※老舗15代目が語る中山道本庄宿。今回のテーマは、大河ドラマ『べらぼう』にちなんで本庄の出版物。 ~本庄は “ リトル蔦重 ”、“ リトル渋沢 ”のまち ~
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、2025年12月14日放送の第48回をもって最終回を迎えました。主人公・蔦屋重三郎(横浜流星さん)が脚気に倒れ、仲間たちに見守られながら「屁(へ)!」と叫んで旅立つという、涙と笑いが交錯する“べらぼう”なエンディングは、大きな反響を呼びました。
戸谷八商店では、2025年9月7日(日)と17日(水)に「第9回 本庄まちゼミ」を開催し、今回は大河ドラマ『べらぼう』にちなんで、江戸・明治・大正期の本庄に関する雑誌や新聞記事をご紹介しました。
江戸時代の出版文化に光を当てた『べらぼう』を取り上げることができたのは、とても大きな喜びであり、光栄なことでした。
7日には本庄ケーブルテレビさんが取材にお越しくださり、当日の様子を記録していただきました。心より御礼申し上げます。
真夏の暑さの中、多くの皆さまにご来場いただきましたこと、心より感謝申し上げます。
◆「第9回本庄まちゼミ」戸谷八商店の内容
■開催日時:
2025年 9月 7日(日) 10時~11時/13時~14時
2025年 9月17日(水) 10時~11時
■⑭「老舗 15代目が語る中山道本庄宿」
~大河ドラマ『べらぼう』にちなんで出版物。~
江戸・明治・大正の本庄に関する雑誌記事・新聞記事を取り上げます。
■受講料:無料
■開催場所:戸谷八商店(本庄市中央1-7-21)
老舗15代目が語る中山道本庄宿 ~大河ドラマ『べらぼう』にちなんで本庄の出版物について~
【資料の一部より】
『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』とは?
江戸時代後期、幕府の命により昌平坂学問所の地理局が編さんした、武蔵国の地誌です。
文政13年(1830年)に完成し、地域の地理・歴史・暮らし・産業などが詳しく記されています。
この地誌の「本庄宿」の項目には、森田助左衛門や戸谷半兵衛についても記録が残されています。
◆「黄表紙」について
江戸時代後期に流行した、絵入りの娯楽本です。風刺や滑稽な物語が多く、庶民の笑いや知恵が詰まっています。なかでも、山東京伝の代表作『江戸生艶気樺焼(えどうまれ うわきの かばやき)』(作:山東京伝/画:北尾政演)は、黄表紙の最高傑作とされています。NHK大河ドラマ『べらぼう』第29回にも登場しました。
物語は、もてない男・艶二郎(えんじろう)が「もてる男」になろうと奇行を繰り返し、最後は遊女・浮名と結ばれて落ち着くという、滑稽で、笑いの中にどこか人情を感じさせる物語です。
この作品の中には、吉原に出入りする呉服商「中屋」の使いの姿も描かれています。
提灯の屋号には、「中屋」の「中」の字が見えます。これは本庄宿の豪商・戸谷半兵衛が丁稚奉公した通油町の呉服屋「中屋」の使用人なのでしょうか?
上の地図は、『〈江戸切絵図〉日本橋北神田浜町絵図』です。
「江戸における戸谷半兵衛店に関連する3つの店舗」を赤丸で示しました。
① 日本橋室町一丁目の嶋屋半兵衛店
② 神田三河一丁目の嶋屋半兵衛店
③ 日本橋油通町の中屋勘兵衛店(戸谷半兵衛が丁稚奉公をしていた呉服店)※蔦屋重三郎の「耕書堂」の近く
『耳袋(みみぶくろ)』とは?
江戸時代の南町奉行・根岸鎮衛(ねぎし やすもり)が江戸中期~後期に書きためた、江戸の不思議な話や世間のうわさを集めた奇談集です。
根岸鎮衛は、旗本として佐渡奉行・勘定奉行・南町奉行などを歴任した人物で、約30年にわたり雑話を記録し続けました。 その数は全10巻・約1000編にもおよび、江戸の世相や人びとの感性を伝える貴重な史料となっています。
この『耳袋』の中には、本庄宿の豪商・戸谷半兵衛にまつわるエピソードも記されています。
◆「中屋」の屋号について
『商家高名録』や『江戸買物独案内』は、江戸時代後期の街道沿い(とくに中山道や三国街道など)にあった宿場町の有力な商家、旅籠、さまざまな業種の店舗を紹介した、いわば当時のガイドブックのような書物です。
本庄宿の戸谷半兵衛の店の屋号「中屋(なかや)」は、「しらみ(虱)」に由来すると伝えられています。
(しらみは「よく増えて絶えない」ことから、商売繁盛の願いが込められていたとも考えられます。)
実際に『商家高名録』や『江戸買物独案内』を見てみると、「中屋」という屋号が4軒確認できます。
いずれも「虱」の字に由来しているように見受けられます。
1. 本庄宿本店の「中屋」
2. 江戸・室町一丁目の支店
3. 江戸・神田三河一丁目の支店
4. 通油町にあった「中屋勘兵衛店」(戸谷半兵衛が丁稚奉公していた呉服店)
◆大田南畝 著『壬戌紀行(じんじゅつきこう)』(1802年)
大河ドラマ『べらぼう』では、江戸時代を代表する文化人であり狂歌師でもあった大田南畝(おおたなんぽ/四方赤良)を、桐谷健太さんが熱演。その自由奔放で洒脱なキャラクターは、物語にユーモアと深みを与え、多くの人の心をつかみました。
その大田南畝が記した紀行文『壬戌紀行(じんじゅつきこう)』には、本庄宿についての記述も見られます。
『壬戌紀行』は、南畝が大阪「銅座」への出張勤務を終え、江戸へ戻る旅の様子を綴ったものです。旅は享和2年(1802年)の3月21日に大阪を出発し、4月7日に江戸へ到着するまでの15泊16日。
中山道を通り、4月4日には高崎を経て倉賀野に宿泊、翌5日には本庄宿を通過しています。
「壬戌」とは、この旅が行われた享和2年(1802年)の干支にちなんだものです。
南畝は本庄宿について、次のように記しています。
「本庄の驛舎にぎはゝし。御代官榊原小兵衛支配所なり。南町。本町。台町などあり。左に金さな大明神あり。又雷電の宮あり。又大きなる寺ありて楼門たてり。右にも寺あり。駅舎のうちに書肆あり。文広堂といふ(米屋弥右衛門)又新古本屋林屋といふもみゆ。江戸両替町下村山城油ありと書きし招牌(かんばん)あり。薬ひさぐもの多し。」
【現代語訳】:
本庄の宿場はたいへんにぎわっている。ここは、代官・榊原小兵衛の支配地である。町は南町・本町・台町などに分かれている。道の左手には金佐奈(かなさな)大明神(金鑚神社のこと)があり、さらに雷電の宮(天神社のこと)もある。大きな寺(安養院のこと)もあり、立派な楼門が建っている。道の右手にも寺がある。
宿場の中には本屋があり、「文広堂」という(店主は米屋弥右衛門)。また、「林屋」という新刊・古本を扱う本屋も見かけた。「江戸両替町 下村山城油(白ゴマから取った高級油)あり」と書かれた看板も見られた。薬を売る店も多く立ち並んでいた。
※「文広堂」…安養院大門の南側で米屋と本屋を営んでいた米屋弥右衛門家。同家で、普寛上人が享和元年(1801年)に没した。
にぎわう宿場町の様子が、目に浮かぶようです。
(※緑文字は補足したものです)。
◆大田南畝と塙保己一との交友
大田南畝は保己一より3歳年下でしたが、極めて親しい友人関係にありました。互いの蔵書を交換し合ったり、本を借りたりする間柄でした。また南畝は、保己一が編纂した『群書類従』の宣伝を行っています。
【大田南畝による『群書類従』宣伝文】
「右之書次第にかかはらず、望の者多く有之候巻、去々月より一二冊づつ開版仕候。いづれの部にても御好に任せ候間、御懇望の方は、当六月廿五日より十月六日迄に、土手四番町塙検校宅え可被仰遣候。猥に開版不然ものも御座候に付、摺たて弐百部を限り候間、其後は御断申候。料は今物語の通の紙仕立てにて、紙十枚六分二リン、仕立四分五リンに御座候。」※出典:大田南畝『一話一語』
(意味:この書物の内容にかかわらず、希望される方が多くいらっしゃる巻については、先月から12冊ずつ順次刊行しております。どの部でも、お好みに応じてお選びいただけますので、予約ご希望の方は、6月25日から10月6日までの間に、土手4番町の「塙検校宅」へお申し出ください。なお、むやみに刊行することはいたしませんので、初版は「200部限定」とさせていただきます。それ以降はお断りする場合がございますので、ご了承ください。装丁は『今物語』と同様の仕立てで、料金は、紙代:10枚につき6分2厘・製本代:4分5厘 となっております。)
【大田南畝から塙保己一への書簡】
また、本庄市児玉町の塙保己一記念館には、長崎に出張中の南畝から塙保己一宛てに送られた手紙も残されています。
手紙の中で南畝は、保己一に対し、『群書類従』の販売に向けて、見本を送ってほしいと依頼しています。
◆「平賀源内」と北関東のゆかり ~秩父の鉱山・通商事業~
江戸時代中期、発明家・蘭学者・戯作者として多彩な才能を発揮した平賀源内(1728–1780)。
その活動の舞台は江戸や讃岐(現在の香川県)にとどまらず、北関東にも及んでいました。
とくに埼玉・秩父地域では、鉱山開発や通商事業に挑み、地域の産業と文化に深い足跡を残しています。
1. 山師・源内の誕生 ~石綿との出会い~
宝暦14年(1764年)、平賀源内は長瀞を中心とする三波川帯(秩父地方東部)で、偶然にも「石綿(アスベスト)」を発見しました。
もっとも、その価値を見抜けたのは、源内の豊かな鉱物知識があればこそでした。
2. “燃えない布” 火浣布(かかんぷ)の挑戦
石綿発見ののち、源内は美里町野中の名主「中島家」を拠点に火浣布(かかんぷ)の製作に挑戦。江戸で幕府に献上されましたが、実用化には至りませんでした。
現在、この火浣布はわずか2点のみ現存し、京都大学附属図書館と早稲田大学図書館に大切に保存されています。(※埼玉県立自然の博物館ニュースレター「瀞」(29号・2017年9月)より)
3.秩父鉱山で夢見たゴールドラッシュ
源内はさらに秩父地方西部(中津川上流)の「秩父鉱山」で廃坑となった金山の再開発を計画。
明和3年(1766年)、幕府の許可を得て名主「幸島家(さしまけ)」を拠点に、事業を開始しました。しかし、採掘量が思うように伸びず、3年後には休業に追い込まれました。
幸島家の敷地内には、現在も「源内居」が残されています。鉱山経営のために滞在中、源内は、浄瑠璃「神霊矢口渡」を執筆しています。
4.鉄山開発の失敗
さらに安永2年(1773年)には、ふたたび中津川で「鉄山の開発」に挑戦しますが、精錬がうまくいかず、こちらも撤退となりました。
5.秋田へ広がる技術と文化の波
安永2年(1773年)、源内は秋田藩からの依頼で鉱山開発の指導にあたりました。
しかし、源内の貢献はそれだけにとどまりません。
滞在中、藩主・佐竹曙山や藩士・小田野直武に西洋画法を伝え、「秋田蘭画」の誕生にも貢献しました。
源内の教えを受けた小野田は、画才を開花させ、翌年(1774年)には、杉田玄白・前野良沢らによる『解体新書』の挿絵を任され、日本における西洋画の先駆者となりました。
6.木炭の製造と荒川の水運開発 ~「秩父通船」の成功~
鉱山事業には挫折した源内でしたが、新たなビジネスの種を見出します。
それが秩父の森林資源を活用した「木炭」の製造と輸送でした。
安永4年(1775年)、製鉄で余った大量の炭を江戸に送るため、源内は「荒川の水運」を利用。
鉱山開発で整備した道路や荒川を活用し、船で炭を江戸へ運ぶ通商事業「秩父通船」を開始。
この事業は大成功。
従来は秩父の丸太を筏にして江戸へ運んでいましたが、船で炭を運ぶことで、帰りは江戸の積み荷を秩父に運べるようになり、往復の輸送効率が格段に向上したのです。
7.秩父に刻まれた平賀源内の足跡
鉱山開発の夢は果たせなかったものの、水運を利用した通商事業の成功は秩父に大きな経済的発展をもたらしました。平賀源内の足跡は、今も秩父の歴史に深く刻まれています。
NHK大河ドラマ『べらぼう』の中で、安田顕さん演じる平賀源内は、非常に魅力的で「はまり役」だと非常に絶賛されました。
◆『べらぼう』第5回の「紀行」より(2025年2月2日放送)
第5回の「紀行」では、安田顕さん演じる平賀源内が山師として秩父を訪れ、中津川金山の鉱山事業に取り組む姿が紹介されました。
この回では、源内ゆかりの地として秩父市中津川にある「埼玉県森林科学館」も登場。館内には、平賀源内の業績を紹介するコーナーが設けられており、彼の手紙や鉱山に関する記録、さらに周辺で産出された鉱物などが展示されています。
【参照】
秩父観光なびホームページ
◆寛政年間の観音像寄進者一覧を通して ~江戸と本庄を結ぶ「さざえ堂」~
本庄庄市児玉町小平の「百体観音堂」は、浅間山の大噴火(天明3年・1783)の犠牲者を供養するために建てられました。観音像百体のうち、初期に造られた多くは、江戸の人々による寄進によるものです。
その背景には、成身院第71世・元映上人の尽力がありました。
元映上人は、浅草や観蔵院を拠点に、法華経の講義や十万枚護摩修行を行い、多くの江戸庶民の信仰を集めました。その結果、60体以上の観音像が江戸の施主によって造立され、本庄に奉納されたのです。
寄進名簿には、商人や町人に加え、吉原の人々の名も多く見られます。
また、その中には、本庄宿「中屋半兵衛」が丁稚時代に修業した、日本橋通油町の呉服屋「中屋勘兵衛」による寄進も含まれていました。
こうして江戸と本庄を結ぶ信仰のネットワークが広がり、天明の大噴火で亡くなった人々への祈りを通じて、地域を越えた心の連帯が育まれていったのです。
※尚、現在さざえ堂にある観音像は、明治21年(1888年)の火災のあとに成身院第79世・猪鼻元照和尚によって再建されたもので、児玉町小平の人たちの寄進が多く含まれています。
[出典]
・『埼玉叢書 第6 新訂増補』(稲村坦元 編、国書刊行会、1972年)
・『児玉町史史料調査報告 第3集』(児玉町史編纂委員会、1976年)
◆本庄は “リトル蔦重”、そして “リトル渋沢”
~商いと文化、信仰と遊興、そして人びとの往還が交差する町・本庄~
かつて「中山道最大の宿場町」として栄えた本庄宿。
利根川の水運と街道の交差点に位置するこの町は、商業の拠点であると同時に、文化の花咲く場所でもありました。
江戸時代、本庄には多くの文人墨客が訪れ、町の人々と交流を深めていました。
文人・小倉紅於(おぐらこうお)は、渡辺崋山、谷文晁、千代女、椿椿山、菅井梅関、池大雅、高久隆古など、多くの文人たちと親交を深めました。彼は、名筆の散逸を防ぐため、江戸で名人と称された石工・藤古山を小倉山房に招き、3年もの歳月をかけて遺墨を石に刻ませました。安養院の境内には、紅於が交流した文人たちの句や書画を刻んだ石碑が並びます。「小倉山房」はまさに、文人たちの交流拠点=“サロン”のような存在だったのです。
また、俳諧を愛した豪商・戸谷半兵衛(双烏)は、京都の高桑闌更や、江戸の宗匠・春秋庵2世 常世田長翆を本庄に迎え、本庄を俳壇の一大拠点へと育て上げました。
そして、森田豊香(森田助左衛門)もまた、本庄の文化を支えた重要な人物です。
名主であり、関東随一の酒造家でもあった彼のもとには、江戸や上州から多くの文人が訪れました。
和歌の師としては、伴蒿蹊や加藤千蔭、村田春海など、当時の一流歌人たちが名を連ねました。
こうした文化の厚みは、今も痕跡を残しています。
たとえば、本庄市に現存する「さざえ堂」。その内部には百体観音像が祀られています。
この観音像は、たび重なる火災に見舞われながらも、当時の住職が江戸に出向いて寄付を募り、ついに完成に至ったものです。
その寄進名簿には、なんと吉原の人々の名も多く記されており、宿場町と遊里、そして信仰が、見えない糸でつながっていたことがうかがえます。
宿場町には、女郎や酒、喧嘩といった荒々しい一面もありましたが、それと同時に、人と人とがつながり、支え合い、文化を育む“連”のようなネットワークが確かに存在していました。
名を問わず芸を愛し、交流を惜しまなかった蔦屋重三郎の姿が描かれた大河ドラマ『べらぼう』。
その世界を見つめていると、本庄の風景が重なって見えてきます。
本庄は、まさに“リトル蔦重”。
そして、地域のために尽くし、未来を見据えて行動した人々の姿は、“リトル渋沢”とも呼ぶにふさわしいものです。
◆本庄で創刊された『八州』について
明治28年(1895年)4月19日に本庄で創刊された地域新聞です。
本庄泉町にあった「刀水社」が本社で、社長は関根寅松。(※刀水は関根寅松の号です。)
当時の本庄には、こうした有力な新聞社があり、地元の話題だけでなく、広く関東の情報を発信していました。
地方都市でこれほど早くから新聞が発行されていたことは、本庄地域の文化的な成熟ぶりがうかがえます。
(大正13年1月1日発行『上毛新聞』の正月広告)
関東大震災から100年目の2023年9月6日(水)に発行された「毎日新聞(朝刊)」記事
◆9月7日(日) 午前の部に参加してくださった皆様
写真の一番右に写っている方は、小暮純一さんです。
本庄市市民総合大学の講座「本庄市の社寺仏閣、歩いて学ぶ身近な歴史」で講師をつとめ、本庄市民の皆さんに、地元の神社やお寺の魅力をわかりやすく紹介されています。(※詳細は「令和6年度 本庄市市民総合大学のしおり(P12)」をご覧ください。)
泉町の元自治会長・神谷克己さんからは、本庄まつりの山車に関する明治28年の資料『八州(17号)』があることを教えていただきました。ありがとうございます!
◆『八州(17号)』に掲載された、明治28年の戦勝祝賀会の様子
『八州(17号)』(明治28年12月発行)には、戦勝祝賀会の準備の様子が詳しく記されていました。
泉町や台町は、それぞれ五百金以上を投じて山車を新調し、本町は、「関羽は敵方の武人で縁起が悪い」として、東京に委員を派遣して、新たに「翁」の人形を購入したそうです。
町の入口には縮緬の大国旗が掲げられ、芸妓連は休業して踊りを披露するなど、町全体が盛り上がった様子が伝えられています。
◆「江戸型山車」について
本庄まつりでは、江戸時代の様式を受け継ぐ「江戸型山車」が登場します。
江戸型山車の特徴は、徳川将軍の上覧に際し、江戸城門をくぐるために人形が上下するカラクリを備えていたことです。本庄まつりの山車については、本庄市観光協会HPのこちらをご覧ください。
東京では関東大震災や戦災により、その後、江戸型山車はほとんど失われましたが、川越市・本庄市・高崎市・佐倉市など関東の各地では、江戸型山車という貴重な文化遺産が今も受け継がれています。
◆本庄における江戸型山車の導入と変遷 ~10基の山車~
● 本庄で最初に江戸型山車を購入したのは仲町です。
明治5年(1872年)に東京の人形師・原舟月から「龍女(乙姫)」の人形を載せた四輪の固定式山車を導入しました。(現在の「神武天皇」に替えたのは明治24年の改修時です。)
● 本町では、明治12年(1879年)には、市神様を八幡神社に移転する「遷宮祭」に山車を町内に曳き回した記録が残っています。当時の本町の人形は「関羽」であったと考えられています。(※柴崎起三雄先生 著『本庄のむかし』より)
明治28年(1895年)、日清戦争の凱旋記念に山車と人形を「浪花屋七郎兵衛」から購入しました。人形は「翁」です。その後、昭和3年(1928年)、皇太子殿下ご降誕生記念に、再度「浪花屋」に人形の製作を依頼して、人形を「翁」から「石橋(しゃっきょう)」に替えています。(※平成16年~19年にかけて能装束研究家・山口 憲先生によって、能「石橋」に合わせて、人形装束と幕類が新調されました。)
本町と書かれた額は、明治時代に神祇制度確立に尽力した「福羽美静(ふくばびせい)」による揮毫です。
● 宮本町では、明治15年(1882年)に原舟月より、「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の江戸型山車を購入しています。町名額の「宮本街」の文字は「勝 海舟・高橋泥舟」と共に「三舟」といわれた一人「山岡鉄舟」が揮毫したものです。
● 台町の山車は、明治18年(1885年)に作られたものです。町内に「明治十八年十二月 東京浅草 浪花屋七郎兵衛」と書かれた木札が残っています。人形は、「素盞嗚尊 (すさのおのみこと)」です。「薹町」の文字は渋沢栄一翁の師である「尾高惇忠」が揮毫したものです。
● 泉町の山車は、明治28年(1895年)に日清戦争の戦勝記念として作ったと言い伝えられています。製作者は東京浅草草榊町の横山友治郎です。人形は「武内宿禰 (たけのうちのすくね)」で、古事記に書かれている「神功皇后の新羅を伐つ」に題材を求めています。
【武運を支えた忠臣と皇后 ~武内宿禰と神功皇后】
神功皇后(じんぐうこうごう)は、大和朝廷初期に活躍した仲哀天皇の后。武者姿で新羅征伐に出陣し、その途中で応神天皇を出産したと伝えられています。
その遠征を支えたのが、忠臣・武内宿禰(たけうちのすくね)です。
思慮深く、長寿の賢臣として知られ、幼い応神天皇を大切に抱く姿で描かれます。彼の腕に包まれているのは、産着にくるまれた若き皇子です。
この二人は「武運長久」の象徴として、明治・大正時代に特に人気を集めました。端午の節句には、武者姿の神功皇后と、幼帝を抱える武内宿禰の五月人形が飾られ、子どもの健やかな成長と武運を願う心が込められていました。
● 照若町の山車は、明治33年(1900年)、東京浅草の浪花屋七郎兵衛によって製作されたもので、本町の人形「石橋」を作った庄田七郎兵衛と同じ人です。人形は、「桃太朗 (ももたろう)」です。
● 上町(かみまち)の山車は、明治35年(1902年)に制作されました。
作者は泉町と同じ浅草草榊町の横山友治郎です。
人形は「神功皇后(じんぐうこうごう)」で、泉町の武内宿禰と対をなしています。
町名額の「上街」の文字は、明治三書家の一人に挙げられた島村出身で後に貴族院議員となった「金井之恭(かないしきょう)」が揮毫したものです。
● 七軒町では、地元職人によって大正13年(1924年)に山車を製作し、以後改修を重ねて現在の姿にいたっています。人形は、初めの頃は毎年変えており、そのつど上町の人形師「米福」より借用していました。
現在の「加藤清正」は、昭和8年に皇太子殿下ご降誕記念としてとして「米福」より購入したものです。
●南本町の山車は、平成3年(1991年)製作。大工は高崎の高久森一(日光兼光)。
人形は「連獅子(れんじし)」です。本庄市の堀越義郎の作。歌舞伎舞踊の題材で親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とし、駆け上がって来た子獅子だけを育てると言う故事に倣ったものです。
●諏訪町の山車は、平成5年(1993年)創建。大工は高崎の高久森一(日光兼光)。
人形は「太田道灌」です。人形師は纏屋義郎です。
また、今回の本庄まちゼミには、本庄宿の旧家・森田市郎左衛門家のご子孫の方もご参加くださいました。
森田家は、本庄村の開拓に尽力した「花の木18軒」の一つに数えられ、代々「市郎左衛門」の名を継ぎ、名主として地域を支えてきました。
足尾銅山が不況に陥った際には、戸谷半兵衛・森田助左衛門らとともに一千両を上納し、困窮する人々の救済に尽力しました。
また、森田家は、文事を好み、易学に通じ、詩文にも優れていたと伝えられています。
墓所は安養院にあり、森田市郎(市郎左衛門・義重)の墓碑には、江戸後期の書家・市川米庵による撰文が刻まれています。
9月7日(日) 午前の部に参加してくださった皆様、ありがとうございました!
◆9月7日(水) 午後の部に参加してくださった皆様
◆「若泉稲荷神社」と千家尊福氏 ~本庄の歴史を伝える神社~
今回の「本庄まちゼミ」には、若泉稲荷神社の宮司・稲山さんもご参加くださいました。
【本庄の原点ともいわれる栗崎から北堀の地】
「若泉稲荷神社」は、本庄市北堀に鎮座する神社です。
この栗崎から北堀にかけての一帯は、鎌倉時代は「本庄」と呼ばれていました。東本庄の地名はその名残です。
この地域は、現在の本庄の歴史の原点ともいえる地域です。
(東本庄稲荷神社)
埼玉県本庄市北堀41(MAP)
(若泉稲荷神社)
埼玉県本庄市北堀209(MAP)
【奥宮・「東本庄稲荷神社」】
若泉稲荷神社の奥宮にあたるのが、「東本庄稲荷神社」です。場所は、本庄総合公園・シルクドームの道を隔てた西側。治承4年(1180年)、荘家長によって勧請されたと伝えられています。
【若泉稲荷神社の創建】
その後、天正18年(1590年)に、本庄城主・小笠原信嶺が本庄氏に代わって領主となったとき、領主の姫君の病を祈祷で癒した功績により、現宮司家の隠居所料として、東本庄稲荷神社の分霊を勧請。この地に新たな社殿を建立したのが「若泉稲荷神社」の始まりです。旧領主勧請の古社でもあったため、小笠原氏から篤く崇敬されてきました。
(参照:https://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/9004/)
【明治期の改称と千家尊福氏】
明治時代になると、若泉稲荷神社は村社に列せられます。
その際、当時の埼玉県知事(第7代埼玉県知事任期:1894年1月20日 - 1897年4月7日)であった千家尊福(せんげ たかとみ)氏(第80代出雲国造・出雲大社教の初代管長)の命名により、「若泉稲荷神社」と名付けられました。
【東本庄稲荷神社の合祀と還座の経緯】
明治42年(1909年)、県の指導により「東本庄稲荷神社」は若泉稲荷神社に合祀されました。
しかし、その後「祟りが絶えなかった」とされ、大正15年(1926年)元の地へ「奥宮」として還座されたとのことです。
(参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/若泉稲荷神社)
【若泉稲荷神社の扁額は、千家尊福氏の揮毫】
本庄まちゼミ当日に配布した『八州(第13号)』の「文学家」欄(資料の最上部)には、千家尊福(せんげ たかとみ)氏の名が記されています。
稲山宮司から、若泉稲荷神社の社殿に掲げられた扁額は、千家尊福氏が埼玉県知事(従三位)として在任していた時期に揮毫されたものであることを教えていただきました。
さらに、鳥居の扁額は、氏が晩年に従二位の位を授けられた頃の筆とのことです。
また、東五十子にある国史見在社(こくしけんざいしゃ)「若電神社(わかいかずちじんじゃ)」の扁額も、千家氏が埼玉県令(従三位)として在任していた時期に揮毫されたものだそうです。
※国史見在社については、三橋健「国史見在社について」をご覧ください。
541ページに、武蔵国(五所)の国史見在社として「若電神社」が掲載されています。
今回の本庄まちゼミには、第7回にご参加いただいた堀越さんご夫婦も再びご参加くださり、大変ありがたく思いました。
◆9月17日(水)にご参加くださった皆様
◆伊勢崎からのご参加 ~郷土史を伝える女性の方~
今回の本庄まちゼミには、伊勢崎市で郷土史を教えておられる女性の方もご参加くださいました。
本庄以外の地域から足を運んでいただけたこと、本当にありがたく思います。
伊勢崎の歴史を学び、伝えておられるその姿勢に、深い敬意を抱きました。
本庄と伊勢崎は、どちらも利根川流域に位置し、歴史や文化に共通点も多くあります。
今後、地域を越えたつながりや学び合いが生まれていくことを願っています。
◆城山稲荷神社を守り続ける人 ~油江良文(ゆごう よしふみ)さん~
城山稲荷神社の崇敬者総代長・油江良文さんは、20年にわたり神社の手入れを続けてこられた方です。
境内の清掃や整備はもちろん、周囲の自然環境や樹木にも心を配り、神社のたたずまいを大切に守ってくださっています。
本庄の神社や自然を、心から大切に思ってくださるそのお気持ちに、感謝の気持ちでいっぱいです。
こうした方々の存在があるからこそ、地域の人々は土地に根ざし、安心して暮らしていけるのだと、あらためて感じました。
◆諏訪町の開拓に深く関わり、長きにわたり地域の歴史を支えてきた渡辺さんのご家系
9月17日(水)の本庄まちゼミには、諏訪町の渡辺さんもご参加くださいました。
渡辺さんのご父方は、本庄宿・諏訪町の草分けとして、江戸時代初期に世良田から移り住み、まだ荒野だったこの地を開拓されたとのことです。まさに諏訪町のはじまりを築いた名主の家と言えると思います。
現在、渡辺さんは、かつての諏訪町の面影が少しずつ失われていく中で、その歴史や記憶を後世に伝えようと、諏訪町の歴史を丁寧にまとめておられるとのことです。
また、母方は、本庄市北堀堀の内(本田)の「庄田家」のご出身。
この庄田家は、武蔵七党の一つ「児玉党」の嫡流である庄氏の流れをくむ家系で、「北堀本田館(きたぼりほんでんやかた)」は、庄家長の子・時家が築いたとされる館跡と伝わっています。
鎌倉時代には、本庄の中心は現在の市街地ではなく、栗崎から北堀にかけての地域にありました。
庄田家の祖先は、児玉党の武将・庄小太郎頼家にまでさかのぼるとされ、北堀の地に土着したと伝えられています。
ちなみに、「陸船車(りくせんしゃ)」を考案した庄田門弥も、北堀村本田の出身です。
渡辺さんは、以前にも庄田家の歴史をまとめた貴重なご著書『堀の内』を発行されており、現在は諏訪町の歴史の編纂にも取り組まれているとのこと。
いつかそのご本が完成した際には、ぜひ拝見させていただきたいと願っております。
今回の本庄まちゼミでは、本庄宿の歴史を学ぶ貴重な機会となりましたが、渡辺さんのように地域の記憶を大切にされている方との出会いも、何よりの学びとなりました。
今回の本庄まちゼミにご参加くださった皆さま、本当にありがとうございました。
暑さの残る季節にもかかわらず、足を運んでいただけたこと、心より感謝申し上げます。
皆さまとお話しする中で、私自身もたくさんの学びと気づきをいただきました。
郷土の歴史や文化について、あらためて深く知ることができたのは、皆さまのおかげです。
そして何より、大河ドラマ『べらぼう』の世界を、皆さんと一緒に味わい、語り合えた時間は、かけがえのないひとときでした。
地域の記憶を分かち合い、未来へつなぐこのような場を、これからも大切にしていきたいと思います。
このたびは、本当にありがとうございました。

































































