埼北文化研究会 代表の矢嶋正幸さんより『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』を いただきました。

 ~江戸時代を通して「本庄宿」から「坂本宿」まで新田氏の関係者が交通網を掌握し続けた記事の一例として、戸谷八商店や、“花の木18軒”について取り上げていただきました。~

 

埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(表表紙)
埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(表表紙)

表表紙は、「猫絵」(新田氏嫡流 岩松俊純筆/妻沼の逸見稔氏所蔵)です。

「新田猫」は、18世紀末の江戸時代後期から明治にかけて、新田岩松氏の歴代当主が4代(温純・徳純・道純・俊純)にわたって描いた猫の絵です。ネズミ除けの効果が高く、養蚕の神様として信仰されました。

 

埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(裏表紙)
埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(裏表紙)

裏表紙は、宮戸の草分けとして代々名主を務めてこられた金井家に伝わる品(女紋に丸に井桁紋)とのことです。


 

~『埼北文化発掘マガジン 土と水と風(第4号)』目次~

◎【特集】

埼北の新田一門(土着 した武士の記憶)

取材:矢嶋正幸氏

●新田岩松家の書画

●武士の末裔が集った妻沼

●交通を支配した新田一門

●新田氏の神社(熊谷市代八幡大神)

●新田氏の寺院(深谷市横瀬華蔵寺)

●コラム 幻想の新田一門

 

◎【連載】

●文化の守人~本庄市宮戸 金井 總雄さん・圓子さん~[取材:黛 千羽鶴(書家 白翔)氏]

●菊地勇のお蔵出し~葛原斎仲通/著 熊谷蓮生一代記~


民俗研究者の矢嶋正幸さんは、「埼北文化研究会」の代表を務められています。

矢嶋さんは、埼玉県北部の地域文化の発掘・広報を目的として「埼北文化研究会」を設立されました。

年に一度を目標に『埼北文化発掘マガジン 土と水と風』の発行や、講演会等の活動をされています。

このたび、『埼北文化発掘マガジン 土と水と風(第4号)』と、『今につながる妻沼の歴史』(まつやま書房)を発行されました。

 

(「土と水と風」第4号では、戸谷八商店についても取り上げていただきました。)

 

埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(P8~P9)
埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(P8~P9)

◆中山道本庄宿を開拓した「花の木18軒」の一つ五十嵐家について

~五十嵐家の子孫である社会思想家 石川三四郎(1876年-1956年)の描く“新田家家臣”と本庄地域との関係~

※石川三四郎『石川三四郎著作集 第八巻』より

『石川三四郎著作集』(青土社、1977年)
『石川三四郎著作集』(青土社、1977年)

「この小部落を開拓した一味は六百年前に新田義貞といふ一人の英雄とともに勤王の師を起して鎌倉幕府を打つた人々でありますが、新田氏が亡びて、故郷の上野(古代の毛の國)に蟄伏し、子孫代々好機の到るのを待つたのでせうが遂にその望を失ひ永祿三年(西紀一五六〇年)に私の出生地たる埼玉縣兒玉郡山王堂を開發したり、諸方を廻つて兵法や算書の指南をしたり、その間は利根川にて魚を取つたりして渡世したと開發舊記にあります。然るに半里ほど隔つた本庄村の方の仲間から頻りに、その村方の開發に加勢せんことを要請して來るので、親類相談の上、弟の九十九完道は依然山王堂村に留まり、兄の大膳長國一家が本庄村西部に移つて大勢の人夫を督して開墾することになりました。當時この地方は茅野や藪野が廣く、猪や鹿が多くゐて作物を喰ひ荒し難儀至極であるといふ仲間の訴へに基き、援に赴いた譯であります。この開拓により、後の中仙道が漸く開通する端緒が始められた譯であります。

 

ところが、この間に日本の政治組織と社會生活とに一大變化が齎されました。即ち、足利氏が倒れ、戰國時代が去つて徳川氏の統一事業が完成せられたことこれであります。そして全國各地の大小名は徳川氏への歸順を證明するために年々參勤交代することになりました。この參勤の通路として本庄驛を通過する中仙道は重要な役割を持つことになりました。新田氏譜代の面々は徳川家康の旗下に列した者も多かつたが、吾々の祖先達は『最早年久しく業家にありて世の治亂にかかはらず、安樂に住すること此上の望み御座無く候儘恐れながら御斷申上候』と云つて、いづれも世の榮華を顧みず百姓になりすましたのです。そして慶長十七年には、五十嵐大膳は百姓太郎右衞門となつてゐました。(p38)」 

 

出典:石川三四郎『石川三四郎著作集 第八巻』(青土社、1977)

 


◆中山道本庄宿を開拓した「花の木18軒」の一つ諸井家について

~諸井家の子孫である大実業家 諸井貫一(1896年-1968年)の描く“新田家家臣”と本庄地域との関係~

※秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻』より

秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻・第二巻』(1969年) ・『諸井貫一追想文集』(1969年)
秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻・第二巻』(1969年) ・『諸井貫一追想文集』(1969年)

「吾が諸井家の祖先は勤王(きんのう)の志篤く楠(くすのき)氏に従って南朝の為に尽瘁(じんすい)してゐたが、正成(まさしげ)戦没し~中略~遂に同じく南朝の忠臣新田氏を頼って上野国へ来たり一本木付近に土着するに至りしものである。(p492)」

 

「一本木諸井家の一族たりし諸井監物が一本木を去って中山道の新天地の開拓に志し、同志と共に本庄へ移住したのは大体永禄二、三年の頃である。時恰も戦国時代であって永禄三年には桶狭間の戦いがあり、其四年前の弘治二年には川中島の戦があった。本庄に於ては此の弘治二年領主本庄宮内小輔(くないしょうゆう)が新に築城し旧居たる東本庄より移転して来たが、この附近は利根川に臨んだ広漠たる原野で児玉ヶ原と唱へられ、少数の農家が散在せる外は徒に猪鹿等の野獣の横行に委(い)するの有様であった。(P493)」 

 

「諸井監物は武士であったが本庄へ移住してからは恐らく伝左衛門と改めたと推測せらるるのであって、而して伝左衛門の名は第四代迄続いてゐる。(P494)」

 

出典:秩父セメント(株)『諸井貫一記念文集 第一巻』(1969) 

 

中山道本庄宿の開拓図
中山道本庄宿の開拓図

◆埼北にある新田氏関係の神社

埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(P10)より
埼玉文化研究会『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第4号~【特集】埼北の新田一門~』(P10)より

『土と水と風』には、埼玉北部にある新田氏ゆかりの神社や寺院が紹介されていました。

 


◆上武「利根川文化圏」の研究もされている矢嶋正幸さん

矢嶋正幸氏「越境する宗教者:上武国境地域の太々神楽(だいだいかぐら)」 (『群馬文化』346号、群馬県地域文化研究協議会、2022年)
矢嶋正幸氏「越境する宗教者:上武国境地域の太々神楽(だいだいかぐら)」 (『群馬文化』346号、群馬県地域文化研究協議会、2022年)

矢嶋正幸さんは、以前から広い視野に立って、利根川文化圏(上武国境地域)について研究をなさっています。

上記『群馬文化』346号では、「越境する宗教者:上武国境地域の太々神楽」というテーマで論文が掲載されていました。

 

・近世後期の上武国境地域の太々神楽(だいだいかぐら)は、どのような地域的なまとまりをもっていたのか

・神楽に携わった宗教者のネットワークは、何を基盤に形成されたのか

・中世以来の武蔵国内の神職組織が、“総社を中心に置いたネットワーク”から、“吉田家を背景にしたネットワーク”へと性質が変わった様子

等について、歴史的な史料をもとに大変興味深い研究内容が掲載されていました。

 

 

矢嶋さんの研究論文を読ませていただいて、非常に勉強になります。

利根川文化圏については非常に興味を持っているので、これからも学ばせていただきたいと思っています。

 

『河岸に生きる人びと 利根川の水運の社会史』(川名登著)より
『河岸に生きる人びと 利根川の水運の社会史』(川名登著)より

河岸を中心にして、利根川両岸には一体の地域を形成してきた歴史、文化圏がみられます。

 


【矢嶋正幸氏 主な論文等】

「明治四三年の大水害による妻沼の大変貌ー災害伝承碑から見る」

『今につながる妻沼の歴史』、埼北文化研究会、まつやま書房、2023年

・「特集 埼北の新田一門」

『埼北文化発掘マガジン 土と水と風』4号、埼北文化研究会、2023年

「鷲宮神社の神楽奉仕者について:神楽役から神楽師へ」

『宗教民俗研究』33号、日本宗教民俗学会、2023年

「榛名山『巫女之記録』を読む:神社神子、技能の継承と喪失」

『山岳修験』71号、日本山岳修験学会、2023年

「越境する宗教者:上武国境地域の太々神楽」

『群馬文化』346号、群馬県地域文化研究協議会、2022年

「近世北関東における神子神楽の統制」

『埼玉民俗』第47号、埼玉民俗の会、2022年

「いかにして寺院では神楽を奉納しなくなったのかー近世後期から明治初頭の武蔵国埼玉郡を舞台にしてー」

『埼玉民俗』第45号、埼玉民俗の会、2020年

「御神楽を取り込んだ地方の神楽歌について : 『土師一流催馬楽神楽歌』から考える」

『日本歌謡研究』60号、日本歌謡学会、2020年

「オーサキとオオカミー眷属信仰のうら・おもてー」

『埼玉民俗』第44号、埼玉民俗の会、2019年

「都市祭礼としての三匹獅子 : 近世初期の城下町を中心にして」

『群馬歴史民俗39号』、群馬歴史民俗研究会、2018年

「唯一神道化する神楽についての一考察 : 近世前中期・鷲宮神社の神楽改革」

『民俗芸能研究』64号、民俗芸能学会編集委員会、2018年

「新しい芸が生まれるときー太々神楽『養蚕の舞』を参考にしてー」

『埼玉民俗』第42号、埼玉民俗の会、2017年

「マタリ神信仰の諸相」

『埼玉民俗』第37号、埼玉民俗の会、2012年

「摩多利神と摩怛利神 ー利根川流域を中心とした疫除神についてー」

『埼玉民俗』第36号、埼玉民俗の会、2011年


◆矢嶋正幸先生の新刊が出版されたので、早速妻沼の「フベンな本屋 むすぶん堂」さんにて購入させていただきました。

【むすぶん堂】様の由来について

 

『人と人をつなぐこと』が店主である福島聡さんの興味の中心にずっとあったそうです。

お店の名前は、地元の人たちと観光客、店をつないで「結ぶ」の意味を込め、さらに、県北地域のなまりである、「行くん(行く)」「~するん(する)」にも掛けて『むすぶん堂』と名付けられたそうです。

(※熊谷経済新聞ウェブサイトより)

『むすぶん堂』さんには、埼玉県の郷土史のかかわる本が充実していて、僕も時々寄らせていただいています。

店主の福島聡さんは、心の底から妻沼を愛し、本を愛しているため、郷土史の本それぞれについて、詳しい説明を聞かせていただき、非常に充実した時間を過ごすことができます。いつもありがとうございます。

 

2021年に開催されたという『埼北本屋めぐりスタンプラリー』についてや、埼北エリアにある個性的な本屋さんについて教えていただきました。

 

「フベンな本屋 むすぶん堂」様(熊谷市妻沼1504-3|Instagram

※“地域と人を結びつける本屋さん”。場妻沼聖天山近くに2021年にオープン。

「熊谷堂書店」様(熊谷市広瀬389-1|Instagram

※歩く本屋さん。FMクマガヤさまにて「熊谷堂 本のあれこれ(第2水曜15時~)」を放送。

「須方書店」様(深谷市深谷町9-12|Instagram

※深谷市の中山道。旧七ツ梅酒酒造跡。(深谷シネマなどの複合施設の一つ。)

●「太原堂」様(熊谷市本町1-180|Instagram

※熊谷市の星川通りから一本道を挟んだ路地に位置する元毛糸屋さん。シェア本屋さん。

「ネコオドル」様(寄居町寄居615-9|Instagram

※寄居町の、祖母が営んでいた元たばこ店を改装。猫に関する本屋さん。

「雑貨と古書の小さなお店 りすとのしゅ」様(深谷市西島町3-10-21|Instagram)シェアbook

※深谷駅前の観光東武さんが古書店に。個性的な「ZINE」が豊富。お店の名前は、チェコ語で“郵便屋”さんという意味。

 


◆『今につながる妻沼の歴史』(埼北文化研究会)

『今につながる妻沼の歴史』

【目次】

第1章:平家物語「実盛」の段を考える(蛭間 健悟氏)

第2章:大正期における妻沼聖天山の節分会(栗原 健一氏)

第3章:妻沼地域の絵はがき(森田 安彦氏)

第4章:葛和田の繁栄―葛和田河岸の復元的考察(仲泉 剛氏)

第5章:明治四三年の大水害による妻沼の大変貌―災害伝承碑から見る(矢嶋 正幸氏)

第6章:雑排から見る妻沼低地の民俗と在村文化(黛 千羽鶴氏・矢嶋正幸氏)

 

各著者紹介 ※『今につながる妻沼の歴史』より
各著者紹介 ※『今につながる妻沼の歴史』より

「土と水と風」第4号と同時期に発行された『今につながる妻沼の歴史』(まつやま書房)では、妻沼にゆかりのある斎藤別当実盛の歴史的な実態や、大正期における妻沼聖天山の節分会の様子について、葛和田河岸について等、妻沼地区にかかわる興味深い論文が掲載されていました。

 

矢嶋正幸さんは、「明治四三年の大水害による妻沼の大変貌―災害伝承碑から見る」と題して、先人の人たちによって建立された「災害伝承碑」を紹介されています。

 

「蛇神碑」(昭和9年、西城(長井村)「弁財天神社」)

「洪水記碑」(明治44年、東別府神社)

「刀江改修碑」(大正3年、葛和田地内の利根川堤防)

「悪戸耕地整理之碑」(大正9年、妻沼西中学校脇)

「開田記念碑」(昭和27年、葛和田橋南詰)

「石材工事記念之碑」(昭和28年、弁財(秦村)の鎮守「厳島神社」)

「小島同志会記念碑」(昭和16年、小島(男沼村))

 

「災害伝承碑」を一つずつたどっていただくことによって、明治43年の大洪水によって受けた被害の状況や、救済の様子、治水政策が一変した様子、復興の様子、耕地整理の進展、社会インフラの整備(青年組織の成立)などがとてもよく伝わってきました。

「明治四十三年埼玉県洪水氾濫記念図」実業之埼玉発行(明治四十三年) ※「本庄祇園まつり再開記念展示会」にて撮影
「明治四十三年埼玉県洪水氾濫記念図」実業之埼玉発行(明治四十三年) ※「本庄祇園まつり再開記念展示会」にて撮影

 

矢嶋さんは、『今につながる妻沼の歴史』の論文の最後に以下のように述べられています。

「今、妻沼地域で目にする広大な農地や長大な堤防は、先人が明治大正に整備してきたものであることは忘れてはいけない。(p166)」

「災害伝承碑は、災害をきっかけにして社会をより良きものにしようとした先人らの活動を今に引き継ぐための記録装置となっている。先人の記憶を受け継いだ我々は、 未来のためにどんな種を蒔いていけるのか。 先人の労苦を偲ぶとともに未来に思いをはせることは、この地域に住む者の責務だろう。(p167)」

 

地震、洪水、噴火といった大規模な自然災害の状況や教訓を後世に伝え残すために作られた災害碑、慰霊碑、記念碑等の「災害伝承碑」は、今に伝える貴重な歴史遺産であると思います。

地域に残る「災害伝承碑」を実際に現地で見てその歴史を調べ、先人の方たちの思いをしっかりと受け継いでいく必要があると強く感じました。


(左)矢嶋正幸氏「都市祭礼としての三匹獅子ー近世初期の城下町を中心にして」(『群馬歴史民俗39号』、群馬歴史民俗研究会、2018年)※台町(本庄市)の獅子舞についても掲載されています。

(右)『埼北文化発掘マガジン 土と水と風 第3号~【特集】 西田さんちの年中行事~』(埼北文化研究会、2022年)


矢嶋正幸さん、このたびは、『土と水と風』を送ってくださり、ありがとうございました。

矢嶋さんは、かつて本庄高校の教師をなさっており、その時から戸谷八商店に時々寄っていただき、貴重なご自身の書かれた論文や冊子などを頂戴しておりました。

戸谷家は代々、「本庄祇園まつり」や「本庄まつり」と関わりが深いこともあり、民俗学的なことにも父も私も興味をずっと持っていたので、新進気鋭の民俗学者で、日本中の民俗学にかかわる場所の現場に実際に足を運ばれる行動力のある矢嶋正幸さんに出会うことができ、非常に感動しました。

妻沼の「むすぶん堂」の店主である福島聡さんも、アカデミックな執筆姿勢で妻沼の歴史を掘り下げていただいたこと、非常に喜ばれていました。

埼玉北部の郷土史にかかわる本をこれからも次々と出版していただければとても嬉しいです。