~葬送の儀礼(棺やミイラを包む布)に込められた、古代エジプト人の「死と再生」への祈り《古代エジプト・ “布の力” 》~
先日、本庄早稲田の杜ミュージアム(埼玉県本庄市)で開催されていた企画展『古代エジプトの棺と埋葬』を訪れました。
会場には、精緻な装飾が施された棺や、幾重もの布に包まれたミイラが展示され、古代エジプト人の死後の世界への想いを深く感じることができました。
【企画展「古代エジプトの棺と埋葬」】
◆会期:令和7年(2025年)1月28日(火)~5月25日(日)
◆会場:本庄早稲田の杜ミュージアム早稲田大学展示室
◆開館時間:午前9時~午後4時30分
◆休館日:月曜日(休日の場合は翌日)
◆入館料:無料
◆主催:早稲田大学文化企画課考古資料館
◆後援:一般社団法人日本エジプト考古学研究所、東日本国際大学エジプト考古学研究所、株式会社アケト
◆本庄早稲田の杜ミュージアムホームページ:
https://www.hwmm.jp/events/exh_egypt2025/
◆チラシ「古代エジプトの棺と埋葬」
※「古代エジプトの棺と埋葬」のチラシにつきましては、本庄早稲田の杜ミュージアムHPのこちらへ
◆早稲田大学のエジプト調査
私のエジプト発掘は、小学校4年生 10才から始まりました。その時に読んだ『ツタンカーメン王のひみつ』に刺激され、エジプトに行く決心をしたのです。そして実際に現行ったのは 1966年22 才の時で、エジプト全土を2回ジープで廻り、ジェネラルカーベイを行いました。そして、本格的に発掘するべく 1967 年にカイロ大学へ留学しました。在エジプト日本大使館の嘱託にしていただいて、考古庁と交渉したのですが、それでもなかなか進まなかったのです。そんな時、飛行機の中で長官であるモクタール博士とたまたま隣り合わせたのです。博士は親身になって私の話を聞いてくれ、ついに発掘権の交渉が成立し、翌年、日本考古学の技術の高さを知っていただくためにモクタール博士を日本へお呼びしました。そして念願叶って発掘権を取得できたのが1970年でした。
1971年、マルカタ南で最初の発掘を開始しました。そして1974年1月、同地域の魚の丘遺跡において「アメンヘテプ3世のセド祭殿」を発見し、世の中に認められることになりました。その後、日本の技術力を武器に、電磁波探査レーダーなどの非破壊調査を大ピラミッドやスフィンクスで行い、これも考古庁から高い評価をいただきました。今日に至るまで、カイロ近郊では「クフ王の第2の太陽の船」、「アブ・シール南遺跡」と「ダハシュール北遺跡」、ルクソールでは「アメンヘテプ3世王墓」などの発掘調査と研究を継続しています。50年以上に及ぶご理解とご支援を下さった早稲田大学ならびに東日本国際大学はじめ多くの皆様に感謝いたします。
早稻田大学名誉教授 東日本国際大学総長
吉村 作治
(※企画展パネルより)
◆棺とは
古代エジプトの埋葬では、ミイラを棺に入れて守ることが一般的でした。
なぜなら、冥界で再生復活するためには、五体満足の遺体?!が必要だったからです。
棺の材質は主に、石、木、土の3種類です。石棺は、身分の高い人に限られ、花崗岩や玄武岩など硬い石材を加工するには、かなりの費用がかかるからです。木棺は、さまざまな人に利用されましたが、高貴な人々は象がんや金箔をほどこし、その最高傑作がツタンカーメンの木棺です。また、第3中間期以降、墓を造営せずに木棺を地面に埋めるだけの埋葬が増加します。木棺自体が墓の役目を担うため、壁画の要素である豊富な図像と多彩な装飾が木棺に施されました。
(※企画展パネルより)
◆魚の丘彩色階段
マルカタ南遺跡では 1974 年、現地の人々が「コム エル=サマック(魚の丘の意)」と呼ぶ場所で、彩色階段を伴う建物址が発見されました。これは、第18王朝の王アメンヘテプ3世が「セド祭(王位更新祭)」を行った建造物と考えられています。セド祭とは、王が即位して 30年目に実施する肉体と精神を復活させるための儀式です。階段の踏面には、手を後ろで縛られたヌビア人、シリア人、西アジア人と、弦を中央で縛った2つの弓が交互に描かれています。これは、ファラオが全世界を征服したことを意味します。
(※企画展パネルより)
※「マルタカ南遺跡」(MAP)は、ツタンカーメン王の墓が発見されたルクソールの「王家の谷」(MAP)近くにあります。
◆死生観
古代エジプト人は、死をどのようにとらえていたのでしょうか。
彼らは死と向き合い、その恐怖をなくす解決策として、死を理解可能なものにしました。
それが、「冥界で再生復活をはたす」という死生観です。それは、一度離れた魂が冥界で身体に戻ることで、永遠に生き続けるというものでした。そのために、死者の肉体はミイラとして大切に保存され、冥界での生活を手助けするために多くの副葬品が入れられました。
冥界は地下にありました。この世界観が生まれた要因は、太陽にあります。彼らは、日没を太陽の死、日の出を太陽の生きかえりと考えていました。つまり、太陽は死んでから復活するまで、天空の動きと同じように、地下世界を通り抜けているとみなしたのです。
生活の場であるナイルの両脇には広大な砂漠が広がり、物理的にも精神的にも死が身近にあったエジプト人だからこそ、このような独特な死生観をもって死の恐怖を克服しようとしたのでしょう。
(※企画展パネルより)
◆2つの魂 バーとカー
古代エジプト人は人間の死を理解可能なものにするため、死んだ後も「バー」と「カー」という2つの魂が肉体を離れて存在し続けるという考えを編み出しました。両者は死後、肉体から分離した実体のない個人として存在します。
「バー」は、人間の頭をした鳥で表現され、肉体以外の個人を特徴づける「個性・人格」と考えられています。バーは翼を使って自由に飛び回ることができるため、現世と来世を往復することができ、生者と死者のつながりを仲介する役割がありました。また、夜間は墓に眠る自分の肉体(ミイラ)に宿り、昼間になると大空へと飛び立って太陽神の航行に加わることもできました。
「カー」は、肘を直角に曲げて掌を真っ直ぐ伸ばした両腕で表現され、多くは「生命力」と訳されます。カーは、人間が生まれた時点で親から授けられ、活力を維持する魂として生涯その内に宿り続けるとされています。カーは死後も、活力を維持するため供物を必要としました。
(※企画展パネルより)
◆墓とは
古代エジプトにおいて、墓は「死者の家」と考えられていました。冥界で再生復活をはたした死者が、永遠なる生活を送る場所とみなしていたからです。
古代エジプトの墓には、時代や生前の地位によってさまざまな様式が存在します。例えば、貴族は地下の埋葬室と地上の礼拝所から構成されるマスタバなどに埋葬され、一般の人々は穴を掘っただけの簡単な墓に埋められました。一方で、どんな墓であっても遺体を地下に埋めることは共通しています。
なぜなら、冥界は地下世界にあると考えられていたためです。
墓はまた、現世と来世をつなぐ境界でもありました。そこで、墓参りに訪れた親族が死者の「バー」と対話し、偽扉を通じて外に出てくる「カー」に供物を捧げました。
(※企画展パネルより)
◆シャブテイ
シャブティどは、冥界で必要となる肉体労働を代行するために、死者とともに埋葬された小像です。副葬されるシャブティの数は、時代を経るごとに増えていきました。
次第に労働者のシャブティだけでなく、監督する監督官のシャブティなども副葬されるようになります。ツタンカーメンの墓には413体のシャブティが納められていました。
(※企画展パネルより)
◆カバ像
古代エジブトでは、雌の力バが多産を象徴する一方、雄のカバはその獰猛(どうもう)さから自然の脅威の象徴でありました。魔術的な力を持つとも考えられ、生命を象徴する青色に彩られ、墓を守る存在として副葬されました。ただし、死者を襲うことを恐れ、必ず足が折られました。
(※企画展パネルより)
◆オシリス信仰
古代エジプトにおいて最も有名な神は、冥界の王であるオシリス神でした。オシリス神は、再生と復活の神でもあり、人々の信仰を集めました。
オシリス信仰はもともと、ファラオとその臣下に限定されていました。
しかし、その信仰はしだいに広まり、一般の人々にも受け入れられていきます。それは「来世の民主化」と呼ばれ、だれもが「冥界でオシリスとなって永遠の命をえる」ことを求めることができるようになりました。
冥界で再生復活するには、オシリス神の裁き「最後の審判」を受ける必要があります。死者の心臓とマアト(真理の意)の羽を天秤にかけ、死者の罪が審判されるのです。無実となると、楽園のような「イアルの野」で永遠に暮らすことができました。
(※企画展パネルより)
◆古代エジプト『死者の書』
※TED-Ed YouTubeチャンネル「死者の書:古代エジプト黄泉の国ガイドブック - テジャール・ガラ」より(https://youtu.be/xT8qpqLf_LA)
※(参照)死者の書 (古代エジプト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/死者の書_(古代エジプト)
◆ミイラ布とは
新王国時代以降、死者は包帯に巻かれたあと、ミイラ布と呼ばれる装飾された布に包まれます。
初期のミイラ布には具体的な図像などはほとんど描かれず、『死者の書』という葬祭文書の一節が書き込まれました。第3中間期になるとオシリス神などの図像に加えて、死者の名前と称号が書かれるようになりました。
プトレマイオス朝になるとミイラ布はさらに発展し、網状装飾の服に身を包んだ死者が等身大に描かれるようになります。加えて、古代エジプトに特徴的な横向きの顔ではなく、正面を向いた姿で描かれます。このように発達を遂げたミイラ布は、次のローマ支配期にも引き継がれていきます。
(※企画展パネルより)
◆ローマ支配期の男性ミイラ布
ローマ支配期になると、副葬品の製作が下火となりますが、ミイラ布はかたくなに維持されました。特に、ネ口帝以降にはローマとエジプトの文化が混ざり合った特徴的なミイラ布が製作されました。
なかでもその傾向が顕著に見られるのが、110年頃に亡くなった「ソテル」という人物のものです。彼のミイラ布は、網状模様の服に身を包み、オシリス神となった彼自身とその周りに描かれた神々や植物などの装飾が特徴的です。これは、ほかの副葬品にも共通するデザインであることから「ソテル・グループ」と呼ばれています。早稲田隊がルクソール西岸の貴族墓で発見したミイラ布も、このソテル・グループに分類されます。
(※企画展パネルより)
◆ローマ支配期の女性ミイラ布
ローマ支配期のミイラ布は、被葬者の性別によりその装飾が大きく変化します。男性のミイラ布は中央にオシリス神と化した被葬者が描かれ、殻竿(からさお)や王笏(おうしゃく)、長い顎髭(あごひげ)、アテフ冠などオシリス神を表す装飾が多数見られ、網状模様があしらわれた服に身を包んでいます。
たいして女性のミイラ布は、ハトホル女神と化した被葬者が中央に描かれます。ヘアバンドを巻き、髪先は複数の束にまとめられ、色とりどりに彩色されたチュニックを着ています。
ミイラ布に描かれた被葬者自身の姿は性別によって大きく異なりますが、その周りに描かれる図像にはさほど違いはありません。男女の見方は異なれど、死者を祈念し来世を願う考えは共通していました。
(※企画展パネルより)
◆ミイラ布に描かれた神々
ローマ支配期のミイラ布には、神々や衣服、植物など多様な図像が死者の周りに描かれています。そのなかでも、エジプト固有の文化を引き継ぎながら、ローマ世界の死生観とうまく調和した例として、アヌビス神がいます。アヌビス神とはイヌの頭をもつ男神であり、オシリス神話の中ではオシリスの遺体に包帯を巻いた神として登場します。そのため、アヌビス神は副葬品が持つデザインの主題として頻繁に用いられました。
古代エジプトの棺にはアヌビス神が足元に表されることが多く、それはローマ支配期のミイラ布にも同様の位置にみられます。しかし、ミイラ布ではそれまでとは違い、首に鍵をつけています。
これは、ギリシャ神話において死者を冥界へと案内するヘルメス神とアヌビス神が同一視されたことに由来します。現世と来世をつなぐ鍵の表現によってアヌビス神が持つ来世へ導く性格がさらに強調されました。
(※企画展パネルより)
◆ダハシュール北遺跡
ダハシュールは(MAP)は、エジプトで最も多くのピラミッドが建ち並ぶことで名を馳せる地域です。東海大学情報技術センターと共同で行った衛星画像解析探査により、ここで新たな遺跡を発見しました。それは、ピラミッド建設が途絶えた新王国時代の墓地でした。最初に見つかった墓は、「イパイ」という人物のものです。地下には6部屋からなる埋葬施設があり、イパイの埋葬はなかったものの、トゥトアンクアメン王とその妻アンクエスエンアメンの指輪をはじめ、数多くの他の人たちの副葬品が出土しました。
その後、新王国時代のみならず中王国時代の未盗掘墓など大発見が続きました。中王国のセヌウの青いミイラマスク、セベクハトとセネトイトエスの色彩豊かな木棺は、一級品の遺物です。また、新王国のウイアイとチャイの黒色木棺なども完全な状態でみつかりました。
2つの時代にまたがる墓地の調査から、古代エジプト社会の移り変わりをうかがい知ることができます。
(※企画展パネルより)

今回、本庄早稲田の杜ミュージアムで開催されていた企画展『古代エジプトの棺と埋葬』を拝見し、考古学者・吉村作治さんを中心とする早稲田大学エジプト調査隊の皆さんによって発掘された、貴重な古代エジプトの棺や、布に丁寧に包まれたミイラに強く心を動かされました。
棺やミイラを実際に見ることで、古代エジプトの人々が、死後の世界をいかに真剣に見つめていたかが伝わってきました。
古代エジプトでは、人は死後も「バー(霊魂・人格)」と「カー(生命力)」という二つの魂が肉体を離れて生き続けると考えられていました。
こうした死後観が、埋葬への強いこだわりにつながっていたことが、展示から深く感じ取れました。
以前、戸谷八商店のブログ記事(※詳細はこちらへ)にて、インドネシアの島々に伝わる「死者を包む布」と葬送の儀式との深い関係についてご紹介したことがあります。
今回目にしたエジプトのミイラを包む布にも、同様に深い意味が込められているように思われました。
田中優子氏の著書『布のちから ~江戸から現在へ~』によれば、布とは「自然を人間界に引き出して織った『自然のかたまり』」であり、「人と神々との橋渡し」を担うメディアでもあるといいます。(※詳細はこちらへ)
その視点から見れば、ミイラを包む布も、故人をこの世の束縛から解き放ち、来世という新たな領域へ導くための「メディア」であり、同時に再生への願いが託された「アジール(聖域)」のような存在だったのかもしれません。
※よろしければ、関連する記事「布の力とアジール②(バリ島・スンバ島・スラウェシ島など)」もあわせてご覧ください。