~桃井可堂先生へとつながる関東の歴史をたどる。南北朝時代から戦国時代・深谷上杉氏の歴史まで~
◆関東の争乱史

武蔵国と上野国を分かつ「利根川」。
桃井可堂先生の生まれ育った深谷市北阿賀野や中瀬周辺は、利根川右岸に位置し、古くから水運の要所として栄えてきました。
一方で、この地は武蔵国と上野国の境にあたり、たびたび国境争いの舞台となった軍事的にも重要な拠点でもありました。
桃井可堂先生の先祖である桃井直常が生きたのは南北朝時代。
朝廷が二つに分かれ、足利政権の確立をめぐって日本中が揺れ動いた激動の時代です。
特に関東においては、足利直義派と尊氏派の対立が、南朝勢力をも巻き込んで複雑に入り乱れ、果てしない戦乱が繰り返されました。
◆鎌倉幕府が滅亡(1333年)
1333年、後醍醐天皇の呼びかけに応じた新田義貞や足利尊氏らの反幕府勢力により、鎌倉幕府は滅亡しました。
新田義貞が鎌倉を直接攻め落とし、北条高時(ほうじょうたかとき)が東勝寺で自害したことで約150年続いた幕府は終わりを告げ、天皇中心の「建武の新政」が始まりました。
◆南北朝の争乱(1336年頃〜1392年)
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う「天皇親政」を目指しました。
しかし、恩賞などで公家を極端に優遇したため、武士たちの間に強い不満が溜まってしまいます。
こうした中、武士の期待を背負った足利尊氏が反乱を起こし、時代は「南北朝の動乱」へと突入します。
後醍醐天皇は京都を追われて吉野(奈良県)に「南朝」を開き、一方で京都には、尊氏によって「北朝」が擁立されました。
関東の地も、この激動の渦に巻き込まれます。新田義貞や北畠顕家ら南朝方の名将と、足利尊氏率いる北朝方の武将たちが、各地で激しい死闘を繰り広げました。
やがて、1338年の「藤島の戦い」で新田義貞が戦死すると、尊氏は弟の足利直義(あしかが・ただよし)に関東支配を任せ、のちの「鎌倉府」の礎を築こうとします。
しかし、幕府内部で「直義」と「高師直(こうの・もろなお)」の対立が激化。
これが尊氏・直義兄弟の骨肉の争いである「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」(1350~1352年)へと発展しました。
この内乱では、桃井直常をはじめとする有力武将たちが、関東のみならず全国を舞台に複雑に入り乱れて戦い、混乱を極めました。
桃井直常は直義派としてこの争いに加わり、武蔵野合戦などで南朝方と連携して戦いました。
この約60年間にわたる長い争乱にようやく終止符が打たれたのは、三代将軍・足利義満の時代です。
義満の調停によって南北朝が統一され、再び一つの朝廷へとまとまることとなりました。
1. 中先代の乱(1335年):北条氏最後の逆襲
幕府滅亡から2年後、北条高時の遺児・北条時行(ほうじょう・ときゆき)が、諏訪頼重(すわ・よりしげ)らに擁立されて信濃で挙兵します。
「先代(北条)」と「後代(足利)」の中間に現れたことから「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれます。
わずか10歳ほどの時行でしたが、破竹の勢いで進軍。
時行の軍勢は、足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破ると、勢力を拡大しながら武蔵国に入り、鎌倉将軍府を目指します。
7月20日頃には「女影原(おなかげがはら)」(埼玉県日高市)で渋川義季(よしすえ)、岩松経家(つねいえ)らの軍を破り、続いて「小手指原(こてさしがはら)」(埼玉県所沢市)で今川範満を、さらに「武蔵府中」で下野守護小山秀朝を撃破。そして「井手の沢」(東京都町田市)で鎌倉を出陣して迎撃した足利直義軍をも破りました。時行の勢いに、直義は鎌倉から逃れます。
7月25日、時行軍はついに鎌倉に入り、北条氏が2年ぶりに鎌倉を回復しました。
※『逃げ上手の若君』について
北条時行の生涯を描く『逃げ上手の若君』(松井優征・作)が、2021年8号から『週刊少年ジャンプ』(集英社)で連載中です。原作は、現在23巻まで発行(2025年12月現在)されています。足利尊氏と直義の兄弟対立が激化する中で、戦局は「打出浜(うちではま)の決戦」(兵庫県芦屋市)へと向かいます。
一方、アニメ『逃げ上手の若君』は、2024年夏に第1期が放送済みで、2026年7月からはフジテレビで、第2期の放送が決定しました。
2. 足利尊氏、建武新政からの離反 ~南北朝の動乱の始まり~
中先代の乱を起こした北条時行を討つため、足利尊氏は征東将軍として出陣。
尊氏は、遠江国橋本、小夜の中山、駿河国の清見関、箱根、相模川などの戦いで、時行軍を立て続けに破り、鎌倉を奪還しました。時行の占領はわずか20日間に終わります。
その後、尊氏は鎌倉で恩賞を自ら分配し、建武政権の方針に背く行動をとります。
さらに上洛命令も拒否し、政権からの離反を明確にしました。
ここから南北朝の動乱が始まりました。
3. 1338年:新田義貞死去
新田義貞は、後醍醐天皇(南朝方)を支えて足利尊氏と戦う中、越前(現在の福井県)に攻め入るも、敗れて越後へ退却。「藤島の戦い」で足利高経(斯波高経)の軍と激戦の末、戦死しました。
義貞の突然の戦死は、新田軍に大きな動揺を与え、南北朝の動乱における南朝の劣勢を決定づける要因の一つとなりました。
4. 観応の擾乱(1350~1352年)
観応の擾乱は、1350年(観応元年/正平5年)から1352年(観応3年/正平7年)にかけて続いた動乱です。
尊氏の執事(しつじ)である「高師直(こうの・もろなお)」が実権を握ることに直義が反発したことから始まりましたが、高師直は直義によって謀殺。
その後、「尊氏派と直義派の争い」に発展し、最終的に直義の死によって収束しました。
この内乱は、幕府を二分する全国規模の争いとなりました。
[観応の擾乱の経緯]
4-① 高師直(こうのもろなお)と足利直義(あしかがただよし)の対立
執事として軍事・恩賞権を握る師直と、政務(引付方)を担う直義の権力争い。

4-② 1349年、高師直が一時的に解任
1349年閏6月、足利直義は、側近である上杉重能(うえすぎしげよし)や畠山直宗(はたけやまただむね)らの進言を受け、尊氏に対し、師直・師泰兄弟の罷免を強く要求しました。師直は一時的に解任されましたが、逆に、この直義の行動が師直の反発を招きました。
4-③ 1349年、高師直がクーデター
1349年8月12日、高師直は、直義を一気に追い落とすクーデターを仕掛けました。
禅僧の夢窓疎石(むそう・そせき)が仲介に奔走し、直義は出家して幕政からは退くこと、上杉重能・畠山直宗を配流とすること、の2条件のもとに師直は包囲を解くことを条件にクーデターは終息に向かいました。
4-④ 高師直による直義派・重臣の粛清
直義の失脚後、高師直は、直義派の主要人物に対する粛清を断行しました。
直義派の中心人物であった上杉重能(うえすぎ・しげよし)と畠山直宗(はたけやま・ただむね)らは捕らえられ、護送中に師直の意を受けた者たちによって謀殺されました。
4-⑤ 足利直冬(尊氏の庶子で直義の養子となる)の台頭
1349年、足利直冬(ただふゆ)は義父・直義を支援するため上洛を試みるも、尊氏の討伐命令で九州へ退き、そこで勢力を築きました。
直冬は、尊氏の出家と上洛という再度の命令にも従わず、南朝や少弐頼尚(しょうに・よりひさ)と連携して対抗。1350年には各地で直冬を担ぐ動きが広がり、尊氏は自ら備前へ出陣しました。
4-⑥ 1350年、直義、京都を脱出 ~観応の擾乱のはじまり~
1350年10月、尊氏が直冬討伐で西へ向かう隙に、直義は京都を脱出すると、畠山国清に迎えられて河内石川城に入城。直義は、高師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ、畠山国清、桃井直常(もものい・ただつね)らを味方に付けて決起しました。
同年12月、北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、直義は南朝と手を結びました。
※一般に、直義の京都脱出をもって観応の擾乱の開始とされています。
4-⑦ 1351年、直義軍の勝利と和睦 ~高師直・師泰の出家を条件に~
翌1351年1月、直義軍は京都に攻め込み、留守を預かる足利義詮(よしあきら)を破りました。
同年2月、直義軍は南朝を味方にし、「打出浜の戦い(うちではまのたたかい)」(現・兵庫県芦屋市)で尊氏軍を破り和睦へ。
和睦の条件として高師直・師泰の出家が求められ、尊氏はこれを受諾しました。
4-⑧ 1351年2月、高師直・師泰兄弟が暗殺
1351年2月、摂津の武庫川(現・兵庫県)付近で高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(よしのり)の軍勢により謀殺されました。
4-⑨ 1351年11月、「正平の一統(しょうへいのいっとう)」と尊氏の南朝和睦
1351年11月、尊氏は、直義に対抗するため一転して南朝と和睦しました(正平の一統)。
これにより、一時的に南朝が京都を掌握しました。
南朝の年号「正平」が全国で使われ、北朝の年号「観応」が廃止され、12月23日には南朝方が神器を回収し、実質的にこれは北朝方の南朝側への無条件降伏となりました。
4-⑩ 1352年、直義の死去
1351年12月、尊氏は直義追討のために出陣。
駿河国の「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)」で直義方を破り、翌1352年1月には鎌倉に追い込んで直義を降伏させました。
1352年2月26日、足利直義は幽閉されていた鎌倉で急死しました。
死因は病死とされていますが、尊氏による毒殺説が有力視されています。
※一般に、直義の死をもって観応の擾乱の決着とされています。
4-⑪ 1352年、正平の一統が終了し、新北朝が樹立
1352年、尊氏が直義を破り勢力を回復すると、南朝との和睦は破綻しました。
南朝に接収されていた三種の神器が偽物とされ、尊氏は持明院統の新たな天皇として後光厳天皇を擁立し、北朝を復活させました。
この一連の争乱は、室町幕府の創成期における最大の内部抗争であり、全国の武士団を「尊氏派と直義派(後に南朝と結びつく)」に二分し、南北朝の動乱をさらに長期化・複雑化させる決定的な要因となりました。
5. 1352年、「武蔵野合戦」 ~直義の死後、南朝勢が挙兵~
直義死去の翌月となる1352年閏2月に、南朝勢力(北畠顕能、新田義興・義宗兄弟、楠木正儀ら)は、室町幕府に対して大規模な攻勢を開始しました。
この挙兵には、上杉憲顕(のりあき)をはじめとする旧直義派の武将たちが多数加わりました。
また、児玉党・丹党・猪俣党・野与党・私市党・西党・横山党・村山党および熊谷氏らや、北条時行もこれに同調し、信濃で挙兵して鎌倉奪還を目指すなど、全国的に反幕府の動きが広がりました。
鎌倉街道上道(かみつみち)沿いの要衝「小手指原(こてさしがはら)」(所沢市)や、「笛吹峠(ふえふきとうげ)」(比企郡鳩山町付近)での激戦を経て、最終的に、尊氏が新田勢を破り、鎌倉を奪還して決着しました。
新田義興軍が鎌倉街道上道沿いの小手指原(現・所沢市)に陣を敷き、尊氏軍と激突。児玉党の奮戦で尊氏軍は一時退きました。
※児玉党の奮戦について:
新田軍は、饗庭命鶴丸(あえば・みょうつるまる)率いる尊氏方の「花一揆」部隊に対抗するため、児玉党7千騎を差し向けました。
児玉党の旗印が「扇(おうぎ)」であったことから、「児玉党の団扇の旗は花一揆を散らす風をはらむ(=扇の風で花を散らす)」という意味を込めての出陣でした。結果、児玉党は花一揆の進撃を食い止め、新田軍の戦線を支える決定的な働きを果たします。総大将・足利尊氏も、命からがら戦場を脱することとなりました。(※詳細はこちらへ)
尊氏軍は鎌倉街道上道沿いの笛吹峠(現・鳩山町・嵐山町境)で新田義宗軍に猛攻。兵力差が大きく、義宗軍は敗れて越後へ敗走しました。
この敗戦により、新田義宗(義貞三男)らは越後へ敗走。
北条時行は、1353年、鎌倉龍ノ口(現・神奈川県藤沢市)で足利氏に捕らえられ、処刑されました。鎌倉幕府滅亡からちょうど20年後の出来事でした。
武蔵野合戦は、尊氏が関東における支配権を確立し、「薩埵山体制」へと繋がる重要な転換点となりました。
6. 1352年、「薩埵山体制(さったやまたいせい)」の確立
観応の擾乱後、上杉憲顕は失脚し、関東執事は空位に。
足利尊氏は、「薩埵山の戦い」で功を挙げた畠山国清(はたけやま・くにきよ)を関東執事に任命し、宇都宮氏綱を越後・上野守護に、河越直重を相模守護に起用しました。
この体制は、若き鎌倉公方・足利基氏を支えるために整えられたもので、「薩埵山体制(さったやまたいせい)」と呼ばれます。
尊氏はこれにより、直義派を排除し鎌倉府の安定を図りました。
7. 1358年、尊氏死去 ~南朝勢が挙兵~
尊氏が没した半年後の1358年、新田義興(義貞の次男)は、時期到来と見て挙兵し、鎌倉を目指しました。
1358年10月、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、部下に命じて、新田義興(義貞次男)を、多摩川の「矢口の渡し」(大田区・地図)で謀殺しました。
その後、義興の怨霊を鎮めるため、現地には新田神社(東京都大田区)が建立されました。
この事件は、のちに平賀源内の浄瑠璃『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』の題材としても知られるようになります。
8. 1359年 畠山国清の失脚
1359年10月、足利尊氏の死後、嫡男・義詮が第2代将軍に就任し、南朝方の拠点である河内国討伐を決定しました。義詮は東国の足利基氏に援軍を求め、関東執事・畠山国清(くにきよ)が関東武士を率いて近畿へ向かいます。
表向きは南朝討伐でしたが、幕府内部では細川清氏と仁木義長の対立が激化しており、国清は細川清氏を支持しました。これに反発した東国の武士たちは次々と帰国し、遠征は行き詰まります。
※もともと関東から遠く離れた近畿での戦いに消極的だった東国の武士たちにとって、政争への巻き込まれは戦意をさらに削ぐものでした。
やむなく帰国した国清は、無断帰国した武士を処罰しましたが、これが反畠山勢力の結集を招き、鎌倉公方・足利基氏のもとで国清罷免の動きが起こりました。折しも幕府では細川清氏が失脚しており、国清もその影響で失脚したと考えられています。
9. 1361~1362年、伊豆で「畠山国清の乱」
畠山国清は失脚した事に我慢が出来ず、伊豆に籠城し反旗を翻しました。
1361年11月、足利基氏は兵を集め「岩松直国」らと共に、畠山国清討伐に向かう事になります。
畠山国清の乱は1362年まで続いた事が分かっており、激戦だった事がわかります。
1362年年9月に足利基氏が箱根に到着し、これにより畠山国清の乱は終結しました。
【※その後の畠山氏】
関東で反旗を翻した畠山国清の乱により、畠山一族は一時、幕府中枢から退くことになりました。
しかしその後、国清の弟の系統が近畿(京都)の幕府中枢で実力を示し、畠山氏は「三管領」という最高権力層の一角として、見事な復活を遂げます。
■ 「国清直系」の苦難
国清の子・畠山義清は、後に赦されて第3代将軍・足利義満に仕えましたが、最終的には再び追放され、直系は苦難の道を歩むことになりました。
■ 「弟・義深」による一族の再興
一方、一族の命脈をつないだのが、国清の弟・畠山義深(よしふか))です。
義深は、越前守護として復帰し、畠山氏の地位回復を着実に進めました。
■ 「三管領」への昇進
義深の子・畠山基国(もとくに)の代になると勢力はさらに拡大します。
基国は、越中・河内・能登の守護を歴任し、ついには幕府最高職である管領(かんれい)に就任しました。
こうして畠山氏は、細川・斯波と並ぶ「三管領」の一角として、足利一門の中でも屈指の名門へと成長したのです。
[参考]
10. 1363年、「苦林野合戦(にがばやしのがっせん)」 ~宇都宮氏綱の降伏~
畠山国清が失脚すると、1363年、初代鎌倉公方・足利基氏は、政治を安定させるため、直義派に属する上杉憲顕を関東管領に登用しました。
憲顕が基氏の執事として復帰するのは、実に11年ぶりのことでした。基氏はさらに、憲顕に越後守護職も与えたとされています。
これにより、上野国・越後国の守護職を務めていた宇都宮氏綱は罷免されます。
氏綱はこの処遇に強く反発し、家臣の芳賀禅可に命じて、上杉憲顕の迎撃を企てました。
これを受けて基氏は、氏綱討伐のため自ら出陣し、苦林野(現在の埼玉県毛呂山町)に布陣します。そして岩殿山(現在の東松山市)において宇都宮勢を撃退し、戦いは基氏方の勝利に終わりました。
『新編武蔵風土記稿』(巻之172・入間郡之17)には、「苦林野古戦場」の絵が描かれています。
この地は、1363年に鎌倉公方・足利基氏と、上野・越後守護代・芳賀禅可の軍勢が激突した「苦林野合戦」の舞台です。
絵図の中央には前方後円墳が描かれており、伝承によれば、芳賀禅可はこの小塚の上から基氏の陣を見渡したとされています。
また、その墳頂には石碑が立っており、これは苦林野合戦の供養塔と伝えられています。
この供養塔は、文化10年(1813年)、地元の人々によって建立されたものです。

※岩松直国(ただくに)について
● 『太平記』には、「苦林野合戦」で、敵に狙われた基氏を救うため、家臣の岩松直国(ただくに)は自らの鎧を基氏と交換し、身代わりとなって奮戦したという逸話が記されています。(※こちらへ)
● 岩松直国は岩松氏の中興の祖とされる人物で、「直義派」でした。
直国の妻は、直義方の重臣・上杉憲顕の娘であり、政治的にも直義との結びつきが強かったことがうかがえます。また、直国の兄・岩松経家(つねいえ)は、1335年の「中先代の乱」において足利方として参戦し、北条時行軍との戦いで戦死しました。
このとき、経家の嫡子・泰家はまだ幼かったため、叔父である直国がその成長まで岩松氏の家督を預かることになりました。
11. 1368年、「武蔵平一揆(むさし・へいいっき)」 ~薩埵山体制の終焉~
① 1363年、足利基氏が直義派に属する上杉憲顕を関東管領に登用すると、武蔵国を中心とする有力国人(平姓氏族)たちの強い反発を招きました。かつて排除した直義派である上杉氏の復活は、国人たちにとって、薩埵山体制のもとで築いてきた政治的優位や所領支配を揺るがしかねない大きな脅威だったのです。
② 1367年、鎌倉公方・足利基氏と、将軍・足利義詮が相次いで死去します。
③ 翌1368年、上杉憲顕が京都に滞在している隙を突いて、河越直重や高坂氏が中心となって、武蔵・相模・伊豆の国人たちが蜂起しました。
この反乱には、新田義貞の三男・新田義宗(よしむね)ら南朝勢力も加わり、大規模な一揆へと発展します。
義宗は上野国沼田荘で戦死しました。
④ その後、幼少の上杉氏満に代わり、憲顕の甥・上杉朝房(ともふさ)が河越へ出陣し、反乱の鎮圧にあたりました。
⑤ 一揆は最終的に幕府方によって鎮圧され、武蔵・相模の有力国人勢力は大きな打撃を受けました。
これにより、国人層が主導してきた「薩埵山体制」は事実上崩壊。
関東における支配の主導権は、鎌倉公方と関東管領を中心とする体制へと再編されていきます。
12. 南北朝の統一(1392年)
室町幕府3代将軍である足利義満が1392年(明徳3年)に、南朝の「後亀山天皇」が、北朝の「後小松天皇」へ譲位することで南北朝を統一しました。
この統一は「明徳の和約」と呼ばれ、これにより約56年間にわたった朝廷の分裂状態は終結しましたが、約束されていた皇位の交互継承は行われず、北朝の系統がそのまま継承されました。
◆【室町中期~戦国時代】南北朝の統一(1392年)後も続く争乱
南北朝の統一は、関東に平和をもたらすどころか、新たな争いの幕開けでもありました。
上杉氏を中心とする「関東管領体制」に対し、各地の武士たちが反発を強めていきます。
上杉禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱、関東は次々と戦乱に巻き込まれ、やがて北条早雲の台頭を許すことになります。
この一連の争いは、室町幕府の支配が関東でいかに不安定であったかを物語っています。
桃井直常の時代に始まった関東の混乱は、百年を超えて続いていくのです。
上杉家は、「清子」が足利尊氏・直義兄弟の生母であったことから、足利家と極めて近い親戚関係(外戚関係)にありました。
1. 上杉禅秀の乱(1416~1417年)
犬懸上杉家 上杉禅秀(氏憲) VS. 鎌倉公方 足利持氏
■ 背景
・当時、関東を治めていた鎌倉公方 足利持氏と、関東管領を務めていた犬懸上杉家の当主 上杉禅秀(氏憲)の間には、深刻な対立がありました。
・さらに、上杉氏内部でも「犬懸家」と「山内家」という二大勢力の間で、権力争いが続いていました。
・足利持氏は禅秀を冷遇し、関東管領の地位を奪って山内上杉家の上杉憲基を任命します。これに反発した禅秀は、1416年に政治的実権を取り戻そうと挙兵しました。
■ 結末と影響
しかし、室町幕府4代将軍・足利義持が持氏を支援したことで形勢は逆転し、禅秀は敗北。
翌1417年、上杉禅秀は自刃し、「犬懸上杉家」は没落しました。
この乱は、のちの関東の動乱時代の幕開けとなりました。
2. 永享の乱(1438年)
鎌倉公方 足利持氏 VS. 将軍 足利義教 + 関東管領 上杉憲実(山内上杉氏)
6代将軍足利義教に反発した鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)が挙兵し、関東管領・上杉憲実(山内上杉氏)は幕府側としてこれに対抗しました。
幕府の追討軍により敗れ、翌1439年に持氏は自害しました。
3. 結城合戦(1440~1441年)
結城氏ら反幕府・反上杉氏勢力 VS. 上杉氏・関東の親幕府勢力
■ 戦いの発端
・永享の乱の後、関東管領・上杉氏が実権を握ったことに対し、関東の武士たちの間で反発の機運が高まりました。
・1440年、下総国の結城氏朝(ゆうき・うじとも)らが、鎌倉公方・足利持氏の遺児(春王丸・安王丸)を擁して幕府に反旗を翻しました。
・結城氏朝は、遺児たちを「結城城」(現・茨城県結城市)に迎え入れ、宇都宮等綱(ともつな)・小山広朝・那須資重・佐竹義人(よしひと)らが味方しました。
■ 結果
・幕府は、上杉憲実を総大将とし、関東の親幕府勢力に加え、信濃の小笠原氏、甲斐の武田氏、越後の長尾氏らを動員して結城城を包囲しました。
・翌1441年、「結城城」は陥落し、氏朝は自害。春王丸・安王丸の兄弟も捕らえられ、処刑されました。
4. 享徳の乱(1455~1483年/28年間)
古河公方 足利成氏 VS. 室町幕府 + 上杉氏(山内上杉氏・扇谷上杉氏)
■ 戦いの発端
・1455年、鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が、関東管領・上杉憲忠(山内上杉氏)を謀殺したことがきっかけで、幕府は成氏討伐を決定。28年にも及ぶ長期の内覧「享徳の乱(きょうとくのらん)」が勃発しました。
■ 結果
・同年、成氏は本拠を下総国古河に移し、「古河公方」を名乗ります。
・一方、上杉方は本庄市の「五十子陣(いかっこじん)」を拠点に、1459年から1477年まで約20年間にわたり攻防「享徳の乱」を続けました。
・1477年には、長尾景春が五十子陣を急襲し、上杉方は大敗。
・最終的に、1483年に古河公方と幕府が和睦し、乱は終結しました。
■ 戦後の影響
・この戦いは、関東における「戦国時代の幕開け」とされ、応仁の乱(1467年)よりも早く、関東ではすでに戦乱が始まっていたことを示しています。
5. 長尾景春の乱(1476~1480年)
長尾景春 + 古河公方 VS. 上杉氏(山内・扇谷)
■ 戦いの発端
・1473年、山内上杉家の家宰・長尾景信(白井長尾家)が五十子陣で死去しました。
・白井家は2代にわたり家宰職を務めており、その勢力の拡大を警戒した上杉顕定は、景信の子・長尾景春ではなく、惣社長尾家の長尾忠景を新たな家宰に任命しました。
・この人事に強く反発した景春は、1476年に挙兵。翌年には「五十子陣(本庄市)」を急襲し、山内上杉顕定・扇谷上杉定正を撃破しました。
■ 結果
しかし、太田道灌の活躍により景春軍は次第に劣勢となり、最終的には鎮圧されました。
6. 長享の乱(1487~1505年/18年間)
山内上杉氏 VS. 扇谷上杉氏
■ 戦いの発端
・1486年、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が、主君・扇谷上杉定正によって暗殺されたことが発端です。
・道灌の死後、太田家の人々は扇谷家を離れ、山内上杉家に仕えるようになりました。
・山内上杉家の当主・上杉顕定は、勢力を拡大していた扇谷家を警戒しており、太田家の離反を好機と見て、扇谷上杉家への攻撃を開始。
・これが関東一円を巻き込む両上杉家の内戦「長享の乱」へと発展しました。
■ 結果
・1505年、山内上杉顕定が越後勢を率いて「河越城」を包囲したことで、両家の間に和睦が成立。
18年にわたる戦いはようやく終結しました。
■ 戦後の影響
・この戦乱により、山内・扇谷両上杉氏の勢力は大きく衰退し、のちに北条早雲をはじめとする後北条氏の関東進出を許すきっかけとなりました。
6. 河越夜戦(1546年)
扇谷上杉氏 + 山内上杉氏 + 古河公方連合軍 VS. 北条軍
■ 戦いの発端
・1537年、扇谷上杉朝興が死去し、若年の朝定が家督を継ぎました。
・これを好機と見た北条氏綱はただちに攻勢をかけ、河越城を奪取。これにより、北条氏は武蔵国支配を確立しました。
・朝定は北方の松山城へと退き、以後、「河越城」は北条氏による武蔵支配の拠点となりました。
■ 連合軍による河越城包囲
・1545年、「山内上杉氏(上杉憲政)」・「扇谷上杉氏(上杉朝定)」・「古河公方(足利晴氏)」らによる約8万の連合軍が、北条方の「河越城」を包囲しました。
・城を守っていたのは北条綱成で、わずか3,000の兵で籠城していました。
■ 奇襲と勝利
・天文15年(1546年)4月20日の夜、北条氏康が救援に駆けつけ、敵陣に夜襲を仕掛けて大勝利を収めました。この戦いは、「桶狭間の戦い」「厳島の戦い」と並び、「日本三大奇襲」の一つとされています。
■ 戦後の影響
・扇谷上杉朝定は討死し、扇谷上杉氏は滅亡しました。
・山内上杉憲政は平井城から撤退し、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼りました。
憲政は景虎に「上杉家の家督」と「関東管領職」を譲り渡します。
・古河公方・足利晴氏も権威を失い、勢力を大きく後退させました。
・この戦いにより、後北条氏による関東制圧はほぼ完成し、戦国時代の関東は「上杉・北条・武田」の三つ巴の構図へと移行していきました。
■ 北条氏の台頭~豊臣秀吉による「小田原征伐」へ
「上杉禅秀の乱」や「享徳の乱」といった内乱を経て、関東は一足早く戦国時代へと突入します。
「河越夜戦」で北条氏が台頭し、最後は豊臣秀吉の「小原田征伐」によって時代が塗り替えられていきました。
■ 幕末へ
戦乱が落ち着いた江戸時代、中瀬河岸は水運の拠点として栄え、物や人だけでなく、最先端の情報も行き交うようになりました。
かつて戦場であった利根川右岸の北阿賀野や中瀬の地は、やがて学びの場へと姿を変え、桃井可堂先生や渋沢栄一翁のような、言葉と行動で時代を切り拓いた先駆者たちを育む土壌となっていきました。
■ 深谷上杉氏の系譜
可堂先生のふるさとを形づくったもう一つの歴史の流れに、室町から戦国にかけて活躍した「深谷上杉氏」の存在があります。
深谷上杉氏は、関東管領を務めた山内上杉家の流れをくむ名門で、室町から戦国にかけてこの地を治めました。
◆庁鼻和城・深谷城の築城~河越夜戦まで
●「庁鼻和城(こばなわじょう)」の築城
貞治2年(1363年)、関東の治安維持のため、山内上杉家3代当主で初代関東管領でもある上杉憲顕(のりあき)の六男・上杉憲英(のりふさ)が「庁鼻和城(こばなわじょう)」を築きました。
憲英(のりふさ)は、深谷上杉氏の初代とされています。
●「深谷城(ふかやじょう)」の築城
康正2年(1456年)、享徳の乱(1454〜1482年)で古河公方と上杉氏の対立が激化したことを受け、5代当主・深谷上杉房憲は防備を強化するため、庁鼻和城から「深谷城」へと本拠を移しました。
これ以降、「深谷上杉氏」を名乗るようになります。
●「河越夜戦」と北条氏への降伏
天文15年(1546年)、深谷上杉氏は扇谷上杉家とともに武蔵国で勢力を保っていましたが、「河越夜戦」で扇谷上杉朝定が北条氏康に敗れて滅亡。8代当主・深谷上杉憲盛(のりもり)も北条氏に降伏しました。
その後、深谷上杉氏は北条氏と上杉謙信の間で帰属をたびたび変えます。
◆上杉謙信との関係と領地争い
・永禄2年(1559年):
上杉謙信が関東へ出兵し、8代憲盛はこれに従いました(上杉謙信派)。
・永禄3年(1560年):
金山城の由良氏と領地をめぐって争い、深谷市石塚で「石塚合戦」が起きました(上杉謙信派)。
・永禄5年(1562年):
再び由良氏と争い、本庄市小和瀬(こわぜ)で、「小和瀬合戦」が発生。
由良氏が勝利しました(上杉謙信派)。
・永禄8年(1565年):
北条軍が深谷城を攻撃し、8代憲盛は北条氏に従属しました(北条氏派)。
・永禄12年(1569年):
上杉謙信と北条氏政が「越相同盟」を結び、8代憲盛は再び上杉謙信に帰属しました。
◆戦乱の激化と深谷上杉氏の動向
・元亀元年(1570年):
武田軍が上野国から武蔵国へ進出。
・元亀2年(1571年):
北条氏康の死去により「越相同盟」が破棄されました。
・元亀3年(1572年):
北条氏と武田氏が「甲相同盟」を結び、8代憲盛は引き続き上杉謙信に属していたため、北条氏と敵対関係となりました(上杉謙信派)。
・元亀4年(1573年)2月:
北条軍が深谷城を攻撃し、8代憲盛は敗北。のちに北条氏と和睦しました(北条氏派)。
・同年4月:
武田信玄が死去。
・天正3年(1575年):
8代憲盛が死去しました。
◆北条氏への帰属と深谷上杉氏の終焉
・天正6年(1578年):
9代当主・氏憲は北条氏政の養子となり、その娘と結婚。深谷上杉氏は小田原北条氏の体制下に組み込まれました(北条氏派)。
・同年:
上杉謙信が急死し、養子の上杉景勝と景虎(北条氏政の実弟)との間で「御館の乱(おたてのらん)」が勃発。
武田勝頼は当初中立を保ちましたが、最終的に景勝側に味方し、景虎は自害しました。
これにより、北条・武田の「甲相同盟」は破棄されました。
・天正8年(1580年):
「金山城」が武田勝頼に攻められました。
・天正10年(1582年):
9代氏憲は北条氏直に従い、神流川で滝川一益と戦いました。
・天正11年(1583年):
金山城主・由良国繁と弟・長尾顕長が北条氏により小田原に幽閉されました。
・天正12年(1584年):
由良氏は北条氏に降伏し、「金山城」は落城。
由良国繁は桐生城へ、長尾顕長は足利城へ退去し、所領は大幅に削減されました。
・天正18年(1590年):
豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅亡。
深谷上杉氏も所領を失い、深谷城主としての歴史を終えました。
・9代氏憲は同族の上杉景勝を頼り、子の憲俊とともに信州へ隠居しました。
◆深谷上杉氏のその後
・8代憲盛の次男・吉次(よしつぐ)の長男「盛吉(もりよし)」は「深谷氏」を名乗り、徳川家康に仕え、江戸幕府の旗本として明治維新を迎えました。吉次の子孫に、旗本最高役職とも言われる大目付の深谷盛房がいます。
・8代憲盛の三男・憲国(のりくに)は水戸藩士となり、娘は水戸藩初代藩主・徳川頼房の六男である松平頼利に嫁ぎ、2代宍戸(ししど)藩主・松平頼道をもうけました。
※また、憲国は、9代氏憲の養子となっています。
・9代氏憲の長男・憲俊(のりとし)は池田輝政に仕え、岡山藩士となりました。
◆「深谷城」のその後 〜1634年、178年続いた深谷城が廃城〜
【江戸時代・歴代藩主一覧】
●長沢松平家
・初代:松平康直(在任:1590〜1593年)※家康の異母妹・矢田姫の子(家康の義理甥)
・2代:松平松千代(在任:1594〜1599年)※家康の七男
・3代:松平忠輝(在任:1599〜1602年)※家康の六男
→ 1602年、忠輝は下総佐倉藩へ転封。一時的に深谷藩は廃藩となりました。
●酒井家
・酒井忠勝(在任:1622〜1627年)
→ 1627年、忠勝は川越藩へ移封され、深谷藩は再び廃藩となりました。
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天正18年(1590年)、深谷城の開城後、徳川家康の譜代家臣である松平康直が入城し、「深谷藩」が立てられました。
その後、家康の七男・松千代、六男・忠輝、さらに松平忠重、酒井忠勝らが相次いで入封しました。
寛永4年(1627年)、酒井忠勝が川越藩へ移封されたことにより、「深谷藩」は廃藩となります。
さらに寛永11年(1634年)には、178年続いた深谷城が廃城となりました。
◆深谷上杉氏ゆかりの城と墓所
■ 庁鼻和城(こばなわじょう)築城と「国済寺」
深谷市国済寺の「庁鼻和城(こばなわじょう)」は、もともと鎌倉時代の御家人・庁鼻和左衛門の館跡に、室町幕府の関東管領・山内上杉憲顕(のりあき)が、六男の憲英(のりふさ)を派遣し、築かせた城です。
現在の「国済寺(こくさいじ)」を中心に築かれ、総面積はおよそ28ヘクタールにおよぶ広大な規模を誇りました。城の東側には鎌倉街道が通り、新田義貞が鎌倉攻めの際に進軍した道でもありました。
深谷上杉憲英(のりふさ)は1390年、この城内に「国済寺」を開創しました。
■ 上杉憲英(のりふさ)と深谷上杉氏歴代の墓
国済寺には、「上杉憲英の墓」を中心に、「深谷上杉氏の歴代の墓」が並んでいます。
憲英の墓の左右には石塔が整然と並び、これらは深谷上杉氏一族の墓と伝えられています。
正面に向かって右手、最上座にあるものが2代憲光の墓、3番目が6代憲清の墓とされています。
【参照】
・深次郎HP「深谷の中世史 ~深谷上杉氏に関係した深谷市内の史跡・神社仏閣(2)~」

■ 深谷城築城と「昌福寺」 ~5代房憲の墓・8代憲盛の墓~
1456年、深谷上杉氏の5代・上杉房憲(ふさのり)は、「深谷城」を築きました。
その築城にあたって、仙元山を背に「人見山 昌福寺(しょうふくじ)」を開基し、寺は代々の深谷上杉氏から厚く信仰されてきました。
9代・上杉氏憲(うじのり)は、昌福寺に寺領を寄進し、その庇護をさらに深めました。
境内には、1846年に深谷上杉氏の子孫によって建立された「昌福禅寺上杉氏先瑩碑(せんえいひ)」があり、深谷上杉氏の歴史が簡潔に刻まれています。
本堂裏の庭園は、深谷市の名勝で、仙元山麓(別名・人見山)を生かした禅宗庭園で、室町時代の造園といわれています。
また、本堂の左手には、深谷上杉氏5代・房憲(ふさのり)と、8代・憲盛(のりもり)の墓とされる、二基の「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が並んでいます。
◆桃井可堂先生や渋沢栄一翁のような人物は、なぜこの地から生まれたのか
利根川右岸の歴史と関東の争乱を見つめてきたとき、そこには、氾濫のたびに流路を変える「暴れ川」としての利根川の姿がありました。ここに暮らす人々は、常に命の危険と隣り合わせで生きる一方で、川からの大きな恵みも受け取ってきました。
さらに、この地には、国境ゆえの緊張感と、水運に支えられた暮らしの営みが、複雑に交差していました。
上野国と武蔵国の境界に位置し、戦国期には上杉・北条・武田の勢力がせめぎ合う最前線となり、江戸時代には、水運の拠点として栄え、物資や人、そして知が行き交う場となっていきます。
こうした土地の特性と歴史の積み重ねが、やがて「志」を育む土壌となり、
桃井可堂先生や渋沢栄一翁のような、言葉と行動で時代を切り拓いた傑出した人物を生み出したのではないかと思われます。
境界に生きるということは、常に変化と対話の中に身を置くこと。
そのしなやかさとしぶとさ、そして過去を悼み、静かに鎮魂する心こそが、この土地に根づく人々の気質なのかもしれません。

















































