~「茅の輪(ちのわ)くぐり」神事と御神木について~
金鑚神社(本庄市千代田)の『夏越の大祓(なごしのおおはらえ)』に行ってきました。
金鑚神社の『夏越の大祓』は、夏に流行しがちな病気を予防し、1年の後半を健康で過ごせるようにと、毎年7月31日に行われています。
例年、若泉公園の元小山川のほとりに御仮屋が設けられて行われますが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、2020年、2021年に引き続き、今年も金鑚神社境内にカヤで作られた『茅の輪(ちのわ)』が設置されていました。
「人形(ひとがた)」を神社に納めてから、『茅の輪(ちのわ)』をくぐり、新型コロナウィルスの終息を願いました。
◆本庄宿の総鎮守『金鑚神社(かなさなじんじゃ)』
~児玉党、本庄氏、小笠原氏によって厚く崇敬された~
(埼玉県本庄市千代田3丁目2-3)
【金鑚神社の御縁起(歴史)】
本庄の市街地の中心部を東西に貫く県道勝場・本庄線はかつての中山道である。日本橋から十番目に当たる本庄宿は、中山道最大の宿場であった。宿場の西端近くに鎮座する当社は、本庄宿の総鎮守として広く知られている。
社記によれば、当社の創建は欽明天皇の二年(541年)のことで、社地は、日本武尊(やまとたけるのみこと)がかつて駐軍した古跡であるという。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つである児玉党の武士によって信仰され、とりわけこの地を在所とした本庄氏の崇敬が厚かった。
降って天正十八年(1590年)、徳川家康の関東入国に伴い、小笠原 信嶺(おがさわら のぶみね)が本庄城主となったが、同氏もまた当社を厚く崇敬し、同年9月に本庄城に入るや翌10月には、当社の社殿に装飾を加え、武運長久を祈願している。
小笠原氏は、信嶺の猶子(ゆうし)、小笠原 信之の代に下総国(現茨城県)古河城に移封され、さらにその嫡男の小笠原 政信(忠貴)は関宿城に移るが、政信は本庄城で生まれた縁故により、当社への信仰が特に深く、寛永十六年(1639年)に社殿の改築を行った。天然記念物として保護されている三本の神木(楠・榧・樅)はこの時植樹されたもので、政信(忠貴)はほかに、自筆の額や祈願状(市指定文化財)を奉納している。
当社は明治五年に村社になったが、由緒があり信仰圏も広い故をもって、同十七年に県社に昇格した。
(「金鑚神社 御由緒」案内板より)
◆小笠原 政信(おがさわら まさのぶ)
~金鑚神社が洪水被害を受けた時に、社殿を再建させた~
金鑚神社は、中世以降は、武蔵七党の一つである「児玉党」の氏神として、また児玉党の末裔で、弘治2年(1556年)、本庄城を築いた本庄氏からも尊崇されました。
天正18年(1590)には、本庄城主となった小笠原信嶺(おがさわら のぶみね)からも厚く崇敬されました。
本庄城主 小笠原信嶺の孫の小笠原政信(おがさわら まさのぶ)は、本庄城で誕生し、本庄の金鑚神社を深く信仰していました。
慶長17年(1612年)に父の小笠原信之が本庄藩から古河藩へと加増移封されたことで下総国で育つこととなります。
その後、元和5年(1619年)、父の跡を継いだ政信は、下総古河から関宿に移封となり、下総国の関宿城主となります。
元和9年(1623年)、台町にあった金鑚神社は久城堀の洪水被害を受けます。
寛永十六年(1639年)、本庄宿の総鎮守金鑚神社を深く崇敬していた小笠原政信は寄進し、社殿を現在の宮本町に移し再建されました。(政信はその翌1640年、34歳で死去。)
※本庄市指定有形文化財(古文書)に、「小笠原忠貴筆建立祈願文」があります。
これは、下総国・関宿城主の小笠原政信(忠貴)が、寛永十六年(1639年)に社殿を寄進した時の祈願文とのことです。
◆小笠原政信によって献木された御神木
~カヤ(榧)・クスノキ(楠)・モミ(樅)~
金鑚神社の御神木は樹齢約400年と推定されています。
「クスノキ」は埼玉県指定天然記念物、「カヤ」は本庄市指定天然記念物となっています。
下総国・関宿城主の小笠原政信が1639年の社殿建立の記念としてクスノキ・カヤ・モミの木を献木したものと伝えられています。
※モミは平成の初めに残念ながら枯れてしまったとのことです。
金鑚神社にあるクスノキ・カヤは、どちらも樹齢約400年の立派な御神木です。
本庄城を離れ、関宿城主となった後も本庄の金鑚神社のこと深く信仰し、社殿を再建した小笠原政信が植樹した御神木だと思うと、親しみが増しとてもありがたく感じました。