「江戸か中瀬か」と呼ばれ、利根川の舟運で栄えた「中瀬河岸」について(桃井可堂先生③)

~桃井可堂先生と渋沢栄一翁を生んだ中瀬河岸の歴史、利根川の水運と河岸のにぎわい~

 

「明和元年(1764年)の利根川沿岸村絵図」(吉祥寺書庫蔵)  ※出典『深谷市史 追補篇』(深谷市史編さん会 編、1980年)に加筆
「明和元年(1764年)の利根川沿岸村絵図」(吉祥寺書庫蔵)  ※出典『深谷市史 追補篇』(深谷市史編さん会 編、1980年)に加筆

 

上の絵図は、明和元年(1764年)の「利根川沿岸村絵図」(吉祥寺書庫蔵)です。

中瀬村の上を勢いよく利根川が流れ、そのさらに上には徳川村が描かれています。

 

備前渠用水(びぜんきょようすい)も、烏川から取水する様子がダイナミックに表現されており、当時の風景がいきいきと伝わってきます。

 

※備前渠用水路は、慶長9年(1604)に江戸幕府の命により、関東代官頭・伊奈備前守忠次が開削した農業用水路です。利根川から取水し、現在の本庄市・深谷市・熊谷市などを流れています。埼玉県で最古級の用水路で、現在も当時の面影を伝える「備前堀」として親しまれています。


※「備前渠用水」については、こちらの記事もご覧ください。

 


◆桃井可堂先生ゆかりの地「中瀬河岸の歴史」

中瀬河岸(深谷市)と利根川周辺地図
中瀬河岸(深谷市)と利根川周辺地図

 

中瀬河岸は、武蔵国榛沢郡中瀬村(現・埼玉県深谷市中瀬)にあった河岸場です。この地域は中世以来、武蔵国と上野国を結ぶ利根川の渡河地点であり、鎌倉街道が通っていたという伝承も残る交通の要衝でした。

 

『当代記』には、慶長12年(1607)3月1日は、江戸城修復のために中瀬周辺の栗石が運ばれたことが記されています。

 

『当代記』慶長12年(1607年)3月1日の記録   ※出典:『史籍雑纂 苐二(国書刊行会刊行書)』(国書刊行会 編 国書刊行会, 明治44)に加筆
『当代記』慶長12年(1607年)3月1日の記録   ※出典:『史籍雑纂 苐二(国書刊行会刊行書)』(国書刊行会 編 国書刊行会, 明治44)に加筆

 

「此日より江戸普請あり、関東衆務之、先一万石役にくり石二十坪也、

船を以可在運送とて、一万石に五艘宛かし預る、上野国中瀬辺より運之、

一坪と云は、一間四方の箱に一つ也、

中瀬より一箇月に両度、此舟江戸へ上下す」

 

(意味)

この日から江戸城での普請(土木工事)の工事が始まり、関東地方の領主たちがこの役目を務めることになりました。まず、領地の石高一万石ごとに「栗石(くりいし)」を二十坪分負担するよう命じられました。

※「栗石」は石垣の基礎に使われる中小の石のことです。

 

運搬は船で行うこととされ、一万石ごとに五艘の船が貸し与えられました。これらの船で、上野国中瀬(現・埼玉県深谷市中瀬)のあたりから江戸へ運ばれました。

ここでいう一坪とは、一辺が一間(約1.8m)の正方形の箱を満たす量です。

中瀬からは月に二度、この船が江戸と往復しました。

 

江戸城の石垣の裏側(基礎部分)には、中瀬周辺の栗石が使われ、中瀬河岸から船で江戸へ運ばれました。

この輸送が 中瀬河岸の本格的な船運の始まり とされています。

 

「江戸城の石垣に使われた中瀬の栗石の図」   ※※桃井可堂郷土史料館にて
「江戸城の石垣に使われた中瀬の栗石の図」   ※※桃井可堂郷土史料館にて

【利根川水運のルート】

「中瀬から江戸への舟運ルート」
「中瀬から江戸への舟運ルート」

 

●寛永18年(1641)、「江戸川」が開削され、江戸と利根川が水路で結ばれます。これにより中瀬河岸の水運はさらに活性化しました。

 

【中瀬河岸から江戸へのルートについて】

中瀬河岸を出た船は、まず利根川をゆっくり東へ下り、「関宿」で江戸川へ入ります。

そのまま川を下って「行徳」へ着くと、いったん海(江戸湾)に出て、今度は隅田川をさかのぼって「浅草蔵前」や「各藩の蔵屋敷」へ向かいました。

江戸の河川は浅く、橋も多かったため、当時は大型船が江戸の町の中まで入るのは難しいことでした。

そのため、いったん海のほうまで下って湊(佃島沖・芝浦沖・鉄砲洲沖など)で荷物を下ろし、小舟に積み替えて運ぶのが一般的でした。

 

また、商品の輸送に際しては、「川俣の川船関所」での検査を受ける決まりがありました。

 


【紅葉山御殿の新設による木材の輸送 ~中瀬河岸の発展】

「紅葉山の場所」  ※『江戸御城之絵図』(東京誌料6151-2、東京都立図書館蔵)  Tokyoアーカイブ https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000002-00006374 に加筆
「紅葉山の場所」  ※『江戸御城之絵図』(東京誌料6151-2、東京都立図書館蔵)  Tokyoアーカイブ https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000002-00006374 に加筆

 

●正徳2年(1712)には6代将軍・徳川家宣(文昭院)が死去。江戸城「紅葉山(もみじやま)御殿」の新築にあたり、秩父から買い付けた材木が中瀬河岸の廻船問屋「河十」によって江戸へ送られました。これを契機に、中瀬河岸は急速に発展しました。

 

「江戸城・紅葉山」  ※出典:「紅葉山御宮御霊屋総絵図」(水野家文書 D1-18 四箇所絵図、東京都立大学図書館蔵)   https://adeac.jp/tmu-lib/catalog/ct00000027 に加筆
「江戸城・紅葉山」  ※出典:「紅葉山御宮御霊屋総絵図」(水野家文書 D1-18 四箇所絵図、東京都立大学図書館蔵) https://adeac.jp/tmu-lib/catalog/ct00000027 に加筆

◆中瀬河岸3つの特色

 

天明3年(1783)の浅間山噴火により、利根川上流が浅瀬となり、中瀬より上流では大型船の航行が困難になりました。その結果、中瀬河岸は人や物資の積み替えを行う拠点として、これまで以上に重要視されるようになりました。

中瀬河岸には、他の河岸場には見られない三つの特徴がありました。

 

①乗客の乗り継ぎ拠点としての役割

上流から小舟で下ってきた乗客は、中瀬河岸で大型船に乗り換えて江戸方面へ向かいました。

中瀬は、川旅の「乗り継ぎ地点」として機能していたのです。

 

②物資の積み替え拠点としての役割

中瀬河岸は、物資の積み替えを行う重要な中継地として機能していました。

 

【荷物の流れと積み替えのしくみ】

江戸 → 上流:江戸から来た荷物は、中瀬で小舟に積み替えて上流へ。

上流 → 江戸:上流からの荷物は、中瀬で大型船に積み替えて江戸へ運ばれました。

 

【積み替え規定(船の大きさと積載量の目安)】

下流:大型船で約1,000俵

中瀬河岸:小型船に積み替え、約500俵

倉賀野河岸:さらに小型の船で、約300俵

このように、中瀬河岸は、この「積み替えの境界点」として、物流の要となっていました。

 

③ 手形提示の義務  ~中瀬は「川の関所」~

江戸時代初期、中瀬河岸には手形提示の規定があり、「関所的な役割」も果たしていました。

 


◆市川小団次も渡った「中瀬渡船場」

「市川小団次と中瀬渡船場」  出典:『中瀬河岸場』(石原政雄 著、1975年)  ※中瀬渡船場で市川小団次が、かご屋から酒代をせびられている様子が描かれています。
「市川小団次と中瀬渡船場」  出典:『中瀬河岸場』(石原政雄 著、1975年)  ※中瀬渡船場で市川小団次が、かご屋から酒代をせびられている様子が描かれています。

有名な俳優の市川小団次が若い頃、中瀬渡船場を渡る時かごやに酒手を渡した。

籠屋は茶屋に戻って今乗せたのが有名な小団次であることを知り、すぐ引っ返して、有名な役者としては酒手が少なすぎるとせびり二度も酒手を出させた。

さし絵は中瀬渡船場で市川小団次が酒手をせびられている場面である。

 

※『中瀬河岸場』(石原政雄著、1997年)より

 


◆ 「小角(こすみ)」について ~中瀬と小角の地名の由来~

「天和2年(1682年)頃の利根川流路」   ※出典:『利根川流路の変遷  苛酷な水との闘い 改訂版』(下山二男 著、1974年)
「天和2年(1682年)頃の利根川流路」   ※出典:『利根川流路の変遷 苛酷な水との闘い 改訂版』(下山二男 著、1974年)

 

上の図は、天和2年(1682年)頃の利根川の流路を示したものです。

図の右上には「小角分河原(こすみわけがわら)」の地名が見えます。

 

中瀬という地名は、この「小角(こすみ)」(古くは「古住(こすみ)」とも書かれた地名)から発展したともいわれています。

 

『新編武蔵風土記稿』(巻之232・榛沢郡之3)には、中瀬村について次のように記されています。

「當村古名ヲ小角ト稱セシ由今モ小名ニ殘レリ」

(この村は、かつて「小角」と呼ばれており、その名残が現在も小字の地名に残っています。)

 

【中瀬の草分け  ~河田義光氏~】

河田家の系図によれば、その祖先・河田但馬守義光は、古郷「小角」に居住し、文亀3年(1503年)に没したといいます。おそらくこの頃開発されたものと伝わります。

 

しかし、天和元年(1681年)の大洪水によって、「小角」は流失しました。

 


◆中瀬河岸の廻船問屋

「河十問屋(営業中からの住宅)」   ※出典:『中瀬河岸場』(石原政雄 著、1975年)
「河十問屋(営業中からの住宅)」   ※出典:『中瀬河岸場』(石原政雄 著、1975年)

 

堤防が築かれる以前、現在の中瀬の北東には、「小角(こすみ)」、もしくは「古住(こすみ)」と呼ばれる場所があり、ここに2軒の廻船問屋が店を構えていました。

 

●「河十(かわじゅう)」… 河田十郎左衛門

●「石藤(いしとう)」… 石川藤平

 

「河十」は、正徳2年(1722)頃には現在の河田家の北東にある川岸で営業し、秩父方面からの荷物を主に扱っていたと伝えられます。

 

「石藤」はのちに「石武」(石川武右衛門家)が引き継ぎ、十五社様(旧中瀬神社)の東隣から幕末期には向島へ移転しました。

「石義」という屋号も見られますが、これも「石武」を指すものとされています。

 


◆ 中瀬河岸が扱った物資

 

【江戸から中瀬へ運ばれたもの】

塩・醤油・干鰯(ほしか)・酒・味噌・昆布・お茶・瀬戸物・荒物など

 

【中瀬から積み出されたもの】

廻米・麦・藍・蚕種・材木・木炭・栗石など

 

とくに藍は中瀬の特色で、全国第2位の生産量を誇る周辺地域の藍が集荷されました。

 

また、秩父の「材木」は、

●細物…荒川

●大物…中瀬河岸

へ送られ、角材に加工されたうえで江戸に出荷されました。

 

「久次米」での字材木店(深川江戸資料館)  出典:小林高英「江戸期における河川舟運の物流システムと都市の変遷に関する研究」(東京海洋大学)62頁 ※file:///C:/Users/81806/Downloads/CV_20251129_ST141.pdf
「久次米」での字材木店(深川江戸資料館)  出典:小林高英「江戸期における河川舟運の物流システムと都市の変遷に関する研究」(東京海洋大学)62頁 ※file:///C:/Users/81806/Downloads/CV_20251129_ST141.pdf

◆ 中瀬河岸の広い経済圏

「中瀬河岸の経済圏」
「中瀬河岸の経済圏」

 

中瀬河岸を中心とした流通圏は広く、

深谷・熊谷・児玉・本庄・秩父・小川・寄居のほか、鬼石や信州丸子といった遠隔地まで及んでいました。

 

【「本庄宿」との関係について】

本庄宿からの揚荷(あげに・荷物の陸揚げ)や、江戸方面などへの積荷(荷物の積み出し)は、古くから本庄宿の外港である利根川の「一本木河岸」「山王堂河岸」を中心に行われていました。

 

一方、「中瀬河岸」は本来、深谷宿に属する港でしたが、本庄宿とも密接な関わりを持ち、両宿の物流を支える重要な拠点となっていました。

 


◆ 中瀬~江戸までの所要日数

「中瀬河岸から江戸までの舟運ルート」  ※出典:「利根川流路の変遷 苛酷な水との闘い 改訂版』(下山二男 著、1974年)
「中瀬河岸から江戸までの舟運ルート」  ※出典:「利根川流路の変遷 苛酷な水との闘い 改訂版』(下山二男 著、1974年)

 

中瀬河岸から江戸までの航路は途中で寄港しながら進むため、片道に4〜5日ほどかかったといわれます。

帰りは風向きの影響もあって、約15日を要したそうです。

 

・・・・・・・・・・・・

 

【川を遡るための2つの方法】

川舟が流れに逆らって遡上する際には、状況に応じて次の2つの方法が使われました。 

 

①「順風のとき」川舟に木綿の「帆」を張り、風の力を利用して遡上しました。

 

②「逆風のとき」川沿いの土手から長い綱で舟を引く「曳舟(ひきふね)」が行われました。

綱の一端を舟の舳先(へさき)に結び、もう一端を輪にして人が肩にかけ、土手道を歩きながら舟を曳いて進みました。

 

「高瀬舟の曳舟」 出典:『拾遺都名所図会(巻之一 平安城)』61頁(秋里籬島 著ほか、天明7年〈1787〉) ※https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_177f.html
「高瀬舟の曳舟」 出典:『拾遺都名所図会(巻之一 平安城)』61頁(秋里籬島 著ほか、天明7年〈1787〉) ※https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_177f.html

【京都・高瀬川の曳舟(ひきふね)のようす】

上図は、京都の高瀬川で、舟曳き衆が米俵や薪を積んだ船を曳いて運んでいる様子です。図には、3人の男が首から胸にかけた綱で船を引く姿が描かれ、その後ろにも4人の男たちが続いています。

 

大坂から届いた物資は、いったん伏見港で降ろされ、小舟に積み替えられた後、舟曳き衆によって高瀬川を遡って運ばれました。

 

※高瀬川を開削した角倉了以については、こちらもご覧ください。

 

「曳舟の様子」  出典:歌川広重 画『名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね』安政4年〈1857〉刊  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/曳舟
「曳舟の様子」  出典:歌川広重 画『名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね』安政4年〈1857〉刊  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/曳舟

【江戸本所の曳舟川における曳舟】

歌川広重の『名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね』には、水路に浮かべた小舟を土手から綱で引っ張る「曳舟」様子が描かれています。

 

中央を流れるのは「曳舟川(本所用水)」で、奥には日光連山が望めます。川沿いの土手道は「四ツ木街道」と呼ばれ、江戸市中から水戸方面へ向かう旅人たちが、小梅〜亀有間でよく利用していた道でした。

 


◆ 物・情報・文化の先進地「中瀬河岸」

「利根川の河岸」    ※出典:「利根川河岸絵図」(1937年、群馬県立図書館蔵)に加筆
「利根川の河岸」    ※出典:「利根川河岸絵図」(1937年、群馬県立図書館蔵)に加筆
「利根川の河岸」    ※出典:「利根川河岸絵図」(1937年、群馬県立図書館蔵)に加筆
「利根川の河岸」    ※出典:「利根川河岸絵図」(1937年、群馬県立図書館蔵)に加筆

※群馬県立図書館データベースより

 

中瀬河岸には、

常に大小あわせて100隻ほどの船がつながれていた と伝えられます。

 

河岸場周辺には、問屋、旅籠、茶屋、質屋、料理屋、鍛冶屋、菓子屋、髪結いなどが軒を連ね、

船が着くと「煮売船(にうりぶね)」「湯船(ゆぶね)」が寄港し、大変な賑わいでした。

 

旅籠業も発達し、最盛期には15軒もの旅籠が軒を連ねていた といわれています。

その繁栄ぶりは、「深谷宿をしのぐほどであった」とさえ言われています。

 

村内には神棚を設け、「大杉様(水神様・船玉様)」を祀り、水上安全を祈願しました。

 

こうした活気と交流の中から、

桃井可堂先生や渋沢栄一翁といった偉人が輩出されました。

中瀬河岸は、物流と人の往来により、情報や文化の最前線としても栄えていたのです。

 

しかし、明治16年(1883年)に高崎線が開通すると、利根川の水運はしだいに利用が減り、やがて静かに幕を下ろしていきました。

 

◆「煮売船」 ~くらわんか舟~

「煮売船」  出典:長谷川光信 画 ほか『絵本御伽品鏡 3巻』(千草屋新右衛門 出版、元文4年 [1739]、国立国会図書館蔵)  ※https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2534308/1/13 に加筆
「煮売船」  出典:長谷川光信 画 ほか『絵本御伽品鏡 3巻』(千草屋新右衛門 出版、元文4年 [1739]、国立国会図書館蔵)  ※https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2534308/1/13 に加筆
「煮売船(くらわんか舟)」  出典:歌川広重 画「京都名所之内 淀川」(天保5年〈1834年〉頃)  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/くらわんか舟
「煮売船(くらわんか舟)」  出典:歌川広重 画「京都名所之内 淀川」(天保5年〈1834年〉頃)  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/くらわんか舟

「煮売船(にうりぶね)」とは、江戸時代に大型の廻船や乗合船の乗客向けに、飲食物を売るために用いられた小型の船のことです。小型の船にかまどを設置し、餅や酒などを提供していました。

淀川などで行われていた煮売船は、その呼び込みの声から「くらわんか舟」という俗称で広く知られるようになりました。

 

※「くらわんか舟」については、こちらもご覧ください。

 


◆「湯船(ゆぶね)」 ~川に浮かぶお風呂屋さん~

「湯船」  出典:『船鑑(ふなかがみ)』(写,明治6年〈1873〉. 国立国会図書館)  ※https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1286952/1/15
「湯船」  出典:『船鑑(ふなかがみ)』(写,明治6年〈1873〉. 国立国会図書館)  ※https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1286952/1/15

 

「湯船(ゆぶね)」は、船着き場に現れた、船頭や船旅の客たちのための “川に浮かぶお風呂屋さん” です。

船の中には畳が敷かれ、風呂上がりには小料理なども楽しめるようになっていました。

 

もともとは浴槽のない簡素なつくりで、湯を張った桶を積んだだけの「行水船(ぎょうずいぶね)」と呼ばれていましたが、やがて浴槽を備えた屋形船へと発展。港や河岸に横付けして、入浴を商売とするようになっていきます。

 

高瀬舟で川を行き来する船頭たちは、1ヵ月近く陸に上がれないこともあり、湯船は大変喜ばれ利用されました。

 


【参考文献】

・『中瀬河岸場』(石原政雄 著、1975年)

・『利根川の水運 (歴史の道調査報告書 第10集)』(埼玉県立さきたま資料館 編、1989年)

・『深谷市史 追補篇』(深谷市史編さん会 編、1980年)

・『利根川流路の変遷 苛酷な水との闘い 改訂版』(下山二男 著、1974年)

 


◆浅間山大噴火と「中瀬河岸」の変化

~天明の大災害が生んだ新たな物流拠点:中瀬河岸の役割~

『浅浅間山吹出之絵図』(群馬県立歴史博物館蔵)
『浅浅間山吹出之絵図』(群馬県立歴史博物館蔵)

 

天明3年(1783年)、浅間山が大噴火を起こしました。

火砕流や岩屑なだれが吾妻川に流れ込み、大量の土砂を含んだ「泥流(天明泥流)」が利根川まで押し寄せます。

火砕流・泥流・洪水による犠牲者は、2万人とも3万人ともいわれました。

 

このときの噴出物で利根川の河床が上昇し、中瀬周辺では洪水が頻発。家々は敷地を高く盛るなどの対策を余儀なくされました。

 

【浅間山の噴火と中瀬河岸 ~利根川水運への影響~】

「天明浅間山大噴火の火砕流・溶岩流・泥流等の分布図」   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/天明大噴火 に加筆
「天明浅間山大噴火の火砕流・溶岩流・泥流等の分布図」   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/天明大噴火 に加筆
「天明泥流の分布範囲と被災状況」
「天明泥流の分布範囲と被災状況」

 

浅間山の噴火によって流れ込んだ大量の土砂により、利根川の河道が埋まり、上流域では浅瀬が多く発生するようになりました。その結果、江戸からの大型船は「中瀬河岸」までしか遡れなくなり、中瀬河岸が物資の積み替え拠点として重要な役割を担うようになりました。

 

さらに、噴火の影響で利根川中流の川底も高くなり、銚子から関宿を経て江戸川へと向かう舟運ルートも、次第に通行が難しくなっていきました。

 


◆江戸の物流を支えた川と街道

「利根川の舟運図」  ※国土交通省HP「利根川 ~利根川東遷と舟運~」をもとに作成 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0316_tonegawa/0316_tonegawa_01.html
「利根川の舟運図」  ※国土交通省HP「利根川 ~利根川東遷と舟運~」をもとに作成 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0316_tonegawa/0316_tonegawa_01.html

 

【利根川の舟運と河岸のにぎわい】

 

文禄3年(1594年)から承応3年(1654年)までの約60年間に行われた「利根川東遷事業」により、利根川は銚子へと流れを変え、関東平野に広がる巨大な水運網が形成されました。これにより、関東だけでなく奥州や信州・越後とも結ばれ、江戸への物流が飛躍的に発展しました。

 

「銚子」は、奥州の荷が江戸へ向かう“海の玄関口”となり、「境河岸」は、鬼怒川経由の物資が集まる“川の拠点”としてにぎわいました。さらに、「倉賀野河岸」は、“信州・越後の窓口”として米や山産物を送り出しました。

 

利根川や支流沿いには多くの河岸が整備され、蔵や問屋が立ち並び、舟運とともに地域の経済と暮らしを支えました。

 


◆利根川の「浅瀬問題」 ~土砂の堆積による河床の上昇~

「利根川の浅瀬部分」
「利根川の浅瀬部分」
「中山道中流域の浅瀬」  ※斜線部分は「浅瀬」を示す。  出典:『千葉県の不思議事典』(森田保 編、新人物往来社、1992年)に加筆
「中山道中流域の浅瀬」  ※斜線部分は「浅瀬」を示す。  出典:『千葉県の不思議事典』(森田保 編、新人物往来社、1992年)に加筆

 

「利根川東遷事業」によって、利根川は江戸と北関東・東北を結ぶ物流の大動脈となり、流域の各河岸は、物資の集まる商業地として栄えました。

 

しかし、運河開削から半世紀ほど経つと、洪水による土砂の堆積が進み、利根川各所に「浅瀬(河床上昇)」が発生して船の航行に支障が出るようになりました。

特に天明3年(1783年)の浅間山噴火以降は洪水が頻発し、利根川の河床がさらに上昇。舟運は浅瀬の障害に悩まされるようになりました。

 

舟運の工夫】 ~小舟への積み替えるか、陸送か

利根川下流から遡る高瀬船は、利根川と鬼怒川の合流付近(三ツ堀付近)で「浅瀬」に阻まれ、通航が難しくなることが多くなりました。

そのため、荷物は「木下河岸」「布佐河岸」「布施河岸」などで小舟に積み替えるか、いったん陸揚げして馬で輸送し、江戸川沿いの「松戸河岸」や「加村河岸」へ運ぶ方法が取られるようになりました。

 


◆江戸への物流と「浅瀬の壁」 ~川か、海か~

「江戸への物流ルート ~海と川~」
「江戸への物流ルート ~海と川~」

 

奥州から江戸へ物資を運ぶには、大きく分けて「海」と「川」の二つのルートがありました。

 

まず海路は「東廻り航路」と呼ばれ、銚子から房総半島の東岸を南下し、伊豆半島の下田に寄港したのち、黒潮に乗って江戸湾へ向かうルートです。

当時の航海技術では、房総沖の強い黒潮や江戸湾入口の暗礁が大きな脅威となったため、比較的安全な下田経由が選ばれていました。

 

もう一つが、川を利用する「内川廻し」です。銚子から利根川を遡り、江戸川を経て江戸へ至る水運ルートで、海路に比べ遭難の危険が少ないことから、非常に重宝されました。

 

ただし、利根川中流域や江戸川上流には「浅瀬」が多く、大型船では航行が困難な区間もありました。

そのため、荷を小舟に積み替えたり、いったん陸揚げして馬で運ぶなど、さまざまな工夫が行われていました。

 

享保期(1716〜1736年)頃までは、この「内川廻し」が盛んに利用されましたが、浅瀬の問題や航海技術の向上なども影響し、次第に「東廻り航路」の比重が高まっていったと伝えられています。

 


◆浅瀬が生んだ「陸の道」 ~利根川舟運と鮮魚輸送の工夫~

「木下街道」・「鮮魚街道」・「うなぎ道」の陸の道
「木下街道」・「鮮魚街道」・「うなぎ道」の陸の道

 

◆利根川の浅瀬問題と「舟運の障害」

 

江戸時代、銚子沖などで水揚げされた鮮魚は、高瀬舟に積まれ、利根川をさかのぼって「関宿」から江戸川を経由し、「江戸・日本橋」へと運ばれていました。

 

しかしこの主要ルートには、冬季の渇水によって発生する「浅瀬」が大きな障害となっていました。

とくに利根川東遷事業によって流路が変わった後は、中流域で土砂の堆積が進み、秋から春(旧暦8月〜翌4月)にかけて水量が減少。航路に浅瀬が多く発生し、高瀬舟の通航がたびたび困難になったのです。

 

さらに、全行程を舟で運ぶには距離が長く、魚の鮮度を保つのが難しいという課題もありました。

 

◆陸路の開拓と「鮮魚街道」の誕生

 

こうした問題を解決するため、利根川の舟運と連携した陸路が新たに整備されました。

それが「木下街道(きおろしかいどう)」「鮮魚街道(なまかいどう)」「うなぎ道」と呼ばれる物流ルートです。

 

 ① 木下街道(きおろし・かいどう)

冬季など舟の遡航が難しい時期には、利根川中流の「木下河岸(現・千葉県印西市)」で鮮魚を陸揚げし、馬で江戸川沿いの「行徳河岸(現・千葉県市川市)」まで運ぶルートが確立されました。

 

※「木下(きおろし)」という地名は、台地の雑木を河岸まで“下ろして”運んだことに由来するといわれています。

※また、木下河岸は「東国三社詣(とうごくさんしゃもうで)」の出発地としてもにぎわい、「木下茶船」で鹿島神宮香取神宮息栖神社(いきすじんじゃ)をめぐる信仰の旅が盛んに行われました。

 

 

② 鮮魚街道(なま・かいどう)

当初は木下街道が使われていましたが、宿場ごとの継送りに時間がかかるため、より迅速な輸送を可能にする「鮮魚街道(なま・かいどう)」が整備されました。

このルートでは、銚子を夕方に出発した鮮魚が、河岸で陸路に切り替えられ、3日目の朝には日本橋の魚市場に並ぶというスピード輸送が実現しました。「布佐河岸(現・千葉県我孫子市)」から「松戸河岸(現・千葉県松戸市)」までを一気に運ぶ「通し馬」が使われたことで、荷の積み替えが不要となり、鮮度を保ったまま江戸に届けることができました。

 

 

③ うなぎ道

利根川や手賀沼で獲れたうなぎを生きたまま江戸へ運ぶための専用ルートも存在しました。

・利根川のうなぎは「布施河岸(千葉県柏市)」

・手賀沼のうなぎは「呼塚(よばつか)河岸(千葉県柏市)」

からそれぞれ水揚げされ、「高田(千葉県柏市)」を経て「加村河岸(千葉県流山市)」まで馬で運ばれました。そこから舟に積み替えられ、江戸川を下って江戸へと届けられました。

 

これらの陸路が活用された背景には、冬季の渇水による航行の困難さに加え、

・利根川…「布施(柏市)」から「三ツ堀(野田市)」までの約二里(約8km)にわたって複数の浅瀬

江戸川…「今上(野田市)」から「流山(流山市)」までの一里余(約4km)にも難所

があったことが挙げられます。

 

こうして「木下街道」「鮮魚街道」「うなぎ道」は、利根川舟運を補いながら、江戸の食文化を支える重要な物流ネットワークとして重要な役目を果たしていたのです。

 


◆馬で魚を運ぶ ~「銚子籠」と「鮮魚師笊(なましざる)」~

 

木下河岸で荷揚げされた海の魚は、細長い「銚子籠(ちょうしかご)」や「生付桶(なまづけおけ)」に入れられ、馬の背にのせて運ばれました。どれも舟の形をした細長い入れ物で、水をかけても壊れにくいように作られていました。

 

一方、布瀬に伝わる話によると、川でとれたドジョウやウナギは、「鮮魚師笊(なましざる)」という籠に入れて運びました。1つの笊(ざる)に川魚を入れ、それを5つ重ねて1組とし、この1組を馬の左右にぶら下げました。海の魚を入れた銚子籠も同じ運び方で、左右の荷を合わせて「1駄(いちだ)」とよんでいました。

※1駄は馬1頭に積める量です。

 

宝暦年間(1750~60年代)には、松戸道を1年間で約4,000駄、つまり約40,000個もの籠が行き来したといわれます。

1駄は籠10個分で、重さにするとおよそ110kg。馬は、片側に5個(約55kg)ずつ籠を下げて、この重い荷物を運びました。

 

【参考】

・『千葉県歴史の道調査報告書6(木下街道・なま道)』(千葉県教育委員会、1988年)

shigeru1727さんブログ「鮮魚街道余話(なま街道・生街道・江戸道)その2」

 

「布川魚市之光景」(部分)  ※出典:『利根川図志(岩波文庫 1836-1838)』(赤松宗旦 著、柳田国男 校、岩波書店、昭13)
「布川魚市之光景」(部分)  ※出典:『利根川図志(岩波文庫 1836-1838)』(赤松宗旦 著、柳田国男 校、岩波書店、昭13)

 

「布佐河岸」の対岸にある「布川河岸(ふかわ・かし)」のようすを描いた一場面です。

5段に積んだ籠から魚をくわえて逃げようとする犬と、その後をあわてて追いかける人の姿が描かれています。描かれている籠(黄色枠部分)は、「銚子籠」だと推定されます。

 

【参考資料】

shigeru1727さんブログ「鮮魚街道余話(なま街道・生街道・江戸道)その2」

 

【馬を使った陸送】

近江坂本の馬借(『石山寺縁起絵巻』鎌倉時代より)   ※https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B11/B111.htm より
近江坂本の馬借(『石山寺縁起絵巻』鎌倉時代より)   ※https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B11/B111.htm より
「荷駄」  渓斎英泉 画『木曽街道六拾九次 廿弌 追分宿浅間山眺望』(部分)   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/木曽海道六十九次 より
「荷駄」  渓斎英泉 画『木曽街道六拾九次 廿弌 追分宿浅間山眺望』(部分)   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/木曽海道六十九次 より

江戸時代、馬は陸上輸送の主役を担っており、宿場や街道にとって欠かせない存在でした。

 


◆柳田國男と利根川沿いの「布川(ふかわ)」 ~民俗学の原点~

「柳田國男(1875~1962年)」   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/柳田國男 より
「柳田國男(1875~1962年)」   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/柳田國男 より
「布川魚市之光景」  出典:『利根川図志(岩波文庫 1836-1838)』(赤松宗旦 著、柳田国男 校、岩波書店、昭13)
「布川魚市之光景」  出典:『利根川図志(岩波文庫 1836-1838)』(赤松宗旦 著、柳田国男 校、岩波書店、昭13)

 

民俗学者・柳田國男(1875〜1962)は、辻川(現在の兵庫県福崎町)で、松岡賢治・たけ夫妻の六男として生まれました。

体の弱かった國男は、13歳のとき、茨城県北相馬郡利根町布川(ふかわ)で医師をしていた長兄・松岡鼎(かなえ)のもとに預けられることになります。

 

「布川(ふかわ)」※地図は、「布施河岸」※地図の対岸に位置し、茨城県と千葉県の県境にあたる利根川沿いの町です。利根川と鬼怒川の合流点にも近く、当時は農村や河岸場の暮らしが色濃く残る場所でした。

 

國男はこの地で、利根川流域の風土や人々の暮らし、貧しさの中にある営みに深い印象を受けます。とくに、「徳満寺」の地蔵堂で見た「間引き絵馬」(※現在は本堂内に安置)は、幼い心に強烈な衝撃を残し、生涯忘れられない記憶となりました。

 

國男が暮らしていたのは、兄・鼎(かなえ)が医院を開いていた小川家の離れでした。ある日、その土蔵で偶然手にしたのが、赤松宗旦(あかまつ・そうたん)の地誌『利根川図志』です。國男はこの本に夢中になり、利根川流域を実際に歩いて確かめる小旅行を何度も繰り返すようになりました。

 

『利根川図志』は、著者・赤松宗旦が生まれ育った「布川」から記述を始め、利根川を下りながら流域の風土や文化を記録した全6冊の地誌です。宗旦自身も「自分は利根川のほとりで生きてきた。感慨がないわけがない」と述べており、利根川が宗旦にとっても、國男にとっても特別な存在であったことがわかります。

 

「布川」で過ごしたおよそ3年間は、國男にとっての「第二の故郷」となり、のちの民俗学研究の原点のひとつとなりました。

 

・・・・・・・・・・・・

※松岡家の長兄「鼎(かなえ)」について

鼎は、故郷の辻川(兵庫県福崎町)の小学校長を辞したのちに医師となり、縁あって「布川」(現・茨城県北相馬郡利根町)の小川家の離れに住んで医院を開業しました。

経済的にも自立した鼎は、まず弟である國男を布川に呼び寄せ、続いて両親(松岡操・たけ)や弟の静雄(七男)、輝夫(八男)も迎え入れます。

國男が16歳で上京した後、鼎(かなえ)は利根川対岸の「布佐町」(現・千葉県我孫子市布佐)へ移り、「凌雲堂医院」を開院。その後は、郡会議員、千葉県医師会長、布佐町長などを歴任し、この地で生涯を終えることになりました。

 

※柳田國男記念公苑について

柳田國男が少年時代を過ごした小川家の跡地には、1958年から1989年まで利根町役場が建てられていました。その後、役場が現在の場所に移転したのを機に、1992年に母屋が復元され、「柳田國男記念公苑」として整備されました。現在は、國男の著作や文書などが展示されています。

 

【参照】

ニコニコニュース「佐藤けんいち氏『発見に満ちている人工河川・利根川の“流域”』」

ネットミュージアム兵庫文学館HP「柳田国男を旅する」

みんなの情報誌YouTubeチャンネル「【代表さんぽ】茨城県利根町布川『柳田國男記念公苑』に行ってきました!」(動画)

 


【徳満寺(とくまんじ)の「間引き絵馬」】

徳満寺(茨城県北相馬郡利根町)の「間引き絵馬」 ※経年劣化により絵柄の一部が剥がれ落ちており、地蔵菩薩の姿が見えにくくなっています。  https://inaminkenhome.blogspot.com/2018/06/blog-post.html より
徳満寺(茨城県北相馬郡利根町)の「間引き絵馬」 ※経年劣化により絵柄の一部が剥がれ落ちており、地蔵菩薩の姿が見えにくくなっています。  https://inaminkenhome.blogspot.com/2018/06/blog-post.html より
徳満寺の「間引き絵馬」(複製)  ※https://inaminkenhome.blogspot.com/2018/06/blog-post.html より
徳満寺の「間引き絵馬」(複製)  ※https://inaminkenhome.blogspot.com/2018/06/blog-post.html より

 

本堂の中には「間引き絵馬」と、その複製が大切に飾られています。

 

絵馬には、生まれたばかりの赤ちゃんの口を必死に押さえる母親の姿や、障子にうっすら映る女性の角の影、地蔵さまにそっと導かれていく赤子の魂などが描かれています。

こうした絵は、水害や天明の飢饉に苦しんだ農村の人々が背負っていた、どうしようもない悲しみを伝えてくれています。

 

後に柳田国男は、『故郷七十年』にこう記しています。

 

《私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。

その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている》

 


◆舟運を左右する利根川の「風」 ~イナサとナライ~

「鹿島神宮 一の鳥居 大舩津の図」  出典:『利根川図志 (岩波文庫 1836-1838)』(赤松宗旦 著、柳田国男 校、岩波書店、昭13年)
「鹿島神宮 一の鳥居 大舩津の図」  出典:『利根川図志 (岩波文庫 1836-1838)』(赤松宗旦 著、柳田国男 校、岩波書店、昭13年)

 

●利根川や江戸川を行き来した高瀬船にとって、運航の成否を大きく左右したのが「イナサ」と「ナライ」と呼ばれる風した。

 

民俗学者・柳田國男も、少年時代を過ごした布川でこれらの風に親しみ、その関心が後の風の研究の出発点となったことを、自伝『故郷七十年』の中で語っています。

「利根川口から十七、八里も上った布川の辺を、白帆をはった川船がひんぴんと通る日の朝は、あの附近ではイナサと呼んでゐた。『良いイナサが吹く』といへば、風が海のほうから吹いてくることを指してみたのである。(略)

イナサのイナといふのは萬葉集など古い書物にたくさん出てくる海原、海神、海界などといふ海の古語、ウナがイナになったもので海のことである。」

 

●また國男は、ナライについて、著書『風位考』の中で次のように述べています。

「ちょうど今頃(十一月)から春半ばまで折々吹く風で、特徴は寒いといふ点にあった為か、船方で無い者もよくその名を知って居る。」

 

船頭たちにとって、ナサ(東南風)」は、佐原から取手までをわずか二時間あまりで駆け抜けることができる、まさに恵みの風でした。

一方で、冬の渇水期に吹く「ナライ(西北風)」は、船を進めることすらできなくなる、厳しい季節風として恐れられていました。

 

※参照元:『あびこ版 新編利根川図志』(赤松宗旦 原著ほか、我孫子市教育委員会、1990年)

 


◆鬼怒川から江戸への2つのルート ~大廻し・境通り~

「鬼怒川から江戸への2つのルート」   ※『鬼怒川の概要』及び『平成27年9月関東・東北豪雨』について https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000686491.pdf をもとに作成。
「鬼怒川から江戸への2つのルート」   ※『鬼怒川の概要』及び『平成27年9月関東・東北豪雨』について https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000686491.pdf をもとに作成。

 

鬼怒川から江戸へ物資を輸送するには、2つのルートがありました。

 

①鬼怒川から利根川を経て境河岸へ遡り、江戸川を下る「大廻しルート」

②久保田河岸で陸揚げし、馬で境河岸まで「陸送」した後、江戸川を下る「境通りルート」です。

 

重い米などは「大廻し」で、軽い漆器や和紙は「境通り」で運ばれました。

 


◆利根川の「浅瀬対策」として生まれた「利根運河」 ~明治時代~

利根川の「浅瀬対策」として生まれた「利根運河」
利根川の「浅瀬対策」として生まれた「利根運河」

 

「利根運河」は、明治23年(1890年)に完成した、日本初の西洋式運河(全長約8km)です。

利根川中流域(三ツ堀付近)では、江戸時代初期から土砂の堆積による「浅瀬」や「中洲」の発生が続き、船の航行に大きな支障が生じていました。

(代表的な中洲に、「大黒洲(方言 ダンツク)」がありました。※下図ご参照)

 

特に大型船の通航が難しく、荷物の積み替えが必要になることもありました。

さらに、利根川を関宿まで遡るルートは距離が長く、効率が悪かったため、途中で「陸路」を使ってショートカットする方法も取られていました。

 

こうした課題を解決するため、明治時代に入り貨物輸送量が増加すると、陸路でのショートカット区間に運河を開削する計画が立てられました。

 

明治14年(1881年)に再び計画が動き出し、明治23年(1890年)に完成を迎えました。

 

利根川中流に広がった大中洲「大黒洲」
利根川中流に広がった大中洲「大黒洲」

 

利根運河の工事は、自然の谷状の地形(谷津)を活かして、土砂の掘削量を抑えながら進められました。

(※下図ご参照)

 

浅瀬対策として生まれた「利根運河の地形図」  ※工事は、自然の谷状の地形(谷津)を活かして、土砂の掘削量を抑えながら進められました。
浅瀬対策として生まれた「利根運河の地形図」  ※工事は、自然の谷状の地形(谷津)を活かして、土砂の掘削量を抑えながら進められました。

 

利根運河は舟運の効率化に大きく貢献しましたが、鉄道の発達や昭和16年の大洪水をきっかけに、その役割を終えることとなりました。

 

「江戸を支えた街道と利根運河」
「江戸を支えた街道と利根運河」

◆うなぎが夏の風物詩になった理由 ~平賀源内のアイデア~

「江戸前大蒲焼き店」 ※出典:『職人盡繪詞 第3軸』(鍬形蕙斎 原画(他)、和田音五郎 模写、19世紀、国立国会図書館蔵)
「江戸前大蒲焼き店」 ※出典:『職人盡繪詞 第3軸』(鍬形蕙斎 原画(他)、和田音五郎 模写、19世紀、国立国会図書館蔵)
「平賀鳩渓肖像」 ※原著『戯作者考補遺』(弘化二年(1845年)、木村黙老画)の印影版『戯作者考補遺』(1935年刊)より
「平賀鳩渓肖像」 ※原著『戯作者考補遺』(弘化二年(1845年)、木村黙老画)の印影版『戯作者考補遺』(1935年刊)より

 

江戸時代のこと。夏になるとうなぎの売れ行きが落ちて困っていたうなぎ屋が、発明家として知られる平賀源内に相談しました。

そこで源内が考えたのが、「本日、土用の丑の日」という看板を店先に出すアイデアでした。

ちょうど当時、「土用の丑の日に“う”のつくものを食べると夏バテしない」という言い伝えがあったことをヒントにしたのです。

 

この看板が話題を呼び、うなぎ屋は大繁盛!

それ以来、「土用の丑の日にうなぎを食べる」という習慣が広まり、今では夏の定番として親しまれるようになりました。

 

NHK大河ドラマ『べらぼう』で平賀源内役を演じられた俳優の安田顕さん
NHK大河ドラマ『べらぼう』で平賀源内役を演じられた俳優の安田顕さん

◆江戸の港町と舟運 ~「芝浦浜」・「佃島」におけるにぎわい~

渓斎英泉 画『江戸八景 芝浦の帰帆』(国立国会図書館蔵、寄別2-2-2-6)  ※https://dl.ndl.go.jp/pid/1309955/1/1
渓斎英泉 画『江戸八景 芝浦の帰帆』(国立国会図書館蔵、寄別2-2-2-6)  ※https://dl.ndl.go.jp/pid/1309955/1/1

こちらは、渓斎英泉による『江戸八景 芝浦の帰帆』です。

夕暮れの「芝浦浜」に、品川沖から荷を満載した帆船が次々と帰港する様子が描かれています。

帆に夕陽が差し、静かに港へ戻る船の姿からは、当時の江戸湊のにぎわいが感じられます。

 

出典:歌川広重 画『江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟』(天保前期・1830~1836年、江戸東京博物館蔵、91210103)  ※https://museumcollection.tokyo/works/6244531/  に加筆
出典:歌川広重 画『江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟』(天保前期・1830~1836年、江戸東京博物館蔵、91210103)  ※https://museumcollection.tokyo/works/6244531/ に加筆

 

上記は、歌川広重の『江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟』です。

画面手前には「永代橋」が描かれ、右奥には佃島(つくだじま)沖に浮かぶ多くの船の姿が見えます。

 

江戸時代、隅田川の河口に位置する「佃島」(現在の東京都中央区)は、「江戸湊」と呼ばれる廻船の主要な停泊地のひとつでした。全国から江戸へ物資を運んできた大型の廻船は、喫水が深く、浅い川を遡って市中の河岸まで入ることができませんでした。

 

そのため、佃島沖に停泊した船から荷物を「艀(はしけ)」と呼ばれる小型の川舟に積み替え、蔵前の米問屋や日本橋の魚市場など、隅田川やその支流沿いの各河岸へと運ばれていきました。

 

佃島は、こうした積み替え作業の拠点であると同時に、船員たちのための茶屋や食料の供給地としてもにぎわい、江戸の物流を支える重要な港町として発展しました。

 

「佃島の場所」  出典:(江戸切絵図)『築地八町堀日本橋南絵図』、1849年、国立国会図書館蔵)  ※https://dl.ndl.go.jp/pid/1286660/1/1
「佃島の場所」  出典:(江戸切絵図)『築地八町堀日本橋南絵図』、1849年、国立国会図書館蔵)  ※https://dl.ndl.go.jp/pid/1286660/1/1

葛飾北斎 画『冨嶽三十六景 江戸日本橋』  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景
葛飾北斎 画『冨嶽三十六景 江戸日本橋』  ※https://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景

葛飾北斎『冨嶽三十六景 江戸日本橋』より

 

葛飾北斎が描いた『冨嶽三十六景 江戸日本橋』は、日本橋の中央から遠く千代田城(江戸城)と富士山を望む構図です。橋の両岸には「蔵」が立ち並び、江戸の物流拠点としてのにぎわいが伝わってきます。

橋の上では、魚河岸の若者たちが荷を担いで忙しく行き交い、大八車や天秤棒、材木なども描かれ、江戸市中に魚を配る拠点であったことがうかがえます。早朝の活気に満ちた様子が、北斎の筆致によっていきいきと表現されています。

 

一方で、遠景に描かれた霞の中に浮かぶ千代田城と富士は、にぎわう橋上の風景に対して、静けさと広がりを感じさせながら、画面に深みをもたらしています。

 


◆「上武大橋」の歴史 ~中瀬河岸と平塚河岸を結んだ道~

「旧・上武大橋のモニュメント」  ※太平洋戦争(大東亜戦争)時にアメリカ軍によって付けられたとされる「弾痕」が今も残っています。
「旧・上武大橋のモニュメント」  ※太平洋戦争(大東亜戦争)時にアメリカ軍によって付けられたとされる「弾痕」が今も残っています。

 

■ 中瀬の渡し・平塚の渡し

利根川をはさんで向かい合う武州・中瀬と上州・平塚は、江戸と越後を結ぶ北越街道(現在の伊勢崎深谷線)の一部として、「中瀬の渡し」「平塚の渡し」と呼ばれる渡船場でつながっていました。

江戸時代、中瀬・平塚地域は水運の要所として栄え、利根川を行き交う帆かけ船が物資を運び、河岸で陸揚げされた荷は、陸路で各地へと運ばれていきました。

慶長12年(1607年)には、江戸城修理のための栗石がここから水運で運ばれたと伝えられています。

 

■ 向島橋(ごうそばし) ~船橋から木橋へ~

明治14年9月、大雨による増水で利根川が向島(ごうそ)で決壊。この被害を受け、オランダ人技師の指導のもと河川改修が行われました。

この改修にあわせて、地域の人々から「橋を架けたい」という声が高まり、中瀬村・平塚村の有志によって「明治架橋会社」が設立されました。募金をもとに明治15年10月に着工し、翌16年2月に完成。

最初の橋は、利根川本流に船を並べてロープでつなぎ、橋板を渡して固定した「船橋」でした。その後、明治末から大正初めにかけて県の管理となり、川に杭を打って固定する「木橋」へと改修されました。

 

■ 上武大橋(旧) ~念願の永久橋~

この木橋に代わって、昭和9年(1934年)に開通したのが「上武大橋(旧)」です。

中瀬地域の人々の協力により建設され、木村孝雄さんや川田弘一さんのご先祖も尽力されたと伝えられています。

工事中は「中瀬橋」と呼ばれていましたが、上州(上野国)と武州(武蔵国)を結ぶ橋であることから「上武大橋」と名づけられました。

完成の日には朝から花火が打ち上げられ、見世物小屋や露店が並び、地元の中瀬小学校と世良田小学校の児童が橋の両端から渡って中央で交歓するなど、大きなにぎわいを見せました。

 

■ 現在の「上武大橋」と旧橋の記憶

老朽化と幅員の狭さから、2013年より架け替え工事が始まり、旧橋の川下側に新たな橋が建設されました。新しい上武大橋は、2018年3月17日15時に供用が開始されました。

 

役目を終えた上武大橋の旧橋は、同年9月に解体されました。その際、親柱やトラス橋の一部は深谷市側の橋のたもとに移され、「上武大橋のあゆみ」としてモニュメント化され、保存されています。

 

旧橋には、太平洋戦争(大東亜戦争)中にアメリカ軍の攻撃によって生じたとされる「弾痕」が残り、当時の歴史を今に伝えています。

地域住民に長く親しまれてきたこと、そして戦争の痕跡をとどめる歴史的価値の高さから、土木遺産として評価され、旧橋の一部は、所沢市の「日比田調節池(ひびたちょうせつち)」※地図「管理橋」として移設・保存されています。

 

「日比田調節池」(埼玉県所沢市)と「管理橋」
「日比田調節池」(埼玉県所沢市)と「管理橋」
東川と「日比田調節池 管理橋」
東川と「日比田調節池 管理橋」

太平洋戦争(大東亜戦争)中にアメリカ軍の攻撃によって生じたとされる「弾痕」
太平洋戦争(大東亜戦争)中にアメリカ軍の攻撃によって生じたとされる「弾痕」

※「日比田調節池」についての強冷房車さんYouTubeはこちらへ(https://youtu.be/4J0H00_IYaI)

「日比田調節池について」の案内板
「日比田調節池について」の案内板

「明治時代の木橋」(平塚より中瀬を望む)   出典:石原政雄氏著『中瀬河岸場』
「明治時代の木橋」(平塚より中瀬を望む)   出典:石原政雄氏著『中瀬河岸場』
「明治時代の中瀬渡船実景」  出典:石原政雄氏著『中瀬河岸場』
「明治時代の中瀬渡船実景」  出典:石原政雄氏著『中瀬河岸場』
「上武大橋」(旧橋)   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/上武大橋 より
「上武大橋」(旧橋)   ※https://ja.wikipedia.org/wiki/上武大橋 より
上武大橋開通を祝う新埼玉新聞の記事(昭和9年10月30日)   ※(桃井可堂郷土史料館の展示史料より)
上武大橋開通を祝う新埼玉新聞の記事(昭和9年10月30日)   ※(桃井可堂郷土史料館の展示史料より)
 昭和9年10月30日付の『新埼玉新聞』に掲載された「祝開通 上武大橋開通」記事に登場する、川田歯科医院の川田弘さん
昭和9年10月30日付の『新埼玉新聞』に掲載された「祝開通 上武大橋開通」記事に登場する、川田歯科医院の川田弘さん
「上武大橋のあゆみ・案内板」
「上武大橋のあゆみ・案内板」
「現在の上武大橋」  ※中瀬からの眺め ~利根川、上武大橋、そして赤城山~
「現在の上武大橋」  ※中瀬からの眺め ~利根川、上武大橋、そして赤城山~
「利根川」
「利根川」

◆桃井可堂郷土史料館【予約制】

【桃井可堂郷土史料館】(川田歯科医院)

 

■桃井可堂郷土史料館・名誉顧問:木村孝雄さん(中瀬河岸研究会 会長)

■桃井可堂郷土史料館・館長:川田弘一さん(川田歯科医院 院長)

■住所:埼玉県深谷市中瀬723

■電話:048-587-2502

※お電話にて来館予約してから、お越しください。