~中山道最大の「本庄宿」発展の礎を作った牛頭天王を祭神とする、256年もの歴史を持つ『天王神輿』が修復され、創建当時の輝きを取り戻しました~
『本町天王神輿(もとまち てんのう みこし)』(祭神:牛頭天王)は、256年前の、明和4年(1767年)に造られた神輿です。明治12年(1879年)に一度修復されている歴史ある神輿です。(本庄市指定文化財)
このたび、文化庁の令和3年度の「地域の伝統行事等のための伝承事業」による補助金と、地元の皆様方のご寄付(1/3は地元負担)により、『本町天王神輿』の修復が完成し、本庄市役所駐車場にて、『本町天王神輿修復完成』記念式典が開催され、式典の後には「御神幸祭」が行われました。
『天王神輿』の修復にあたりまして多大なご尽力をいただいた小泉龍司先生をはじめ、本庄市長 吉田信解様、清水正一実行委員長(前 本町自治会長)、本町自治会長 小高隆雄様、本町副自治会長 猪野芳孝様、本町奉賛会会長 奥野浩昭様、本町祭禮保存會 会長 山田幸男様、本庄市議会議員 山田康博様、御神幸祭責任者 清水昭紀様、関係団体の皆様方、地域の皆様方に心から深く感謝申し上げます。
「本庄の祇園祭りは、今から約350年前の寛文3年(1663)に本町のこの場所から始まった。牛頭天王(ごずてんのう)を祀った市神様の祭で、京都と同じに祇園會(ぎおんえ)と呼ばれた。
明和5年(1768)に始められた神輿渡御(みこしとぎょ)もすでに240年の歴史を持つ。
この御旅所(おたびしょ)に安置されている神輿は当時のもので、大阪の宮屋九郎兵衛が、明和4年(1767)に製作し、現在は本庄市有形民俗文化財に指定されている。
神は神輿に乗り、疫病や災難を祓い神の恵み与えるために氏子域をまわり、休憩交流の場所が御旅所(おたびしょ)である。
獅子舞は、津島神社(牛頭天王)を祀る台町が、江戸時代初期に台町の開発を援助した本町に対する返礼として寛文7年(1667)に本町市神様にも奉納を始めたもので、以来、昭和初期まで神前奉納が続いた。
明治初年、国の宗教政策により、天王社が八坂神社と改名されてからは、祭神も素盞嗚尊(すさのお)とされた。
平成19年7月吉日 本町自治会」 ※『本庄祇園まつり発祥の地』ご由緒案内板より
(会場の様子)
咲玉音響サービスさんが音響及び、司会進行を務めてくださいました。
◆開会の辞
「この神輿は、256年前、江戸時代につくられ、144年前に、明治時代に1回修復を行ったという記録がございます。そういった歴史ある神輿でございます。
この神輿を修復するにあたって、今ご臨席くださっている小泉龍司先生や、吉田信解本庄市長様、多くの関係者の皆様のたくさんのご尽力のおかげで、この修復が実ったわけでございます。
この修復というのは、金額的にもかなりの金額でして、本町の各家庭の皆様や、法人の方、団体の皆様からご寄付をいただきました。非常にありがたかったのは町内だけでなく町外の方からのご寄付もいただきました。こういった形でこの神輿ができることになりました。あとは私達がこの神輿を大事に大事にして後世に伝えていくことになろうかと思います。本日は誠にありがとうございました。」
◆主催者挨拶
「本日は皆様、連休中の大変お忙しいところ、大勢の方においでいただきまして誠にありがとうございます。本町自治会を代表いたしまして、心から感謝を申し上げます。
本庄市指定文化財であります、本町所有の『天王神輿』の修復完成式典に参加のご案内を申し上げましたところ、大変な関心をいただきまして、ご参集いただきました。本当にありがとうございました。
さて、本日の主役である『天王神輿』ですが、先程会長の方からもお話がありましたけれども、今から256年前、明和4年(1767年)に製作されたお神輿です。
この頃の歴史を紐解いてみたいと存じます。
この頃の時代は日本全国が大変な不況でして、明和2年(1765年)に本庄近隣の村々が農民一揆を起こし、秩父・児玉郡下・上州・信州等からも約20万も人々が集まり、むしろ旗を掲げて江戸に出向いたそうです。一揆は成功されたようですが、幕府としては先導者を罰せねばならず、当時、東児玉の関村(現在の埼玉県美里町関)の庄屋さんであった遠藤兵内さん、本人は一揆には不参加だったようですが、唯一、唯一人ですね、十条河原にて磔の刑になった話はあまりにも有名であります。
この不況の時代に、本町の先人方は、大坂にこの神輿を発注していたのです。世の中の不況をほかに向けて心の拠り所を変えるという実行力が先人の方々の偉大さを感じます。
そして、本庄の人たちは一揆に参加は少なかったようですが、本庄宿が盛んな頃ゆえに心のゆとりがあったのかもしれません。
最初の修理が明治12年(1879年)、144年前に、江戸日本橋の業者に依頼しております。この頃、明治10年には、九州で西南戦争が起こり、西郷隆盛が戦死しております。翌年の11年には、大久保利通が江戸で暗殺された事件がありました。この頃の時代の背景を見てきたかと思うと、長きにわたり、味わってきたこの世の移り変わりをこのお神輿は対面していると語り掛けているような気がいたします。
ところで話は変わりますが、このお神輿、修理にあたり、1/3の費用は自治会が負担ということで、さぁこの費用捻出に、自治会関係者、支会長さん、役員一同、頭を抱え大変な思いと苦労をいたしました。
目標の予算額が達成されていたからこそ、本日を迎えることができたわけです。これもひとえに、本当に皆様方のおかげであります。ありがとうございました。
そしてまた、偶然にも、年号の文字が、3件の出来事と合致いたしました。すなわち、製作年度が”明和”、最初の修理が”明”治、このたびの修理が令”和”と、一字ずつ共通点があるのも本当に不思議に思われます。まずは天王神輿修復完成式典にご参加いただきましたことに実行委員会を代表いたしまして、本当に心からありがとうございました。」
◆経過報告
神輿修復の経過報告をさせていただきます。
10年間の経過報告になりますことを最初に皆様にご了承いただきたいと思います。
●まずは、2013年、10年前のことです。本庄には10本の山車があり、1本でもいいから県の文化財にならないか、本日こちらに来ていただいている小泉龍司先生にお話をしましたところ、先生がその後すぐに県の職員さんを連れてきてくださり、そこからがこの神輿との出会いであります。宮本町、照若町、本町、この3町の山車を見て、最後に本町で県の職員さんと話をしていたら、県の職員さんがこれは何だと、これの方が古いし、これを県の文化財にというお話を小泉先生がしてくださいました。
その夏、深谷の瀧宮神社に行きましたところ、私の知り合いの塚本修君が猿田彦の衣装、その他を作って、深谷で初めての神儀をしておりました。その姿を見て、うちでも御神幸祭がしたいと、それで、奥野自治会長(当時・現 本町奉賛会会長)に話をしました。また、柴崎起三雄先生に相談したところ、昭和の15年ぐらいまでは御神幸祭をやっていたのではないかと、御神幸祭の道具が残っていたわけであります。
●8年前の2015年、深谷の塚本君に猿田彦の衣装を借りて、本町で初めての「御神幸祭」を行いました。
●2年後の2017年、こちらの「四神剣」は万延元年(1860年)の作であります。こちらを漆を塗って、旗を修復しました。
●その後に2018年、清水自治会長(当時)にお話をして、「猿田彦の装束」を新調しました。
●新調してすぐ、コロナでお祭りが3年間なくなって、御神幸祭を次はいつ行えるのかなと心が下がってきたところで、小泉龍司先生の方から国の補助金のお話がありました。
2021年(令和3年)末に市の方からお話が来て、そこから神輿の見積もり等が始まり、神輿の修復をやろうということになりました。2022年4月に安田工務店さんとお会いし、2022年5月に市の職員さんと協議して、全てが整い、着工となりました。こちらが2022年の5月から1年かけて、修復した神輿です。
総額が1,543万3千円です。このお金は国の方の補助金と、皆様からのご寄付によって完成しました。改めて皆様に感謝の気持ちを申し上げます。
令和5年(2023年)の3月に、安田工務店さんから神輿の修復が完成したとのご連絡をいただきました。見事に立派な神輿ができました。
以上、私の方からの経過報告とさせていただきます。本当に本日はありがとうございます。
◆神事 玉串奉奠
①清水実行委員長、②小高自治会長、③奥野奉賛会長、④吉田市長、⑤小泉代議士、⑥齊藤県議、⑦飯塚県議、⑧岩上本庄市自治会連合会会長の順番で、代表者による玉串奉奠が行われました。
◆決意表明
「厳かに神事が無事に執り行われました。
この神輿は本町の宝であり、本庄市の宝でもあります。これから50年、100年と後世に残せるよう、しっかり守っていく所存です。どうぞ皆様、引き続きのご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。本日はご臨席ありがとうございました。」
◆来賓祝辞
◆(余興)三増紋之助さんによる江戸独楽回しの曲芸
江戸曲独楽の師匠である三増紋之助さんによる、見事な江戸独楽回しの曲芸を見させていただき、会場がとても盛り上がりました。
◆感謝状贈呈
(安田工務店様・鈴木美術漆工芸様)
安田工務店様と鈴木美術漆工芸様は、「天王神輿」の修復にあたり、多大なご尽力をしてくださいました。
(本町奉賛会会長 奥野浩昭様)
奥野浩昭 奉賛会会長は、「猿田彦面」を新調し、寄贈してくださいました。
本町会館の目の前にお住まいの奥野会長は、小さい頃から山車や神輿にふれて育たれたとのことです。
◆閉会の辞
「本日はご臨席たまわりまして、素晴らしいお祝いの言葉も頂戴いたしまして感無量という気持ちでございます。
私も幼少の頃より、本町のお祭りというものに携わらさせていただいております。
その中で私の目に映ったものは何か、それは変化の連続でありました。伝統というものはやはり守るだけでは衰退していってしまうと思います。やはり、時代に合わせて変化し、そして進化させ、活用する、これが本当の伝統の継承だというふうに私は考えております。これからも本町は変化し続け、そして挑戦をし続けたいというふうに思っております。これからも皆様、ご指導ご鞭撻のほどどうぞよろしくお願いいたします。
結びに本庄市のさらなる繁栄と、ここにご参加の皆様のご健康・ご多幸をご祈念いたしまして、『本町天王神輿修復完成式典』を閉会とさせていただきます。本日はありがとうございました。」
◆御神幸祭の説明
「これより、天王神輿修復完成記念・御神幸祭に移りたいと思います。
本日はお忙しい中、たくさんの方にご臨席たまわりまして誠にありがとうございます。
今日の御神幸祭の流れについて簡単に説明させていただきたいと思います。
この場をお借りして皆さんと万歳三唱を行い、その後この場で記念撮影を行いたいと思います。
その後の御神幸祭ですが、本庄市役所を出発しまして、駅通りを南に駅の方に向かっていただき、矢代自転車屋さんの所でUターンし、本町会館に帰ってくる予定でいます。約1時間ちょっとぐらいかと思います。
今日は予想以上に暑いかと思います。十分に水分をとっていただき、皆さんで安全に終了できたらと思っております。どうぞ、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。それでは皆様ご起立いただきまして万歳三唱をよろしくお願いします。(万歳三唱)」
◆本町天王神輿完成記念「御神幸祭」
◆「天王神輿」(明和4年製作・令和5年修復)
◆「本町 天王神輿」の歴史
●弘治2年(1556年)、本庄宮内少輔実忠が、東本庄から本庄台地の北崖に館を移し「本庄城」(前期本庄城)を築城。
本庄城の守護神とするため、東本庄の地より「椿稲荷神社」を遷宮。(本庄城の鬼門方角(字天神林・長峰)には、「椿稲荷神社」を遷宮。裏鬼門(現・大正院薬師堂辺)には、児玉党の氏神である「金鑚神社」を東本庄より移して祀った。)
●天正18年(1590年)、小笠原信嶺、現本庄市役所付近に「本庄城」(後期本庄城)を築く。
●天正19年(1591年)、小笠原信嶺は築城にあたり、本庄氏が崇敬してきた「椿稲荷神社」を、旧城内より新城本丸の鬼門に遷宮。(現在の城山稲荷神社)。
●慶長3年(1598年)、小笠原信嶺の子・信之が上州赤城山より松100本を取り寄せ本庄城内に植える。
●慶長17年(1612年)、小笠原信嶺の子・信之が下総国の古河へ転封。本庄城が廃城となる。
→これ以後、本庄は城下町から宿場町へと変わる。
●元和9年(1623年)、「金鑚神社」は久城堀による洪水被害を受ける。(名主 戸谷八郎左衛門屋敷に仮遷座。)
●寛永16年(1639年)、「金鑚神社」は崇敬の厚かった小笠原信嶺の孫(政信)により社殿の寄進を受けて、現在地の宮本町へと遷座。
《市神様と本庄祇園まつりの起源》
●寛文3年(1663年)、本庄宿に定期市を開く。「市神様(現在の八坂神社)」を本町の田村本陣前に祀る。
徳川家康が江戸に幕府を開き(1603年)、主要街道が鎌倉街道から中山道に移ったことで、月6回の定期市を維持できなくなった榛沢村(はんざわむら)から、本庄宿が交渉によって定期市開催の権利と「市神様」を譲り受けた(遷座)。
定期市は本町・中町・上町で開かれ、市神様は、中山道の田村本陣前の高札場脇に祀られ、6月17日を祭礼日とした。
「本庄の祇園祭りは、今から約350年前の寛文3年(1663)に本町のこの場所から始まった。牛頭天王(ごずてんのう)を祀った市神様の祭で、京都と同じに祇園會(ぎおんえ)と呼ばれた。
明和5年(1768)に始められた神輿渡御(みこしとぎょ)もすでに240年の歴史を持つ。」※『本庄祇園まつり発祥の地』ご由緒案内板(2007年本町自治会作成)より
本庄宿での定期市は、月に6回の六斎市で、2と7のつく日(2日・7日・12日・17日・22日・27日)に開催されました。
※新田町が2日・17日、中町が7日・22日、本町が12日・27日を市日と定め、それぞれ、上市、中市、下市と呼ばれました。市日には、市開催場所となる中山道の両脇のところで、中山道を横切ってしめ縄が張られました。
●寛文8年(1668年)、「台町獅子頭(初代隠居獅子)」製作。(「寛文八戌申歳出来仕」)→台町にて獅子舞の奉納が始められる。
●享保3年(1718年)、「新田町(宮本町・泉町)」に市神様が祀られる。
(新田町の家数が増え、街並みも広がったことから定期市の開催が認められ、現在の市立図書館前の中山道端に新たに市神様を祀り、6月17日を祭礼日とした。本庄宿の市神社は、町の両端の2か所となる。)
→これにより、本町の市神様は「下天王社」(現在は城山稲荷神社に遷座)、新田町の市神様は「上天王社」(現在は金鑚神社境内に遷座)と呼ばれるようになる。
●明和4年(1767年)、戸谷半兵衛を通じ、大坂の宮屋九郎兵衛に「本町の天王神輿」の製作を依頼。(神輿には、「細工人 大阪北御堂筋宮屋九郎兵衛 明和四丁亥都市十一月」と墨書。)
→翌年、明和5年(1768年)に、はじめての「神輿渡御(みこしとぎょ)」を行う(本町・中町・上町)。
●文化13年(1816年)、「猿田彦装束」新調。(「文化拾三年丙午夏六月 猿田彦御装束箱・全具」「天王神事装束入」と墨書。)
●天保15年(1844年)、「城山稲荷神社」の再建始まる。
●弘化2年(1845年)、「城山稲荷神社」再建。
●万延元年(1860年)、「神輿箱」製作。(「萬延元年庚申六月吉日箱作之」、脇には「明治十二卯年旧六月 再式」と墨書。)・「四神剣(四神旗)」製作。
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《明治の神仏分離令により、市神様を「八坂神社」と改名。牛頭天王は「素盞嗚尊」へ》
●明治元年(1868年)、国の宗教政策により、本町の市神様(天王社)が「八坂神社」と改名。祭神も、「牛頭天王」から「素盞嗚尊(すさのお)」へと変更。
●明治6年(1873年)、このころ「関羽」山車を購入か。
●明治12年(1879年)、「八坂神社(市神様・天王社)」を円心寺境内の八幡神社に遷宮。
→遷宮を記念して「本町の天王神輿」修復。(「明治十二卯年旧六月 東京ニ而 再式」と墨書。)
(自動車の時代を迎えると本陣前に置かれた下天王と呼ぶ市神様(八坂神社)は中山道通行の支障となったため八幡社に合祀。以後の祇園祭には中山道に御仮舎(おかりや)を設けて行われるようになった。)
※臨時遷宮祭に、「関羽」山車が曳廻。
●明治17年(1884年)、「猿田彦装束」新調。
●明治28年(1895年)、日清戦争の凱旋記念に、本町の「関羽」山車を「翁」山車に替える。
●明治45年(1912年)、「八坂神社(市神様・天王社)」は、八幡神社とともに「城山稲荷神社」へ遷座。
●大正4年(1915年)、八坂神社鉾旗(吹流し)4旗奉納。(森田英太郎・戸谷八郎左衛門・森田多美治・河野健三郎)
●昭和3年(1928年)、御大典記念(昭和天皇ご即位)に、山車人形「石橋」・二重幕「牡丹」購入。
●昭和15年(1940年)、「御仮屋用長提灯」奉納。
●昭和45年(1970年)、森田啓一郎氏より、城山稲荷神社境内地200坪が奉納。
●昭和47年(1972年)、「城山稲荷神社」神楽殿新築奉納(河村恒久氏)。
●平成10年(1998年)、「石橋」山車を修復。(有限会社 社寺建築 戸部様)
●平成12年(2000年)、「城山稲荷神社」の社殿を新築。
→社殿建て替えにともない、『稲荷、八幡、八坂(本町の市神様・天王社)の三神合祀殿』となる。
→社殿建て替えを期に戦後途絶えていた『神輿の宮出し』を復活。
城山稲荷神社社殿は「三神合祀殿」です。左から、「八幡社」・「稲荷社」・「八坂神社(本町の市神様・天王社)」が祀られています。
●平成15年(2003年)、「本町祭禮保存會」設立。
●平成16年(2004年)、市制50周年記念に、本町の山車人形「石橋」修復・装束新調。(能装束研究家:山口憲先生)
●平成17年(2005年)、「城山稲荷神社」創建450年を記念して「城山稲荷神社大鳥居」建立。
●平成19年(2007年)、本庄の祇園まつりにおける神輿渡御のはじまりとしての「本町の天王神輿」が本庄市指定文化財となる。
●平成27年(2015年)、城山八坂神社より中山道御仮屋まで、猿田彦が先導を務める『御神幸祭(ごしんこうさい)』が復活。
●平成29年(2017年)7月、「本町神輿250年記念」。250年を記念して、「四神剣」を修復。
「本町神輿250年記念・御神幸祭」が行われる。
平成29年(2017年)の「本町神輿250周年記念・御神幸祭」 ※mvp_view様YouTube「本庄市本町祇園祭(平成29年7月15日)」より
●平成30年(2018年)、「猿田彦装束」新調。
●令和5年(2023年)、「猿田彦面」新調(奥野浩昭奉賛会会長寄贈)。
●令和5年(2023年)3月、「本町天王神輿」修復完了。
●令和5年(2023年)5月3日、『本町天王神輿 修復完成記念式典』開催。
※赤字は本町の神輿(夏祭り)についての記述になります。
※緑字は本町の山車(秋祭り)についての記述になります。
【参考文献】
・『本庄のむかし』・『本庄のむかし こぼれ話』(柴崎起三雄氏著)
・『城山稲荷神社創建450年記念誌 本庄の歴史と城山稲荷神社』(本庄市本町自治会、2006年)
・『本庄地元学だより』(増田未来望著)
(2017年7月15日 本町天王神輿250年記念「御神幸祭」)
明和4年(1767年)に造られ、中山道最大の宿場町になった「本庄宿」の礎を作ったといわれる本町の『天王神輿』の修理が完了し、本当に良かったです。
256年もの歴史を持つ、明和4年(1767年)製作の『本町天王神輿』は、本当に本庄宿の宝だと思います。
『天王神輿』の修復にあたりまして多大なご尽力をいただいた小泉龍司先生をはじめ、本庄市長 吉田信解様、実行委員長(前 本町自治会長)の清水正一様、本町自治会長 小高隆雄様、本町副自治会長 猪野芳孝様、本町奉賛会会長 奥野浩昭様、本町祭禮保存會 会長 山田幸男様、本庄市議会議員 山田康博様、御神幸祭責任者 清水昭紀様、関係団体の皆様方、地域の皆様方に心から深く感謝申し上げます。
私も微力ながら本町の氏子として、本町に受け継がれた様々な伝統を継承していきたいと思います。
そして、清水正一実行委員長がおっしゃったように、100年後、200年後の後世にも本庄宿の文化、本町の文化を伝えていけるよう努力していきたいです。
繰り返しになりますが、このたびは皆様のおかげで、中山道最大の「本庄宿」発展の礎を作った牛頭天王を祭神とする、『天王神輿』が修復され、創建当時の輝きを取り戻したこと、心より嬉しく感じました。