~「市民総合大学」と連携の【塙保己一先生没後200周年記念事業】・【障害者週間記念事業】~
2021年12月7日(火) 本庄市民文化会館にて開催された講演会『塙保己一とヘレン・ケラー』に行ってきました。
この講演会は、「塙保己一先生没後200周年記念事業」および「障害者週間記念事業」として、「市民総合大学」と連携して開催された公開講座です。
講師は、本庄市社会福祉会会長の種村 朋文(たねむらともふみ)氏でした。
種村氏は、「総検校塙保己一先生遺徳顕彰会」の事業部会長を務められています。
◆種村 朋文(たねむら ともふみ)氏
本庄市身体障害者福祉会 会長(詳細HP)
総検校 塙保己一先生遺徳顕彰会 事業部会長(詳細HP)
社会福祉法人 埼玉県身体障害者福祉協会 会長(詳細HP)
日本身体障害者団体連合会 関東甲信越静ブロック長 (詳細HP)
ライオンズクラブ国際協会 本庄ライオンズクラブ 元会長(詳細HP)
◆12月3日~12月9日は「障害者週間」
種村氏は、毎年12月3日から12月9日までの1週間については、「障害者週間」であることを紹介されました。
(12月3日は国連が定める「国際障害者デー」です。)
この期間を中心に、障害のある人もない人もお互いを尊重し、支え合う社会を目指し、障害者に対する関心や理解を深めるための取組みが各地で行われています。
本庄市では、種村 朋文(たねむら ともふみ)氏による『塙保己一とヘレン・ケラー』の講演会が行われました。
また、種村氏は、埼玉県で全国初となる、エスカレーターは歩かず立ち止まって乗るように努力義務を課す条例:「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」が施行されたことを述べられました。
身体に障がいを持つ方や小さなお子様連れの家族もエスカレーターを利用します。近年、エスカレーターの事故が相次いでいることから、2021年3月10日から条例が施工されました。
◆塙保己一先生没後200周年記念ロゴ
種村氏による公開講座では、塙保己一先生の没後200周年を記念して、令和3年1月4日から2月1日の期間中に募集された、塙保己一先生のロゴマークについても紹介されました。
全国の応募の中から、”200”の文字のところに、ろうそくの火がついている上記ロゴが選ばれました。
※塙保己一先生と「ろうそくのあかり」のエピソードについて
『ある晩、塙保己一が弟子に講義をしていると、風が吹いてろうそくのあかりが消えてしまった。慌てたでしたちが「あかりが消えて読めません。」というと、塙保己一は「やれやれ、目あきとは不自由なものじゃな。」と笑いながらつぶやいた。』という逸話です。
◆盲目の国学者「塙 保己一先生」
~本庄市が世界に誇る偉人 塙保己一先生。今年は塙保己一先生没後200周年記念の年です~
延享3年(1746年)5月5日~文政4年(1821年)9月12日(享年76歳)
武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市)生まれ
塙保己一先生は、江戸時代後期に活躍した盲目の国学者です。
7歳のとき、病気がもとで失明しましたが、15歳で江戸に出て、学問の道に進みます。
塙保己一先生は「世のため 後のため」を座右の銘とし、血のにじむような努力の結果、文政2年(1819年)、41年もの歳月をかけて、大文献集『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版していきました。
『群書類従』は、それまで古い貴重な文書が、写本のままで一部しかなければ、散逸や消失の恐れがあるので、印刷(木版)して全集のかたちにし、後世に大切に伝えようとする塙保己一先生の発案でした。
48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てました。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのです。
文政4年(1821年)2月、「和学講談所」の設立や『群書類従』出版の功績を認められて、保己一先生は、盲人社会の最高位である「総検校(そうけんぎょう)」となり、将軍にお目見えを許されるまでになりました。同年9月に天命を全うしました。
「群書類従」の版木は、17,242枚で国の重要文化財に指定され、今も「温故学会(おんこがっかい)」に保存されています。
◆ヘレン・ケラー女史
~自身も障害を抱えながら、障害者の教育・福祉の発展に尽力した人~
1880年6月27日~1968年6月1日(享年87歳)
出身地:アメリカ合衆国アラバマ州の北西部タスカンビア
父はスイスから移住したドイツ系の地主の息子で、南北戦争当時南軍大尉でした。
母はイングランド系で両親ともに南部の名家の出身でした。
1歳半のときに原因不明の高熱にともなう髄膜炎に罹患します。一命をとりとめたものの、その後遺症で視力と聴力を失ってしまいます。視力と聴力を失ったヘレン・ケラーは、話すことも困難になりました。
ヘレン・ケラーの三重苦とは、「見えない、聞こえない、話せない」という苦悩のことを指しています。
ベル博士
幼くして三重苦を抱えてしまったヘレン・ケラーでしたが、両親は希望を捨てませんでした。
しかし信頼できる人を尋ねるなかで、アレクサンダー・グラハム・ベル博士を紹介されます。ベル博士は1876年に電話を発明したことで知られる人物です。ベル博士は家族に難聴者がいたことから、ろう教育にも熱心でした。このベル博士から紹介されたのが、のちにヘレン・ケラーの家庭教師、サリバン先生として知られるアン・サリバンです。
サリバン先生との出会い
ヘレン・ケラーとサリバン先生の出会いは、ヘレン・ケラーが7歳、サリバンが22歳のころでした。
サリバン先生は、幼少のころに弱視であった自分の経験を生かし、点字によるよりも指文字の方が、興味と快感を伴いながら進歩も早いことを知っていたので、ヘレンには点字ではなく指文字の教育に力を注ぎます。
指文字というのは、アルファベットを指で表したものです。通常はその形を見て判読するのですが、ヘレンの場合は見えなかったため、サリバン先生は指文字を触らせて伝えようとしました。サリバン先生がヘレン・ケラーに最初に教えた指文字は、「doll(人形)」だったと言われています。
献身的な教えによって、3カ月経ったころには300もの指文字を覚えたともされています。
けれども、これだけではまだ言葉を理解したとは言えません。ヘレンにとって「doll」というのは、人形一般でなく渡された特定の人形のことでした。ヘレンはまだ、物の「名前」の本当の意味を分かっていませんでした。
「ウォーター」のエピソード
ヘレンは「water」という綴りは知っていても、それが器のことを指すのか、中の液体のことを指すのか、飲む動作を指すのか、あいまいでした。ヘレンは指文字をただの手遊びと考えていましたから、サリバンがそのあいまいさを正そうとすると、かんしゃくを起しました。
「water」が何であるのかすっかり混乱していたヘレンを、サリバンは井戸端まで連れて行き、ポンプの水をヘレンの片手の手のひらに注ぎながら、別の手のひらに指文字で何度も「water」と綴ります。
その時、ヘレンは今まで感じていた世界が崩れ落ち、全く違う世界が立ち現れてきたのです。
カップの中の水と、井戸から流れ出る水。まったく違う状況ですが、どちらも同じ「w-a-t-e-r」。
この世にあるすべての物に「名前」があると知ったのです。
「水」「草」「木」、手に触れる全ての物に名前がある。
「water!」「grass!」「tree!」。
「名前」という概念に気づいた瞬間です。
今まで認識していた現実世界が崩壊し、「言葉」という全く新しい世界観で書き換えられていきました。その時、ヘレンが感じた衝撃と感動を表したのが、あの名シーンだったのです。
ウォーターの意味を理解することができ、自身の本でも、この時初めて言葉の意味することや本質が理解できたと語っています。ヘレンは23歳のときに発表した自伝の中で、そのことを「言葉の神秘が、あらわに示された」と表現しています。
この日を境に、それまで頑固だったヘレン・ケラーが素直になり、サリバン先生の教えをよく受け入れ始めたとされています。
話す奇跡が実現
ヘレンはサリバン先生の指導のもとで発音の練習を始めました。
サリバンはヘレンの手で自らの口を触らせて、声を出す時の唇の形と舌の動きを教え、それを真似させました。
舌の位置を知るためにヘレンがサリバンの口の中に指を入れ、そのためにサリバンが嘔吐することもしばしばだったといいます。
9歳(1890年)の時、ボストンのホレースマン聾学校の校長のサラー・フラー女史に読話と発音法を学ぶこととなりました。
ヘレンは自伝『私の生涯』の中で、『私は校長先生が一言を発するごとに彼女の顔の上に手をあて、その唇の運動や舌の位置を探って、その真似をして、一心に学んだ結果、1時間後には6つの音の要素(M.P.A.S.T.I)を覚えこみました。
こうして私は最初に「It is warm today.(今日は暖かです)」と発音できた時の驚きと喜びは、一生忘れ得ないことです。』『私はこれで永い間の苦悩から救い出されました。』と書き記しています。
その後、ヘレンは14歳でニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学し、発声の勉強にはげんでいきました。
ハーバード大学に入学
ヘレン・ケラーはサリバン先生との二人三脚で学問に励み、20歳のときに難関のラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。優秀な成績で卒業しました。
その後の40数年間、ヘレン・ケラーはアメリカにとどまらず、世界各地を訪問して講演を続けました。福祉と教育のために尽力し、多くの視聴覚障害者を勇気づけたのです。
~ヘレン・ケラーの言葉~
◆「世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。
それは、心で感じなければならないのです。」
◆「世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています。」
◆「あなたのランプの灯をいま少し高く掲げてください。見えぬ人々の行く手を照らすために。」
◆ヘレン・ケラーさん来日(昭和12年)
~ヘレン・ケラーさんが尊敬し、心の支えとしていた塙保己一先生~
ヘレン・ケラーさんは、昭和12年(1937年)、昭和23年(1948年)と昭和30年(1955年)の3回来日しています。
1度目の来日の時(昭和12年)、ヘレン・ケラーさんは、塙保己一先生を顕彰する「社団法人温故学会」を訪れています。
ヘレン・ケラーさんは、母親から、『日本の塙保己一先生はあなたの人生の目標となる方ですよ。』と教えられたことに触れ、こう話しています。
『今日、こうして温故学会を訪問して先生の像に触れることができましたのは、日本の訪問の中で最も意義深いものでした。使い古された質素な机と、優しそうに首をかしげた先生の像に触っていると、先生のお人柄が伝わってきて、心から尊敬の気持ちがいっそう強くなりました。』
『先生のお名前は、水が流れるように、永遠に後世に伝えられていくに違いありません。』(温故学会にて)
ヘレン・ケラーさんは、幼くして失明したにもかかわらず努力して偉大な学者になった塙保己一先生のことを尊敬し、心の支えとして生きてきたと話されています。
『私は特別の思いをもって、埼玉にやって参りました。
それはつらく苦しい時でも、この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、”今の私”があるからです』(埼玉会館で開かれた講演会にて)
◆ヘレン・ケラーさんはどうやって塙保己一先生を知ったのか?
種村氏は、塙保己一先生と、ヘレン・ケラーさんの一生をそれぞれふりかえられた後、
「国も、時代も異なる二人なのに、ヘレン・ケラーさんはどうやって塙保己一先生のことを知ったのか」
について述べてくださいました。
明治時代、政府からアメリカに派遣されていた役人の一人に、伊沢 修二(いさわ しゅうじ)氏がいました。
伊沢氏はベル博士に聴音に関する教えを受けていて、ベル博士からは厚い信頼が寄せられていました。
伊沢氏は塙保己一先生についての深い知識を持っていました。(アメリカからの帰国後、教科書「尋常小学読本」の編集責任者を務め、塙先生についての項目を教科書に載せています。)
そのうな伊沢氏からベル博士に塙保己一先生のことが紹介され、その後、ベル博士からヘレン・ケラーのご両親に伝わったのだろうということでした。
種村氏が執筆された『塙保己一とヘレン・ケラー』には、以下のようにあります。
「彼女(ヘレン・ケラー)の伝記の中で必ず登場する人物の中にグラハム・ベルがいます。彼に関する書物の記述の中に、日本人で初めて電話を使用した人として2人の名前を見つけることができます。
そのお一人の伊沢修二は、1875年~1878年まで文部省派遣のアメリカ留学生でした。当時彼はベルに、自身の英語の発音の矯正を願い出て快諾をもらっています。
ベルは電話機の発明で有名ですが、本来、三代続く聾啞教育の研究者であり、その一端の成果が電話機であり、また、発音、発声法である視話術は彼の父の考案です。
伊沢は、このようなベルに発音の指導を受けながら、聴音に関する事(言語・聾唖・吃音・音楽など)に興味を示し研究をしたようです。ベルは熱心に勉強する東洋の青年に大いに好感をもち、当時研究中の電話の研究室まで入れてくれるような親しい関係となったそうです。
そのような二人の関係の内に、盲目の国学者塙保己一の事がグラハムに伝わり、その約9年後ケラー親子がベルを訪ね、その後、助言者として大変ベルを頼りにしていたヘレンの母ケイトに伝わったのではないでしょうか。
その裏付けとして、伊沢修二の帰国後、彼が文部省編輯(へんしゅう)局長となり教科書の編集出版行政に携わった中で『尋常小学読本』の教材に塙保己一が登場する事から、在学中の伊沢修二は塙保己一についての知識は十分持ち合わせていたと推測できます。
また、ベルと伊沢の対話の中の保己一は、日本の盲目の国学者という訳だけではなく、江戸期日本の盲人の生業とか、当道座という教育・職業訓練・生計まで互助する集団の事など、数百年の歴史と他国に類を見ない組織化された盲目の人々の中の偉人として紹介したのではないでしょうか。ベルはそれを興味深く聞き、記憶に残した事でしょう。単に、伊沢の紹介が通り一遍、噂話程度であったとすれば、ベルの記憶には残らずヘレンの母に伝わる事はなかったと思います。
此処に伊沢修二氏の多くの功績に敬服し、その後の善なる影響に、現代に生きる者として感謝いたします。」
(『塙保己一とヘレン・ケラー』本庄ライオンズクラブ 40周年記念誌、2011年 より)
◆「奇跡の人」はサリバン先生
種村氏は、『奇跡の人』はへレン・ケラーの伝記ではなく、ヘレンの家庭教師として50年間付き添ったアニー・サリバンの奮闘ぶりを描いたものだというお話もされました。
ヘレン・ケラーのことだと勘違いしていたので、大変勉強になりました。
『奇跡の人』(原題:『The Miracle Worker』1962年)は、アーサー・ペン監督によるアメリカ合衆国の伝記映画です。
ウィリアム・ギブスンによる1959年の同名の舞台劇が原作となっています。
ヘレン・ケラーと、三重苦のヘレンに効果的で何より厳しくも人間的な教育を授けて行ったアン・サリヴァンの偉業が描かれています。
ライオンズクラブとヘレン・ケラー女史
種村氏は、ライオンズクラブ国際協会 本庄ライオンズクラブの元会長です。
1925年の国際大会で行われたヘレン・ケラーさんは「暗闇と戦う盲目の騎士」となるよう呼びかけました。それ以来、ライオンズクラブの皆さんは、失明者など視覚障害者への援助に力を注いでいることを説明してくださいました。
◆1925年の国際大会で行なわれたヘレン・ケラーさんのスピーチ
~1925年第9回ライオンズクラブ国際大会(米国オハイオ州シダーポイント・1925年6月30日)~
「ヘレン・ケラー ライオンズクラブ国際大会スピーチ」
※333-C地区 captain Matsumoto様 ユーチューブ(https://youtu.be/YBtb3tk68O0)より
「みなさん!この暗闇を撲滅する聖戦に、目の不自由な人の為の騎士として立ち上がってくれませんか」
1925年のライオンズクラブ国際大会で講演をしたヘレン・ケラーさんがライオンズに対し、「暗闇と戦う盲目の騎士」となるよう呼びかけました。それ以来、ライオンズクラブは視覚障害者福祉や失明予防、視力保護の活動に重点を置き、基本事業の一つとして今日に至っているとのことです。
◆「白い杖」はライオンズの奉仕の産物
1930年、L.ジョージ・A.ボナム(イリノイ州のピオリアライオンズクラブ会長)は、ある日繁華街を歩いているとき、一人の視覚障害者が交通ラッシュの道路を横断しようとして、立ち往生しているのを目撃しました。
ボナムは「自分は目が不自由なのだと、ドライバーに知らせる方法が何かあるはずだ・・・」と、白い杖を思いつきました。
クラブはこれを承認、白杖を作り、ピオリア市内の視覚障害者に無料で配り、全米に広がりました。
市議会では、白杖の持ち主に交差点での優先権を認める条例を可決しました。
◆アイバンク運動
1944年4月月アメリカ、ニューヨークに世界初のアイバンクが設立されました。
ニューヨークのライオンズが、角膜斡旋の活動を展開。全米各地にアイバング設立が相次ぎました。
◆日本のライオンズクラブ(アイバンク運動)
※以下は、『塙保己一とヘレン・ケラー』本庄ライオンズクラブ 40周年記念誌、2011年 P42~46より
東京で(ライオンズクラブの)国際大会が開催された年(1969年)の前後は、アイバンク設立につながる献眼運動が高まっていた時期でもあった。
日本では1958年4月「角膜移植に関する法律」が公布され、角膜移植手術が公認されたが、それまで、この手術は「刑法」の死体損壊罪に抵触するものとされていた。(角膜移植に関する法律公布の前年)1957年10月、岩手医大の今泉亀撤教授が死亡者の角膜を地元の岩手県立盲学校の生徒に移植し、手術は成功したが、これが「刑法」第190条の罪になるのではないか、と報道された。
この告発記事が発端となって角膜移植に関する法律が国会で審議されることになったわけだが、その同じ57年、302地区ガバナーだったL原勝巳が、岡山労災病院に死後の献眼を申し出ている。ライオンズとアイバンクのかかわりを熟知していた人の行動と言えよう。実質的にはこの献眼(登録)が日本での登録第1号となるわけで、法律ができた58年には早くも、福岡ライオンズクラブが献眼登録運動を開始した。
岡山では、1961年、当時の県知事だった岡山ライオンズクラブのL三木行治が献眼登録し、それが岡山県での正式登録第1号となった。このことに賛意を表明し、同じ岡山県の金光ライオンズクラブでは会員と家族、それに知人7人を加えた計62人が、その年の9月に岡山大学医学部に集団で登録して、日本のライオンズクラブとしては初の会員全員登録を実現させた。
1963年10月、慶応大学病院と順天堂大学病院に日本初のアイバンクが設立され、同じ年に大阪でもアイバンクがスタートした。翌年、岩手医大にもアイバンクが設立され、東京では読売光と愛の事業団のアイバンクがスタートした。
更に、東京関東LCの報告に接した当時の302ーE1地区第一R第一Zの六つのクラブ(東京、東京丸の内、東京千代田、東京関東、東京神田、東京霞ケ関)は、協力して献眼運動を進めるため、1964年3月、ライオンズ・アイバンク協会を発足させ、L佐藤三蔵が会長に就任し、「虎は死して皮残し、ライオン死して目を残す」のスローガンを掲げて、活発な運動を開始した。
一方、同じ1964年夏、静岡県沼津市で独自の動きが始まっていく。その年、沼津LCのL勧山弘は貴重な体験をする。僧侶だったL勧山は檀家の通夜に出かけ、その席で亡くなった人が角膜を登録していたため、角膜摘出に立ち会うこととなる。その無償の愛の姿に接したL勧山は深く感動し、夫人と母堂と共に献眼登録を済ませ、例会の席でもアイバンクへの登録を提言した。
1965年10月、沼津、沼津千本両クラブの会員90人が登録を済ませ、翌年から市内全域で献眼を訴えたリーフレットの配布を始めた。67年、登録者は600人に上り、その年の秋、沼津で全国初のアイバンク登録者大会が開催された。
【沼津から全国へ躍進】
この時期、アイバンクへの関心は沼津だけではなく、全国のライオンズに広がり、京都8京都ウエストLCではアイバンク促進を訴えるPR映画が制作された。この映画はテレビのワイドショーで紹介されたこともあって、各地のクラブで活用され、302-W5地区の年次大会でも上映され、アイバンク運動の促進に役立てられた。
静岡での動きが加速する。68年末、静岡県内全クラブによるアイバンク運動推進協議会が開催され、更なる運動の拡大が求められた。当時、国内の角膜障害による失明者は25,000人と言われ、アイバンクは21を数えたが、献眼登録者の数は全国でもまだ3万数千、死後提供数は年間400眼ほどであった。
献眼登録者を増やし、角膜移植クリニックを増設すれば、光を呼び戻せる失明者はもっと増えるのではないか、ライオンズの協力を結集しようではないか、という声が高まった。1970年、302-E2地区65クラブが参加して第二回の協議会が開かれた。
「日本における25,000人の失明者に、我らライオンズの手によって光を与えよう。それは決して不可能ではない。あなた自身のウィ・サーブの決意にかっている」という呼び掛けで、1971年3月、第一回アイバンク運動全国大会が沼津市公会堂で開催され、全国から1,000人に及ぶライオンズが集まった。
この大会の成功を受けて、1972年10月、岡山県倉敷市で第二回アイバンク運動全国大会が開催された。
ライオン誌日本語版編『ウィ・サーブ 日本ライオンズ半世紀の航跡』より
◆ライオンズクラブ国際協会
1917年にアメリカのシカゴで発足。
ライオンズクラブの正式名称は、「ライオンズクラブ国際協会(The International Association of Lions Clubs)」です。
※「Liberty, Intelligence, Our Nation’s Safety.」の頭文字(L・I・O・N・S)をとって付けられました。
●【誓い】
「われわれは知性を高め、友愛と相互理解の精神を養い、平和と自由を守り、社会奉仕に精進する。」
●【スローガン】
「Liberty, Intelligence, Our Nation’s Safety.」(ライオンズは自由を守り、知性を重んじ、われわれの国の安全をはかる。)
●【モットー】
「We Serve」(われわれは奉仕する。)
《ライオンズクラブの歩み》
1917年:その始まり(ライオンズクラブ国際協会の誕生)
1920年:世界にはばたく(ライオンズ、国際的な組織に)
1925年:失明根絶(『盲人の騎士』に)
1945年:諸国を結ぶ(国々を一つに)
1957年:「青少年プログラム」を企画(レオの登場)
1968年:「ライオンズクラブ国際財団」の創設
1990年:「視力ファースト」に着手
2017年:ライオンズ100周年を迎える
現在:ライオンズクラブ国際協会は毎日、世界の至る所にある地域社会で、私たちの使命である奉仕を広げています。ニーズは大きく、それらに応えるべく、視力、健康、青少年、高齢者、環境、災害救助等、幅広い奉仕を行っています。ライオンズの国際規模のネットワークは200を越える国々および領域をつなぐものにと広がっています。
◆本庄ライオンズクラブ40周年記念誌『塙保己一とヘレン・ケラー』
本庄ライオンズクラブ様によって発行された、結成40周年記念誌 ~世のため 後のため~
先日、本庄ライオンズクラブ様の元会長で、本庄商店街連合会の会長 松浦 常雄氏から『塙保己一とヘレン・ケラー』をいただきました。
この本は、本庄ライオンズクラブ様の結成40周年記念として発行された記念誌です。
(表紙の題字『世のため 後のため』は、総検校 塙保己一先生遺徳顕彰会会長である本庄市長 吉田 信解氏によるものです。)
塙保己一先生とヘレン・ケラーさんのつながりについて、とてもわかりやすく解説されていて、とても勉強になりました。
※『塙保己一とヘレン・ケラー』につきましては、NHK読むらじる「塙保己一 ヘレンケラー、ベルを感動させる」をご覧ください。
◆「総検校 塙保己一先生遺徳顕彰会」について
種村氏は、講演会の最後に、ヘレン・ケラーさんが初来日の時、塙保己一先生の生家のある保木野への訪問が幻に終わった経緯について語ってくださいました。記録を残すことの大切さを感じました。
ライオンズクラブさんとヘレン・ケラーさんとの関わりや、ヘレン・ケラーさんが塙保己一先生のことをどうやって知ったのかについてのお話も、とても興味深かったです。
平成18年(2006年)1月、本庄市と児玉町の合併後、平成19年(2007年)7月に、市民参加の会として「総検校 塙保己一先生遺徳顕彰会」が発足しました。塙保己一先生の偉大な業績を広く紹介し、顕彰活動にご尽力されています。(会長は吉田 信解市長、事業部長を種村 朋文氏が務められています。)
※「総検校 塙保己一先生遺徳顕彰会の会員になりませんか」(本庄市ホームページ)はこちらへ
「総検校 塙保己一先生遺徳顕彰会」の設立によって、「温故学会(渋谷区)」との交流が深まり、塙保己一先生の遺徳顕彰活動がとても進展したことを種村氏のお話を聞いて実感しました。
ヘレン・ケラーさんも心の支えとされた塙保己一先生の偉業を伝えていくことの重要性についても改めて感じさせていただきました。
このたびは貴重な講演を聞かせてくださいましてありがとうございました。