~南北朝時代の武将「桃井直常(もものい・ただつね)」から受け継がれた不屈の精神~
桃井可堂先生は、幕末という動乱の時代を憂い、日本の行く末を真剣に考えた尊王攘夷の学者でした。
可堂先生は、ただ机に向かうだけでなく、「今こそ行動しなければ」と立ち上がります。
しかし、志半ばで仲間の裏切りに遭い、計画は事前に漏れてしまいました。
可堂先生は潔く自首しますが、獄中では一粒の米も口にせず、絶食して自らの命を絶つという、あまりにも凄絶な最期を選びました。可堂先生は、なぜこれほどまでに激しい情熱を秘めていたのでしょうか。
その源流は、数百年前の「南北朝の動乱」と、可堂先生を育んだ「利根川」の風土にあったのだと思います。
◆「志」を貫いた桃井可堂先生の生涯 ~深谷の吉田松陰~
◆桃井可堂先生の生涯
桃井可堂(もものい・かどう)先生は、享和3年(1803年)、武蔵国榛沢郡北阿賀野村(現・埼玉県深谷市北阿賀野)に生まれました。父は福本守道、母は新戒村・福島氏の娘すみ子で、可堂先生は次男にあたります。
幼名は誠(まこと)、通称は儀八(ぎはち)、号は可堂(かどう)と称しました。
可堂先生は、12歳のとき、血洗島の儒者・渋沢仁山に師事し、才能を認められました。
仁山は、「東の家」渋沢初代宗助の次男で、「古新宅の家」の祖です。
仁山の塾では論語を中心に教え、その精神は桃井可堂先生から尾高惇忠翁、渋沢栄一翁へと受け継がれていきます。
20歳のときには、中瀬村の富豪・斉藤安兵衛家(大斉藤家)に奉公し、経理の仕事を担当しながら、文書蔵にこもって学問に励みました。
22歳で斉藤家を辞し、江戸の「東条一堂塾」に入門。「一堂門の三傑」と称されるほどの俊才として名を馳せました(桃井可堂・清河八郎・那珂梧楼)。
天保2年(1831年)29歳のとき、江戸で塾を開き、32年間にわたり多くの門弟を育成。
備中庭瀬藩と伊勢亀山藩の2つの藩で、あわせて23年間も藩師を勤めました。
勝海舟、藤田東湖、山岡鉄舟ら一流の人々とも親交を深め、尊王攘夷の志を強めていきました。
文久3年(1863年)2月、盟友・清河八郎が「浪士隊」を率いて上洛するのに呼応し、可堂先生も尊攘討幕を決意。江戸での安定した生活を捨て、故郷・中瀬村に帰郷しました。
中瀬村では、渋沢喜作の紹介で 川田仙松家(現在の川田歯科医院・桃井可堂郷土史料館)に「桃井塾」を開き、志士の育成にあたりました。
可堂先生は、各地の勤皇志士と連携し、「天朝組(てんちょうぐみ)」を組織し、新田氏子孫・岩松俊純を推して赤城山で挙兵し、横浜の外国人居留地を襲撃する計画を立てました。
軍資金は、尊王攘夷派の相楽総三(さがら・そうぞう)が提供した3,000両。
決行日は文久3年11月12日(冬至の日)で、これは尾高惇忠や渋沢栄一ら「慷慨組(こうがいぐみ)」の攘夷決行日でもありました。
しかし、仲間の裏切りにより義挙は挫折。
12月16日、同志を守るため、川越藩剣術師範・大川平兵衛を通じて自首しますが、獄中では一粒の米も口にせず、絶食して自らの命を絶つという、あまりにも凄絶な最期を選びました。享年62歳。
可堂先生の教えの根底には、南北朝時代に活躍した足利一門の武将・桃井直常(もものい・ただつね)の精神が息づいていたとも言われています。
◆桃井直常(もものい・ただつね)について
~足利直義(ただよし)に一貫して忠誠を尽くし、直義の死後も南朝方として徹底抗戦した武将~
■ 桃井氏(もものいし)の祖 ~足利一門の桃井義助~
桃井氏の始祖は、足利宗家2代当主・足利義兼(あしかが・よしかね)の次男・桃井義助(もものい・よしすけ)です。
義助は、上野国群馬郡桃井郷(現在の群馬県北群馬郡榛東村)を領し、「山子田城」・「桃井城」を築いて「桃井(もものい)氏」を名乗りました。
■ 南北朝の争乱で二派にわかれて戦った桃井氏
桃井氏は足利一門に属し、「胤氏(たねうじ)流」と「頼直(よりなお)流」の二つの流れに分かれていました。
桃井家の惣領は、「胤氏流」で、胤氏流の桃井尚義(ひさよし)は新田義貞に協力して鎌倉攻めに加わり、戦死しました。同じく「胤氏流」の桃井盛義(もりよし)は、南北朝時代に足利尊氏の側近・高師直に仕え、北朝方として活躍しました。
一方、「頼直流」の桃井直常(ただつね)は、当初尊氏に従いましたが、観応の擾乱後は直義に従い、直義の死後は南朝派として戦い続けました。
このように、桃井氏は一族内で異なる立場をとり、南北朝の戦乱を戦うこととなりました。
◆桃井直常 ~熱烈な「直義(ただよし)派」~
桃井直常(もものい・ただつね)は、南北朝の動乱期において、「足利直義に一貫して忠誠を尽くし、直義の死後も南朝方として徹底抗戦した人物」として知られています。
桃井直常は、1333年の元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡した際、足利尊氏に従って京都の六波羅探題を攻め、戦功を挙げました。
その後も活躍を続け、1338年には、奥州から侵攻してきた南朝方の北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)軍を、北朝方として大和で撃破するなどの功績をあげます。
これらの功により、同年に若狭守護に任じられ、1340年頃には伊賀守護、さらに1344年には越中国(現在の富山県)の守護を歴任しました。
●1339年、若狭国へ旅立つ前に、領地のあった武蔵国榛沢郡横瀬(深谷市横瀬)に、赤城山多門院福応寺(後、福王寺)を開基しています。
※その由緒を記した『福應寺縁起』には、桃井直常に従った家臣たちの名が記されています。
「直常公は横瀬党の富田左近、栗田帯刀、須長隼人、荻野伊織、古氷道仙、三供主計、右六騎、並びに中瀬、高島、新戒、石塚、古市、大塚らと共に、桃井公の旗下に属した。…その後、桃井播磨守直常公は越前国(現在の福井県)へ出陣の際、九寸五分の御守刀と弁天一尊を奉納された。」
「横瀬六騎」は桃井直常に協力して出陣したです。
※横瀬の「福応寺(福王寺)」は、明治6年(1873年)から明治20年(1887年)まで、「横瀬小学校」として利用され、北阿賀野村のほか、横瀬、南阿賀野、町田、宮戸、滝瀬、計6か村の子どもたちが入学していたとのことです。
●また、1344年、直常が越中国(富山県)の守護に任じられた際には、「守山城(もりやまじょう)」(富山県高岡市)や、「白鳥城(しらとりじょう)」(富山市)を築いて支配しました。
【桃井直常と観応の擾乱(かんのうのじょうらん)】
1338年の越前「藤島の戦い」で新田義貞が討たれた後、足利尊氏は「足利政権」を確立し、全国統一へ向けて勢力を広げていきました。
しかし、その過程で、尊氏の弟・足利直義(ただよし)と、執事の高師直との対立が次第に深刻化していきました。
桃井直常は、この争いにおいて足利直義の側に立って戦いました。
1. 足利直義と高師直の対立
1349年、足利直義は高師直の専横を阻むため、足利尊氏に高師直を罷免するよう求めました。
尊氏は直義の要求を受け入れ、高師直は執事を解任され、所領も没収されます。
しかし高師直はこれに対してクーデターを企てます。戦地から高師泰の軍勢を呼び出すと、京の足利直義を包囲しました。
その結果、直義は出家を余儀なくされ、側近(上杉重能・畠山直宗)も暗殺されました。
一方、足利直義の養子である直冬(ただゆふ)は、義父を支援しようと中国地方の兵を率いて上洛を試みました。しかし、尊氏の討伐を受けて九州へ敗走します。直冬はその後九州で勢力を拡大し、南朝と連携して尊氏に対抗していきました。
2. 観応の擾乱(1350~1352年)①
1350年、足利尊氏は直冬討伐のため九州へ出陣しました。
その隙を突いて足利直義は京都を脱出し、南朝と手を結びました。
※一般に、この事件をもって「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」のはじまりとされます。
桃井直常は直義の挙兵に呼応し、北陸から兵を率いて上洛。勢いそのままに京都へ迫り、一時は都を占領することにも成功しました。
3. 観応の擾乱② ~尊氏軍の敗北、高師直の殺害~
翌1351年、打出浜の戦い(現・兵庫県芦屋市)で、足利尊氏・高師直らの軍勢は、足利直義・桃井直常軍に敗北。和睦が成立し、条件として高師直・師泰兄弟の出家が決まりました。
しかし、護送中に武庫川(現・兵庫県伊丹市付近)で、直義派の上杉能憲(うえすぎ・よしのり)らによって、高師直は一族ともども殺害されました。
4. 観応の擾乱③ ~尊氏と弟・直義の対立、直義の死へ~
1351年11月、追い詰められた尊氏は、南朝と一時的に和睦(正平の一統)し、直義に対抗。
桃井直常は密かに上野国へ戻り、苗ヶ島城を築いて再び尊氏方と戦いました。
尊氏は直義追討に出陣し、「薩埵峠の戦い」や相模国「早川尻の戦い」などで勝利。
1352年1月、直義を鎌倉に追い込み降伏させました。
1352年2月、足利直義は幽閉されていた鎌倉で急死しました。死因は病死とされていますが、尊氏による毒殺説が有力視されています。
5. 正平の一統の破断
1352年4月、尊氏は南朝から離脱し、新たな北朝の天皇として後光厳天皇を擁立しました。これにより正平一統はわずか数ヶ月で破綻し、南北朝の対立は再び本格化しました。
6. 直義死後も、桃井直常は南朝方として抵抗
1352年、直義の死後も、桃井直常は南朝方として転戦し、尊氏やその子・義詮ら北朝方と戦い続けました。
7. 桃井直常の最期
直常は主に関東や北陸を転戦し、越中国(現在の富山県)へと落ち延びます。
1371年、五位荘の合戦(現・富山県高岡市)で斯波氏に敗れて消息不明となっています。
その後の行方は分からず、富山市近在で没したとも、桃井郷へ帰郷後没したとも言われています。
現在、直常の墓や供養塔は、故郷に近い群馬と、ゆかりの地・越中の両方に残されています。
8. その後の桃井一族
敗戦後桃井直常の一族は、上州「金山城」を頼り、入城したという説もあります。
また桃井の一族は北阿賀野村に土着、その9代目が父の福本守道、母は新戒村福島氏の娘すみ子で、可堂先生は次男です。
※桃井直常に従った「横瀬六騎」は、のちに郷土・横瀬郷に土着したと考えられています。
【参考】
・『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画』(持田 勉著、博字堂、2022年)
・『桃井可堂 ~深谷の吉田松陰~』(持田 勉著、博字堂、2014年)
・歴史の史実研究所HP「桃井直常は不撓不屈の精神を持っていた」
◆利根川右岸の歴史
~右岸の村々:高島・新開・中瀬・阿賀野・手計・横瀬・血洗島 ~
渋沢栄一翁の生まれた「血洗島」をはじめ、この地域には南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、伊勢島、瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬など、「島」や「瀬」のつく地名が数多く残っています。
これらは、太古からの利根川の氾濫によって堆積した土砂がつくり出した自然堤防の上に、人々が集落を築いたことに由来し、『四瀬八島(よせはっとう)』と呼ばれてきました。
この地に鎮座する「島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)」もまた、たび重なる水害から人々を守る守護神として信仰されてきた存在です。
天明3年(1783年)の浅間山噴火による利根川の氾濫の際、この地域が難を逃れたのは、島護の霊験によるものと伝えられています。
こうした自然と人の関わりの中で育まれてきたのが、桃井可堂先生の生まれた「北阿賀野村」(現・深谷市北阿賀野)です。
ここもまた利根川右岸の自然堤防上に位置し、血洗島・横瀬・阿賀野・中瀬・新開・高島といった周辺地域とともに、古代より利根川の流路の変遷により、上野国との深いつながりを持っていました。
利根川とともに生きてきた「利根川右岸の土地の歴史」を知ることは、可堂先生の背景を理解するうえでも大切だと思われます。
◆【古代】
● 5世紀末~6世紀前半
血洗島から手計にかけて、円墳4基・小石室墓3基が造られ、馬形埴輪・人物埴輪が出土しています。これにより、この地域には古くから人々が定住していたことが確認されます。
● 7世紀頃
新羅系渡来人・秦河勝(はた・かわかつ)の一族が近畿開発の後、東山道を通じて新開郷に土着。
「新開郷」を中心に利根右岸および、妻沼低地の開発を進めました。血洗島もその範囲に含まれます。
● 平安時代末頃
新田庄の新田氏本宗家初代・新田義重が、こすみ(古住・小角=中瀬の古名)郷を孫娘に譲りました。
当時、中瀬郷一帯は「新田庄」に属していました。
◆【鎌倉時代】
1. 12世紀末
・伊豆国で源頼朝が挙兵した時、秦河勝の子孫である新開次郎忠氏が利根右岸・妻沼の兵を率いて参戦し、「頼朝七騎」の一人として幕府創設に貢献しました。
(※新開荒次郎実重は相模の豪族土肥二郎実平の次男で、頼朝が旗挙げした前後に新開氏へ養子として入りました。)
・3代将軍実朝は、高島郷の支配を新田氏本宗家2代目新田義兼に任命。
1194年、新田義兼は、横瀬郷に「華蔵寺(けぞうじ)」を建立しました。
2. 承久3年(1221年)「承久の乱」
・御鳥羽上皇が北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」が起こりました。
・新開氏は二つに分かれて幕府軍に加わり戦功を挙げ、越中国(富山県)と阿波国(徳島県)にそれぞれ新領地を拝領。越中に入った新開氏は、「土肥氏(越中新開氏)」を名乗りました。四国に上陸した新開氏は、「阿波新開氏」を名乗り、細川氏に仕え、中国地方、四国一帯で活躍しました。
◆【南北朝時代】(1336~1392年)※室町時代前期
新田義貞・足利尊氏らによる鎌倉幕府討伐(元弘の乱)では、利根川右岸の村々も戦乱に巻き込まれました。
1. 岡部・新開・中瀬の軍勢は、新田庄(平塚・太田・大館)の兵とともに新田義貞軍に加わり、鎌倉攻めに参加。その後、四国へ転戦し、細川頼春率いる北朝方と戦い、愛媛県の「世田山城(せたやまじょう)」に籠城するも、全滅しました。
『太平記』の「大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事」には、城主・大館氏明が17人の部下とともに自刃した様子が記されています。現在、世田山城跡には「大館氏明公墓所」が残されています。
2. 一方、愛媛県大西町の「重茂城(じゅうもじょう)」の城主・岡部十郎は北朝方につき、勝利を収めたのち約250年にわたり当地を支配しました。愛媛県今治市野間甲761には、「岡部十郎夫妻の供養塔(野間覚庵(かくあん)五輪塔 )」が現存しています。
3. 新開氏の一派は、北朝方の細川氏に従い、徳島県阿南市の「牛岐城(うしきじょう)」の城主となり、阿波・土佐を約250年支配しました。
4. また、別の新開氏一族は、足利方に従い、富山県上市町の「弓庄城(ゆみのしょうじょう)」の城主となり、「土肥新開氏」として約300年にわたり越中国を治めました。
5. 桃井直常(もものい・ただつね)は北朝方として、「横瀬六騎」を中心とした横瀬軍の協力を得て戦いました。1338年、奥州より侵入した南朝方の北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)軍を大和(やまと)に破るなどの戦功を挙げ、越中国守護として、富山県高岡市の「守山城(もりやまじょう)」を支配しました。
観応の擾乱では終始直義側に立って活躍。直義死後も、桃井直常は南朝と連携し、尊氏に抵抗を続けましたが敗れて落城。横瀬六騎は横瀬郷に戻り帰農しました。
◆【室町時代以降】の利根川右岸の動向
■ 「手計郷」の支配の変遷
●「手計郷一帯」は、児玉郡の豪族・安保氏(安保泰規)が支配。
● 岩松氏の中興の祖とされる岩松直国(ただくに)は、1361〜62年の伊豆における「畠山国清の乱」や、1363年に現在の埼玉県毛呂山町で起きた「苦林野合戦(にがばやしのがっせん)」で大きな戦功を挙げました。
特に「苦林野合戦」では、総大将の足利基氏自らが刀を抜いて戦うほどの熾烈な戦いとなりました。戦の最中、基氏はその鎧によって敵に見つかり、狙い撃ちにされそうになります。これに気づいた岩松直国は、咄嗟に自らの鎧と基氏の鎧を交換し、身代わりとなって奮戦。その勇敢な行動が勝利に大きく貢献しました。これらの功績を高く評価された岩松直国は、足利基氏より本領を安堵されました。
● 1363年(貞治2年):足利基氏は、安保氏から領地を没収し、岩松直国(いわまつ・ただくに)に与えました。
→利根川右岸の広い地域(中瀬・阿賀野・血洗島・手計ほか)は、岩松氏(のち由良氏) が支配。
岩松氏はその後、「新開郷」も領有しました。
※岩松直国の妻は、深谷上杉家初代・憲英(のりふさ)の妹であり、憲英の義弟にあたります。
※『太平記』巻39の「芳賀兵衛入道軍事」には、「苦林野合戦(にがばやしのがっせん)」において岩松直国が主君・基氏の身代わりとなって奮戦する様子が描かれています。
・『太平記』各巻の概要:Wikipedia「太平記」
・原文:Wikisource「太平記/巻第三十九」
・現代語訳:ikaru_utaさんブログ「太平記読み~その現実を探りながら~現代語訳付き」
【参照】
・歴史の史実研究所HP「岩松直国は新田氏の庶流でありながら足利氏に与し続けた」

◆【室町時代】 享徳の乱(1455-1483年)~
上杉軍と古河公方軍が利根川を挟んで対峙し、利根川右岸一帯は激しい戦いの舞台となりました。
上杉軍の本陣は、本庄市の「五十子陣」に置かれていました。
・1455~1483年(享徳の乱):古河公方と上杉氏(山内・扇谷上杉氏)の対立。
・1457~1477年(五十子の陣):上杉方の本陣を 五十子(本庄市)に置く。
・1469年(文明元年):岩松家純が「金山城」を築城。
・1528年(享禄元年):横瀬泰繁・成繁父子が岩松昌純を殺害し実権を掌握。
・1565年(永禄8年):横瀬成繁が「由良氏」と改姓。
◆【戦国時代】 利根川右岸で移り変わる勢力図
戦国時代、利根川右岸の中瀬・血洗島周辺では、「金山城の由良氏」、「深谷上杉氏」、「北条氏」が勢力争いを繰り広げていました。
1. 「金山城由良氏」と「深谷上杉氏」の争い
永禄3年(1560年)に石塚合戦が、永禄5年(1562年)に小和瀬(こわぜ)合戦が発生。
村々を巻き込んだ争奪戦がたびたび発生し、最終的には「由良氏」が優勢となりました。
2. 北条氏への深谷上杉氏の従属
元亀4年(1573年)、北条軍が「深谷城」を攻め、深谷上杉氏8代当主・憲盛(のりもり)は敗北し、のちに北条氏と和睦しました。
その後、天正6年(1578年)には、深谷上杉氏9代当主・氏憲(うじのり)が北条氏政の養子となり、その娘と婚姻。こうして深谷上杉氏は、小田原北条氏の支配体制に組み込まれていきました。
3. 「金山城」の落城と、利根川右岸への家臣団の土着
1584年(天正12年)には、北条氏邦が深谷・忍・鉢形の軍勢を中瀬郷原に集結させ、利根川を渡河して「金山城」を急襲。これにより「金山城」は落城。
→落城後、金山城の家臣団は次々と利根川右岸の村々へ移り住み、土着しました。
金山城の陥落後、血洗島を含む利根川右岸の村々は、「深谷上杉氏」の勢力下に組み込まれることとなりました。
《利根川右岸に土着した金山城の家臣たち》
・「横瀬」 → 横瀬六騎(富田・栗田・須長・荻野・古氷・三供)
・「北阿賀野」 → 桃井
・「中瀬」 → 河田・正田・石原
・「新戒」 → 田部井
・「血洗島」 → 吉岡(※金山落城前に)・渋沢
・「島村」 → 栗原(6族)・田島(2族)
・「大沼」 → 大沼
・その他 → 岡部・増田・沼尻など
4. 秀吉による「小田原攻め」と、北条氏・深谷上杉氏の終焉
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による「小田原攻め」で北条氏が滅亡。
深谷上杉氏も所領を失い、深谷城主としての歴史を終えました。徳川家康が江戸に入ると、松平康直が深谷城に入城しました。
5. 蘆田氏の入封と血洗島の検地・渋沢栄一翁祖先の入植
天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国後、蘆田(あしだ)康真が信州佐久から「藤岡城」3万石で入封し、阿賀野・血洗島・横瀬・中瀬・新開を領有しました。
この地域はかつての国境地帯で支配が不明確だったうえ、戦乱と荒廃で百姓が逃散し、荒れ地となっていました。そのため蘆田氏は、藤岡城入城後すぐに検地を実施。
天正18年(1590年)に血洗島、翌年には阿賀野・新開・横瀬を検地し、これが武蔵国で最も早い検地とされています。
渋沢栄一翁の先祖も、この頃に血洗島へ入植したと考えられています。
【参考】
・『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画』(持田 勉著、博字堂、2022年)
・『桃井可堂 ~深谷の吉田松陰~』(持田 勉著、博字堂、2014年)
◆世田山城で17人の部下とともに自刃した大館氏明(おおだち・うじあき)について

■ 新田一族の有力な武将・大館氏明(おおだち・うじあき)は、四国伊予国(現・愛媛県)で南朝方として活躍し、伊予守護として「世田山城」を守っていました。
1342年、共に戦っていたいた脇屋義助(新田義貞の弟)が病死すると、その隙を突いて北朝方の細川頼春(よりはる)が一万余騎の大軍を率いて侵攻します。氏明は奮戦の末、世田山城に籠城し、最後は17人の部下とともに自刃しました。
このとき命を共にした17名の部下の中には、利根川右岸や新田庄の兵の名前が見られます。
《部下17名》
岡部出羽守忠重
新海太郎貞廣
新海四郎貞秋
新海五郎貞行
境四郎左衛門尉光重
境十郎光行
太田宗蔵秀行
小山田傳内定成
中川三郎兵衛尉正頼
来崎八郎定能
中瀬次郎政道
中瀬三郎政光
中瀬六郎政信
亀岡忠三郎武元
中山八郎高俊
平塚金吾久光
平塚七郎久行
■『太平記』に記された世田山城の戦い
『太平記』巻22の「大館左馬助討死事付篠塚勇力事」には、世田山城の戦いにおける大館氏明と十七名の勇士たちの最期が記されています。
・『太平記』各巻の概要:Wikipedia「太平記」
・原文:Wikisource「太平記/巻第二十二」
・現代語訳:ikaru_utaさんブログ「太平記読み~その現実を探りながら~現代語訳付き」

■ 大館氏明の位牌
世田薬師の「三方荒神尊社」の横に祀られています。
社殿の前には、大正12年(1923年)に大館保存会によって建立された顕彰碑が立っています。
■ 大舘氏明の墓所
墓所は、世田薬師の「奥の院」(MAP)にあります。
奥の院は、世田山の山頂付近(ふもとの世田薬師からおよそ1km登った山中)に位置しています。
■「世田山(せたやま)」と「世田山城」について
「世田山」は、愛媛県の今治市と西条市の境界に位置する標高339mの山です。
中世の頃、「伊予の剣」と言われる世田山には、かつて今治地方に置かれていた伊予の国府を守る最後の砦として世田山城が築かれていました。その世田山城は「世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶ。」といわれる程、軍事的に重要な拠点であったようです。
■「世田薬師(せたやくし)」について
世田薬師は、愛媛県西条市にある高野山真言宗の寺院です。
正式名称は、「栴檀寺(せんだんじ)」(=世田山 医王院 栴檀寺)です。
栴檀寺(せんだんじ)の由来は、724年、行基菩薩が世田山の山上に「薬師如来」を感得し、栴檀(せんだん)の木にその姿を刻んだことから名付けられたと言われています。
地元では「世田薬師」として親しまれ、新四国曼荼羅霊場(36番札所)としても知られています。
本尊は秘仏の「薬師如来立像」で、厄除けや病気平癒に特にご利益があると信仰されています。
この立像の薬師如来は、古くから霊験あらたかとされ、多くの信仰を集めてきました。
● 往古は、山上に本堂があり、近隣に十二の末寺を擁する山岳信仰の一大拠点として栄えていたと伝えられています。修験者の往来は遠く畿内にまで及び、時には九州からも行者が訪れたといわれています。
● 昭和2年(1927年)には、世田山山上にあった大師堂や三宝荒神堂などがふもとへ移され、本坊(現在の世田薬師)が開かれました。これにより、山上の奥の院と山下の伽藍を併せ持つ、現在の寺の姿が整えられました。
● 令和3年(2021年)、ふもとに新たに「金堂」が建立され、奥の院(旧本堂)に安置されていた「薬師三尊」と「十二神将」が、金堂中央奥に「秘仏」として遷座されました。
● 令和6年(2024年)5月15日には、奥の院にあった「鐘楼堂」が79年ぶりに、ふもとに新築。
これをもってふもとへの移転事業が完了。同日、創建1300年を記念する大法会が執り行われました。
■ 太田市と今治市の姉妹都市提携
群馬県太田市と愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいます。
「大館氏明の墓」が祀られている世田薬師には、太田市から墓所参拝や歴史に関心を持つ人々が訪れているそうです。(※こちらより参照)
また、今治の国分寺近くの山腹には、太田市で生まれ、今治で病没した「脇屋義助の墓」が残されています。
【参考】
・『新四国曼荼羅霊場を歩く』(富永航平 著、新人物往来社、1990年)
◆上州・大館郷(おおたちごう)について
大館氏(おおだちし)は、新田源氏の一族の中でも、宗家・新田義貞に最も近い血筋を持つ家系です。
鎌倉時代には、上野国新田庄大館郷(群馬県太田市)において地頭を務めていました。
中瀬の対岸にある大館(おおたち)の地に館を構えたことから「大館氏」と呼ばれるようになりました。
大館郷の西には徳川郷、東に岩松郷、北に脇屋郷、南に中瀬郷があり、宗家の本拠・「金山城」を中心に、新田庄は鎌倉時代に新田源氏の本拠地として大いに栄えました。
大館氏の始祖は、大館家氏(いえうじ)。
「大館八幡宮」(群馬県太田市大舘町・MAP)は、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したもので、新田源氏の祈願所とされています。周辺には「御堀」「御蔵」「馬場」など、館に由来する地名が残っています。
口伝によれば、かつて利根川は徳川郷の北を流れ、徳川と大館は中瀬を通じて地続きだったとされます。
徳川の八幡様は中瀬の祭神とも伝えられています。
◆大館氏(おおだちし)について
1.南北朝時代
南北朝時代には、新田氏と足利氏の対立が激化。武蔵国利根川右岸の村々も新田方と足利方に分かれて戦いました。
● 【大館氏二代目・宗氏】
1333年、大館氏の二代目・宗氏(むねうじ)は、鎌倉攻めにおいて先陣を務め、鎌倉七口のうちの「極楽寺切通」から鎌倉へと攻め入りました。しかし、北条方の激しい反撃を受け、宗氏は稲村ヶ崎で十一人の兵とともに討死したと伝えられています。
その勇敢な最期を今に伝える「十一人塚」(※MAP)が、現在も鎌倉市稲村ガ崎に残されています(【参考】『新編相模国風土記稿 第4輯 鎌倉郡』)。
「十一人塚」(神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1丁目13−22) ©http://www.nikaido-kamakura.net/data01/163/163.html
●【大館氏三代目・氏明】
1342年、宗氏の子・大館氏明(おおだち うじあき)は、新田義貞の弟・脇屋義助の総指揮のもと、四国・伊予国の世田山城の城主となりました。氏明は、岡部・新開・中瀬・新田庄の兵を率いて北朝軍と戦いましたが、激しい戦いの末に敗れ、城とともに討死を遂げました。
■ 脇屋義助の墓:愛媛県今治市にあります。
■ 大館氏明、岡部忠重、新海・中瀬など郷土の兵の墓:世田山城の七合目付近に、今も静かに残されています。
その世田山城から、楠の木の苗木が林昌次氏らの尽力により深谷へと移植され、現在は豊里公民館の庭で立派に育っています。この楠の木は、異郷で散った郷土の武人たちと、ふるさとを結ぶ大切な絆となっています。
2.室町時代
●【大館氏四代目・義冬】 ~室町時代:足利幕府に仕えて側近となる~
大館氏明の長男・義冬(よしふゆ)は、父の戦死後、九州に匿われていたところ、佐々木道誉(ささき どうよ)に見出され、足利幕府に仕えて側近となりました。幕府から所領も与えられ、重用されたと伝えられています。
義冬は、戦死した父・氏明の供養のため、郷里である世良田の長楽寺に、「一井郷」北部の土地を寄進しました。このとき、新田庄の領主で金山城主の岩松氏が添え状を添え、正式な寄進文書としています。
3. 室町時代の末期
●【大館尚氏】
大館尚氏(おおだち ひさうじ)は、はじめ第8代将軍・足利義政(義教の子)に仕えました。
その後、第9代将軍・足利義尚(よしひさ)から偏諱(へんき)を受け、将軍の側近として活躍しました。
また、尚氏は「改名書札礼(かいめいしょさつれい)」の大家としても知られ、小笠原氏・伊勢氏と並び、室町幕府の故実家(礼法・儀式の専門家)として活躍しました。
●【大館晴光】
尚氏の子・大館晴光(おおだち はるみつ)は、第12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、「晴光」と名乗りました。その後、晴光は、第13代将軍・足利義輝の側近として仕え、とくに義輝が重視していた越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)との交渉では、その責任者を務めました。
晴光は、西国22カ国に加え、上野国の大館郷と一井郷も領有しており、金山城主・横瀬成繁と親しく交わっていました。
また、将軍義輝の命により、横瀬泰繁に鉄砲を届けたという記録も残されています(【参考】『本朝通鑑 第14』)。
晴光はたびたび金山城を訪れ、金山城の家臣の渋沢播磨守道根や渋沢与五郎とも交流を持っていました。
4.室町幕府滅亡~戦国時代
① 大館氏
天正元年(1573年)、仕えていた室町幕府が滅亡すると、大館氏の一族は所領である上野国大館郷に戻りました。その後、大館郷は金山城の支配下に入りました。
② 渋沢氏
天正12年(1584年)、金山城が落城すると、矢田堀城主・吉岡氏を経て、渋沢氏が血洗島へと移り住み、土着しました。
・・・・・・・・・・・・
5. 大館氏と渋沢氏
渋沢仁山が書に用いた印章には、「大館氏徴庵弌號仁山」と刻まれています。
これは、「我は大館氏の末裔にして仁山と号す。一たび朝廷より徴されしも、これを辞し、今は血洗島の書斎に籠り、学を修め徳を養う者なり」という意味と解されます。
この印文から、渋沢氏は江戸時代に入り、上州・大館の地から血洗島へと移住してきた可能性があると推測されています。
【参考】
・『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画』(持田 勉著、博字堂、2022年)
◆鎌倉の地形
鎌倉は、三方を山に囲まれ、南が海(相模湾)に開けた、“天然の要害”の地形をしています。
■「谷戸(やと)」について
鎌倉の代表的な地形が、「谷戸(やと)」と呼ばれる細長い谷です。
谷戸には以下のような特徴があります。
● 湧水が豊富
● 谷戸ごとに集落が形成された
● 山が深く入り組んでいるため敵が侵入しにくく、防衛に適していた
● 谷戸の奥には社や寺院(瑞泉寺や浄妙寺、円覚寺、覚園寺など)が建てられた
● 谷戸の奥には中世の横穴式墳墓(供養施設)である「やぐら」が数多く造られた
※谷戸の魅力についてはこちらへ
(鎌倉やぐら)

■ 「鎌倉七口(七切通)」という“人工の防衛線”
鎌倉は山に囲まれているため、外部とつながる道は限られていました。
そこで、山を切り開いて作られたのが「切通(きりどおし)」です。
特に主要な七つの切通は「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼ばれました。
① 極楽寺坂切通(ごくらくじざか・きりどおし MAP)…古くは「地獄谷」と呼ばれていた極楽寺の場所
※鎌倉と地獄谷についてはこちらへ
② 大仏切通(だいぶつ・きりどおし MAP)…鎌倉市の長谷と藤沢方面を結ぶ
③ 化粧坂切通(けわいざか・きりどおし MAP)……市が立つ場所であると同時に刑場、葬送の場でもあった
④ 亀ヶ谷坂切通(かめがやつさか・きりどおし MAP)…亀がひっくり返るほどの急坂
⑤ 巨福呂坂切通(こぶくろざか・きりどおし MAP)…鶴岡八幡宮の裏手にある(今は小袋坂と書く)
⑥ 朝夷奈切通(あさいな・きりどおし MAP)…鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ
⑦ 名越切通(なごえ・きりどおし MAP)…鎌倉と三浦の境界
などが知られています。
これらの切通は、鎌倉幕府の防衛力を支え、新田義貞の鎌倉攻めの戦いの際にも戦況を左右しました。
◆鎌倉攻めに参加した武将たち
鎌倉幕府が滅亡へと向かう元弘三年(1333年)、新田義貞は、一井郷(いちのいごう)の生品明神(現・群馬県太田市新田市野井町)の前で旗を掲げ、倒幕の兵を挙げました。
『太平記(巻第十)』には、このとき義貞のもとに集まった地元の武将たちの名が記されています。
※現代語訳はこちらへ
大館宗氏・幸氏・氏明、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、脇屋義助、江田光義、桃井尚義など
のちに南北朝の舞台で活躍する武将たちが、わずか百五十騎ほどの兵で義貞に従い、笠懸野へと進軍していきました。
義貞軍は鎌倉街道を南下しながら、沿道で反幕府方の武将や兵を加えて勢力を拡大していきました。
その途中、小手指原の戦い(こてさしがはらのたたかい/現・埼玉県所沢市)、分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい/現・東京都府中市)、関戸の戦い(せきどのたたかい/現・東京都多摩市)で相次いで勝利を収めます。
鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三手に分け、主要な切通を同時に攻撃する作戦をとりました。
・巨福呂坂(こぶくろざか):堀口貞満ら
・極楽寺坂(ごくらくじざか):大館宗氏・江田行義ら
・化粧坂(けわいざか):義貞本人と脇屋義助
しかし、鎌倉幕府軍は切通しを固めており、どの切通しも難攻不落で、突破はできませんでした。
特に極楽寺切通では大館氏明(おおだち うじあき)の父・宗氏が討死し、義貞軍は片瀬・腰越まで退却しています。その最期を悼んで建てられたのが、現在も鎌倉に残る「十一人塚」です。
最終的には、義貞は、「稲村ヶ崎」(いなむらがさき MAP)の海岸を干潮時に突破するという、“側面突破”によって鎌倉へ突入し、鎌倉幕府を滅ぼしたのです。
◆ 戸谷家の祖先について
戸谷家の祖先にあたる、隼人正行長(はやとのかみ ゆきなが)も、義貞に従って鎌倉へ向かった一人だったようです。
『児玉記考』には、戸谷家11代目・戸谷八郎左衛門について次のように記されています。
・ 新田義貞の家臣・隼人正行長の正統な系譜である
・ 行長は義貞に従い、鎌倉で北条高時を討ち取る戦いで武勇を示した
・ のちに天正2年(1574年)、帰農し、荒れ地やいばらを切り開いて本庄の地を開墾した
・ 天正15年(1587年)には、江戸・京都・大坂を結ぶ公的な継送業務で近郷の大取締役を務めた
・ 江戸時代には名主(町役人)を務めた
・ 明治以降、いくつかの会社を立ち上げ、役員を務めた
以降、戸谷家は代々、本庄宿に住み続けました。
◆ 受け継がれる「反骨のDNA」 ~桃井直常と利根川が育んだ精神~
桃井可堂先生や渋沢栄一翁といった傑出した人物が生まれた背景には、数百年をかけて積み上げられた「歴史」と「風土」の積み重ねがあったのだと思われます。
1. 桃井直常から受け継いだ「不屈の精神」
可堂先生が自分の生き方の規範としていたのが、南北朝時代の猛将・桃井直常(もものい・ただつね)でした。直常は、足利尊氏という巨大な権力に、生涯を通じて挑み続けた人物です。何度負けても、どれほど窮地に陥っても、自分の信じる道(足利直義への忠義)を曲げませんでした。
可堂先生はその子孫であることを誇りとし、直常が持っていた「不撓不屈(ふとうふくつ)」の精神を、幕末という動乱の世で体現しようとしたのではないでしょうか。
2. 「新田庄」との深いつながり ~利根川が結ぶ歴史~
深谷を含め、利根川右岸の歴史を語る上で欠かせない視点があります。
郷土史家の持田勉さんは、
「深谷の歴史を理解するには、利根川の対岸にある上野国、特に『新田庄』を見なければならない」
と述べていらっしゃいます。
(※『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画~』(持田 勉著)より)
持田さんは、30年にわたる緻密な調査の結果、深谷の歴史は対岸と切り離せないという事実に突き当たりました。
桃井可堂先生の北阿賀野や、桃井塾を開いた中瀬、そして渋沢翁の血洗島は、地図で見ると深谷の中でも上野国(群馬)にもっとも近い地域です。 利根川を越えれば、そこはすぐに「新田庄」へとつながっていきます。
渋沢翁・可堂先生の挙兵計画の背景には、「まさにこの利根川を挟んだ深谷と新田庄の、深く長い歴史的つながりがあった」、 持田さんは、そう指摘されています。(※詳細はこちらへ)
3. 「暴れ川」利根川と、過酷な紛争地帯が育んだもの
この地域の気風を決定づけたのは、「風土」もまた大きな要因だったと思われます。
・「偉大な活物」としての利根川
石川三四郎が「利根川は偉大な活物である」と述べるように、利根川は、地域社会に大きな影響を与えました。かつての利根川は、氾濫のたびに流路を変える「暴れ川」でした。人々は、利根川の氾濫のたびに甚大な被害を被り苦しむこととなりました。
江戸時代の265年間に、173回もの洪水が発生しているとのことです。
人々は常に命の危険と隣り合わせで苦しみましたが、同時に川からの大きな恩恵も受けてきました。
・ 関東最大級の紛争地帯に生きる
今から約450年前、この地は上杉・北条・武田という戦国三代勢力の勢力圏がぶつかり合う、関東最大級の「境界(きょうかい)」にして、最前線の紛争地帯でもありました。
絶え間ない戦乱のなか、公的な後ろ盾を持たない民衆たちは、自らの知恵と工夫だけで生き延びる術を身につけていかねばなりませんでした。
こうした過酷な「境界の地」で磨かれたからこそ、この地の人々には、何ものにも頼らない「自主独立の精神」と、苦しみを共にする「弱者への思いやり」、そして「亡くなった仲間への慰霊の心」が深く根付いていったのです。
これら全ての要因が重なり合い、共鳴し合った結果、桃井可堂先生や渋沢栄一翁といった、傑出した人物たちがこの地から生まれたのだと考えられます。
















































