~江戸で三十余年、教育に尽くし、幕末には故郷中瀬で志を貫いた桃井可堂先生。
その生涯は、長州萩出身の「吉田松陰」や、『夜明け前』の主人公のモデルとなった馬籠(まごめ)宿出身の文豪・島崎藤村の父にも比べられる、郷土・中瀬の大偉人です。~
◆「桃井可堂郷土史料館」を訪ねて
少し前のことになりますが、2025年3月20日、姉とともに埼玉県深谷市中瀬にある「桃井可堂郷土史料館」をご訪問させていただきました。
以前から気になっていた史料館でしたので、今回ようやく伺うことができ、とても嬉しく思いました。
当日は、館長の川田弘一さん(川田歯科医院長)と奥様、中瀬河岸研究会会長で名誉顧問の木村孝雄さんから、貴重なお話をたくさん伺うことができました。
さらに、本庄古美術愛好会会長として毎年本庄古美術展を主催されている塩原浩行さんや、宮戸金井家の奥様もお見えになっており、お二人からも興味深いお話を伺うことができ、大変ありがたく感じました。
『桃井可堂郷土史料館』は、川田歯科医院の敷地内に併設されている史料館です。
桃井可堂(もものい かどう)先生に関する貴重な史料がたくさん展示されています。
史料館のある場所は、かつて桃井可堂先生が「桃井塾(もものいじゅく)」を開いていた跡地でもあります。
館長の川田弘一さんが「先生の素晴らしさをもっと多くの人に知ってほしい」との思いから、2020年に史料館を開設されたそうです。
どの展示にも温かい思いが込められていて、素敵な史料ばかりでした。
見学は予約制で、事前にお電話で申し込むと、川田館長が丁寧に案内してくださいます。
【桃井可堂郷土史料館】(川田歯科医院)
■桃井可堂郷土史料館・名誉顧問:木村孝雄さん(中瀬河岸研究会 会長)
■桃井可堂郷土史料館・館長:川田弘一さん(川田歯科医院 院長)
■住所:埼玉県深谷市中瀬723
■電話:048-587-2502
※お電話にて来館予約してから、お越しください。
【展示されているものの一例】
・桃井可堂先生の書・肖像画・木像
・渋沢栄一翁の書
・利根川や中瀬河岸に関する地図・絵図
・桃井塾の写真や間取り図
・大斉藤家で見つかった小判に関する資料
・当時使われた脇差・袖がらみ・火縄銃・六尺棒などの武具
・可堂先生が江戸で奏したと伝わる「尺八」や、出陣の際に吹いた「法螺貝」
・蚕から糸をつむぐ手回し式の「座繰器」
・「新田猫」(新田岩松氏の歴代当主が4代にわたって描いた猫の絵で、ネズミ除けの効果が高く、養蚕の神様として信仰されていた)
など
お話の中では、利根川の舟運や江戸時代の物流の歴史に始まり、中瀬河岸の繁栄、深谷で最も早く開設された中瀬郵便局、そして桃井可堂先生と渋沢栄一翁とのつながりなど、利根川沿岸や中瀬河岸の歴史がどのように現在へとつながっているかを教えていただきました。
特に、本庄・中瀬・妻沼周辺で採れた、浅間山の噴火によって流れてきた栗石が、江戸城の石垣の裏側(基礎部分)に使われているというお話には、たいへん驚かされました。
また、かつての大斉藤家から発見された小判についても、毎年冬から春にかけて行われる利根川の浚渫工事に関連し、名主を務めていた大斉藤家が、利根川筋上流の村々からの上納金を一時的に預かっていた準公金だった可能性があるというお話は、とても興味深く感じました。
中瀬地域の歴史の深層に触れることができ、大変学びの多い、ありがたい時間となりました。
◆桃井可堂先生についての貴重な文献(著者:持田 勉氏)
◆桃井可堂(もものい・かどう)先生について
【桃井可堂(もものい・かどう) 先生 ~深谷の吉田松陰~】
●桃井可堂先生は、享和3年(1803年)、武蔵国北阿賀野村(現在の埼玉県深谷市北阿賀野)に、福本守道の次男として生まれました。
●12歳のとき、血洗島の儒者・渋沢仁山に師事し、才能を認められました。
仁山は、「東の家」渋沢初代宗助の次男で、「古新宅の家」の祖です。
仁山の塾では論語を中心に教え、その精神は桃井可堂先生から尾高惇忠翁、渋沢栄一翁へと受け継がれていきました。
●20歳のときには、中瀬村の富豪・斉藤安兵衛家(大斉藤家)に奉公し、経理の仕事を担当しながら、文書蔵にこもって学問に励みました。
●22歳で斉藤家を辞し、江戸の「東条一堂塾」に入門。
「一堂門の三傑」と称されるほどの俊才として名を馳せました(桃井可堂・清河八郎・那珂梧楼)。
●天保2年(1831年)29歳のとき、江戸で塾を開き、32年間にわたり多くの門弟を育成。
備中庭瀬藩と伊勢亀山藩の2つの藩で、あわせて23年間も藩師を勤めました。
勝海舟、藤田東湖、山岡鉄舟ら一流の人々とも親交を深め、尊王攘夷の志を強めていきます。
●文久3年(1863年)2月、盟友・清河八郎が「浪士隊」を率いて上洛するのに呼応し、可堂先生も尊攘討幕を決意。
●文久3年(1863年)3月、江戸での安定した生活を捨て、故郷・中瀬村に帰郷。
渋沢喜作の紹介で 川田仙松家(現在の川田歯科医院・桃井可堂郷土史料館)に「桃井塾」を開き、志士の育成にあたりました。
※喜作は豆腐を毎日届けるよう一年分の前金を支払って手配したと伝えられています。
●可堂先生は、各地の勤皇志士と連携し、「天朝組(てんちょうぐみ)」を組織。
新田氏子孫・岩松俊純を推して赤城山で挙兵し、横浜の外国人居留地を襲撃する計画を立てました。
軍資金は、尊王攘夷派の相楽総三(さがら・そうぞう)が提供した3,000両。
決行日は文久3年11月12日(冬至の日)で、これは尾高惇忠や渋沢栄一ら「慷慨組(こうがいぐみ)」の攘夷決行日でもありました。
●しかし、仲間の裏切りにより義挙は挫折。
12月16日、同志を守るため、川越藩剣術師範・大川平兵衛を通じて自首します。
●翌、元治元年(1864年)1月、江戸に搬送され、麻布の「福江藩(五島藩)」に預けられ幽閉。
●7月22日、憂憤のあまり自ら絶食し、死去。享年62歳。
墓所は麻布光専寺(のち吉祥寺)にあり、法号は「義道院猛雲至誠居士」。
【桃井可堂先生が厳罰を免れた背景】
本来であれば斬首になってもおかしくない罪でしたが、桃井可堂先生は不思議なことに厳罰を免れました。
その背景には、いくつかの「めぐりあわせ」があったと考えられています。
● 大川平兵衛とのつながり
可堂先生と親しかったのが、大川平兵衛(おおかわ・へいべえ)でした。
平兵衛は川越藩の剣術師範で、神道無念流の名手として知られていました。
かつて手計村の鹿島神社にあった道場「練武館」にも出稽古で訪れ、尾高惇忠翁・長七郎・渋沢栄一翁らがその指導を受けています。
可堂先生は尾高家を通じて平兵衛と知り合い、やがて深い信頼関係を築きました。
その後、可堂先生は、義侠心に厚い平兵衛を頼り、彼を通じて川越藩に自首しました。
(平兵衛は藩主・松平直克に対し、何らかの温情を願い出たのではないかと伝えられています。)
● 川越藩主・松平直克の理解
当時の川越藩主は松平直克(まつだいら・なおかつ)。
幕府の政事総裁職という大老に並ぶ地位にあり、攘夷論にも深い理解を持つ人物でした。
直克の考え方が、可堂先生の志をある程度理解する後ろ盾になったのかもしれません。
● 幕府要人とのご縁
可堂先生はかつて、江戸で備中庭瀬藩と伊勢亀山藩の2つの藩で、あわせて23年間も藩師を務めました。
その庭瀬藩の本家にあたるのが、備中松山藩主・板倉勝静(いたくら・かつきよ)です。
板倉は松平定信の孫で、幕末には老中首座として将軍徳川慶喜を支えた重臣。
庭瀬藩を通じて、可堂先生の誠実な人柄や学識が板倉の耳にも届いていたのではないかと考えられています。
そうした信頼が、特別な配慮につながったのかもしれません。
● 勤王の藩・福江藩への預け
可堂先生が後に預けられた福江藩(現在の長崎県五島)は、勤王派として知られる藩でした。
この藩の姿勢も、処分が軽減された一因だったとみられます。
これらの要素が重なり、可堂先生には異例の温情が示されたと考えられます。
しかし、厳罰を免れたとはいえ、志を果たせなかった無念は深く、渋沢栄一翁が碑文に記したように、
「憂憤、自ラ食ヲ絶チテ死ス」
その言葉のとおり、可堂先生は静かに命を絶たれました。
[参考文献]
・『桃井可堂 ~深谷の吉田松陰~』(持田 勉著、博字堂、2014年)』
・『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画』(持田 勉著、博字堂、2022年)
◆桃井可堂先生・略系図
◆桃井可堂先生・略歴
◆中瀬河岸について
「江戸か中瀬か」 かつてそう呼ばれた中瀬河岸は、利根川舟運に支えられた先進地でした。
この地から、のちに江戸で多くの門弟を育て、渋沢栄一翁にも影響を与えた学者・桃井可堂先生が生まれています。
江戸時代、利根川は “物流の大動脈” として機能していました。
利根川の舟運で栄えた中瀬河岸には、人や物が集まり、大変なにぎわいを見せていたと伝えられています。
深谷宿をしのぐほどの活気があったとも言われています。
中瀬河岸の繁栄は、藍玉や養蚕業の発展へとつながり、地域の産業と暮らしの基盤を支える大きな力となりました。
また、ここは物資の集積地であるだけでなく、江戸の文化や経済の情報がいち早く届く “情報の拠点” でもありました。こうした環境が、桃井可堂先生や渋沢栄一翁、尾高惇忠翁といった偉人たちを育む土壌となったのかもしれません。
(※案内板より)
中瀬河岸場跡
中瀬河岸は、江戸時代から明治初年にかけて、利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
慶長十二年(一六〇七)に江戸城修築の栗石を中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積地となり、上流や下流から来た乗客や荷物を積み換えるように定められ、関所のような役割も果たしたという。最盛期には、大小百隻近くの舟が出入りし、問屋・旅籠屋などが軒を連ね賑わった。
明治十六年(一八八三)の高崎線(現JR)の開通により次第に衰退し、明治四十三年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。 (第二十四号)
平成五年十一月 深谷上杉顕彰会
◆大斉藤家の小判
◆桃井可堂先生と「大斉藤家(斉藤安兵衛家)」
桃井可堂先生は、20歳から22歳までのあいだ、中瀬の名主役を務めていた大斉藤家(斉藤安兵衛家)に奉公し、主に経理の仕事を担当していたと伝えられています。
その間、朝夕のわずかな時間を惜しんで読書に没頭し、学問への意欲を深めていきました。
奉公のあいだに勉学への思いはさらに強まり、文政7年(1824年)、22歳のときに江戸遊学を決意。
江戸の「東条一堂塾」に入門することとなります。
◆大斉藤家の歴史
初代・斉藤安兵衛は、江戸中期に江戸日本橋の酒屋兼両替商「坂本屋」で修行を積み、その後婿入りして家業を継ぎ、着実に財を築きました。やがて故郷・中瀬へ戻り、金融業を始めて大地主としての地位を確立していきます。
最も繁栄したのは4代目安兵衛の時代といわれています。そして、桃井可堂先生が奉公していたのは、その一代前、3代目安兵衛の時代のことでした。
明治に入ると、当主・斉藤安雄は教育や政治の分野で活躍します。明治19年に中瀬小学校の校長となり、明治27年には埼玉県議会議員に当選。その後は貴族院議員・衆議院議員として政界で力を尽くしました。また、深谷銀行や埼玉農工銀行の頭取、武州銀行の取締役なども務め、県北地域の経済発展にも大きく貢献しています。
◆小判発見の逸話
昭和54年、大斉藤家の屋敷跡が不動産業者に売却され、整地作業中に489枚の小判が発見されました。
この小判は、江戸時代に利根川の冬〜春の浚渫(しゅんせつ)工事の費用として、群馬県の下仁田や沼田など利根川上流地域から集められた御用金・改修費を、一時的に預かっていたとのことです。
発見された小判の所有権をめぐっては十数年にわたり議論が続き、最終的に、国:100枚、旧斉藤家:194枚、土地購入者:117枚、小判発見者:78枚のように分配されて和解が成立したそうです。
江戸城・紅葉山・宮中御養蚕と「中瀬河岸・利根川流域」
~江戸と中瀬との深いつながり~
◆ 江戸城の築造に使われた中瀬周辺の「栗石」
「中瀬河岸」の起こりは、慶長12年(1607年)、徳川家康による江戸城の大改築にまでさかのぼります。
このとき、江戸城の石垣の裏込めに使われた「栗石(くりいし)」が、中瀬河岸を経て利根川の舟運で江戸へと運ばれました。
この栗石は、天明3年(1783年)の浅間山の噴火によって、本庄・中瀬・妻沼一帯に流れ着いたものと伝えられています。軽く加工しやすいことから、江戸城の石垣材としても重宝されたといわれます。
◆ 紅葉山御殿の材木 ~秩父の材木が中瀬河岸を通って江戸城へ~
「紅葉山(もみじやま)」は、徳川家康の「東照宮」をはじめ、歴代将軍の霊廟が置かれた江戸城内でも特に神聖な区域でした。
正徳2年(1712年)には、江戸城の「紅葉山御殿」の新築にあたり、秩父で買い付けられた材木が中瀬河岸から利根川を通じて江戸へ運ばれました。
これを機に中瀬河岸は急速に発展することになりました。

「紅葉山」は、かつて江戸城の本丸と西丸のほぼ中間に位置し、現在は「皇居」の一部となっています。
【紅葉山の歴史】
~江戸城の聖地・紅葉山~
●元和4年(1618年)
久能山東照宮や日光東照宮の設立(元和3年)とほぼ同時期、江戸城内にも家康を祀るために「紅葉山東照宮」が建立されました。以後、家康の命日である4月17日には、将軍が紅葉山東照宮を参詣する「紅葉山御社参」が幕府の公式行事として恒例となりました。
※家康以降の歴代将軍(2代秀忠、3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣)の霊廟も紅葉山に造営されました。敷地に限りがあるので、7代以降の将軍は、既存の紅葉山内霊廟に合祀される形となり、本格的な霊廟建築は6代までで終了しています。
※歴代将軍徳川家の墓所は、寛永寺と増上寺、および栃木県日光の輪王寺にあります。
●寛永18年(1641年)
江戸川の開削により江戸と利根川が水路で結ばれました。
●正徳2年(1712年)
・6代将軍・徳川家宣(文昭院)が死去。
・江戸城紅葉山御殿の新築にあたり、秩父から買い付けた材木が中瀬河岸の廻船問屋「河十」によって江戸へ送られました。これを契機に、中瀬河岸は急速に発展しました。
●幕末~明治時代
江戸開城後、江戸城は新政府に明け渡され、「東京城」と改称されました。明治天皇が京都から東京に移り、東京城は「皇居」となります。
明治新政府は、第16代徳川宗家・徳川家達に対し、城内にあった紅葉山の歴代霊廟の撤去を命じました。
◆「宮中御養蚕」と中瀬・島村の人々
皇居の「紅葉山御養蚕所(もみじやまごようさんじょ)」では、毎年春から初夏にかけて、皇后陛下が蚕を育てる「御親蚕(ごしんさん)」が行われています。 ここでは、純国産の蚕「小石丸(こいしまる)」が大切に育てられており、紅葉山御養蚕所はまさに “絹の聖地” ともいえる場所です。
この伝統の始まりは明治4年(1871年)です。
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が、当時日本の主要な輸出品であった生糸の生産を奨励するため、吹上御苑(ふきあげぎょえん)内に「蚕室(さんしつ)」を設けて宮中での養蚕を再興されたのが始まりです。
この際、養蚕に詳しい人物として推薦されたのが渋沢栄一翁でした。
栄一翁は、世話役として田島武平を推挙し、武平はさらに、養蚕技術に長けた島村(伊勢崎市)の女性4人を選び、宮中御養蚕に従事させました。
こうして、利根川流域の人々は江戸時代から明治時代にかけて、皇室の営みや日本社会の発展に深く関わり続けてきたのです。
【皇室における養蚕の歴史】
~明治の昭憲皇太后以来、歴代皇后によって「御親蚕」が継承。~
●西暦462年(約1560年前)
『日本書紀』には、雄略天皇が皇后に蚕を飼うようすすめたという記述があり、これが皇室における養蚕の始まりとされています。
●明治4年(1871年)3月
・昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう・明治天皇の皇后)は、日本の主要な輸出品であった生糸の生産を奨励するため、吹上御苑(ふきあげぎょえん)内に「蚕室(さんしつ)」を設け、長らく途絶えていた宮中での養蚕を再興しました。
※昭憲皇太后から、宮中において養蚕を行いたいという話があったとき、養蚕に詳しい者として皇后宮太夫(皇后宮職の長)から推薦されたのが渋沢栄一翁でした。
※渋沢栄一翁は、吹上御苑内での「宮中御養蚕(きゅうちゅうごようさん)」の世話役に田島武平を推薦。
武平は、養蚕を熟知した島村の女性4人を宮中御養蚕に当たらせました。
そのうちのひとりが深谷宿本陣・飯島元十郎の妻、曽野(その)でした。(※参照:埼玉県HP「NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を今に伝える県境の魅力めぐり その5」執筆:藤井美登利先生より)
●明治5年(1872年)
「富岡製糸場」が開業。初代場長は尾高惇忠。
※渋沢栄一翁が設立に大きく関わりました。
※生糸と蚕種は、開国直後の日本にとって最大の輸出品目であり、国家の最重要産業とされました。
●明治6年(1873年)
火災で吹上御苑内の蚕室が消失し、御養蚕は中断。
同年6月、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)は、英照皇太后(えいしょうこうたいごう・孝明天皇の皇后)と共に富岡製糸場を行啓。
場長の尾高惇忠とフランス人技師ポール・ブリューナの案内で、製糸作業や機械室などを視察しました。
●明治12年(1879年)
英照皇太后(孝明天皇の皇后)が、青山御所に御養蚕所を新設し、御養蚕を再開します。
●大正3年(1914年)
貞明皇后(ていめいこうごう・大正天皇の皇后)は、皇居の紅葉山(紅葉山東照宮の跡地)に現在の「紅葉山御養蚕所」を建設。
●昭和3年(1928年)
貞明皇后(大正天皇の皇后)から香淳皇后(こうじゅんこうごう・昭和天皇の皇后)へ、「紅葉山御養蚕所」での養蚕が引き継がれます。
●昭和23年(1948年)6月5日
貞明皇后(大正天皇の皇后)が蚕糸・絹業関係の視察で田島弥平宅を行啓。
●平成2年(1990年)
美智子皇后(平成天皇の皇后)が御養蚕を継承。
●令和2年(2020年)
雅子皇后が「紅葉山御養蚕所」での養蚕を引き継ぎます。
皇居の「紅葉山御養蚕所」では、毎年4月末から5月初めにかけて、蚕の飼育を始める「御養蚕始の儀(ごようさんはじめのぎ)」が行われます。
そして、初夏には、収穫した繭の生糸を神前に供える「御養蚕納の儀(ごようさんおさめのぎ)」が執り行われるのが習わしとなっています。
◆ 深谷産の煉瓦と近代化への貢献

明治20年(1887年)、渋沢栄一翁が設立した「日本煉瓦製造株式会社」では、良質な粘土とドイツ人技師による高度な焼成技術(ホフマン輪窯)によって、非常に堅牢な煉瓦が生産されました。
これらの深谷産の煉瓦は、 東京駅、法務省旧本館、迎賓館赤坂離宮など、明治期を代表する近代建築に使用され、日本の近代化を支える重要な役割を果たしました。
※本庄出身の諸井恒平(もろい・つねへい)氏について
恒平氏は創業期に参画し、渋沢栄一翁の理念を受け継ぎながら事業の発展に尽力。後に2代目会長として会社を牽引しました。さらに秩父セメントや秩父鉄道の設立にも関わり、日本の近代化に深く貢献しました。
(参照:「Newsがわかるオンライン」Webサイト ~埼玉の偉人・諸井恒平【渋沢栄一がわかる】)
◆ 江戸と中瀬との深いつながり
物流の拠点として栄えた中瀬河岸では、「江戸か中瀬か」と言われるほど、人・物・金の流れが盛んで、多くの情報が行き交いました。
こうした環境のもと、旧血洗島村・旧下手計村をはじめとする周辺地域は経済的・文化的に発展し、やがて桃井可堂先生や渋沢栄一翁といった偉人を生み出す土壌が育まれていったのです。
◆NHKブラタモリ「埼玉・深谷〜“近代日本経済の父”はなぜ深谷で生まれた?〜」(2021年5月1日放送)
2021年5月1日に放送されたブラタモリ「埼玉・深谷〜“近代日本経済の父”はなぜ深谷で生まれた?〜」 でも中瀬河岸が紹介され、木村孝雄さんが案内役としてご尽力されたとのことです。
渋沢栄一翁が新一万円札の肖像に選ばれた背景にも、木村孝雄さんや、川田弘一さんたち地域の方々による長年の地道なご尽力があったからこそだと思うととてもありがたいです。
◆YouTubeでも紹介されています!
第1弾:渋沢栄一とゆかりある偉人桃井可堂とは#1
第2弾:渋沢栄一とゆかりある偉人桃井可堂とは#2
第3弾:渋沢栄一とゆかりある偉人桃井可堂とは#3
このたび、桃井可堂郷土史料館を訪問させていただき、木村孝雄名誉顧問、川田弘一館長と川田院長の奥様、塩原浩行・本庄古美術愛好会会長、そして宮戸金井家のご夫人から、貴重なお話を直にうかがうことができました。心より感謝申し上げます。
木村さんや川田さんたちの長年にわたる研究、そして地元の方々ならではの深い愛情と豊かな知識に触れ、たいへん感動いたしました。
木村さんたちのお話のおかげで、昔の中瀬河岸のにぎわいや、桃井可堂先生や渋沢栄一翁が、人々の暮らしを少しでも良くしたいという強い思いを抱いて行動していたことが、ぐっと身近に感じられました。
歴史とは、記録だけでなく、人々の記憶や語りによって生き続けるものなのだと、あらためて実感いたしました。
また、中瀬・本庄・妻沼・伊勢崎・太田といった利根川沿いの地域には、共通する歴史や風土、文化が息づいていることにも、今回の訪問を通じて深く気づかされました。
館内には、桃井可堂先生や中瀬河岸にまつわる史料が数多く展示されており、ぜひ改めてゆっくりと拝見したいと思っております。
このたびは、心温まるご案内とご教示を、本当にありがとうございました。











































