~授賞式の後には、多数の記念事業が行われました~
■主催者挨拶
■共催者挨拶
■来賓祝辞
◆「第15回塙保己一賞」の受賞者
【大賞】田中 章治(たなか しょうじ) 氏
(社会的に顕著な活躍をしてきた障害のある方)
田中章治氏は、視覚障害者の読書環境の向上のため、全国各地の公共図書館における点字図書や録音図書の貸し出し、対面朗読などの視覚障害者サービスの普及に尽力されました。
現在は、全日本視覚障害者協議会副代表理事として、視覚障害者の駅ホームからの転落事故を防止するため、安全対策向上のためにも力を注がれています。
【奨励賞】伊藤 丈人(いとう たけひと) 氏
(今後さらに社会的な活躍が期待される45歳未満の障害のある方)
伊藤丈人氏は、青山学院大学大学院国際政治経済学の博士号を取得をされ、母校の青山学院大学で教鞭をとられてました。
現在は、独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構障害者職業総合センター研究員として、障害者雇用や、視覚障害に関する様々な課題に対して、調査・研究に取り組まれています。
【奨励賞】小久保 寛太(こくぼ かんた) 氏
(今後さらに社会的な活躍が期待される45歳未満の障害のある方)
小久保寛太氏は、埼玉県出身、男子走り幅跳びのパラアスリートです。陸上短距離から走り幅跳びに転向し、国内外の大会で実績を残しておられます。東京2020パラリンピックでは4位に入賞し、自己記録を更新、さらなる活躍が期待されています。
【貢献賞】堺 正一(さかい しょういち)氏
(社会的に顕著な障害者支援活動等を行った個人・団体)
境正一氏は、埼玉県立の特別支援学校の校長や、立正大学の教授等を歴任。数多くの著書や各種講演会を通して、塙保己一の業績と人物を紹介するとともに、塙保己一の講談を多数執筆するなど、その顕彰に尽力されてこられました。
塙保己一の顕彰活動を通じて、障害のある方の社会参加に大きく貢献されています。
◆渋沢栄一アンドロイドトークイベント
深谷市・渋沢栄一記念館協力のもと、深谷市の旧渋沢邸「中の家(なかんち)」にある渋沢栄一アンドロイドが登場し、昭和2年7月の「温故学会開館式」での演説が再現されました。
吉田本庄市長との掛け合いがとても楽しかったです。
◆東京大学史料編纂所 本郷 和人(ほんごう かずと)教授による講演
『日本の歴史に見る塙保己一の貢献』
【本郷 和人(ほんごう かずと)氏】
東京大学史料編纂所教授。文学博士。平成24年には大河ドラマ『平清盛』の時代考証を務める。著書に『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会)、『戦いの日本史』(角川出版)、『名将の言葉』(新潮文庫)、『武士とはなにか中世の王権を読み解く』(角川出版)など多数。産経新聞に『本郷和人の日本史ナナメ読み』を連載中。
(本郷先生のご講演から)
●「東京大学史料編纂所」とは
塙保己一先生が、寛政5年(1793 年)に作られた幕府公認の「和学講談所(わがくこうだんしょ)」。
「和学講談所」の系譜を引いて、明治になって作られたのが「史料編纂所(しりょうへんさんじょ)」。名称はいろんな形で変わっている。明治天皇が日本の歴史をしっかりと研究してほしいということで、「史料編纂所」は活動を開始した。
「史料編纂所」は東京帝国大学より古い研究所。東京帝国大学ができると、東大の中にということで、今、「史料編纂所」は、赤門を入ってすぐ左前、歩いて1分のところにある。「史料編纂所」に入るとすぐに塙保己一先生の大きな肖像画が掛けられている。
●「東京大学史料編纂所」での編纂事業について
東京大学史料編纂所では、塙先生がおやりになりたかったこと、「史料」と名付けて手掛けておられたことを続けてやっている。
過去日本の歴史の中で、例えば、建長4年(1252年)の12月18日に日本列島でどのようなことが起きたかを、もれがないようにすべて集めて並べていく。次は12月19日、12月20日というふうに、毎日毎日どういうことが起きたか、日本列島のすべての歴史史料を集めて活字化していくということを行っている。
日本の歴史を12個に分けて、一斉に編纂を始めるという手法。
1編から12編(江戸時代の鎖国の完成)。
●本郷先生が編纂を担当されているのは、『大日本史料』の第5編。
本郷先生が編纂を担当されているのは、1221年から1333年までの約100年の期間。
(後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために兵を起こした「承久の乱」から、後醍醐の後醍醐天皇が倒幕の兵をあげ鎌倉幕府を倒すまでの約100年。)
今現在、1251年まで編纂が終わっており、あと80年分が残っている。
一日一日日本列島で起きた歴史をすべて集めて並べていくという仕事。
編纂のスピードは、例えば、建長4年(1252年)1年間をカバーするのに、『大日本史史料』は「5-35」「5-36」「5-37」3冊が必要。1冊は約3年かかる。建長4年(1252年)1年に対して、9年(約10年)かかる。
(本当に大変なお仕事だと思いました。)
●日本は世界一史料が残っている国
日本はギリシャ・ローマ・中国などのように、世界で最も古い国ではないが、歴史の史料は、おそらく世界一残っている。
理由は、外敵の侵略を受けていないことと、日本人の”もったいない精神”があるせいなのか、古文書がたくさん残っていること。これを編纂するのは、大変な仕事ということになる。
●「塙保己一先生」の偉大さ
0から1を作り出すのはものすごく大変。
1から2、2から3はなんとかなる。
無いところから、1を作り出すというのは、本当に大変だと思う。
それを塙先生はおやりになった。
しかも、それは目が見えないというハンデを背負っておやりになった。
これを考えたら、塙先生はまさに超人。驚嘆すべき、人間ってすごいということが言えるような仕事です。
●「塙保己一が生まれ育った本庄」とはどういうところか?
本庄市は、もともと「武蔵の国」の一部。武蔵の国とは、埼玉県と東京都、少しだけ神奈川県も含むような地域。
「武蔵の国」の中心はどこなのだろうということを考えたときに、東京都ではなく、埼玉県。
東京都は非常に生産力が低かった。なぜなら、当時、利根川が東京湾に流れ込んでいた。そのために銀座のあたり、関東平野のあたりは、水がすぐに出て、しかも塩水が出た。そのために作物を作ろうとしても、作れないという状況だった。
したがって武士はどこに拠点を置いたかというと、武蔵の国で最大の武士団というと、「児玉党」という言い方もあるけれども、「秩父党」とも言う。秩父のどちらかというと丘陵地帯です。そこが中心だった。
東京都ではなく、埼玉県こそが武蔵の栄えている地域であり、武士団の本場所であった。
中世初めの頃の武士というのは、海からずいぶん離れた所に本拠を構えた。
まさに埼玉県というのは武蔵の国の本場だった。
●「児玉党」・「庄氏」・「本庄氏」
本庄にいた秩父党と並ぶのは「児玉党」。
児玉党の中心的な武士は「庄」という家があった。
その中でも、庄家長(しょう いえなが)という人は、源平の戦いの中でも、一ノ谷の戦いで平重衡(たいらの しげひら)という人を生け捕りにするという殊勲を立てた人が本庄に本拠を構えた。
関東地方の武士は、承久の乱を契機にして、西へ西へと勢力を伸ばしていく。庄氏もまた、備中国(岡山県)に勢力を伸ばしていった。 備中国に行った庄氏は、将軍直属の奉公衆となり、規模の大きさでは2位が庄氏。3位が小早川氏。庄氏は備中でもそれくらい大きな力を持っていた。「本庄」は、そういう家の本拠地になる 。
●「中山道」の宿場町として栄えた本庄
本庄に残った庄さんは「本庄氏」を名乗り繁栄をした。一時は本庄城があったが後に廃れてしまった。
その後、本庄は、武士の町というより「中山道における宿場町」として栄えた。 本庄というのは、江戸時代非常に豊かな地域だったということになる。
商人のまちとしても有名で、ここから大きな商人も何人も輩出している。
各地から人や物流が集中していて、明治以降は生糸、絹織物の産地としても栄えた。
●そもそも江戸時代はどういう時代だったか?
日本列島の人口を考えた時に、西暦600年くらいの段階で、日本列島に住んでいた人口は、600万人。
それが関ヶ原の戦いのあった1600年頃、1000年経った時にどれくらい増えているかというと、600万人が1200万人になっている。
逆にいうと、1000年かけて、やっと倍にしかなっていない。
もう少したくさん人口が増えてもよさそうなんですけれども、この人口が増えない原因というのが、一つは、飢餓(食料不足)です。一つは、今大変な問題になっている、疫病です。それから、戦争。
この、飢餓、疫病、戦争があるために、なかなか人口が日本列島では増えなかった。
江戸時代に入ってから、1600年から1700年の間に何があったかというと、平和になった。
戦争がなくなり、悪いことをするとつかまるという時代が初めて実現したわけである。
1600年から1700年の100年間で人口は、1200万人から2500万人に増えた。
100年間で倍以上。それだけ人口が急激に増えた。そうなるとどうなるか。
それまでは厳しい毎日が続いていた。それが平和になって人口が増えるという状況になった時に、自分の将来を見据えるということができるようになった。5年後の自分、10年後の自分を考えるようになった時に、人々は勉強を始める。これが、明治になった時に、識字率27%になる。驚異的な数字になって現れてくる。当時のリテラシー、世界でいうと、イギリスは7%、それをはるかに日本は上回った。武士階級はほぼ100%、庶民も全人口の5人に一人は字が読める書ける状況だった。日本人は学業にすごく親しい。
●渋沢栄一先生が出現した背景について
本庄という地域は、勉強に励んでいた人が多かったのではないか。
そういうことが、本庄では塙保己一先生、近隣では渋沢栄一先生、荻野吟子先生、こういう方々がこのまちに次々に現れたということは決して偶然ではないのではないか。
歴史学者の網野善彦先生が『百姓は農民ではない』。能登半島に調査に入った。能登半島は田んぼや畑がそんなに作れない。網野先生は、おそらくこの地域は貧しい農家が軒を連ねているに違いないと考えて調査に入った。
ところが驚いたことに、どの家もとても規模が大きく豊かだった。
日本海側の方が舟での交易に適していた。能登半島のお百姓さんたちは、農業ばかりやっていたわけではなくて、北前船で日本海交易にも参加していて、商業をやっていた。商業でお金を稼いでいた。ということで豊かだった。それに気が付いた網野先生。僕たちは農民といったら、農業ばかりやっていると思っているけれども、それは違う。農民は商業もやっている。商売もやっている。ということで、網野先生が付けたタイトルが『百姓は農民ではない』
「百姓は農民とは限らない」
「百姓は農民でもあるし、商人でもある」
「日本の農民は農業だけでなく、商業もやっていて、豊かだった」
それを網野先生は明らかにした。
ということになると、渋沢栄一という方はその典型。
渋沢栄一は豪農の生まれですけれども、渋沢栄一の生家は農業だけをやっていたわけではない。
渋沢栄一は子どもの頃から藍玉の商売に携わっていた。長野、群馬と商売の取引をしていた。
商業的な精通というのが後の渋沢栄一を作り、資本主義の父としての渋沢栄一がここに生まれた。
荻野吟子という方も豊かな中で育った豪農のお嬢さんだった。
渋沢栄一、荻野吟子に共通しているのは、学問を子どもの頃からやっていた。
渋沢栄一はお母さんが学問に熱心だった。
このように考えてみると、本庄周辺の地域というのは、豊かで、学問がすごく根付いていた。そういう状況の中から塙保己一先生が生まれてくるということも、大づかみに言うと考えられるのではないだろうか。
しかも、荻野吟子さんは、日本で初めての女医さん。ところが、当時の明治政府は、医師の国家試験を作った時に、女医は今までいなかったと言って、荻野吟子さんが一生懸命試験を受けさせてくださいと言っても、はねつけていた。2回門前払いを受けた、そういった状況の荻野吟子さんに救いの手が差し伸べられた。塙保己一先生がつくった『令義解(りょうのぎげ)』の中に、古代に女医の存在が明らかに書いてあった。これを資料として、荻野吟子さんは医師の国家試験を受け、見事合格して、日本で最初の女医となることができた。
まさに荻野吟子さんにとって、塙保己一先生は恩人だったということになる。
渋沢栄一先生は「温故学会会館」を作った。温故学会会館(塙保己一史料館)は今でも渋谷区にあり、『群書類従』の版本を保存している。これは日本人の宝だと思う。
●「当道座」の歴史
~当時、目の不自由な方はどういう境遇に置かれていたのか~
室町時代には、『座』というものが作られた。座は貴族が中心となって管理運営を行っていた。座は商業の独占をやっていた。その中で目の不自由な方は、『当道座(とうどうざ)』を結成していた。
『平家物語』は、盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られていた。音楽と目の不自由な方のつながりというものが非常に深くあった。
演奏している人を「平家座頭(へいけざとう)」と言っていた。
やがて「平家座頭」は、源氏の、村上源氏の「中院家(なかのいんけ)」の管理下に入る。
※源氏と言っても、侍の源氏ではなく、貴族の源氏。侍の源氏は「清和源氏(せいわげんじ)」が多いですが、貴族の源氏は村上天皇の子孫である「村上源氏(むらかみげんじ)」。
そうした中で平家物語のスタンダードの本は、室町時代に成立した『覚一本(かくいちぼん)』。
『覚一本』というのは、「明石覚一(あかし かくいち)」という偉い目の不自由な方によってまとめられた本。
明石覚一さんは、室町幕府から庇護を受けて、『当道座(とうどうざ)』を作る。
『当道座』のとりまとめは、貴族の「久我家(こがけ)」がやっていた。久我家(こがけ)は、村上源氏で村上天皇の子孫。同じ村上源氏の「中院家(なかのいんけ)」よりさらに格が上で、太政大臣になる家。久我家(こがけ)が当道座をとりまとめていた。
江戸時代になると、「当道座」はさらに細分化されて、目の不自由な方がそこで仕事をして、大きく言うとマッサージ業、音楽を行っていた。73もの位があって、お金を支払って上に昇っていく。あるいは大きな功績をあげて上に昇っていくということがなされていた。
例えば、八橋検校(やつはし けんぎょう)という方。この方はお箏(こと)方で大きな功績を残された。様々な箏曲(そうきょく)を作られた方です。
京都の銘菓八ツ橋。半円形のような形をしている焼いた方の八ツ橋は、八橋検校のお筝を模して、八ツ橋と言う名前となったという説がある。
最近の方で、ぜひ覚えてほしいのは、宮城道雄(みやぎ みちお)と言う方。宮城 道雄という方は、宮城検校(みやぎけんぎょう)と呼ばれた方で、明治27年に生まれて、昭和31年に亡くなった。この方も大作曲家であり、現在、お正月に流れる曲と言えば『春の海』を作曲された方。
宮城道雄という方は文筆家としても有名で、なかでも文豪、内田百閒(うちだ ひゃっけん)とは大親友だった。(内田百閒(うちだ ひゃっけん)は、『阿房列車』が一番代表的で、夏目漱石のお弟子さんでも知られている。)
琴は内田百閒さんが宮城道雄さんから習う、文筆は宮城道雄さんが内田百閒さんから習うという理想的な関係を築いていた。
残念ながら、宮城道雄さんは、寝台列車の客車ドアから車外に転落して亡くなってしまった。目が不自由な方というのはどうしてもこういう事故に遭う確率が高くなってしまう。この事故を語り継ぐことによって、目の不自由な方に会ったら、大丈夫ですか、お力をお貸ししましょうかなどの声掛けをするというのが大切なんだろうと思う。
●塙保己一先生と「日本の歴史」
これからのわれわれの社会は、どんな方でもどんな職業を選んでもいいんだという、選べるような社会にしなければならない。塙先生の場合はその後いろいろな出会いがあって、学問の世界に進んだ。
江戸時代、学問と言うことができるようになったので、10年後の自分、さらには、20年後の自分、将来を考えるようになった。その中で、塙先生は、大きな問題として、われわれはどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、ということで、おそらく、どこへ行くのかを勉強するためにも、どこから来たのかを勉強するようになったのではないかと思う。
当時の歴史と言えば中国史だった。その中で、塙先生は、日本の歴史を明らかにしなければならない。それで史料を集めようということをお考えになった。賀茂真淵(かもの まぶち)の影響もあって、「和学」というものにいち早く目覚められたのが塙保己一先生。日本の歴史を明らかにしようという塙先生の熱意というものが、結局現在の日本史を作った。
その前の日本史、学問的な源流をたどっていこうとすると、ほぼないことがわかる。
室町時代までは、貴族の歴史、中国史はあった。その中で、江戸時代になって、日本とは何かということになった時に、水戸光圀(みと みつくに)という方が日本の歴史をしっかりと編纂しようということを考えた。資金的にも余裕があった。
そういう意味で言うと、塙先生は個人として日本史を明らかにしようとした研究者だった。これから日本史を学ぶ者にとって、常に塙先生は、一番最初に、どんな危険が起きるかわからないけれども、飛び込んだ、しかもハンデを背負いながら荒波に飛び込んだという意味でも、塙先生の功績はこれからもずっと語り継がれていくのだろうなと思う。
◆塙保己一先生の事業が今も引き継がれている「東京大学史料編纂所」
塙先生から受け継いでいる財産。塙保己一先生の『史料』編纂の事業は、東京大学史料編纂所に引き継がれ、『大日本史料』の編纂と刊行という形で現在も続けられています。
引き継がれているのは、データだけではなく、編纂する手法もです。最初に要約を記し、後に史料を原文で引用していくという形式が現在も採用され、現在も塙保己一先生の編纂手法が生かされています。
◆ゴールボールパラリンピアンの実技&トークイベント
「ゴールボール」とは、視覚に障害のある選手が3対3で、全員アイシェードと呼ばれる目隠しを着用して、鈴の入ったボールをサッカーに似たゴールに入れ合う競技です。
「埼玉ゴールボールクラブ」に所属するパラリンピアンが登場し、ゴールボールのルールや、トレーニング内容、用具の説明など実技を交えて、ゴールボールの面白さを伝えていただきました。
「埼玉ゴールボールクラブ」の安達 阿記子(あだち あきこ)さんは、2012年ロンドンパラリンピックの日本代表選手として選出され、パラリンピックの団体競技においては日本初となる金メダルを獲得されました。
現在は、埼玉ゴールボールクラブに選手兼コーチとして在籍し、競技だけでなくゴールボールというスポーツを通して活動の場を広げておられます。
◆【特別公演】子どもたちによる群読劇『塙保己一物語』
本日はようこそ「保己一 子ども劇場」にお越しいただきまして誠にありがとうございます。
保己一先生はご承知の通り、7歳で失明し、15歳で江戸に出て大変な苦労をなされた結果、日本を代表する国学者となられました。今や、エジソン、ガンジーと並ぶ世界6人の偉人の中に日本人でただ一人入っておられます。
私たちがこの保己一先生の素晴らしさをたくさんの方に知っていただきたく、これまで3度、大人と子どもがともに出演する「保己一 群読劇」を行ってまいりました。
保己一先生は、今から275年前、1746年5月5日のお生まれであります。5月5日は端午の節句、今の子供の日です。子供の日にちなんでこの素晴らしさを伝えていく方法がとれないかということで、今回の企画となりました。
29人の小中高の児童生徒が出演をされます。また、今年は5月5日に行いたかったのですが、コロナ蔓延のために延期し、2021年10月3日に、本庄市児玉文化会館(セルディ)にて子ども群読劇の上演をさせていただきました。
しかし幸いなことに、本日12月18日、塙保己一の第15回表彰式の後、記念事業としてこの劇を上演することになりまして、大変私たちもありがたく思っております。実は本日1時から行われました「塙保己一賞」の表彰式は、私が議会在職中に当時の上田知事にご提案し、決定していただいた表彰制度であります。その後、この表彰式は全国的にも世界的にも有名になっており、私の友人でアメリカの方からこんなメッセージをいただきました。「竹並さん、皆様がやっておられる塙保己一賞、私のアメリカにいる友人で障害の重い方が、ノーベル賞はいらないけれども、保己一大賞はいただきたいとおっしゃっていました。」
本当にうれしいことだなと思っております。今日はその素晴らしい表彰式の後の記念行事としてこの保己一劇が上演できますこと、無上の喜びでございます。来年からは5月5日に子ども群読劇をぜひ続けていきたいと思っております。引き続き皆様のご支援ご協力を賜りたいと心からお願い申し上げます。
今回の公演に向けて日々、熱心な稽古を行ってこられた、高校生3人を含む29人の児童生徒たち。
◆「広報ほんじょう」に掲載された『子ども劇団による群読劇・塙保己一物語』
塙保己一先生の生誕日は5月5日です。
平成27年(2015年)、竹並万吉会長が中心となって「塙保己一物語劇化実行委員会」を設立しました。
これまで、平成28年(2016年)から平成30年(2018年)までに3回、大人が中心となった『群読劇・塙保己一物語』が上演されました。(脚本:根岸久氏、潤色・演出:志村智雄氏、撮影・編集:田中学氏)
令和3年(2021年)は塙保己一先生没後200周年記念の年です。
会長の竹並氏は、2020年2月に「子ども劇団」を設立し、保己一先生の誕生日にあたる2021年5月5日、はにぽんプラザ(本庄市)にて、子ども劇団(子どもたち29名)による初の『群読劇・塙保己一物語』が上演されました。
その時の様子が「広報ほんじょう(2021年8月1日号)」に掲載されています。
塙保己一先生没後200周年記念事業として、第15回塙保己一賞と、一つ一つの記念事業は、とても素晴らしく感銘を受けました。
大きなハンデを背負い、多くの壁にぶつかりながらも、「世のため 後のために」という生き方を実践され続けた塙保己一先生のお心の高潔さと、0から1を生み出した塙先生のすごみを、埼玉県と本庄市の誇る人物として、ひとりでも多くの人に知っていただきたいと思いました。
◆『世のため 後のため ものがたり塙保己一原画展』
(本庄市民文化会館のホール前広場での展示)
◆『第15回塙保己一賞』パンフレット
~塙保己一先生没後200周年記念大会~