~本庄にゆかりのある著名人の書画と古地図から「本庄再発見」~
2022年11月20日、「本庄古美術展覧会」にお伺いしました。
本庄にゆかりのある文人や著名人の書画、古地図がたくさん展示してあり驚きました。
本庄の郷土史家である柴崎 起三雄氏と塩原 浩行氏が丁寧に説明してくださり、とてもありがたかったです。
【第49回 本庄古美術展覧会】
~温故知新 有名人の書画と古地図から本庄再発見~
■開催日:令和4年(2022年)11月19日(土)~11月23日(水)
■開催時間:9時~17時(※19日は正午~/最終日は16時まで)
■場所:はにぽんプラザ2階展示スペース
■入場無料
■主催:本庄古美術愛好会
■後援:本庄市文化団体連合会
群馬県佐波郡伊勢崎町(現伊勢崎市)の地図です。
◆「幻の本庄線」について
「大胡(おおご)ー伊勢崎ー本庄」を結ぶ上毛電気鉄道の敷設計画がありました。
戸谷家12代目の戸谷間四郎もその敷設計画にかかわりましたが、世界恐慌の影響を受けて中止になりました。
上記地図の左下には、赤い破線で「伊勢崎から本庄」への鉄道予定路線が描かれています。
地図に「上毛電鉄本庄線」の鉄道敷設計画の形跡が残っていることを知ってとても興味深く感じました。
◆本庄宿の交易拠点としての利根川河口域
「絵図には利根川下流一帯と江戸周辺が描かれている。本庄地域には関係ない史料だと感じるだろうが、実は大いに関係がある。この地図の範囲は本庄地域の交易拠点であったのである。
本庄宿・江戸間の物流輸送は鉄道が敷かれる明治中期まで、利根川の水運を利用してきた。利根川には本庄宿の外港として三友河岸(新井地区)・山王堂河岸・一本木河岸(小和瀬地区)があった。
河岸場から年貢米や大豆・炭・生糸などが江戸へ運ばれた。
物資は船問屋の差配で、高瀬舟で利根川を下り、栗崎・関宿・金杉・松戸等を経由して利根川分流の中川から行徳(ぎょうとく)に出た。
江戸へ直接物資は運ぶことは許されず、ここから江戸までは水運専用に開かれた水路を通り、水運の関所である「船番所」で荷物改めが行われた。通過が許可されてから江戸の掘割(水路)を通り、浅草御蔵(蔵前)や江戸市中の商人のもとへ届けられた。逆に江戸や行徳などから本庄宿外港へ向かう船には、塩(行徳塩や赤穂塩)・干鰯・海産物・醤油・陶磁器・着物等の生活物資が運ばれた。」※『第49回本庄古美術展覧会』パンフレット(P16-17)より
「文明開化の明治4年には、深川万年橋・栗崎間を蒸気船・利根川丸が就航、明治10年に両国・妻沼間を通運丸が就航し利根川を往復したが、鉄道網の発達により大正8年に廃止された。」※『第49回本庄古美術展覧会』パンフレット(P17)より
森田豊香(もりた とよか)は、本庄宿本町の北側で酒造業を営み、名主兼問屋役も代々勤めた豪商です。
(戸谷家とは同じ「花の木18軒」の仲間です。墓所は安養院。)
上州松井田の歌人儘田柳軒(ままだ りゅうけん)や、平安の和歌四天王である伴蒿蹊(ばん こうけい)や歌僧・澄月(ちょうげつ)、小沢芦庵(おざわ ろあん)などにも和歌を学び、さらに江戸の名家である村田春海(むらた はるみ)や加藤千蔭(かとう ちかげ)にも師事し、和歌の大家となりました。
江戸時代中期の本庄宿における国学振興の一役を担いました。
本庄のの人形師である「松崎福松(松寿軒・米富久)」は、浅草の人形師「横山友治郎(号・朝之)」の弟子に入り修行した後に明治30年頃に本庄に戻り山車人形や菊人形を製作する店を開業しました。(家業の米屋に因み屋号を「米福」とし泉町で開業。)
本庄を始め高崎や桐生等でも作品を製作しています。
※本庄まつりの「泉町」の山車人形『武内宿禰 (たけのうちのすくね))』は、明治28年、松崎福松の師匠である「横山友治郎(号・朝之)」が製作したものです。
「七軒町」の山車人形『加藤清正』は、昭和8年、「松崎福松(松寿軒・米富久)」によるものです。
上の米福製作の京人形は、昭和元年頃、所蔵者の父君が修学旅行の際にお土産屋に入ったところ、偶然見付け求めたということです。※『第49回本庄古美術展覧会』パンフレットより
本庄にとって、歴史的、文化的、伝統的に貴重な史料が想像以上に多く保存されていて圧倒されました。
本物が持つ ”説得力” を感じさせていただきました。
本庄宿というと、商人の町と思われがちですが、文化面でも厚みがあったことを実感しました。
本庄にとってかけがえのない財産である歴史的・文化的史料を保存し、展覧会を開いてくださいまして本当にありがとうございました。