2023年1月16日(月) 水墨画家の『尾高浩羽(おだか ひろは)』先生と、『渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会』の蛭川隆司(ひるかわ たかし)理事、野村秀雄会長、田中様が戸谷八商店をご訪問くださいました。

(左から)オレンジ色のジャケットの尾高浩羽先生、野村秀雄会長、蛭川隆司理事、田中様
(左から)オレンジ色のジャケットの尾高浩羽先生、野村秀雄会長、蛭川隆司理事、田中様

尾高浩羽(おだか ひろは)先生は、渋沢栄一翁(1840-1931年)と、尾高惇忠翁(1830-1901年)の玄孫(やしゃご)で、日本と海外両方を拠点に活躍されている水墨画家です。

幼少期からご家族の影響で水彩画と出会い、移住したカナダで、水彩画の作家活動を始め、帰国後に水墨画(内山雨海門下)の活動を開始されたとのことです。

現在は水墨画の他、水彩画やアクリル画での作家活動を始め、華道教室(「広山流」生花)、英語での読み聞かせや読書指導、料理等教室指導など、多彩な分野で活躍されています。国内外の個展・グループ展も多数。海外でも様々な賞を受賞されています。

 

『渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会』の皆さまは、「尾高惇忠生家でのガイド」の他、「論語の里まち歩きツアー」、「論語教室」、「藍染教室」 など、 渋沢栄一の故郷・論語の里の魅力を知っていただくための活動をされています。

『渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会』の理事である蛭川隆司(ひるかわ たかし)氏は、一昨年に戸谷八商店をご訪問くださり、渋沢栄一翁と尾高惇忠翁との関係や、佐久市とのつながりなど、多くのことを教えてくださいました。

※よろしければ以下の記事をご覧ください。

(2021年7月の記事)(2021年8月の記事)

 


◆尾高浩羽(おだか ひろは)先生

※技活・深活【深谷市公式】YouTubeチャンネル「技人紹介! 尾高浩羽さん」より

 

◆「透明のモチーフ」が墨の自然の現象で描けてしまう水墨の奥深さ

水墨というのはこの墨の濃淡を使うだけで、ガラスも表現することができます。ガラスらしく、デッサンや水彩で描こうと思うととても大変なんですけど、水墨画は、スッーと、墨の自然の現象で描けてしまう。その面白さにハマって、水彩で避けていた建物・水物・透明物・人物そういうものをみんな水墨では描きたくなりました。だから画材が全く正反対、そして洋画と墨画とでは描く順序が正反対なんです。紙の白い部分を生かす部分では同じなんですけど。そういうことでどんどんハマっていって。水彩は頭の中ではイラストに近い感覚。水墨画は芸術の域で深いのかなと感じています。

 

◆「内山雨海」の伝統筆法「書画一体」について

私は内山雨海(うちやま うかい)という有名な書家の系列で、その水墨の筆法は、「書画一体」です。

私の「書画一体」というのは、「書の線を画にいかす、書の筆法をそのまま画にいかす」というものです。ですから、書と同じように、なぞり書きとか、全部が乾いてしまってから描き足すとか、あまりそういうことは邪道という流儀でやっております。それがある種のこだわりです。

 

◆伝統技術を継承する意義と新しい試みへの可能性について

水墨画というこの伝統技術を受け継ぐ、継承していくことがすごく気になっています。

今の若い方は、私も最初そうだったのですけれど、水墨画って、山水画で床の間に掛けなければいけなくて、辛気臭くて、お寺に掛かっているというイメージだったのですが、そうではない、「筆法さえ、伝統の筆法を使えば、画材はどんなものでも描けるんだ」ということに気づいて、それでヨーロッパの風景とかそういうものを描くようになりました。そうしたら、新しい風だったので海外の色んなとこからお声がかかるようになりました。

 

◆二度と同じものはないという「墨の色」について

その墨の色にすごくこだわっていて、例えば同じ構図を描こうと思っても、その日の天気と紙と墨、その時に溶いた水が軟水かとか、そういう事によっても墨色って全く違って出るんですね。それから硯の石が端渓(たんけい)を使ってるのか、粘板岩のお習字のお稽古用のを使ってるのか、怒って磨(す)ったのか、ゆっくり磨ったのかによって、粒子のキメが違うので墨の出方が全く違う。だからその日その日の現象なので、二度と同じものはないというオリジナルなものです。

 

◆「オリジナル」について

私がこだわっているのは、ずっとオリジナルにこだわっています。

オリジナルはやっぱり作家の一筆入魂の「気」が入っているという考え方です。

これを見る人に「気が出る」、「気が伝わる」、そしてその見る人の中にあるいろんな「気と呼応する」という考えを私は持っています。それを進めたいなと思っています。

 

◆「抽象」について

最近は、リモート時代に入って、画面越しとか、何か別の形でもアピールすることを考えなければいけないと思い、この頃は「抽象」にも手を染めています。

こちらの作品も(※上記動画7:10参照)、やはり海外から注目があって、このタイル焼きになったものが「モンゴル国立美術館」に入っています。

こちらはコラージュ。コラージュはいわゆる貼り絵ですね。自分の描き損じの紙を貼ったり、そこへ描いたり、そこへ違う色物を貼ったり、というような「抽象」です。

こちらも、制作する時に何枚も紙を重ねて、そしてこの墨の特性を生かす”傘模様”を作るやり方があるんですけど、何枚目かに”滲(にじ)み”かたが違いますよね、表に見えていたのとは全然違う「現象」が下に出てくる。それを何かに「見立て」て、また、山のような感じのものを足したりして、それで、こちらの作品は山のようなので、「不動」というタイトルを付けました。

 

日本の「見立て文化」と「意連(いれん)」について

日本の文化というのは全部「見立て」文化なんですけれども、今はスーパーリアリスティックというのがすごく流行っていて、若い方は写真のように描けると、すごい上手というようにおっしゃるのですけれど、そうではない生き方、そこが本当に芸術なんだということをみんなに伝えたいのですね。そういう意味で、「自分の図らずも出てきた現象」、書もそうです。空を舞っている時も、ずっと「意連(いれん)」といって、自分の意志がつながっているという考え方。

たまたま紙に接面した時にここに墨が黒くのるんですけれども、そこで墨継ぎして切ってしまってはもう「意連」が途切れってしまってだめなんですね。

だから、「書」を書いている時は自分の気をそのままのせているから、こうやって宙を舞っている時も、書いているということなんですよね。それで、たまたまこうやって、紙にのってという、生花でもなんでもそうなんですけれど、「出てきて見えるものは、その見えない部分の行間なり、空(くう)なり、スペースなりを表現する」、それが日本の文化の共通点です。それをみんなにすごく伝えたいと思っています。 

 

モンゴル国立美術館の壁面に常設タイルとなった尾高浩羽先生の作品『Mystery of micro』

※尾高浩羽先生Facebookより


【尾高浩羽(おだか ひろは)先生】プロフィール

双龍墨芸術文化振興会 代表

羽龍会 会長

Studio Hiroha 主宰

(※尾高浩羽先生オフィシャルサイトより)

現代水墨画協会、墨美会、全日本中国墨画連盟、雪舟国際芸術協会会員、日本中国文化交流賞、毎日新聞社国際賞。日美展作家。他受賞多数。

スイス、イタリア、香港アートフェア。仏・西・中・インドネシア他国内外グループ展多数。

 

高祖父 尾高惇忠、渋沢栄一の書画の流れを曾祖父 尾高次郎、祖父 尾高豊作、父 尾高陽一らの遺作と共に尾高三代展定期開催。(銀座ギャラリー椿 ・ 広尾加藤ギャラリー ・下北沢スマートシップ ・代々木Studio Hiroha)

書の線を用いる伝統技法の次世代への継承を志し、光やガラス等新しいものを心象画として描く。近年菌類などの抽象画、コラージュにも意欲を見せる。 

双龍墨芸術文化振興会を組織し会長を務める。次世代に向け日本の伝統文化の継承に努めその魅力の国内外発信を目的とする。

2021年6月埼玉県深谷市JR深谷駅構内市民ギャラリーに於書画展開催好評を得る。

 

尾高浩羽先生のオフィシャルサイト

「スタジオヒロハ」Instagram

 

1960 東京都生まれ

1983 聖心女子大学国文科 卒業

1984-1992 カナダケベック州に滞在

1984-1990 Helmut Gerth氏(透明水彩)に師事

1987-1990 Fay Sproule氏、Brigitte Schreyer氏、Wendy Whitemore氏にそれぞれ師事

1998-2008 菊水黄羽(内山雨海門下 水墨画))に師事

 

[グループ展]

2003 第1回三代展 ギャラリ―椿(京橋)

2007 第3回三代展 加藤ギャラリー

2003 松濤美術館公募展 入選「回廊」(水墨画)

2004 黄羽会 墨画展 アートサロンアクロス

2008 黄羽会 墨画展田中ギャラリー(銀座)

 

[個展]

1989 THE CREDIT VALLEYHOSPITAL(カナダ)

1991 公立図書館 Medowvale(カナダ)

1991 公立図書館 Water roo(カナダ)

2010 個展(シンガポール)

2014 個展(インドネシア)

※「個展なび」HPより

 


◆尾高家・渋沢家 系図


◆内山 雨海(うちやま うかい)氏

墨画と書の一体の美を追求し、独自の世界を築いた墨の巨匠

【墨の美 内山雨海展】

~墨画と書の一体の美を追求し、独自の世界を築いた墨の巨匠、内山雨海。

没後7年、雨海芸術、いまここに蘇る!!~

(1989年9月15日~20日開催) 

 

(以下は「内山雨海展」のチラシより)

内山雨海 (1907-1983) は書画一体の美を追求しつづけた墨の芸術家として知られています。

書画一体は、古くから書と、墨画とは究極的には同一であると考えられ実践されてきました。 日本では現在、書と画はそれぞれ別の分野として扱われていますが、 内山雨海はそれを打破して伝統の上に立った現代的感覚で書の線から画をかき、画意から書をかいた孤高の騎士として生涯を貫きました。

 

その業績は日本のみならず欧米 中国にも知られ、レンペルツ芸術賞レンペルツの作家・哲士 (中華芸術院哲学博士)・ 中国画壇之友 (中国書画評鑑学会)等の称号を与えられ、作品もフィラデルフィア美術館、 ケルンの東洋美術館、エッセン・フォールクヴァンク美術館、 バチカン公館、台北の国立歴史博物館及華岡博物館に13点が永久保存されています。

 

また、内山雨海は墨画・書・篆刻の領域にとどまらない墨の文人ともいえます。若い頃哲学を専攻し、芸術観にも人生観そのものにも独特の哲学を持ち、交友関係も巾広く、特に尾崎士郎・尾崎一雄・壇一雄・小林秀雄・川端康成・草野心平・荻原井泉水といった文壇人とも交わり、文筆、詩作、自由律俳句にも数多くの作品を残しました。

 

没後7年、初めてその偉業を回顧して、 世田谷美術館・池田20世紀美術館・信州新町美術館所蔵の作品7点を中心に、墨画90点と書30点他を展示いたします。

 

これらの作品を通して、 雨海芸術の書画一体の境地と清冽なる気韻をご清鑑下さい。」

 


(戸谷八にて)

(愛宕山神社にて)

愛宕山神社にある『敬神』(諸井春畦揮毫)石碑前にて
愛宕山神社にある『敬神』(諸井春畦揮毫)石碑前にて

戸谷八の歴史的建物や、戸谷八稲荷、愛宕山神社を案内させていただきました。

その後、尾高浩羽先生、蛭川隆司氏、野村秀雄氏、田中様から、渋沢栄一翁や尾高惇忠翁、庭や蔵や書等について多くのことをお聞きすることができました。どのお話も貴重なことばかりで大変勉強になりました。 

 


◆栄一翁が生涯大切にした『赤石(佐渡の赤石)』

尾高浩羽先生から、栄一翁が好きだったという「佐渡の赤石」「龍」についてもお聞きすることができました。

 

渋沢栄一翁が生涯大切にしていた「赤石(佐渡赤石)」※現在は日本橋兜町の「KABUTO ONE」に設置されています。
渋沢栄一翁が生涯大切にしていた「赤石(佐渡赤石)」※現在は日本橋兜町の「KABUTO ONE」に設置されています。

この「赤石」は、渋沢栄一翁が縁起石として自身の住まいに置き、生涯大切にしていたものとのことです。

2021年7月までは日本橋兜町の「日証館」に設置されていましたが、現在は、2021年8月に兜町の新たなランドマークとして開業した「KABUTO ONE」のエントランスに移設されました。

 

(説明文より)

「渋沢栄一ゆかりの赤石

渋沢栄一翁は、明治6年(1873年)に、ここ日本橋兜町に日本で最初の株式会社である第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立。 明治11年(1878年)には東京株式取引所 (現東京証券取引所)を設立し、日本経済・金融の礎を築きました。

 

本赤石(佐渡赤石)は、明治21年(1888年) に渋沢栄一翁が兜町邸宅(現日証館所在地) を建てた際に、日本経済の繁栄を祈念した縁起石として当地に設置されました。

 

その後、 渋沢栄一翁は明治41年(1908年) に、三田綱町に邸宅 (後に大蔵大臣公邸、 現三田共用会議所所在地) を移した際に、本赤石もそこに移設するなど本赤石を生涯大切にしていました。 本赤石は、昭和24年(1949年)に渋沢栄一翁の孫である渋沢敬三(元日本銀行総裁、 元大蔵大臣)によって渋沢栄一翁が明治の元勲である伊藤博文や桂太郎らとの会談場所として足繁く通った柳橋の料亭 「亀清楼」 に寄贈されました。

 

平成29年(2017年)に平和不動産株式会社創立70周年記念事業の一環として、 渋沢栄一翁の遺志を受け継ぐべく、本赤石を譲り受け我が国資本主義発祥の地である 「日本橋兜町」に設置するに至りました。

2021年、兜町の新たなシンボルである「KABUTO ONE」に、日本経済のさらなる躍動を祈念して、本赤石が設置されました。」

 

尾高先生のご実家にも多くの赤石があったとのことで、とても興味深かったです。

 


~栄一翁と「龍」~

◆栄一翁を慕う人々によって作られた「竜門社」

栄一翁は「龍」をよく好まれていたとのことです。

 

「竜門社」のはじまりは、明治19年(1886年)、深川福住町の渋沢栄一翁邸(現在の澁澤倉庫本社)にて、長男・篤二と寄宿していた青年たちによって、勉学や成果発表の場として組織されました。命名者は尾高惇忠翁で、「滝の試練を乗り切った鯉だけが龍になれる」という中国の故事にちなんだといいます。 

現在の「渋沢栄一記念財団」の前身にあたります。

 

「竜門社」は1886年の発足直後からの機関誌『竜門雑誌』を発刊。昭和23年(1948年)の第677号まで刊行しました。

機関誌『青淵』は、『竜門雑誌』の後身で、昭和24年(1949年)の創刊以来途切れることなく発行している月刊誌です。

※財団機関誌『青淵』の一覧については「渋沢栄一記念財団」のこちらをご覧ください。

 

「竜門社の社旗を持つ尾高豊作氏」(公益財団法人渋沢栄一記念財団蔵)
「竜門社の社旗を持つ尾高豊作氏」(公益財団法人渋沢栄一記念財団蔵)

※『尾高惇忠~富岡製糸場の初代場長~』(荻野勝正氏著)より

この写真は尾高家三代にわたった人物が関係しています。「竜門社」の名付け親の尾高惇忠翁、書は尾高次郎氏によるもの、旗を持つ尾高豊作氏

※尾高浩羽先生の祖父 尾高豊作氏によって設立された出版社「刀江書院(とうこうしょいん)」。

『刀江(とうこう)』は、曽祖父の尾高次郎氏の雅号とのことです。

 

「刀江書院」から出版された『渋沢栄一翁』(白石喜太郎著・1933年)
「刀江書院」から出版された『渋沢栄一翁』(白石喜太郎著・1933年)

※実業史研究情報センター・ブログ「情報の扉の、そのまた向こう」(2014年5月19日)より

大正3年(1914年)より渋沢栄一の秘書役を務めた白石喜太郎(しらいし きたろう)氏によって、側近の立場からみた「人間栄一翁」に焦点を当てて執筆されたという伝記です。

もともと、月刊誌『経済知識』に和泉清というペンネームで連載(1930年2月~1933年10月)されていた内容を編集し、1933年12月に「刀江書院」より出版されたとのことです。栄一翁も毎月の連載を楽しんで読まれていたそうです。

(※詳しくは、「実業史研究情報センター様 ブログ」の以下の文章をご覧ください。)

白石喜太郎著『渋沢栄一翁』【刀江書院,1933】(実業史研究情報センター・ブログ2014年5月19日)

和泉清「人間渋沢栄一」(『経済知識』連載)【経済知識社,1930-1933】(実業史研究情報センター・ブログ2014年5月20日)

 

『竜門雑誌(第673号)』(昭和22年11月25日・渋沢青淵記念財団竜門社)
『竜門雑誌(第673号)』(昭和22年11月25日・渋沢青淵記念財団竜門社)

【血洗島の獅子舞】※深谷市指定無形民俗文化財

~「竜頭形」の獅子頭~

「中の家」で演じられる獅子舞
「中の家」で演じられる獅子舞
栄一翁が1916年(大正5年)9月、喜寿を機に寄進奉納した「諏訪神社」拝殿の前庭で演じられる獅子舞
栄一翁が1916年(大正5年)9月、喜寿を機に寄進奉納した「諏訪神社」拝殿の前庭で演じられる獅子舞

渋沢栄一翁は、「血洗島の獅子舞」が大好きだったということです。

多忙な中でも、祭りの日のスケジュールを空けて必ず帰郷し、獅子舞を見ることをことのほか楽しみにしていました。

 

「血洗島の獅子舞」は、毎年10月第3土曜日・日曜日、「諏訪神社」の祭礼(秋の大祭)の前夜と当日に上演奉納されます。

獅子舞は、諏訪神社の社前にて舞われた後、集落内の旧家である「吉岡家」、「笠原家」、「福島家」、「渋沢家」の4つの氏神を巡ります。栄一翁は生家である「中の家」 のしきたりで、12歳のときに初めて雄獅子を演じたといいます。

「竜頭形」をした隠居獅子にその古さをうかがうことができます。

 

渋沢栄一記念財団機関誌『青淵』第835号 (2018年10月号) ※表紙絵:「栄一の愛した血洗島獅子舞」(尾高浩羽先生作品)
渋沢栄一記念財団機関誌『青淵』第835号 (2018年10月号) ※表紙絵:「栄一の愛した血洗島獅子舞」(尾高浩羽先生作品)

尾高浩羽先生の水墨画によって、栄一翁の愛した血洗島の獅子舞の動きが伝わってくるようです。

 

渋沢栄一記念財団機関誌『青淵』第880号 (2022年7月号) ※表紙絵:「青淵文庫」先祖縁シリーズ(尾高浩羽先生作品)
渋沢栄一記念財団機関誌『青淵』第880号 (2022年7月号) ※表紙絵:「青淵文庫」先祖縁シリーズ(尾高浩羽先生作品)

空襲を免れたという「青淵文庫」。地面から青天へ昇る気を感じ、浩羽先生のとてもやさしいまなざしが作品から伝わってきました。

 

「青淵文庫」は、渋沢栄一翁の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて「竜門社(現在の渋沢栄一記念財団)」が寄贈した建物です。1925年に竣工。設計は清水組の技師として活躍した田辺淳吉氏。「青淵文庫」は清水組独立後に設計されたもの。「晩香廬」や「誠之堂」も、田辺淳吉氏による設計です。

 

尾高浩羽先生は、「表紙絵のことば」の中で、

「命有る限り強い気を放つ絵を描き続けることでリアルの世界 水墨の魅力を伝えていきたい。」と述べられています。

水墨画の伝統筆法を継承しながら、見えないものに真実を見出し、空(くう)の豊かさを表出させることのできる水墨画の魅力を伝えていきたいという尾高先生の志に感銘をうけました。

※『青淵』第880号(2022年7月)の目次

※『青淵』のバックナンバー・オンラインショップ(渋沢栄一記念財団HP)

 


◆尾高惇忠翁の偉業

尾高 惇忠翁(1830-1901年)
尾高 惇忠翁(1830-1901年)

尾高惇忠翁は、渋沢栄一翁のいとこであり、学問の師でもありました。

若い頃は尊王攘夷思想に共鳴し、栄一翁らと共に、高崎城の乗っ取りや横浜外人居留地の計画を立てますが、弟の尾高長七郎の説得により断念。

明治元年(1868年)には、渋沢喜作(成一郎)や平九郎と共に彰義隊に参加するも脱退、その後、振武軍に加わり飯能戦争で官軍と戦うも敗北。上州に潜伏した後、故郷の下手計村に戻る。

●その頃、「備前堀事件」と呼ばれる事件が下手計村周辺の村々で発生。

明治2年(1869年)、岩鼻県が備前堀の「新取入口案」を発表。(これまでの仁手村の取入口を閉じて、新規に約5km下流の中瀬村に取入口を開くことを発表。)「新取入口案」が実現すると、従来の水路を利用していた農家に水が行き渡らなくなるため、大きな事件に発展。

→尾高惇忠翁は、韮塚直次郎らとともに事件の解決に尽力し、事件を解決へと導いた。

●これが縁で民部省に登用され、「官営富岡製糸場」の設立に計画当初から携わり、初代場長を務め見事な成績を上げる。

●明治10~20年(1877~1887年)「第一国立銀行 盛岡支店」支配人を務める。

●明治20~25年(1887~1892年)第一国立銀行 仙台支店」の支配人を務める。

→東北の地で産業経済の発展に尽力する。

●明治25年(1892年)、第一国立銀行仙台支店を退職。その功績と人柄を惜しまれながら仙台を離れる。

●明治34年(1901年)1月2日、身を寄せていた深川区福住町の渋沢栄一翁の別邸にて長逝。

 

【盛岡・仙台での功績】

●製藍と染色の専門知識をもとに率先して指導にあたり、事業出資にも加わって会社経営の模範を示した。

●明治11年(1878年)、旧盛岡藩士が中心となって行った「第九十国立銀行」の開業に積極的に協力し、経営指導を行う。

●明治13年(1880年)、「宮城商法会議所」(仙台商工会議所の前身)を設立。

●明治14年(1881年)、「盛岡商法会議所」(盛岡商工会議所の前身)を設立。

→若手実業家たちに新しい経済理論や実務を教え、後の経済界のリーダーとなる若手実業家たちを多数育てる。

●明治18年(1885年)、「北上廻漕会社(ほくじょうかいそうがいしゃ)」を設立。盛岡‐石巻間に最新の「蒸気船」を走らせ、北上川舟運の近代化を図った。

→東北でのわずか15年間で成し遂げた功績は計り知れないものでした。

 


◆明治2年に起きた「備前堀事件」について

~公益のために尽力し、富岡製糸場や日本煉瓦製造の成功にもつながった尾高惇忠翁の手腕

明治2年に起きた「備前堀事件」を解決した尾高惇忠翁は、その手腕を政府に認められ、民部省に入り、明治5年には官営富岡製糸場の初代場長として務めることになりました。

 

是永定美氏は、「関東地方の煉瓦造水門建設史」の中で、備前渠樋管と富岡製糸場との深い歴史的関係性について研究され、そのもとになったのは、明治2年に起きた「備前堀事件」だったのではないかとご指摘されています。

「この備前渠事件が、以後尾高惇忠と韮塚直次郎を富岡製糸場に深く関係づけることになる。もちろん渋澤栄一の存在があってのことであるが歴史の面白さが感じられる一件である。そして、尾高、韮塚両者の富岡製糸場建設と運用の体験が備前渠樋管を埼玉県最初の煉瓦造水門へと、また近代的な大規模煉瓦工場である日本煉瓦製造会社の建設へと導いたと筆者は考える。」※是永定美氏著「関東地方の煉瓦造水門建設史ー煉瓦造「備前渠樋管」と官営「富岡製糸場」の関係ー」『土木史研究(第19号1999年5月)』より


◆約400年以上もの歴史のある備前渠用水(びぜんきょようすい)

~「本庄市・深谷市・熊谷市」を流れる約23kmの用水路・”関東流”の水利技術を使って築造・2020年「世界かんがい施設遺産」に登録~

「備前渠用水路かんがい区域」※https://bizenkyo-midori.jp/yousuiro/
「備前渠用水路かんがい区域」※https://bizenkyo-midori.jp/yousuiro/
「備前堀鳥観図 1831年」※https://bizenkyo-midori.jp/yousuiro/
「備前堀鳥観図 1831年」※https://bizenkyo-midori.jp/yousuiro/
「備前堀の水利技術『関東流(伊奈流)』」※https://bizenkyo-midori.jp/yousuiro/
「備前堀の水利技術『関東流(伊奈流)』」※https://bizenkyo-midori.jp/yousuiro/
『北武蔵農業の生命をつなぐ用水路・備前堀』(茂木 悟氏著)
『北武蔵農業の生命をつなぐ用水路・備前堀』(茂木 悟氏著)

 

【備前渠用水(備前堀)の歴史】

 

・慶長9年(1604年)、江戸幕府の命を受けた代官頭「伊奈備前守忠次」により1年間という短期間で備前堀開削。(烏川から取入)

・天明 3年(1783年)、浅間山の大噴火によって、大量の火山灰や土砂が流れ込み、烏川と利根川が合流。川床が上昇し洪水が頻発。備前堀の取入口は完全に埋没。

・寛政5年(1793年)、幕府による普請が行われるも、備前堀の取水が閉鎖される。(閉鎖期間35年。流域は不作に苦しむ。)

・文政11年(1828年)、下奈良村の名主吉田市右衛門(熊谷市)の尽力により備前堀が再興。

・慶応2年(1866年)、「矢島堰」新設。

・明治2年(1869年)、岩鼻県が備前堀の「新取入口案」を発表。(これまでの仁手村の取入口を閉じて、新規に中瀬村に取入口を開くことを発表。)「備前堀事件」が発生。尾高惇忠翁は、荒木翠軒、金井元治、韮塚直次郎らとともに、地元農民の先頭に立って民部省に提訴し、事件を解決へと導く。(取入口は仁手村のまま)

・明治5年(1872年)、「富岡製糸場」開業。(初代場長は尾高惇忠翁・韮塚直次郎が煉瓦づくりの任務にあたる。)

・明治20年(1887年)、渋沢栄一翁らにより「日本煉瓦株式会社」が設立。

・明治20年(1887年)、取入口を仁手から1km上流の本庄市久々宇(くぐう)へ移設。移築の際に、オランダ人技術者のムルデルに設計を依頼し、当時最新技術を使った埼玉県初の煉瓦造り水門”「備前渠樋管(びぜんきょひかん)」(本庄市久々宇)が完成。

→利根川流域における河川構造物である「水門の近代化」の始まり。

→その後、明治期から昭和初期にかけての約40年間に全国でも類の無い、250基以上もの(関東全体の約85%)”煉瓦を使った”河川構造物が建設されることになる。

・明治28年(1895年)、「日本煉瓦製造」の煉瓦を輸送するための専用鉄道線が開通(備前渠鉄橋・煉瓦アーチ橋)。

・明治30年(1897年)、「矢島堰」が石堰から”煉瓦造り”に改築。

・明治36年(1903年)、『備前渠改閘の碑』(深谷市矢島)建立。(題字は徳川慶喜公・碑文は渋沢栄一翁)

・《大正末期→土木構造物の主流はコンクリートへと移行》

・大正15年(1926年)、小山川の河川改修工事に伴い「矢島堰」が新設。

・昭和5年(1930年)、本庄市山王堂へ取入口を移設。

・昭和40年(1965年)、県営かんがい排水事業 備前渠地区竣工。 

・昭和41年(1966年)、「矢島堰」改修(ゲート構造)。

・令和2年(2020年)、「備前渠用水」が「世界かんがい施設遺産」に登録。日本国内では40施設目、埼玉県内では「見沼代用水」に続き2施設目の登録。

 

【参考文献】

・『北武蔵農業の生命をつなぐ用水路・備前堀』(茂木 悟氏著) 

・『尾高惇忠ー富岡製糸場の初代場長ー』(荻野 勝正氏著)

備前渠用水路土地改良区HP「備前渠用水路のご紹介」

埼玉県における煉瓦樋門等の建設(概略史)

「治水技術の系譜 ~『関東流』と『紀州流』~(荒川上流河川事務所)

 


◆尾高惇忠翁の北上川(きたかみがわ)の「舟運の近代化」への貢献

尾高惇忠翁は、北上川の舟運の利便性を向上するための「蒸気船」の導入を熱く説き、盛岡財界人の賛同を得ました。

明治18年(1885年)、「北上廻漕会社」を設立し、北上川舟運の近代化に大きく貢献しました。

【参考文献】

「渋沢栄一の師・尾高惇忠が 盛岡に育んだものは?」

大木 昌氏著「北上川の舟運と流域生活圏の形成(2018年)」明治学院大学『国際学研究』第52号

Wikipedia「北上回漕会社」

 

尾高惇忠翁は、 『藍香ありてこそ栄一あり』と称えられるほど、栄一翁の人生に大きな影響を与えました。

 惇忠翁のお墓には、渋沢栄一翁の次の言葉が刻まれています。

『噫(ああ)君子(くんし)の器(うつわ)

吾(われ)復(ま)た誰をか頼らん

何ぞ吾を捨てて逝(ゆ)けるや』

 

本庄のすぐそばに、渋沢翁や尾高惇忠翁のような偉大な先人がいてくださることにとても誇りを感じます。

 

尾高惇忠(藍香)翁揮毫の「台町」(本庄市)の扁額
尾高惇忠(藍香)翁揮毫の「台町」(本庄市)の扁額

(※写真は本庄市長吉田信解氏Facebookより)

秋のお祭りで巡回する本庄まつりの「台(臺)町」の山車の扁額は、尾高惇忠(藍香)翁によって揮毫されたものです。

 


◆『不倒翁』としての藍香・栄一

荻野 勝正氏著『尾高惇忠~富岡製糸場の初代場長~』(さきたま出版会)
荻野 勝正氏著『尾高惇忠~富岡製糸場の初代場長~』(さきたま出版会)

荻野勝正氏はご著書『尾高惇忠』の”おわりに”の中で、山本七平氏の「不倒翁」についての記述を紹介されています。

作家の山本七平氏は、『渋沢栄一 近代の創造』(祥伝社)の中で、渋沢翁と尾高惇忠翁について以下のように述べています。

 

われわれ凡人にできることは『先人に学ぶ』ことだけである。それならば、幕末から明治という大転換に人びとはどう対処したか、どうすればそこで『不倒』であり得るかを学べばよい。(中略)

それならば、一個人でなく日本自体が『不倒翁』になるために学ぶべき先人は、藍香や栄一であろう。(p146)」

 

ではなぜ彼(栄一翁)が『不倒』であり得たのか。

一言でいえば彼も藍香も詩人だったからである。

こういえば人は奇妙に思うかもしれぬ。また奇矯な弁を弄している誤解されるかも知れぬ。

それならば『詩作の人』と言ってもよい。

この場合、彼の作った詩が文学的に価値のあるものか否かは問題ではない。 

彼はどんな時でも『詩作』という、『自分だけの世界の人間』になり得たということである。いわば社会の変転の激しい時ほど、このような『不易』な『自己の世界』をもって、はじめて変転する社会に対応できるわけである。 

これが、現代では失われかつ忘れられている幕末・明治人の特質のひとつであろう。(p164-165)」

 


◆栄一翁たちとゆかりのある信州佐久の人たち

『渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会』の蛭川隆司(ひるかわ たかし)理事は、栄一翁と尾高惇忠翁が「不倒翁」としての人格形成に大きく影響を受けたのが、青年時代の南牧村や信州佐久の人たちとのつながりであったとおっしゃっていました。

尾高浩羽先生と蛭川隆司氏は普段は非公開である「木内芳軒」のご子孫の家に、特別に招き入れられ、木内家に伝わる渋沢栄一翁の書等を見せてもらったそうです。(佐久市五郎兵衛記念館館長の根澤茂氏とご縁ができたおかげで、特別に見させていただけたとおっしゃっていました。)

 

渋沢栄一翁たちは、藍玉の商いで信州を訪れた時はわざわざ回り道をし、木内芳軒(きうち ほうけん)宅で漢学を語るのを何よりの喜びとしていたそうです。

(※根澤茂氏の下記文章をご覧ください。)

佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂氏著「第11回 渋沢栄一をして『第二の心のふるさと』と語らせた佐久とは」」

佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂氏著「第13回 尾高長七郎を守った木内善兵衛・渋沢栄一そして市川五郎兵衛を結ぶ糸」

 

NHK大河ドラマの『青天を衝け』では、栄一翁と淳忠翁が信州へ藍売りに出かけて、二人が楽しそうにその過程を漢詩に書き綴っているシーンがとても印象的でした。

 


◆渋沢栄一翁と関東大震災

~一生の後悔と「逆境にこそ人に尽くし力を発揮する」偉大な精神

『渋沢栄一と関東大震災~復興へのまなざし~』(渋沢栄一記念財団付属渋沢史料館、2010年)
『渋沢栄一と関東大震災~復興へのまなざし~』(渋沢栄一記念財団付属渋沢史料館、2010年)

大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、関東一帯に甚大な被害をもたらしました。

神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9。続いて東京湾北部ではマグニチュード7.2の余震が、さらに5分後、山梨県東部ではマグニチュード7.3の余震が立て続けに起こりました。

 

渋沢栄一翁は、「兜町」の渋沢事務所で仕事をしていました。昼頃に大震災が発生。

玄関が崩れたため、近隣にあるより安全な第一銀行に移動しました。

崩れた渋沢事務所に保管されていた資料は、翌日運び出そうと考えていました。

ところが、その夜、事務所は火災に遭って全焼してしまいます。事務所には徳川慶喜の伝記の資料や編纂中であった自身の伝記の資料、また古い手紙などもあったそうです。栄一翁は、「私の一生涯の大失策であると、今に自責の念を禁じ得ぬのであります。」と度々その後悔を語りました。(※デジタル版『渋沢栄一伝記資料』51巻p.p.24-35 No.DKDK510006k-0001)

 

『徳川慶喜公伝』巻1(渋沢栄一翁著、竜門社、大正7年)
『徳川慶喜公伝』巻1(渋沢栄一翁著、竜門社、大正7年)

※国立国会図書館デジタルコレクションより 

 

栄一翁はその時83歳。家族からは深谷に避難するか言われましたが、「わたしのような老人は、こういう時にいささかなりと働いてこそ、生きている申し訳がたつようなものだ」と述べて、先頭に立って復興に尽くしました。

 

栄一翁は、「民」の立場から「大震災善後会」を発足させ義援金を募りました。

また、海外にも呼びかけ、大企業関係者、経済界、商工会議所、教会関係の重要人物に電報を打ち、アメリカからは13万ドルを越える義捐金が大震災善後会に入りました。

さらに、人脈を生かして臨時の病院や炊き出し、避難所などの対策に取り組み、社会の復興に尽力されました。

 

尾高浩羽先生は、渋沢栄一翁は「登竜門伝説」がお好きだったようだとおっしゃっていました。

(「登竜門伝説」…激流の滝 ”龍門”を昇りきった鯉が、天に昇り”龍”となるという中国の伝説。)

関東大震災という未曽有の災禍にあっても、「逆境にこそ力に変えて人に尽くす」という渋沢翁の実行力と精神の強さに改めて感銘を受けました。

 


◆「蔵の扉は火事が収まった後でも、すぐに開けてはならない」という教え

戸谷八の蔵をご案内して、本庄には火事が多かったお話をさせていただきました。(下記参照)

その際、尾高浩羽先生からは、「蔵の扉は、火災が収まった後でも、完全に冷えるまで決して開けてはならない」ということを教えていただきました。

火災の時、蔵の内部は非常に高温となり、可燃性の一酸化炭素ガスが充満しているため、冷めたからといって不用意に蔵の扉を開けた途端、酸素が取り込まれ、蔵の中の物が一気に燃え上がるそうです。

したがって、火災が起きた場合には、蔵の温度が十分に冷えてから(1週間くらい待つくらいの気持ちで)でないと扉は決して開けてはならないと言い伝えられているとのことです。(※熱伝導率が低く冷めにくい土鍋と同じで、蔵の壁を触ってみて温度が下がっているように感じても内部にはまだ熱が残っている。)

 

火事が収まった後は安心してすぐに扉を開けてしまいそうに思うので、大変勉強になりました。

 

「戸谷八の歴史建物と本庄宿の火事(江戸期)」
「戸谷八の歴史建物と本庄宿の火事(江戸期)」
「天明の飢饉蔵(お助け蔵)」(増田未来望「本庄地元学だより22号」より)※平成27年(2015年)に解体 
「天明の飢饉蔵(お助け蔵)」(増田未来望「本庄地元学だより22号」より)※平成27年(2015年)に解体 

本庄宿では、防火目的のために多くの蔵が建てられました。

1846年、本庄宿最大の火事と言われる「伊勢屋火事」が起きた時、戸谷半兵衛の「お助け蔵」が防火したと伝えられています。この蔵は、天明の大飢饉のときに困窮者に米と手間賃の支給を目的として戸谷半兵衛によって建てられた蔵です。

 

 

 

上記の他に、渋沢翁と尾高惇忠翁が慕った信州・佐久での「木内芳軒」との交友の話や、市川五郎兵衛の話など、興味深いお話でいっぱいでした。

蛭川隆司氏、尾高浩羽先生と「市川五郎兵衛館」の館長とのお話も心温まるものでした。

貴重なお話をいただき、本当にありがとうございました。

 


◆「本庄レンガ倉庫」で開催されたジャズコンサート

~尾高浩羽先生の「水墨画実演パフォーマンス」と「ウクライナ支援贈呈式」~

2023年1月15日(日)には、「本庄レンガ倉庫」にて、中山英二さん率いるジャズ音楽家の皆さんのライブ『ニューイヤーコンサート2023』が開催されました。

この日、尾高浩羽先生も特別参加され、水墨画の実演パフォーマンスを行われたとのことです。

その後、上里菅原神社のウクライナ出身の奥様を通して、「ウクライナの戦災弱者支援のための寄付金の贈呈式」が行われました。

【ニューイヤーコンサート at 本庄レンガ倉庫~】

・中山 英二さん(bass)

Jazz bassist 中山英二さんのホームページ

中山英二さんの動画や音源がアップされたYouTube

東京新聞「<ひと物語>演奏で生きざま表現 ジャズ・ベーシスト 中山英二さん」(2022年2月21日)

・石渡 雅裕さん(piano)

・レミンさん(vocal)・青木とし枝さん(vocal)

 

”Lezy Day”

・鈴木 国泰さん(drums)

・川浦幸雄さん(bass)

・鈴木 伸さん(piano)

・江尻 雅江さん(sax)

 

【特別参加】

・尾高 浩羽先生(水墨画家)

 


【尾高浩羽先生の水墨画実演パフォーマンス】

描かれている富士山から瑞々しく清らかな気を感じます。

 

※会場の様子の画像は「尾高浩羽先生Instagram」より引用させていただきました。

 

水墨画の実演パフォーマンスで描かれた「福寿草と富士」
水墨画の実演パフォーマンスで描かれた「福寿草と富士」

墨の濃淡による奥行きの表現や、にじみや余白を生かした雲や山の質感が見事だと思いました。

 

尾高浩羽先生の作品の展示や販売も行われたそうです。

 

◆「ウクライナ支援寄付金贈呈式」

~「上里菅原神社」(埼玉県上里町)のウクライナ出身の奥様へ尾高浩羽先生からの贈呈式~

(左)上里菅原神社のウクライナ出身の奥様:梅林テチャナさん (右)尾高浩羽先生
(左)上里菅原神社のウクライナ出身の奥様:梅林テチャナさん (右)尾高浩羽先生
尾高浩羽先生がウクライナ支援のために描かれた『ひまわり葉書』
尾高浩羽先生がウクライナ支援のために描かれた『ひまわり葉書』

尾高浩羽先生がウクライナ支援のために描かれた『ひまわり葉書』の売上金10万円が上里菅原神社のウクライナ出身の奥様、梅林テチャナさんに贈呈されました。

アクリル画『ひまわり』の原画は、上里菅原神社に奉納済みとのことです。

 


◆「上里菅原神社」の御朱印

「ウクライナと共に」と記した上里菅原神社の御朱印
「ウクライナと共に」と記した上里菅原神社の御朱印

埼玉県児玉郡上里町には、「学問の神様」として知られている菅原道真公を祭っている「上里菅原神社」が鎮座しています。ウクライナ出身の梅林テチャナさんは、上里菅原神社の奥様で、ご自身も「権禰宜(ごんねぎ)」の階位を取得されているとのことです。

テチャナさんは、「ウクライナに平和な暮らしが戻りますよう」にという気持ちを込めて、英語とウクライナ語の「御朱印」を頒布されています。

 

※上里菅原神社ホームページ

※上里菅原神社 Instagram

 

 

◆「上里菅原神社」

「上里菅原神社」は、帯刀(たてわき)の鎮守として祀られている社です。

案内板によれば、「陰陽博士紀友成が日本回国の旅の途中で、こちらへ立ち寄った際、村人が村の鎮守とすべく道真公の絵姿を乞い、併せて武夷鳥神と火雷神を併せて祀り社殿を創立した」とのことです。

 

1日でも早く戦争が終息し、平和な日々に戻るようにお祈りさせていただきました。

 


◆「帯刀先生の墓」(福昌寺)

~木曽義仲の父~

 

帯刀(たてわき)先生とは?

 

「当地は往古上長村と称しておりました。現在の地名である帯刀のいわれについては諸説ありますが、そのうちの一説によりますと、平安時代末期の武将で、六条判官と称された源為義(ためよし)の子、源義賢(よしかた)に由来すると言われております。義賢は保延5年(1139)、皇太子の護衛にあたる武官の帯刀先生(たちはきせんじょう)となりました。帯刀とは春宮坊(とうぐうぼう)の役人のうち武術に優れた者が任じられ、特に刀を腰にさすこと、つまり帯刀が許された武官のことで、帯刀先生はその筆頭者です。義賢は仁平3年(1153)、上野国多胡郡へ下向し、武蔵国北部にまで勢力を伸ばすようになりましたが、鎌倉を根拠地として南関東の武士団の組織を進めていた兄の義朝(よしとも)の勢力と衝突し、久寿2年(1155)8月16日に武蔵国比企郡の大蔵館(現比企郡嵐山町大蔵)で義朝の長男義平との合戦に及ぶのですが討ち取られ、大蔵の地に葬られました。

  この合戦時に幼少であったこの義仲は木曾に逃れ、その後京都で実権を握ったのは有名ですが、当地に伝わる伝説によりますと、義賢も大蔵からさらに逃げのび、当上長村へたどり着き、亡くなったとされています。村人たちはその尊骸を敬い、村内の萱野の中に手厚く葬り、塚を築き墓塔を建てました。この出来事がきっかけとなり、村名を帯刀村と改称することになったということです。※上里菅原神社ホームページより

 

 

●戸谷八の離れには、栄一翁がお書きになった陶淵明の言葉を書いた書があります。

【春水満四澤(しゅんすいしたくにみち)】※詳細はこちらへ

渋沢翁は亡くなる前に、親族たちの前で、陶淵明の詩を諳(そら)んじたと伝わっています。渋沢翁はそれほどまでに陶淵明の世界を愛していました。

渋沢翁と尾高惇忠翁の血を受け継いでおられる尾高浩羽先生も、渋沢翁と同じように、詩画の佳境を愛する芸術活動を何十年にも渡って続けていることを知り、感動いたしました。

 

●尾高浩羽先生は、墨を中心とした芸術活動だけでなく、水彩画や広山流の生花や自然の素材をいかした料理など、多彩な活動をなさっています。(広山流の生花の教えでは、「植物の出生をだいじに 一枝、一葉、一輪の花にも心を配り 花と対話する気持ち」が大事だとされているようです。※「広山流生花ウェブサイト」より)浩羽先生もまた、「広山流は野の花をその自然にさく姿を器に移す。あまり奇をてらった自然界に反することはしません。」と述べられております。

 

●戸谷八商店には、11代目戸谷八郎左衛門が庭園を愛し、中庭の手入れを始めたと伝わっています。

今回、浩羽先生を庭にご案内した時、それぞれの植物についての云われを丁寧に説明していただきました。

お恥ずかしい話、自分の家にある樹木なのに、名前もほとんど知らなかった私ですが、今回、生花の先生でもある浩羽先生から、一つ一つの植物や石について深く知ることができ、本当に勉強になりました。自然を大切にする広山流生花の師範であられる浩羽先生のお人柄にふれることができて、大変光栄に思いました。

水墨画の世界や、植物について、これからより勉強を深めたいと思いました。