〈桃井可堂郷土史料館を訪ねて〉
~中瀬河岸の渡船場、埼玉新聞の記事、可堂先生木像、深谷宿・熊谷宿・本庄宿の浮世絵、上武大橋開通を祝う新埼玉新聞資料、川田先生の家に伝わる石碑など~
こちらは、昭和9年(1934年)頃に撮影された、中瀬付近の利根川渡船場の様子です。
写真の奥には、上武大橋が見えます。(※桃井可堂郷土史料館展示より)
昭和初期の「利根川の渡船場」について説明される木村孝雄名誉顧問。
手前に写っているのは、本庄古美術愛好会の塩原浩行会長です。
展示コーナーには、令和4年(2022年)8月28日、埼玉新聞に掲載された記事も紹介されていました。
新聞には、桃井可堂先生の木像を背に、木村孝雄さん(名誉顧問)と川田弘一さん(館長)が並んで写っている様子や、桃井可堂先生の書・愛用された脇差・尺八の写真が掲載されていました。
新聞にこのような資料が取り上げられたことは、中瀬の歴史に光を当てるうえで、とても意義深いことだと感じます。
中瀬の地から志を立てた渋沢栄一翁と桃井可堂先生、その足跡を、もっと多くの人に知ってもらえたら嬉しいです。
【桃井可堂郷土史料館を支える方々】
●【名誉館長】:持田 勉氏
・深谷上杉・郷土史研究会長
・埼玉県郷土文化会 理事
・桃井可堂郷土史料館 名誉館長
・著書:『深谷上杉氏史料集 第1集』、『深谷中世文書集 第2集』、『深谷上杉氏の歴史 ~発祥・ 国済寺~』、『桃井可堂 ~深谷の吉田松陰~』、『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画』、『中瀬河岸場』(石原政雄・持田勉共著)他多数。
●【館長】:川田 弘一氏
・川田歯科医院 院長
・桃井可堂郷土史料館 館長
●【名誉顧問】:木村 孝雄氏
・中瀬河岸研究会会長
・渋沢栄一記念財団 深谷支部幹事
・渋沢栄一翁の志 副委員長
・桃井可堂郷土史料館 名誉顧問
・早稲田大学校友会 代議員
・中瀬神社奉賛会 相談役
※木村 孝雄さんは、2025年12月6日(土)に、上里町立図書館の2階視聴覚室にて、「新一万円札 渋沢栄一―日本を近代化へ導いた男」というテーマで講演を行う予定です。
渋沢栄一翁の足跡をたどりながら、地元の歴史に長く関わってこられた木村さんならではの、熱のこもったあたたかみのあるお話が聞けそうです。
◆桃井可堂郷土史料館 名誉館長・持田 勉さんについて
今回、桃井可堂郷土史料館を訪れたことをきっかけに、持田さんのご著書を通じて、桃井可堂先生や渋沢栄一翁について、あらためて学ばせていただきました。
・『桃井可堂 ~深谷の吉田松陰~』(持田 勉著、博字堂、2014年)
・『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画~』(持田 勉著、博字堂、2022年)
この二冊を拝読し、持田勉さんは深谷の郷土史を語るうえで欠かせない研究者であったと、深く感じました。
とくに『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画~』のあとがきには、持田さんが長年にわたり抱いてこられた研究への想いが静かに綴られていました。
◆持田さんの原点は、中学校での社会科の授業でした。
「郷土の歴史を、子どもたちにきちんと伝えたい」
その思いから、隣村・八基の渋沢栄一翁を教材に取り上げたのがすべての始まりだったそうです。
◆その後、県教育局で人権教育を担当するようになっても、持田さんの中心にあったのは渋沢栄一翁でした。
栄一こそが、社会の幸福のために一生を捧げた“人間の鑑”であり、子どもたちが学ぶべき人物だと確信していたからです。
◆一方で、当時の深谷では「中世の歴史が未解明」という指摘が新聞に出るほど、研究が遅れていたそうです。その危機感から、円岡久太郎先生らとともに「深谷上杉顕彰会」を立ち上げ、全国の史跡を三十年にわたって歩き、調査し、記録されたそうです。その成果は三冊の書籍にまとめられ、深谷の歴史を塗り替えました。
・『深谷上杉氏史料集 第1集』(持田勉 著、深谷市役所)
・『深谷中世文書集 第2集』(持田勉 編・著、博字堂)
・『深谷上杉氏の歴史 ~発祥・ 国済寺~』(持田勉 著、博字堂)
◆『若き日の渋沢栄一』の執筆もまた、不思議な縁から始まったそうです。
「渋沢栄一の若い頃をきちんと書くべきだ」
そう夢の中で、白髪の老人に諭され、翌朝から筆を切り替えたという持田さん。
するとその直後に、栄一の新一万円札への採用、NHK大河ドラマ化の発表が続きます。
その後、持田さんは、「奇しき巡り合わせ」と感じながら、3年かけて書き上げられたとのことです。
◆また持田さんは、
「深谷の歴史を理解するには、必ず上野国、とくに新田庄を見なければならない」
と述べていらっしゃいます。
深谷の中世史を調査していた頃、持田さんは上野国の史料を数多く参照し、
「深谷の歴史は、利根川を挟んだ向こう側と切り離せない」
という事実に繰り返し突き当たったといいます。
桃井可堂先生の北阿賀野や、桃井塾を開いた中瀬、そして渋沢翁の血洗島は、地図で見ると深谷の中でも上野国(群馬)にもっとも近い地域です。 利根川を越えれば、そこはすぐに「新田庄」へとつながっていきます。
渋沢・桃井の挙兵計画の背景には、「まさにこの利根川を挟んだ深谷と新田庄の、深く長い歴史的つながりがあった」、 持田さんは、そう指摘されています。
◆教育者として、人権と郷土を語り続けてきた持田勉さんは、渋沢栄一翁や桃井可堂先生と並ぶ、深谷の偉大な郷土史家です。
持田さんが照らしてくださった中瀬・深谷の歴史は、利根川を通して本庄の記憶にもつながっているように感じます。中瀬と本庄、利根川をはさんだこの土地の記憶を、これからも丁寧に学び、受け継いでいけたらと思います。
持田さんの研究と想いに、あらためて深い敬意と感謝を捧げます。
川田弘一館長の奥様が、史料館に所蔵されている「木曽海道六十九次」シリーズのうち、
渓斎英泉(けいさい えいせん)筆による
の浮世絵を見せてくださいました。どちらも色彩が鮮やかで、本当に美しいものでした。
また、館長の奥様は、本庄宿の浮世絵(カラー複製)を私に一枚くださいました。
思いがけないご厚意に、心よりありがたかったです。
上の写真は、「中瀬神社の建国祭」で撮影された記念集合写真です(令和5年2月11日)。
写真には、木村孝雄さんや川田弘一さんのお姿も見えます。
【中瀬神社の沿革】
「中瀬神社」(埼玉県深谷市中瀬650)は、明暦2年(1656年)に中瀬延命地から奉還され、「十五社大神社(十五社様)」として字原に鎮座していたと伝えられています。
その後、大正2年(1913年)の堤防工事にともない、現在の場所へ遷座されました。同年、村内の神社を合祀し、「中瀬神社」と改称されました。
御神体は、十五童子を中心に、その上に弁才天・毘沙門天・大黒天の三体の神々が祀られています。
[参考]

※「可堂桃井先生碑の除幕式(昭和2年10月22日。埼玉県大里郡八基村北阿賀野稲荷神社境内)」については、「渋沢栄一記念財団HP ~渋沢栄一ゆかりの地~」のこちらをご覧ください。
◆川田家に伝わる貴重な石碑
こちらは、川田さんのお宅に伝わる桃井可堂先生の塾跡を示す石碑です。
石碑には、
「幕末歩兵隊士 川田深太郎之生家 元治元年九月二日 霞浦湖辺鉾田宿戦争之殊勲者」
「贈正五位勤王之士 可堂桃井先生旧塾 大正元年十一月十九日」
と刻まれています。
この写真に写っている石は、川田家に伝わる「力石」で、重さはなんと二十八貫(約105キログラム)もあるそうです。
あの渋沢栄一翁でさえ持ち上げられなかった力石と伝えられています。
川田家のご先祖にあたる、仙之助という力自慢の方が、雨でぬかるむ道を下駄ばきのまま、この石を本家・川田茂右衛門の屋敷まで担いで運んだと言い伝えられているそうです。
この石碑には、渋沢敬三氏が好んでいた言葉「水流任急境常静(すいりゅう きゅうなるにまかせ きょう つねにしずかなり)」が刻まれています。
「世の中が急な水流のように激しく変わっても、水の流れに身をまかせるように、境地は常に平静でありたい」
そんな意味が込められています。
この書は、渋沢栄一翁の長女・歌子さんが川田家のご先祖とご縁があり、敬三氏にお願いして書いていただいたものだそうです。
川田さんのお宅に、渋沢敬三氏の筆による石碑が残されていることは本当に貴重で、中瀬という地域の歴史的・文化的厚みを感じさせていただきました。
(※なおこの言葉は、『渋沢敬三著作集(第3巻)』(渋沢敬三著・網野善彦ほか編)に収録された「犬歩当棒録 第2部」にも、「水流任急境常静」の題で掲載されています。)
※川田弘一様の奥様とは、2023年2月に熊谷市で開催された「如月の静かな贈り物」で、運営のお手伝いをした際にご一緒した思い出があります。
当日は、ジャズ箏奏者の武田明美氏と、尺八奏者の田能村聡氏による演奏の合間に、水墨画家・尾高浩羽先生が水墨画のライブパフォーマンスを披露されました。
桃井可堂郷土史料館では、貴重な史料の数々をご案内いただき、心より感謝申し上げます。
桃井可堂先生は、江戸から中瀬に帰郷された際、倒幕計画が幕府に知られることを恐れ、幕臣との関係や交友に関する資料を含め、多くの記録を自ら処分されたと伝えられています。
そのような背景の中で、同館には約200点にもおよぶ重要な歴史史料が残されており、改めてその価値の大きさを実感いたしました。
これらの史料は、桃井可堂先生や渋沢栄一翁を輩出した中瀬・血洗島地域、そして利根川流域の歴史を知るうえで欠かせないものであり、できるだけ多くの方にご覧いただきたいと心から願っております。
このたびは、木村孝雄様、川田弘一様、そして奥様に、心より御礼申し上げます。






























