蔵不明になっていた作品が発見されて、それもこの展覧会に出品されました。

 

渋沢は円山応挙のような古美術品だけでなく、渋沢栄一と同時期に生きた下村観山や、橋本雅邦の息子の橋本永邦というその時代に活躍していた作家も応援するようなこともやっていました。同時代の作家の絵を買って、いわばファンクラブを作って応援してあげるということもやっていました。ですので、三菱の岩崎弥之助、岩崎小弥太親子が収集したものが「静嘉堂文庫美術館(せいかどうぶんこびじゅつかん)」になっているとか、大倉喜八郎が収集したものが「大倉集古館」となって展示されているということはないのですけれども、渋沢栄一もかなりの美術品を収集していて、美術の振興に努めてくれていたということがわかってきました。

今後もっと研究が進んでいくと、渋沢の美術コレクションの全容がわかって、知られざる一面というのが明らかになるのではないかと楽しみにしています。

 

それからまた、この展覧会の中で、渋沢が文化財の保護にも尽力してくれたということが出ています。

これは今もありますけれども、「西ヶ原一里塚(にしがはら いちりづか)」という国指定の史跡です。これは「日光御成道(にっこうおなりみち)」の2里目の一里塚なのですけれども、徳川時代に設置されたままの位置をとどめていて、都内では大変貴重なものです。大正末期に東京市電の軌道が敷設されることになって撤去されることになったのですけれども、渋沢がこれは残さなければならないということで、それで、渋沢栄一だけではなくて、地元の名士に声を掛けて皆でお金を集めて、つまり、先程お話にあった「合本主義(がっぽんしゅぎ)」ですよね、皆でお金を出し合って周辺の土地を買い取って東京市に寄付をして碑も建てて、国の史跡に指定して保存したという、そういう活動をしています。

文化財保護の考え方も「文化財保護法」ができた当時は国が指定して、所有者を国が補助金で支援して守っていくというスタイルだったのですが、最近になって社会総がかりで関係する人皆が力を出し合って文化財を守っていこう、それでないと、いろんなものが守っていけないというふうに変わってきております。まさに渋沢が皆でお金を出し合っていたことが、今になって制度的に文化財保護法が改正されて、皆で関わろうというふうになってきております。

この大正時代に文化財保護法の先取りをしていた素晴らしいことだなと思っております。

 

それからまた、この展覧会では、子どもたちにも見に来てほしいということで、こういったジュニアガイドのようなものも作っています。特に先程お話にありましたように、「青い目の人形」の展示もございましたので、そういったことで子どもたちもたくさん見に来てくれました。

 

「青い目の人形」は、アメリカから12,000体以上贈られてきたのですけれども、埼玉県には178体が寄贈されました。しかし、第二次世界大戦の時にこれは敵国から贈られたものだということで捨てられたりしまして、現在県内で確認できるのは12体だけです。今回の展示会では、この埼玉県に残る青い目の人形12体を借りてきて展示いたしました。

同時にまた、この青い目の人形が残っている学校の5校で、青い目の人形と日本がアメリカに答礼として贈った市松人形と同じような市松人形が一緒に箱の中に入っていることがわかったのですね。どうして青い目の人形と市松人形が同じ箱の中に入れられているかということがこれまでわからなかったのですけれども、展覧会をやっていろいろ調べていくうちに、青い目の人形が一人では寂しいだろうということで、それで答礼人形と同じ市松人形を入れたということがわかりました。

 

今回の展示会ではまた、今アメリカのサウスカロライナ州に飾られている埼玉県からの「答礼人形」(※各都道府県代表として答礼人形に名前がつけられて埼玉の人形は渋沢栄一が「秩父嶺玉子(ちちぶねたまこ)」と名付けたもの)と同じものを専門家に力をお借りして約1年かけて復元したものを展示いたしました。また、秩父の影森小学校にある(青い目の人形と一緒に入っていた)市松人形が非常に劣化していたのでそれを今回修復して展示するといったようなそういった試みも行いました。

 

学校におきましては、この青い目の人形を活用して、世界の中で生きていく日本人、渋沢栄一が世界平和のために行った活動、それから今ちょうどオリンピック、パラリンピックが行われていますので、世界の中での日本、世界の国々のこと、日本の国の良さ、そういったことをイベント的に子どもたちが学ぶのではなくて、年間を通じて教科横断的に学ぶといったようなことを小学校ではやっております。

 

 

「第31回全国産業教育フェア埼玉大会チラシ」※大会資料ダウンロードページより

 

それから、もう一つだけご紹介しておきたいのですけれども、今年、埼玉県で「第31回全国産業教育フェア埼玉大会」が開催されます。これは、全国の専門高校生等の生徒の活躍の発表の場である全国大会です。今年はこれを埼玉県で開催いたします。

10月30日開催予定なのですけれども、その中で現在、埼玉県内の商業高校の生徒さんたちが「彩の国商業高校生渋沢栄一シンポジウム」というものを今準備をしております。これはオンラインで全国に配信されますので、ぜひ「全国産業教育フェア埼玉大会」のホームページをご覧いただいて、オンラインで見ていただければと思います。

 

■「第31回全国産業教育フェア埼玉大会(令和3年10月30日オンライン開催)」のホームページ

https://sanfair2021.spec.ed.jp/home

 

■「彩の国商業高校生 渋沢栄一シンポジウム」については、

https://sanfair2021.spec.ed.jp/shibusawa-eiichi-symposium

 

 

また、商業高校と工業高校が協力をいたしまして「VR(仮想現実・バーチャルリアリティーシステム)」、これを使った渋沢栄一展というのも、この産業教育フェアで行いますので、これもぜひご覧いただきたいと思います。

 

また、深谷商業高校では、地元の企業と連携をいたしまして、渋沢栄一が大好きだったオートミールを使用したクッキーを開発しまして、これも販売していてとても人気だというふうに聞いております。

 

こういったように小学校でもまたそれぞれの学年に応じた渋沢栄一の取り上げ方をいたしまして、渋沢栄一がどんなふうに社会に貢献していたのか、そういったことを子どもたちが学ぶことによって埼玉県の子どもたちが、自分は埼玉県に、そして日本の社会に貢献できるかということを考えてくれるそのような教育に取組んでいるところでございます。これからの子どもたちの活躍も楽しみにしたいと思っております。ありがとうございました。

 

 

◆ 井上 潤(いのうえ じゅん)氏

 

 井上 潤(いのうえ じゅん)氏

・公益財団法人渋沢栄一記念財団業務執行理事

・渋沢史料館館長

・現在、企業史料協議会監事

・公益財団法人北区文化振興財団評議員

・公益財団法人埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)評議員等を務める

 

渋沢栄一自身が美術について造詣が深いとか、文化面について内容を深く語ることはないのですけれども、美術の世界を発展させる、また、その作品を創られる方々を育てるというような意識、日本の文化をちゃんと育てていかなければならない、そういう意識のもとで、その人たちの作品を、例えば渋沢栄一の屋敷自体も、襖絵は橋本雅邦(はしもとがほう)でありますし、滝和亭(たきかてい)の絵を使っていたり、そういう方々の作品をちゃんと生活の空間の中にまで溶け込ませて、残していたところがあります。

それから、文化財保護ということで、「西ヶ原一里塚(にしがはら いちりづか)」、私どもの史料館のすぐそばにあるのですけれども、決してそれを残すというだけの行為ではなく、残したものをちゃんと後に継承させるということ、江戸城の石を持ってきて、そこに徳川でいえば16代目にあたる家達(いえさと)さんに題字を書いてもらって、残したいわれをちゃんと刻んで残すということ、やはり、文化を残す、そして継承する、新しいものを生み出すだけの人ではなくて、過去の伝統的な文化、これも非常に大切にしていた人なんですよということを、改めて、教育の方面でもお伝えいただけるようになっていけばなと強い思いで今お話を聞かせていただきました。

 

 


◆ 大塚 陸毅(おおつか むつたけ)氏

~岩崎弥太郎との対比から見た渋沢栄一~

 

大塚 陸毅(おおつか むつたけ)氏

・埼玉県人会名誉会長(第11代会長)

・東日本旅客鉄道株式会社 顧問

(略歴)

・埼玉県立熊谷高校、東京大学法学部卒業

・東日本旅客鉄道(株)にて代表取締役社長、取締役会長を歴任

 

渋沢栄一をぜひ大河ドラマにという話は実は私ではなくて、他の方が非常に熱心に進めておられまして、私もそれに共感をしていたということであります。こういう形でドラマという形で皆様に見ていただけるということというのは大変素晴らしいことだなと思っております。

私はこれからお話する時に、渋沢栄一がもちろん中心ではありますが、実は時をまったく同じ時期に三菱グループの創始者である岩崎弥太郎(いわさき やたろう)渋沢栄一と岩崎弥太郎というのは対照的な部分があって、渋沢栄一をよりよく知っていただくという点からいいましても、この岩崎弥太郎という人がどういう人であったかというのも皆様に知っていただいたら、なお面白くなるのではないかという感じがいたしますのでそのようなことも含めてお話させていただければと思います。

 

渋沢栄一は深谷の農家の出身であると言われております。農家といいましても、豪農、非常に豊かな農家であったようであります。そういう関係もありまして、江戸に出て行っていろいろな勉強をしたり、あるいは一橋慶喜に仕えまして、パリの万博に行ったりということをしておりまして、非常に視野を広げることをしておったわけであります。

一方の岩崎弥太郎はどうがかと言いますと、土佐の地毛浪人(武士ではあるけれどもその身分を他の人に譲るというか、そういう形になってしまったというのを地毛浪人と言うのですが)、そういう身分の方でありましたけれども、岩崎弥太郎も大変戦闘的な性格といいますか、物事と戦っていくことに非常に旺盛だったと思います。有名な話としましては、台湾出兵にあたって、三菱商会という組織が政府の依頼を快諾して、政府軍の輸送にあたったという話がございます。

二人とも生い立ちを見ますと、片方は農家といっても非常に豪農であったと、一方岩崎弥太郎は、武士といわれておりますが、大変貧しい中で育ったという意味で、二人とも必ずしも当時の高い身分出身ではなかったことが共通しているということであると思います。

 

渋沢栄一の経営哲学というのは「合本主義(がっぽんしゅぎ)」ということで、多くの資本と知恵を集結していくというやり方であります。その基本には「公益」を追求するという気持ちがあったという、こういう使命を持っていたというところが、私は渋沢栄一の特徴だというふうに思っております。

一方の岩崎はどうかといいますと、「社長独裁」、これが企業の活力である。社長をしている人には大変都合がいいのですが、こういう考え方で、例えば三菱汽船の会社の規則の中には、「当社は会社の名を冠し、会社の体を成すといえども、その実全く一家の事業にして、会社に関する一切のことは全て社長の決済を仰ぐべし」ということを決めているということで、非常に独裁的な経営をしていたということだろうと思います。

どちらが良いかということはなかなか言いづらいかと思います。その時、その時代によって変わってくるだろうと思います。考え方はそのくらい違っていたということであります。

 

面白い話がありまして、明治22年、23年頃の話だといわれておりますが、二人の確執が大変激しくなったのでありますけれども、岩崎弥太郎が渋沢栄一に舟遊びでもしようではないかということで、誘って、二人で舟遊びに行ったわけでありますが、そこでまた二人の議論になってしまいましてしまいました。大変激しい議論になって、渋沢栄一は面白くないと言って芸者を皆引き上げてしまったというようなエピソードが残されているようであります。

ただ岩崎弥太郎は、明治18年に胃がんで急逝をするという、渋沢栄一と比べますと岩崎弥太郎は短命であったということでありますけれども、そういう形で結局二人の関係はそれ以上親しくなることもなかったということであります。二人の考え方というのは、一見全く違うようでありながら、かなり共通している部分もあるというところが非常に興味のわくところであります。

 

渋沢栄一がよく言っていた言葉の中に、「順境といい、逆境といい、いずれもすべての人々の心がけ次第である」ということを言っております。つまり、これは岩崎弥太郎も同様でありますけれども、人のせいにしない、自分に与えられた運命の中で生きていくというということだと思います。この点では二人の考え方というのは非常に似通っていた。非常に合わないところと、双方が非常に合っていたところがあるというのが面白いというふうに思います。基本的に二人とも国際感覚に非常に優れていたということがいえると思いますし、最終的には日本を強くするという思いも共通していたということであります。

 

渋沢栄一は特に鉄道会社に関心がありまして、いろいろ関与しています。これが今の鉄道の基本につながっているということでありますし、ちょうど明治5年(1872年)の鉄道の開業記念の時には、記念列車に乗車しております。この記念列車に乗車している方々が大変面白くてですね、3両目に明治天皇、井上勝、4両目には西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、5両目には勝海舟、井上薫、黒田清隆、山県有朋、そして6両目に渋沢栄一、こういう素晴らしい当時の歴史上の人たちが乗っていました。渋沢栄一にとっての鉄道というのは、非常に重要なインフラとしての意識を持っていたというところが渋沢栄一の特徴だと思います。

最後に皆様ご存じのピーター・ドラッカーという方がおられますが、このピーター・ドラッカーが渋沢栄一と岩崎弥太郎の業績につきまして、「これはロスチャイルドや、モルガン、ロックフェラーの業績よりもはるかに目覚ましい」と言っております。「この二人だけで、日本の工業、運輸関係企業のおよそ三分の二をつくりあげたのである。たった二人の人間が、国の経済にこれほど影響を与えた例はどこにも見あたらない」ということまで言っておられます。

この岩崎弥太郎と渋沢栄一の確執ということもありましたけれども、渋沢栄一のすごさというのはピーター・ドラッカーも認めるところであることを付け加えておきたいと思います。

 

 

【司会者:堀尾氏】

調べてみましたら、岩崎弥太郎は渋沢栄一の5歳年上なのですね。それで、50歳で亡くなられていると、ずいぶん早く亡くなられているということなんですね。

 

【井上館長】

岩崎も渋沢も日本の経済発展、これを強く望み、そして、国際社会の中にちゃんと位置づけられる日本ということを意識していました。国際感覚を持って発展を望んでいたというところがあります。

ただ、手法が違った、これは渋沢栄一も強く語るところです。お互い私の部分の中では、本当に昵懇(じっこん)の仲だったのですよ、あれだけ新聞や雑誌で騒ぐ程仲が悪いわけではないんだということを言っています。ただ、考え方が違う。

ただ一番特徴があげられるのは、海運業を独占するという方向へと進みだした岩崎に対して、対抗する「東京風帆船会社 (とうきょうふうはんせんかいしゃ)」という会社を三井と一緒になって対抗させるということで、競争によって海運業を独占させないように持っていった渋沢がいました。ただ残念なことに弥太郎は間もなく亡くなってしまうのですが、あまりにも海運業自体が廃れるような過当競争に陥った時には、これはお互い手を携えて資本力をアップさせて大事業として進めるべきだということで合同に結び付けていったというようなところもあります。やはり、最終的には事業自体を大切にしようとした考え方がそこに見え隠れするのかなという気がしていますね。

 

 


◆ 岡本 圀衞(おかもと くにえ)氏

~渋沢栄一と埼玉県人会~

 

岡本 圀衞(おかもと くにえ)氏

・埼玉県人会 第12代会長

・日本生命保険相互会社 相談役

(略歴)

・埼玉県立浦和高校、東京大学法学部卒業

・日本生命保険相互会社にて代表取締役社長、代表取締役会長を歴任

 

 

まず、埼玉県人会との関係についてですけれども、渋沢栄一翁は初代会長であります。

県人会は大正2年に創立。3年間会長を置かれませんでして、大正5年に会長として就任されました。それから昭和6年までですから、なんと15年間会長職を務めておられまして、この思想、精神というものは現在に至るまで我々県人会に息づいているとこのように思います。

 

具体的なポイントは5つ程述べたいと思います。

まず一つ目ですけれども、「埼玉縣人會」、この文字を見ますととても繊細で美しい字だなと、慈愛に満ちた字だなと、本当に埼玉県人会が好きなんだなとそのような感じがいたします。まさに人柄が彷彿しています。我々はまず、この文字を真ん中に置きながら、今でも渋沢栄一翁とお話ができているこういう立場なんだと、これが一点目でございます。

 

それから二点目ですけれども、これだけ忙しい人だったのだから、なかなか県人会に関われなかったのではないだろうかと、失礼ですけれども皆に担がれてというふうに私は思っていたわけですけれども、実はそんなことはないのですね。手帳を見たり、話している言葉を聞いたりしていると、かなり積極的に県人会に関わっているということなんです。これは、郷土愛というものがあるわけですけれども、もう一つ、渋沢翁が話していることの中にあります。その頃、埼玉県が新しくできました。だけれども、埼玉県というのは江戸時代においては小藩が分立し、幕府直轄領がある、旗本領がある、これもバラバラにありました。このようなところでは県としてのまとまりがなく、まとまりがなかったら力が出ないと、渋沢翁は言われています。そういった中で、埼玉県人会をつくろうと、このような発想ですから、これは乗っかりとかそのようなものではなくて、まさに渋沢翁が埼玉県に対して、まとめていこうとそれだけ強い気持ちがあったのではないかと思っています。

 

それから、三点目ですけれども、それでは埼玉県人会への思いというもの、具体的に埼玉県人会のメンバーにどのようなことを期待したのかということでございます。

これは質の面と量の面がございます。

まず質の面で言いますと、渋沢翁は「埼玉県人はすべからく立派な国際的日本国民であれ」とこういうことを言われています。この時代、100年も前に、「国際的」という言葉を使われているのですけれども、このような高邁(こうまい)な思想、これを受けて我々県人会の目標は、「埼玉県人の知徳を進め人格を高めて、社会文化の向上発展に寄与する」です。つまり、我々一人一人がもっとレベルアップしようよと、そして世の中の役に立とうよと、このような方針を立てているわけです。したがいまして、その後も会がいろいろと開かれるわけですが、その時もかなり有名な立派な人を呼んで講演会に招いて、埼玉県人の知徳を高めようとこのような努力をされているわけでございます。

 

それから四番目ですが、量ということですけれども、これについては、やはり数は力なりという考えがあると思うのですね。昭和3年、実は埼玉県人会の会員数が1000名を超えたのです。この時に渋沢翁は本当に喜ばれて、やはりみなのレベルが上がり、上がった人が1000人集まる、これは非常に大きな力になる、このような話をされています。1000人になった時の昭和3年は、埼玉県の人口は140万人です。現在は700万人を超えているということですから、5倍です。ですから当時の1000人というのは今でいう5000人です。実は今の埼玉県人会の会員数は850人ちょっとでございます。私が会長に就任した時に、本当に1000人にこだわってぜひ1000人にしようと言ったのは、やはり、1000人になった時の渋沢翁の喜びが頭にこびりついて離れないのですね。したがいまして、私はこの1000人にまずはもっていこうと思っています。会員の皆様方にもぜひ協力していただきたいなとこのように思います。

 

それから、五点目ですね、これはいくら渋沢翁が立派だといっても、やはり一人では埼玉県人会の運営というのは無理です。渋沢翁を慕ってくる人たち、立派な人たちがたくさんいたのですね。例えば本多静六氏、大川平三郎氏、諸井恒平氏、こういう方々がみなでこの会を持ち上げていこうと、こういう方々が団結して結束してやったからこそ、この埼玉県人会というのは107年の歴史を持ってきたのではないかなと思います。そしてこのように考えてみますと、渋沢栄一翁は我々に何を語っているのかと言えば、やはり、我々一人一人のレベルをアップしてそして会員数を大きくして、そしてもちろん県人会の発展はそうですけれども、埼玉県のバックアップの大きな力になれと、このようなメッセージを我々に投げ掛けているのではないかと思います。

 

 

それから、「我々は今何を学ぶか」ということについてです。

これについては人それぞれの受け止め方があります。こうであるべきだということではなく、私から見た場合の学びということについてお話をしようと思います。

私は企業人ですから、企業人としての視点と、私個人としての視点と2つに分けます。

企業人の視点として、今盛んに言われているのは、「企業は誰のものか」ということであります。これは、アメリカの人から見たら、「株主のもの」とうことになります。

ところが日本は違いますね。やはり会社というものは株主も必要だけれども、その他に従業員もいる、製品を買ってくれるお客様もいる、それから、仕入先、債権者(銀行をはじめお金を貸してくれる人)、そうした人たちが全部集まって会社というものは成り立っている。

であるとすれば、その利益というものはそれぞれがバランスよく享受する、このような考え方があって、これは、「ステークホルダー」というわけです。

例えば、「スチュワードシップ・コード(Stewardship Code)」「ガバナンス・コード(Governance Code)」。

「スチュワードシップ・コード」というのは、やはり株主が心掛けないといけないこと、「ガバナンス・コード」というのは、経営者が心掛けなければならない、この中にはステークホルダーという言葉が必ず入っています。

このような全体のことを考えようよという思想は、これは日本独特だと思うのですけれども、それは、500社もつくった渋沢栄一翁の思想というものがそれぞれの経営者にあって、連綿と受け継がれていって、自然な形で今の経営者に伝わっているのではないかと思います。

 

会社は誰のものということと裏返しになりますけれども、会社は利益を追求すればよいのかということでございます。

これは、当然、株主のものであれば利益を追求でいいのですが、日本の場合、そうではありません。

やはり今申し上げたように、いろんな人が関係しているということと、もっと大きく言えば消費者全員、日本国民全員、それに対して、会社というものは何ができるか、こういう視点があるのだと思います。

今我々はCSR、いわゆる企業の社会的責任、あるいはSDGs(持続可能な開発目標)、こういうものが今取り入れられております。このSDGsは、皆さまご存じのように、この地球から貧困をなくそう、皆が教育を受けられるようにしよう、福利厚生を徹底していこう等、いろんな17の項目がありますけれども、こういった考え、これは国連の考えですけれども、日本においてすぐにスムーズに受け入れられました。

これはやはり「企業は社会の公器である」、そして短期的なものではない、企業価値の向上を目指すものであるという、実は私はこれも国を富ませ、企業をたくさんつくったと同時に社会事業家としての渋沢栄一翁の考え方があるのだと思っております。

このような方向で、これからもますます高めていかなければならないなとこのように学習しております。

 

それから、個人としてについてです。

これはもちろん、先程いった「国際的日本国民」ということからすれば、英語を話して外国の人と付き合ってということもあると思いますけれども、もう一つ、「立派な」という言葉が付いています。「立派な」ということは、今、地球レベルでの課題が何なのかということだと思います。

どの国でも一つは、「デジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation:DX)」とうことですね。それからもう一つは「グリーントランスフォーメーション(Green Transformation:GX)」ですね。この二つがあるわけです。

 

私は、この「デジタル」というのは、今大きな社会的変革の時代だと思いますし、渋沢栄一翁はあの100年前にこのデジタルと同じようなことを手掛けたと思うのですけれども、そういった意味では、このデジタル化とうことがあった時に、「できないよ」とかそういうのではなくて、これは地球言語になるわけですし、日本が地球において貢献する非常に大きなものになるわけです。多分、渋沢栄一翁が今生きていたら、我々に対して、「今度はデジタルにちゃんと乗り遅れないように、地球に対して貢献しろよ」と言われたのではないかなとこんなふうに思います。

 

それからもう一つは「グリーン」ですよね。気候変動、地球温暖化、自然災害等、直面する環境問題があります。

これに対しては、渋沢栄一翁だけでなく、先程申し上げました本多静六翁、この方はもう100年前に日本全国にグリーンを広げようということで、例えば明治神宮の森ですよね、これは原生林のような森ですけれども、これは100年前から10年後、20年後、50年後、100年後、こうなるんだという絵まで描いて、そして今があるわけですね。本多翁は、日本中に公園を作ろうとか、由布院でもどこでも緑でいっぱいにしようとか、これを100年前にやったと、これが埼玉県人会の本当の大先輩なんですね。ですから、渋沢栄一翁、本多静六翁を大先輩として持つということを我々は誇りにしなければなりませんし、また今いる会員も将来に向かってそのようなことを発信していくのではないかとこのように思っております。

 

最後にですけれども、渋沢栄一翁は今どのように判断するのだろうかなと思うことが一つあります。

これは、「少子高齢化・人口の減少問題」です。今まで日本は世界第2位だとか言っていますけれども、人口が減っていくことはもちろん国力が下がっていくと、そして影響力も下がっていくとこういうことになります。自然体でそういう方向に行ってもいいのか、今、人口オーナス(onus)の時代ですね。

そうでなくて、渋沢翁の生きていた時代、人口ボーナス(bonus)の時代。だまっていても人口が増えていく時代渋沢翁は「がんばれよ、世界に負けるな」という方向なのか、そうではなくて、やはり一人一人の幸せを追求したらいいのではないか。

というのは、渋沢翁は国を富ませるという意味で、500も企業を作ったという側面と、社会事業家として人々が幸せというものを追求する側面、どちらの面も持っています。こういうふうな状況を見て、渋沢翁はどういうふうに判断するのかなと私は思うわけです。本当は聞きたいのですが、今おられませんので、井上館長、どういうふうにお考えかということをお聞きしたいと思います。

 

 

【井上館長】

人口問題といいますか、都市の繁栄、地域の繁栄に対して渋沢翁は非常に意識をしていたということは先程私の講演の中で最後に少し申し上げた通りなのですね。

今岡本会長がおっしゃられた中に、国民一人一人のために行動、それから、世界に追いつけ追い越せというような発展を志向するのかという見方があります。渋沢栄一はそこまで強力な競争意識を持ってというところではなくて、むしろ「万国並立」、皆が同じように発展を望むようなところで、そのバランスをうまくとられるような社会を築き上げていくということを前提に考えていた。

その中にあって、人口が突出するようなところではあまりよろしくないような、特に渋沢栄一が言っていたのは、人間の体によく例えるのですね。例えば、頭に血が全部集まったらそれは健康な体ではないですよね、むしろちゃんと血流が全体に行き渡る、そして手の指先、足の指先までそれがちゃんと巡って、一つ一つの細胞が活性化された健康な体が一つのものになる、それは国も同じであって、都市部に人口が集中するようなこと、これは決して良くないということも言っていました。

今の与えられた私への問題提起に対する質問とはちょっと違った方向での回答となっておりますけれども、渋沢栄一はそこらへんのバランスは非常に考えています。とはいえ、自身は大変な子だくさんだったというところは一つの大きな特徴であります。

 

【司会者:堀尾氏】

渋沢栄一の県人会への思い、あるいは埼玉県への思いはどのようなものだったでしょうか?

 

【井上館長】

実は県人会100周年の時にお話しさせていただいたのですが、先程岡本会長がおっしゃられたように、渋沢栄一が述べたという「国際的な」は、それは「国際人たれ」ということではなく、「国際的な視野を持って」行動活動すべきだということを非常に重んじているところがあります。

それと、渋沢栄一は、「どんな賢人、どんな先人であっても郷土を愛さない人はいない」ということを言っています。まさに、生まれ故郷に対する愛や思いはいつまでも持ち続けるようなところがある。県人会は大正2年にスタートされましたが、このおおもとは、明治16年、17年の「埼玉県人懇話会」そこがスタートで、その明治44年の会に初めて渋沢栄一は出席したのですね。そこで感じて、こういう会があるならば、さらに発展をということで、当時の知事たちに呼び掛けて寄付を集めて規模を拡大化させる、人を集める、まさに先程岡本会長がおっしゃられたように、量をもって県人会へと発展させたという、それを継承させて現代に至っている107年も続いている会については非常に頼もしく、また、誇らしげに渋沢栄一も感じているのではないかと思います。

 

SDGsのお話もありましたけれど、「持続・継続」ということを非常に重んじる人、それがあってはじめて世の中全体がバランスよく形作られて維持されていく、そこに人々の安寧な生活が成し遂げられていくということを強く思っていた人なので、まさに県人会は一つのその現れ、顕現化された一つの形なのだと強く感じました。今の岡本会長の話、なんとなく渋沢栄一の話を聞いているような気で聞かせていただきました。

 

 


◆ 池田 一義(いけだ かずよし)氏

~埼玉県150年の歴史と渋沢栄一栄一翁~

 

池田 一義(いけだ かずよし)氏

・株式会社埼玉りそな銀行取締役会長

・埼玉県商工会議所連合会会長

・全国法人会総連合副会長 など

(略歴)

・埼玉銀行入行 りそなホールディングス、りそな銀行役員などを経て

・埼玉りそな銀行 代表取締役社長を歴任し、現取締役会長

 

 

私から2つお話をしようと思います。

一つは、今お話がありました埼玉150年についてです。経済について全部をお話しすると2時間では足らなくなりますので、埼玉の経済の発展の一端をお話をさせていただこうと思います。

それから二つ目は、渋沢翁が埼玉に残した思想と人材について、人材については少し銀行と絡めるのですけれども、お話をさせていただきたいというふうに思います。

 

まず、埼玉の経済でありますけれども、皆様もご存じのように、埼玉は特に県北では「養蚕業」、これが大変発展をしております。これは江戸時代後半から養蚕業が大変盛んでありました。

それから、先程の井上先生のお話でも出てきましたけれども、深谷でも養蚕、藍玉を含めてですね、こういうものが発展していったわけですけれども、同時に綿織物、こういうものも大変発展しております。

例えば養蚕だと秩父では「秩父銘仙(ちちぶめいせん)」という有名な織物があります。こういうものも古くから作られていました。

それから、綿織物の場合ですと、例えば蕨市で、皆様ご存じかもしれませんけれども、「双子織(ふたごおり)」、こういうものがあります。

それから、東武での加須市・羽生市では、「青縞(あおじま)」というまさに藍を使った武州織物(ぶしゅうおりもの)、こういうものが産出し作られており、商売としても栄えていたというふうに言われております。

 

特に埼玉の養蚕が急に発展したきっかけは、明治初年、イタリアとフランスで蚕種(さんしゅ)が、伝染病、病原菌の関係でとれなくなってしまった。それで急遽輸出に頼る、特に日本と非常に交易が始まったところでありますので、特に日本の蚕種を求めたということで、大変需要が活発になった。

その時に一番多く輸出をしたのは、埼玉県だったということで、埼玉は屈指の養蚕県に発展したというふうに言われております。これは深谷もそうだったのではないかと思います。

 

まさに明治5年に富岡製糸場ができるわけでございます。初代工場長が尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)であるわけですね。この富岡製糸場を作るときには、渋沢栄一翁がまだ官にいましたから、おそらくこの建設については渋沢翁が働きかけをしたのでしょうけれども、実際に工場を担ったのがまさに、親戚筋の尾高惇忠だったということであります。

尾高惇忠ははじめフランス人の技術者を雇って、それで工場を始めるわけですけれども、最初は担い手が集まらなかったというふうに言われております。特に工女が集まらなかった。なぜかというと、フランス人はワインを飲む。このワインは若い女性の生き血だというふうに言われて、なかなか人が集まらなかったというふうに言われておりました。

この時に尾高惇忠の長女であります尾高ゆうが、これからもしかしたら『青天を衝け』で出てくるかもしれませんけれども、尾高ゆうが入場し、工女集めに大変尽力したと、親孝行をしたというふうに言われております。

この尾高ゆうが実は、後に永田家に嫁ぐんですけれども、彼女の長男がなんと、永田甚之助(ながたじんのすけ)と言いまして、埼玉銀行の初代頭取となる人材でありました。

 

生糸や綿が発展する。生糸が輸出に多く用いられたという中で、一人、キーマンになると思われるのが、横浜でまさに有名な人でありますけれども、原善三郎(はらぜんざぶろう)という人材であります。この人はまさに横浜で豪商となるわけですけれども、いわゆる横浜の製糸貿易の中心人物になるわけですけれども、この人の出身地が、なんと埼玉県児玉郡神川町であります。まさに埼玉県の人材が、横浜で、江戸時代の後期に貿易で財を成したということであります。

後に、この人は横浜の国立第二銀行の頭取になります。今でいう横浜銀行ですね、その頭取になります。

横浜商工会議所の初代会頭にもなります。こういう人材がいた。

この人材が、おそらくは、群馬・埼玉・横浜というシルクロードを開拓した大きな牽引力となったというふうに私は思います。富岡製糸場は初めは官でしたけれど、三井家に払い下げられて、三井家から一時、原合名所有になっております。その後に片倉工業に移ったという経緯がございますので、そういうものが力を与えたのかなと思います。

 

それから、当時、鉄道がまだない時期でありましたので、物流は多くは船運でした。

先程これも井上先生からお話がありましたけれども、深谷には中瀬河岸があったということでしたけれども、利根川はまさに船運の中心だったわけですね。利根川・荒川・新河岸川、こういうところを舟で物流が大きく動いたということもあります。

さいたま市ですと、見沼代用水がありますけど、ここに明治6年に見沼通船会社ができていまして、川口から行田まで含めて運河や川を通じて物資が様々動いたということで賑わった。埼玉は物流の中心になったんじゃないかなと思いますね。

まさに現在も埼玉は首都圏のど真ん中にありますから、物流の中心でありますけれども、当時からその根があったのだと思います。

それから鉄道ができるのは、明治14年、日本鉄道会社ができます。埼玉も明治16年に上野から高崎に鉄道が開通します。これによって一気に輸送量が増えますので、経済発展につながったということが大きくいえるのではないかと思います。なおかつ、宇都宮線、高崎線もできてきますから、大宮という地域はまさに物流の中心点、輸送の中心点。大宮は鉄道のまちとも言われていますけれども、その原点もこの明治時代にできてきたのだと思います。

 

それから、経済変動という点におきましては、明治20年代から40年代に戦争が、日清戦争・日露戦争がありましたので、戦時というのは、一時好況になりますけれども、戦争が終わると不況になる。ということで、好況と不況が繰り返される時代でもありました。こういう時にやはり埼玉の産業、生糸の産業についても大きな影響を受けて倒産がたくさん出たということで、大変な危機の時代でもあったと言われています。

そういう中で、銀行も破綻が多くて、当時多くの銀行がありましたけれども、多くは倒産をしたり、新しい銀行ができたりということの繰り返しだったと言われています。

特に、明治の終わりから大正になってきて、第一次大戦があり、第一次大戦後の不況があり、それから、大正12年関東大震災が発生しました。ここで渋沢翁は大変大きな力をふるうわけでありますけれども、大変な震災の中で、復興支援に力を尽くすわけであります。こういうところでも大変な被害がありました。

 

それから、昭和2年になると、金融恐慌が起こります。東京の中井銀行や渡辺銀行、当時あった銀行が破綻をする、または取り付け騒ぎが起こる。実は、埼玉の中にも中井銀行の支店が数多くあったのですけれども、取り付け騒ぎが起こりました。

 

そういう中でまた、昭和4年には世界大恐慌が起きるということで、大変な混乱の時代があったのだと思います。そういう中でも埼玉というのは、連綿と産業を続けていきました。

 

その後、戦争に入っていくわけですけれども、戦時中県内のほとんどの工場や産業は軍需工場化されました。例えば、中島飛行機などは典型ですね、こういうところなんかも軍需工場化されました。それから戦前に様々な産業誘致した会社があります。例えば、日本車輛製造、日本ピストンリング、日本ディーゼル等、いろんな会社があったのですが、軍需産業に転換されたという記録がございます。

 

戦後の経済復興、埼玉県の発展はみての通りでございます。

渋沢翁が産業基盤、インフラを日本のためにたくさんつくったわけですけれども、これが埼玉のためにも生きていたというふうに思います。

 

それから、人材ということでお話をしたのですが、渋沢家、尾高家、永田家、諸井家、これはみな実は、渋沢翁の親戚筋にあたります。この方たちがどういう活躍をしたのかというお話をさせていただきます。

埼玉県で初めて銀行ができたのが、明治11年。第八十五国立銀行が開業しました。まさに、明治6年に第一国立銀行ができて、その後間もなくでしたけれども、埼玉県にも早くから銀行ができた。その後、明治27年、29年熊谷銀行、深谷銀行が渋沢翁が発起人で出来ました。埼玉県においても渋沢翁は銀行をつくっていたということであります。

一つ、渋沢翁が顧問をやっていた入間の黒須銀行(くろすぎんこう)、この銀行は、先程井上先生のお話にもありましたけれども、「道徳銀行」とも言われておりまして、庶民の積立金をもとにしてできた銀行、それを産業殖産、経済のために使っていくということで、道義にもとる貸付はしないということで、「経済と道徳合一」を具現化した銀行と言われていまして、渋沢翁がこういう銀行は「道徳銀行」だということで、扁額を残した。これはわが社、埼玉りそな銀行にも現在あるわけですが、こういう思想も残したということだというふうに思います。

 

黒須銀行は後に昭和恐慌を経て武州銀行(ぶしゅうぎんこう)と一緒になります。武州銀行は大正時代につくられるわけですが、様々な倒産や破綻がある中でしっかりとした銀行をつくらなければならないということを、岡田埼玉知事が提唱しまして、この方が「埼玉中央銀行構想」を提唱します。そこで出てきたのが実は武州銀行で、おそらく渋沢翁といろんな相談をされたのだと思います。初代頭取は尾高惇忠の次男、尾高次郎(おだかじろう)が担います。その後、2代頭取が大川平三郎(おおかわへいざぶろう)。まさに渋沢翁の親戚筋が経営を担うのであります。

その後、武州銀行は八十五銀行(川越)、忍商業銀行(行田)、飯能銀行(飯能)、4つの銀行が合併していくのですけれども、昭和18年、「一県一行主義(いっけんいっこうしゅぎ)」という日本の政策の中で、一つの銀行になってしまうのですが、その埼玉銀行ができた初代頭取が、尾高ゆうの嫁ぎ先の長男が永田甚之助(ながたじんのすけ)であります。こういう人材を輩出したということも言えるのではないかと思います。

 

最後に、諸井家についてです。こちらは日本煉瓦製造をつくりました。渋沢翁が日本煉瓦製造の初代社長です。諸井恒平(もろいつねへい)は秩父セメントをつくった人材です。この人も大変道徳心の強い人で、「恒産無き者は恒心無し」という思想を企業に植え付けた人材であったと言われております。

このご子息が諸井貫一(もろいかんいち)でありまして、東京の「経済同友会」をつくった方であり、初代代表幹事でもありますし、「日経連(日本経済団体連合会)」の代表常任理事でもあった方です。実は埼玉銀行の会長でもありました。こういう方が経済を担っていたということです。

 

渋沢翁がつくった思想も、こういう人材を通して伝承されていくということが行われたのだと思います。そういう意味では今、まさに大変不安定な時代が来ていますし、VUCA(ブーカ)※といわれる時代でありますけれども、この渋沢の精神や、「経済道徳合一主義」というものが、まさに今見直されているし、今求められている思想です。こういった渋沢の精神というものはもっと残していかなければならないし、学ぶべきものだと思うところでございます。

 

※「VUCA(ブーカ)」とは、社会やビジネスにおいて将来の予測が困難になっている状態を示す造語です。予測が困難な要因として4つの時代の特性をあげ、頭文字を取って作られました。「Volatility:変動性」「Uncertainty:不確実性」「Complexity:複雑性」「Ambiguity:曖昧性」

 

 

【井上館長】

渋沢栄一、産業だけに限らず、地域の繁栄なり発展を望む際には決して他地域においての成功事例をそのまま持ってきて、それを適合させるとその地域も繁栄に導けるのだということは一切考えない人で、やはりその地域に根差している要素要因をしっかり自分たちで把握し、それをもとにその地域を繁栄に導けるいろんな形で産業を興し、また文化を築いていくことを目指しなさいということは常日頃から言っているところがあります。そういった面がいまのお話の中でも随所に見られました。

鉄道のお話については、舟運の時代から例えば深谷の地に煉瓦製造をというこれも近代を象徴する一つの建材でした。ただ、運搬に少し難があった。そこで鉄道というものを導かれる。

その後、煉瓦の時代を衰退させていく中において、今度はセメントというものに目が向けられて、それの運搬ということであわせて重要性を持った鉄道がうまく活用されていく。まさにその流通網をしっかり確保して、というお話だったと思います。

 

それと人材という話、今のお話の中では割と渋沢の一族というところに目が向けられたかもしれませんけど、決してそういう風に意識的に集めたのではなく、渋沢はやはり適材適所、この人材だったらここに当てはめてというようなところをしっかりと見極めて人を配置するような考え方だった、それがたまたま尾高だったり、大川だったり、諸井だったりというような話につながっていったのかなというところがありますね。

財閥を築かなかった渋沢ですけれども事業を推進させるためには財閥の中の有効な人材をどんどん企業のトップに据えたりとか、実務に長ける人物だったらそこに当てはめたり決して個人的な感情など入れないで、まさに事業を推進させるためということを大前提に取り組んでいた。その中で人を育てていくというようなことをやっていたところもあったので、それが総合的に埼玉県にうまく落とし込まれたお話だったかなとお聞きしました。

 

 


◆ 『埼玉応援宣言2021』

 

【司会者:堀尾氏】

ありがとうございました。いかがでしたでしょうか。5人の皆様のお話をうかがいましたけれど、これで本当に渋沢栄一の偉大さ、奥深さ、それから広がりの大きさ、いろんなものを感じられたのではというふうに思います。

渋沢魂が現在も脈々と受け継がれているこの埼玉の県人会ということを信じてやまない次第でございます。

そして、これからも埼玉の偉人、渋沢栄一の魂を引き継いで、この埼玉、日本、そして世界の未来に向かっていかなければいけないなというふうに襟を正した次第でございますけれども、皆様いかがでしたでしょうか。5人の皆様も、これからも益々のご発展を、そしてこれからも渋沢栄一の魂をいろいろなところでご披露いただきたいというふうに思います。

これで渋沢栄一に関するいろいろなお話をうかがうことを、第2部を締めさせていただきたいと思います。5人のパネラーの皆様、どうもありがとうございました。

 

では、最後に、『埼玉応援宣言2021』を読み上げさせていただきたいと思います。

 

「今年は埼玉県が誕生して150年を迎える記念すべき年である。また、オリンピックイヤーであり、埼玉県では4つの会場が東京2020大会の舞台となった。史上初の無観客開催の中、アスリートがひたむきにチャレンジする姿に世界が大きな感動に包まれた。昨日開幕したパラリンピックも大いに期待したい。

埼玉県人会の初代会長である渋沢栄一翁は、「青天を衝け!」と、ドラマを通じて私たちに強いメッセージを送っている。どんな困難にぶち当たっても壁を乗り越えてやろうという並々ならぬ決意をだ。

ウィズコロナ・アフターコロナといった混迷の時代。

渋沢スピリッツを引き継ぐ我々が、埼玉県の未来のために大いにチャレンジしようではないか。

I Love Saitama!

私たちは、ふるさと埼玉を愛し、挑戦し続ける埼玉県を応援していくことを、ここにあらためて宣言する。

 

令和3年8月25日

『I Love Saitama! from Tokyo 2021!!』参加者一同 」

 


 

今回、埼玉県人会主催で開催された『I Love Saitama! from Tokyo 2021!! 渋沢栄一と埼玉150周年』の動画を拝聴することができてとてもありがたく思っております。

第一部の渋沢史料館の井上館長の基調講演では、血洗島という周辺は貨幣制度の発達した先進的な地域であり、そのような地域的特性が渋沢翁を生み出した大きな要因の一つであったとのご指摘はとても興味深かったです。

また、渋沢栄一翁が、単なる実業家なのではなく、日本の近代化を推し進める創造者の一人であったこというご指摘は、今回渋沢翁が大河ドラマで注目されることによって、いろんな方々に渋沢翁の本質ともいえる大切なところを認識してもらえる機会となり、素晴らしいと思いました。

さらに、渋沢翁は、単に新しいものを生み出すだけでなく、過去の伝統的な文化を残すことを大切にされていた人でもあったこと、「民間力」を大切にして、人を育てる人であったこと、そして、インフラ設備をつくる際には、世の中全体を豊かにるする「公益性」と、幅広い視野をもった上での「継続性・持続性」を最も重要視されたということ等を学ばせていただきました。現代においてもあらゆる変化の場面において、渋沢翁が心強い道しるべになってくださると思いました。

  

第二部の埼玉を代表する方々のパネラーの皆様の渋沢栄一翁についての貴重なお話を聞けて、大変勉強になりました。

埼玉県人会には、渋沢翁をはじめ、本多静六氏、大川平三郎氏、諸井恒平氏等多くの偉大な諸先輩方がいてくださって、高い志が伝統として受け継がれていることを実感し、とてもありがたく思いました。