~明治新政府の "屋台骨" を支えた島村の偉人・金井之恭の墨蹟~
本庄古美術愛好会様・深谷上杉郷土史研究会様・境史談会様による企画展
(2026年5月3日・5月31日、旧島村小学校体育館にて)
先日、伊勢崎市境島村の旧島村小学校体育館で公開された、巨大石碑「大日本帝国立憲頌徳碑(だいにほんていこく りっけんしょうとくひ)」の拓本を見学してきました。
本庄古美術愛好会会長の塩原浩行さんからご案内をいただき、5月3日と5月31日の両日とも拝見することができました。
会場に足を踏み入れてまず、拓本の大きさに驚きました。
もともとは、高さ約9メートルの石碑として計画されたものとのことで、その文字を写し取った拓本もこれまでみたことのない大きさでした。
◆「大日本帝国立憲頌徳碑」の拓本とは?
「大日本帝国立憲頌徳碑(だいにほん りっけんしょうとくひ)」は、明治22年(1889年)に、大日本帝国憲法が公布されたことを記念して建立が計画された、巨大石碑です。
巨大石碑「大日本帝国立憲頌徳碑」 ※高さ約9m
■ 書:金井之恭(1833~1907年)明治政府官僚
■ 撰文:川田 剛(1830~1896年)漢学者・号:甕江
■ 篆額:小松宮彰仁親王(1846~1903年)
■ 刻字:廣群鶴(こうぐんかく)江戸随一の石匠の一門(江戸の谷中に店を構えた)
■ 建碑発起人:依田徳雲(旧水戸藩・諸生党)
「大日本帝国憲法」とは?
大日本帝国憲法とは、明治22年(1889年)2月11日(現在の「建国記念の日」)に公布された、
日本最初の近代憲法です。
伊藤博文を中心に欧州の調査を経て作られ、天皇が主権を持つ「君主権」の強いドイツ(プロイセン)憲法をモデルにしています。
この憲法では「天皇主権」が敷かれ、天皇に強い権限が与えられた一方で、
「帝国議会」が設置されて日本に議会政治が導入されました。
1947年に「日本国憲法」が施行されるまで日本の国家の基本法として機能しました。
※日本国憲法では、天皇は「国の象徴」へと変わり、主権者は「国民」へと移行しました。
◆金井 之恭(かない しきょう)について [1833~1907年]


■ 明治新政府の "屋台骨" を支えた島村の偉人
金井之恭(かない しきょう)は、明治期の政界で活躍した人物です。
幕末は、父・金井烏洲(かない うじゅう)や、
高山彦九郎の影響を受け、尊皇攘夷の志士として活動しました。
討幕挙兵(出流山事件など)に加わり投獄されましたが、新政府軍によって救出。
明治維新後には、東京府市政局に出仕。
その後、太政官に転じてからは書記(実務官僚)としての手腕を発揮してキャリアを積みました。
大久保利通の側近としても深く信頼され、大久保の清国派遣の際には随行員として外交の舞台でも活躍しました。
明治18年(1885年)に内閣制度が発足してからは、内閣大書記官として行政事務をつかさどりました。
その後、明治21年(1888年)には元老院議官に就任。
明治23年(1890年)に元老院が廃止されると非職となり、錦鶏間祗候(きんけいのましこう)を仰せ付けられました。
明治24年(1891年)には貴族院勅選議員となるなど、明治新政府の屋台骨を支えました。
また、之恭は、ずば抜けた書道家としても名高く、
明治天皇が大久保利通の邸宅に行啓した際には、金井之恭と日下部鳴鶴がともに席書(集会などの席で、即興的に書画をかくこと)を行うなど、官僚として多忙を極める傍ら、明治書壇の重鎮としても活躍しました。
余暇があれば、郷里の島村に戻り、本庄や妻沼付近で開かれた書画会にも来賓として参加し、父烏洲と親交のあった地元書画家との親交を持ち続けていました。
中央で要職を務める傍ら、余暇には郷里である島村へと熱心に足を運んでいました。
本庄や妻沼付近で開かれた書画会には来賓として招かれて書を奮い、父・烏洲と親交のあった地元書画家たちとの温かい交流を生涯大切にし続けました。
その縁は、今も本庄に残っています。
「本庄まつり」の山車では、
上町の山車に掲げられた町名額「上街」の文字は、金井之恭によって揮毫されたものです。
なお、台町(薹町)の町名額「薹街」は、尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)、
本町の町名額「本町」は、之恭の上司でもある福羽美静(ふくば びせい)によるものです。
上町の山車(人形:神功皇后)と、金井之恭揮毫による町名額「上街」
台町の山車(人形:神武天皇)と、尾高惇忠揮毫による町名額「䑓街」
本町の山車(人形:石橋)と、福羽美静揮毫による町名額「本町」
※〈祭礼の時に床の間に掛ける「金鑚神社」軸について〉
上町は、松平定信によるものです。
本町と台町の軸は、中沢雪城(巻菱湖の優れた門弟:菱湖門下の四天王)によるものです。
中沢雪城は、幕末の書家・巻菱湖(まき りょうこ)の優れた門弟であり、「菱湖門下の四天王」の一人に数えられます。
金井之恭(かない ゆきやす)の師匠であるとともに、西川春洞(にしかわ しゅんどう)、さらには、諸井春畦(もろい しゅんけい)・華畦(かけい)へと受け継がれました。
◆金井之恭は、烏洲(うじゅう)の四男として島村で生まれる
金井之恭(かない しきょう)は、天保4年(1833年)、上州佐位郡島村(現在の伊勢崎市境島村)に生まれました。
父は、関東の南画家として名声を得た金井烏洲(かない うじゅう)です。
母は、武州新戒村(深谷市)の名家・福島熈周(ふくしま ひろのり)の長女・紀伊です。
之恭は、烏洲と紀伊の四男として生まれました。
之恭の兄に、「杏雨」(烏洲の次男)と、川越(高沢町)の名主・井上家の養子となった「良(芸林)」(烏洲の三男)がいます。
※母の実家新戒村の福島家は、新戒村の名主を務めるとともに、幕府の「野廻役」を任されていた名家です。
福島熈周(ふくしま ひろのり)の二人の娘が、島村の金井家に嫁いでいます。
● 長女の紀伊(きい):金井烏洲の妻
● 次女の不天子(ふてこ):金井研香(烏洲の弟)の妻
【之恭の師匠の方たち】
烏洲の家には、中沢雪城(書)、藤森弘庵(儒学)、寺門静軒(儒学)、渋沢誠室(書)といった、
当時の知識人が出入りし、少年・之恭は自然と学問と書の世界に触れていきました。
● 中沢雪城(なかざわ せつじょう):書
江戸時代後期から幕末にかけて活躍した書家です。
越後長岡藩士の次男として誕生後、江戸に出て、幕末の三筆・巻菱湖(まき りょうこ)に師事しました。
師の流麗な書風を忠実に受け継ぎ、「菱湖門下の四天王」(萩原秋巌・中沢雪城・大竹蒋塘・生方鼎斎)の一人に数えられました。
のちに自らも塾を開き、明治の書道界を牽引した金井之恭や、巌谷一六、西川春洞(諸井春畦の師匠)などを育て上げました。
● 藤森弘庵(ふじもり こうあん):儒学者
ペリー来航時に『海防備論』を著すなど激しい尊王攘夷思想を持っていた人物です。
安政の大獄の際、江戸を追放処分となった弘庵は、烏洲を頼って金井家の本拠地である島村に、一時期隠れ住んでいました。
● 寺門静軒(てらかど せいけん):儒学者
漢文で当時の江戸の様子を活写した『江戸繁昌記』の著者として非常に有名です。この本がベストセラーになったものの、風俗を乱すとして江戸を追放され、各地を転々としながら暮らしまし
『江戸繁昌記』の著者として知られる寺門静軒も、幕府を風刺したことで江戸追放処分となり、各地を流転した儒学者です。上武地域(群馬・埼玉周辺)を流転していた静軒は、烏洲のもとをしばしば訪れ、匿われていました。
安政6年(1859年)には、武蔵国妻沼(現・埼玉県熊谷市)に私塾「両宜塾(りょうぎじゅく)」を開きました。晩年は、親交の深い冑山(熊谷市)の根岸家に身を寄せ、そこにある「三余堂(さんよどう)」にて指導していました。根岸家の近くには、寺門静軒の墓があり、市の指定文化財になっています。
なお、両宜塾は、慶応3年(1867年)、静軒が妻沼を去った後も門人達によって引き継がれ、明治5年(1872年)の学制発布まで続けられました。
両宜塾からは多くの著名人が排出され、日本最初の女性医師の荻野吟子(1851~1913年)もその中の一人です。
● 渋沢誠室(しぶさわ せいしつ):東の家・3代目宗助
渋沢誠室は、渋沢栄一翁の伯父にあたり(※系図はこちらへ)、深谷の地で優れた書家として名を馳せた人です。
誠室が暮らした血洗島と、金井烏洲の住む島村はごく近い距離にあり、互いの往来もしやすい環境にありました。
誠室は、烏洲より2歳年上で、蚕桑に従事するかたわら、渋沢仁山に師事して書を磨き、やがて私塾を開くほどの腕前となりました。能書家として知られ、烏洲のアトリエ「呑山楼(どんさんろう)」にもしばしば出入りしていたと伝わります。
金井之恭は、こうした誠室のもとで書や学問を学び、多くの影響を受けました。
【高山彦九郎への敬愛】
之恭は、幕末の志士たちに大きな影響を与えた「寛政の三奇人」の一人、高山彦九郎(たかやま ひこくろう)の不屈の生き様を深く尊敬していました。
高山彦九郎は、上州新田郡細谷村(現・群馬県太田市)出身の尊王思想家です。
先祖が新田義貞の家臣の末裔であったことから、若い頃から勤王の志を抱くようになりました。
( 彦九郎の先祖である高山遠江守重栄は、新田義貞の直属部隊である「新田十六騎」の一人に数えられた猛将でした。)
彦九郎は、全国各地を巡って尊王の思想を説き、その足跡を紀行日記として残しています。
18歳で京都に上った際、三条大橋のたもとで皇居に向かってひざまずき、涙を流しながら拝礼した話は広く知られています。
之恭は、金井家が新田一門・岩松氏の分家の末裔であり、父・烏洲も、彦九郎を深く敬愛していたことから、之恭も若い頃から彦九郎が掲げた尊王の理念に強く傾倒していきました。
■『高山操志(たかやまそうし)』の編纂
『高山操志』は、高山彦九郎を深く敬愛する金井之恭が、その事績と不屈の志を後世に伝えるため、「木崎宿」に滞在していた時代に編纂した書物です。
高山操志には、彦九郎にゆかりのある名士たちの詩文が数多く収録されています。
明治維新を経て之恭が明治新政府に出仕した後の明治2年(1869年)に出版されると、大きな反響を呼び、大変な評判となりました。
[参考]
◆ 金井之恭(烏洲の四男)から広がる系譜
金井烏洲の四男・金井之恭(かない しきょう)の家系では、長女・キンの婿養子として、信州出身で後に鉄道大臣となる小川平吉が迎えられました。
キンと小川平吉の間に生まれた次女・ことは、広島県出身の宮沢裕に嫁ぎます。
その長男こそが、第78代内閣総理大臣・宮澤喜一であり、之恭の曾孫にあたります。
さらに宮澤家の系譜は、現代にもつながります。
宮澤喜一の孫には、現在NHK大河ドラマ『秀吉兄弟!』で、豊臣秀吉(池松壮亮さん)と秀長(仲野太賀さん)の姉・とも役を演じている宮澤エマさんがいます。
また、宮澤喜一の弟・宮澤弘の妻は、第100・101代内閣総理大臣・岸田文雄の母にあたります。
■ 金井家・宮澤家と柳田家・諸井家のつながり
※補足として、金井之恭の系譜は柳田家・諸井家とも深く結びついています。
宮澤弘の長男・洋一の妻は、日本航空初代社長・柳田誠二郎の孫娘です。
柳田誠二郎の母・柳田さとの妹は、諸井時三郎の妻であるくら(華畦)で、
誠二郎自身は13歳のときに諸井時三郎(春畦)の養子となり、のちに柳田姓へ戻っています。

実は、戸谷八にも、金井之恭の書が残されています。
そのため、以前から親しみを感じていた方なのですが、今回この巨大な拓本を目の前にして、
改めてその筆力の見事さに感動しました。
◆なぜこれほど巨大な石碑の建立が計画されたのか?
◆高さが約9メートルの巨大石碑



今回公開された巨大拓本のもともとの石碑は、高さが約 9 メートルにも及ぶ巨大なものだったと言われています。
現在、埼玉県や群馬県内で知られる大きな顕彰碑と比べても、さらに数メートル高い規模です。
・「藍香尾高翁頌徳碑」(約4.5m/篆額:徳川慶喜、撰文:三島毅、書:日下部東作)
※埼玉県深谷市下手計の鹿島神社内
・「烏洲金井先生碑」(約4.7m/篆額・撰文・書:渋沢栄一翁)
※群馬県伊勢崎市華蔵寺公園内
ところが、その石碑を実際に見た人はほとんどいません。
なぜなら、この石碑は完成しながらも、ついに建てられることがなかったからです。
今回、旧島村小学校の体育館で公開された拓本は、「存在したはずなのに存在しなかった巨大石碑」の痕跡なのです。
なぜこれほどの石碑が計画されたのでしょうか?
◆本庄古美術愛好会・深谷上杉郷土史研究会・境史談会の皆さんによる調査結果より


今回の拓本公開にあわせて、深谷上杉・郷土史研究会 会長の奥田豊さんと、本庄古美術愛好会会員・境史談会会員の荻野晴恵さんが丹念に調査された、たいへん充実した説明書を拝読しました。そこには、この巨大石碑がたどった数奇な運命が克明に記されており、読み進めるほどに驚かされました。
巨大石碑の背景を知れば知るほど、この拓本は、明治という時代そのものを映し出す貴重な歴史資料なのだと実感します。
以下では、本庄古美術愛好会・深谷上杉郷土史研究会・境史談会の皆さんがまとめられた調査資料に沿って、その内容をご紹介していきます。
1. なぜ巨大な石碑が計画されたのか
この拓本の一行目には、「大日本帝国立憲頌徳碑(だいにほんていこく りっけんしょうとくひ)」と書かれています。この石碑は、明治23年(1890)に開設されることになった帝国議会を記念するために計画されたものとのことです。
現在の私たちにとって、国会の存在はあまりにも当たり前ですが、当時の人々にとってはそうではありませんでした。江戸幕末までの日本は、将軍や藩が政治を担う時代でした。
しかし明治維新を経て憲法が制定され、国会が開設されることになります。
それは、日本が近代国家へと歩み始めたことを象徴する大きな出来事でした。
その歴史的な節目を後世に伝えようとして計画されたのが、この「大日本帝国立憲頌徳碑」だったのです。
この壮大な計画を進めたのは、旧水戸藩士(諸生党)の依田徳雲(よだ とくうん)という人でした。
本庄古美術愛好会の皆さんの調査によれば、依田徳雲は、国会開設の意義を後世へ伝えるため、上野公園への巨大石碑建立を目指していたといいます。
さらに、日野市郷土資料館に残る資料を見ると、その計画は想像を超える規模でした。
2. 壮大な記念碑計画
明治22年(1889年)2月11日に、大日本帝国憲法が公布され、
明治23年(1890)11月29日、第1回帝国議会が開会し、大日本帝国憲法が施行されました。
依田徳雲(旧水戸藩士)が最初にこの計画を立ち上げたのは、国会(帝国議会)が開設される直前の、
明治23年(1890年)2月とのことです。
徳雲の計画は、単なる石碑ではなく、「記念碑閣」という巨大な3層構造のビル(タワー)を、上野公園や皇居周辺(宮城門外)に建てるという、極めて壮大なものでした。
● 第一層:約27メートル四方の巨大な石積みの土台を築き、第一層に記念碑を設置。
● 第二層:当時の政治家など「名士の肖像」を並べた憲法記念碑。
● 第三層:「貴人が憲法を開いている姿の銅像」を載せ、周囲を電灯でライトアップする。
徳雲は、この大プロジェクトのために全国で「義捐金(寄付金)」を熱心に集めて回っていました。
賛同者には、勝海舟や伊藤博文、三条実美、岩倉具視をはじめ、当時の政財界や華族の有力者たちが名を連ねていました。まさに国家的な記念事業といってよい規模だったのです。
そして、その中心となる石碑の揮毫を任されたのが、島村出身の金井之恭(かない しきょう)でした。
当時の之恭は、明治政府の要職を歴任するとともに、「明治三書家」の一人に数えられるほどの名声を得ていました。之恭は、全国各地の石碑や扁額の揮毫を依頼されており、作品は北海道から九州まで残されています。
その中でも、この「大日本帝国立憲頌徳碑」は、高さ約9メートルという、前例のない規模の計画でした。
おそらく之恭にとっても、生涯屈指の大仕事だったのではないでしょうか。
さらに碑文は漢学者・川田剛が撰文し、刻字は石工の名門として知られる廣群鶴(こうぐんかく)が担当しました。
篆額には、皇族である小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひと しんのう)の名前も見えます。
このことから、この事業がいかに、当代一流の人々が力を合わせて作り上げた一大プロジェクトであったかがわかります。
ところが、これほどの顔ぶれがそろいながら、この石碑は最後の最後で思わぬ結末をたどりました。
3. 完成したはずの石碑が、なぜ建てられなかったのか?

これほどの人々が関わり、これほど大規模な計画として進められた「大日本帝国立憲頌徳碑」。
普通に考えれば、無事に建立され、多くの人々に見守られる存在になっていたはずです。
ところが、この石碑はそうなりませんでした。
むしろ、その後の足跡をたどると、不思議な運命をたどったことが見えてきます。
本庄古美術愛好会の皆さんは、当時の新聞や文献を丹念に調査され、『新聞集成明治編年史』の中からこの石碑に関する記事を見つけてくださいました。
明治26年(1893)9月23日の『東京日日新聞』に、
「依田徳雲が発起した大日本帝国立憲頌徳碑を、三五〇円で上野第一工場まで運搬する」
という記事が掲載されていたのです。
しかも、その運搬費だけでも三百五十円。当時としては大変な金額です。
新聞記事になるほどですから、この石碑が当時いかに注目を集めていたかがわかります。
少なくともこの時点で、石碑そのものは完成していたと考えられます。
ところが、その後の記録を追うと奇妙なことが分かってきます。
● 石碑は完成している。
● 運搬もされている。
● 賛同者もいる。
しかし、肝心の建立場所が決まらないのです。
徳雲は上野公園への建立を目指していましたが、計画は思うように進みませんでした。
3. 建立場所の難航
本庄古美術愛好会さんたちの調査資料には、次のような一文があります。
「建碑の場所をめぐっては、宮内省や警視庁さらには裁判所まで巻き込んだ」
大日本帝国立憲頌徳碑の建立にあたっては、場所の選定をめぐる関係機関との調整が難航し、資金集めも決して順調とは言えなかったようです。
明治27年、依田徳雲の記念碑建設をめぐって熊本県と警保局が交わしたやり取りを見ても、その状況がうかがえます。熊本県知事からの問い合わせに対し、警保局が調査した結果として、
● 記念碑の建設は一切許可していない
● 建設資金(勧財)の募集についても許可を出していない
という事実が確認された、との報告が残されています。こうした記録からも、当時の記念碑建立がいかに複雑な調整を伴う事業であったかが見えてきます。
[参考]
・「依田徳雲発起に係る大日本帝国議会記念碑建設の件に付照覆・熊本」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A05032099600、警保局長決裁書類・明治27年(国立公文書館)
4. もう一つあった「巨大記念碑計画」(清水重華の計画)
さらに複雑なのは、調査の過程では、清水重華という人物が、最初は依田徳雲と組んで建碑計画を進めていましたが、後に東京・亀戸天神の隣地に、徳雲とは別の国会開設記念碑を建てるという計画していたことも分かったとのことです。
■ 建碑発起人:清水重華
■ 書:厳谷一六(いわや いちろく)
■ 撰文:重野安繹(しげの やすつぐ)
■ 篆額:榎本武揚(えのもと たけあき)
■ 石工:宮亀年(みや きねん)
しかもこちらも同じように賛同者を集め、石碑を製作しています。
いわば、二つの巨大記念碑計画が並行して進んでいたのです。
しかし、両者とも順風満帆とはいきませんでした。
【清水重華による計画】
清水重華が進めていた石碑建立の計画は、資金難に陥ったうえ、発起人である重華本人が亡くなったことで頓挫してしまいました。
その結果、石碑は「亀戸天神祠の裏門を出て北に一丁ばかり、川に沿ひて行く」場所に放置されていたと伝えられています。
さらに、本庄古美術愛好会さんの調査によれば、この清水重華が計画した石碑の拓本の1/50縮尺版が、近年ヤフオク!で出品されていたことも確認されています。
また、重野安繹の撰文を、金井之恭が絹地に書き写したものがあり、その書は今も「華竹庵(かちくあん)」に保管されているとのことです。
【依田徳雲による計画】
一方、依田徳雲が主導した石碑建立計画も、建立地の選定が難航し、さらに徳雲自身が病に倒れてしまいました。
計画を牽引する中心人物を相次いで失ったことで、事業は次第に停滞し、前に進めなくなっていったと考えられます。
5. 紆余曲折した篆額 ~有栖川宮親王から小松宮親王への変更~
当初は、大日本帝国立憲頌徳碑の篆額は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)によるものとなる予定でした。
実際に、有栖川宮親王の明治27年6月17日の日記『熾仁親王日記 巻6』にも、
「金井之恭が訪れて、立憲頌徳碑の篆額の揮毫を依頼した」との記載が見えます。
しかし、明治27年(1894年)に勃発した日清戦争において、参謀総長として広島大本営に出仕中に、ご病気(腸チフス)になられ、有栖川宮舞子別邸(現在の兵庫県神戸市垂水区)で療養され、ベルツ博士らによる懸命な治療も行われましたが、翌年1月15日ご逝去されたのです。
有栖川宮親王が日清戦争中に病死されると、その後任として小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう)が参謀総長を務めました。
このような経緯があったため、「立憲頌徳碑」の篆額は、決まらない状態がありながらも、有栖川宮親王から、小松宮彰仁親王へと変更になったのだと思われます。

5. 新聞記者の朝比奈知泉が語る「立憲頌徳碑」のゆくえ
依田徳雲と同じ旧水戸藩士(諸生党派)で親しかった、新聞記者の朝比奈知泉(あさひな ちせん)は後年、
「谷中の石工の家に在るのを見たことはある」
(※『老記者の思ひ出』朝比奈知泉 著、中央公論社、1938年)
と回想しています。
石碑は完成していたのです。
しかし、それは公園でも広場でもなく、谷中の石工・廣群鶴(こうぐんかく)の工場にあったのでした。
【谷中の廣群鶴(こう ぐんかく)とは?】
廣群鶴(こうぐんかく)は、江戸時代後期から昭和にかけて活躍した、江戸谷中の石工です。
寛政年間(1789〜1801年頃)に江戸随一の石屋として評判になり、その後明治・大正・昭和の時代まで、
9代にわたりその技術が受け継がれました。
※ちなみに、「高山社」を創始した高山長五郎の生前の功績を伝えるために、明治24年(1891年)に建立された「高山長五郎功徳碑」(群馬県藤岡市)は、金井之恭 書・重野安繹 撰文・廣群鶴 刻字の碑です。
さらに知泉は別の著作で、
「今でも多分其の碑石は刻成のまま保存せられてあることと信ず」
(※「水戸諸生党弔魂碑の開眼式」『朝比奈知泉文集』1927年)
とも書いています。
とても不思議な話ですが、日本の近代化を記念するために造られた巨大石碑が、人々の目に触れることなく、石工場の片隅で眠り続けていたというのです。その後も石碑の行方ははっきりしません。
石碑そのものは失われたと考えられています。
6. 明治文学界の重鎮・依田学海さえも「一奇話」と記した出来事
森鴎外の師であり、明治文学界の重鎮である依田学海(よだ がっかい)は、「大日本帝国立憲頌徳碑」をめぐる一連の出来事について、日記『学海日録』(第9巻)に次のように記しています。
「文林の一奇話なるべし」
(文化史に残る奇妙な話である)
当時は新聞にも広告が掲載され、高さ9メートルにも及ぶ巨大な石碑が運搬される様子が報じられるほどの一大事業でした。世間の注目を集めた計画であったことがうかがえます。
ところがこの石碑は、なぜか二基が同時に作られたにもかかわらず、最終的にはどちらも建立されないという、前代未聞の結末を迎えました。
文化界の重鎮に「一奇話」とまでつぶやかせるほど、この立憲頌徳碑をめぐる経緯は、当時の常識から見ても極めて異例で、奇妙なドタバタ劇だったのだと思われます。
しかし、その存在を示す痕跡は残りました。
7. 明治31年「東京奠都三十年祝賀会」、大正12年「伊勢崎小学校五十年記念行事」にて展示


明治31年(1898)に上野公園で開催された「東京奠都(てんと)三十年祝賀会」では、この拓本が展示されていました。
また、大正12年(1923年)6月には「伊勢崎小学校の五十年記念行事」にも出品された記録が残っています。
(※『上毛及上毛人』大正12年7月より)
※ちなみに、伊勢崎市立北小学校は、明治6年(1873年)6月に「赤石学校」として創立。当初は「本光寺」を仮校舎としていましたが、その後、旧伊勢崎藩陣屋内の藩校「学習堂」へと移転。さらに明治15年(1882年)8月には、旧伊勢崎城内(現・曲輪町)の現在地へ移り、新校舎が建築されました。校舎の前には「時報鐘楼」があり、群馬県内最古のコンクリート建造物です。
石碑そのものは失われても、拓本だけは人々の手で守り継がれてきたのです。
もし調査が行われなければ、華竹庵(かちくあん ※金井研香の旧宅)に伝わる巨大な拓本は、
「昔の大きな拓本」として見過ごされていたかもしれません。
しかし今では、その背後に明治国家を象徴する壮大な計画と、数多くの人々の思いが込められていたことが見えてきました。
ここまで丁寧に調べてこられ、拓本を公開していただいた本庄古美術愛好会、深谷上杉郷土史研究会、境史談会の皆さんのご尽力に、心より感謝申し上げます。
◆ 拓本の向こうに見える幕末の面影
拓本を見ていると、建てられなかった石碑だけではなく、その不在という「余白」の中から、
幕末の激動の上武地域を生きた人々の面影が立ち現われてくるようにも感じます。
● 金井之恭が生まれた島村。
● 渋沢栄一翁が生まれた血洗島。
● 桃井可堂が活動した中瀬。
● そして利根川の水運で栄えた本庄宿。
これらの地域は、利根川を中心として互いに結ばれていました。
今でこそ、県や、市町村の境がありますが、
当時の人々にとって、「川」は人と人を隔てるものではなく、むしろ結びつける存在でした。
舟で人が行き交い、物資が運ばれ、情報も伝わります。
普通にイメージする以上に、人々は広い範囲で交流していたのです。
幕末になると、上武の利根川流域の地域にも、黒船来航、開国、幕府の動揺という、大きな時代の波が押し寄せました。日本の将来に不安を抱いた上武の人たちは、それぞれの立場から行動を起こそうとしました。
◆【桃井可堂と幕末の義挙「天朝組」】
1. 挙兵の背景と「天朝組」結成
桃井可堂は享和3年(1803年)、武蔵国北阿賀野村(現・埼玉県深谷市)に生まれました。
12歳のとき、血洗島の儒者・渋沢仁山に師事し、才能を認められました。
※仁山は、「東の家」渋沢初代宗助の次男で、「古新宅の家」の祖です。
20歳のときには、中瀬村の富豪・斉藤安兵衛家(大斉藤家)に奉公し、経理の仕事を担当しながら、文書蔵にこもって学問に励みました。
22歳で斉藤家を辞し、江戸の「東条一堂塾」に入門。「一堂門の三傑」と称されるほどの俊才として名を馳せました(桃井可堂・清河八郎・那珂梧楼)。
天保2年(1831年)29歳のとき、江戸で塾を開き、32年間にわたり多くの門弟を育成。備中庭瀬藩と伊勢亀山藩の2つの藩で、あわせて23年間も藩師を勤めました。
その後、文久3年(1863年)、還暦を迎えた可堂は、盟友・清河八郎の浪士隊上洛に呼応し討幕を決意。
江戸の安定した生活を捨てて帰郷し、中瀬村の川田家に「桃井塾」を開いて志士の育成を始めました。
可堂は、各地の勤皇志士と連携して「天朝組(てんちょうぐみ)」を組織。
新田氏の末裔・岩松満次郎(俊純)を盟主に推戴し、新田氏ゆかりの赤城山で挙兵して横浜の外国人居留地を襲撃する計画を立てました。
この計画には、当時「木崎宿」に住んでいた金井之恭(当時は桑原五郎と名乗る)を通して、後に赤報隊を率いる相楽総三から3,000両もの巨額の軍資金が提供されていました。
2. 渋沢栄一翁ら「慷慨組(こうがいぐみ)」との連携
可堂の計画は、同郷の渋沢栄一翁や尾高惇忠、渋沢喜作らの「慷慨組(こうがいぐみ)」による高崎城乗っ取り・横浜襲撃計画と連動していました。
両派は密に連絡を取り合い、文久3年11月12日(冬至の日)を共同の決行日と定めていました。
また、喜作が可堂のために一年分の豆腐の前金を支払うなど、物心両面で彼らを支えていました。
3. 計画の挫折と悲劇的な結末
しかし、決行を前に、仲間の裏切り(密告)によって計画が幕府側に漏洩し、義挙は一転して挫折に追い込まれます。捕縛の手が迫る中、可堂は若い同志たちを守るため、自分が首謀者として全ての罪を被ることを決意。12月16日、川越藩剣術師範の大川平兵衛を仲介して自首しました。
翌元治元年(1864年)1月、江戸へ護送された可堂は麻布の福江藩邸に幽閉されます。
しかし、理想が潰えた悔しさと国への憂憤から、可堂は一切の食事を拒否する「絶食」を敢行。
同年7月22日、幕府への苛烈な抗議の意思を示したまま、62歳で亡くなりました。
◆【渋沢栄一翁や尾高惇忠らの計画】
1. 「高崎城乗っ取り計画」
桃井可堂が中瀬村で挙兵を企てていた文久3年(1863年)、血洗島の渋沢栄一翁もまた、従兄の尾高惇忠や渋沢喜作らとともに「慷慨組(こうがいぐみ)」を結成し、尊王攘夷の思想を強く抱いていました。
栄一たちが企てたのは「高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちする」という過激な計画でした。これは、同じ深谷の地で赤城山挙兵を狙う桃井可堂の「天朝組」と緊密に連携しており、どちらも「文久3年11月12日(冬至の日)」を共同の決行日と定めた運命共同体でした。
2. 尾高長七郎による計画の制止
しかし決行直前、京都から急ぎ帰郷した惇忠の弟・尾高長七郎が「今のまま挙兵しても、ただの無駄死にに終わる。犬死にをしてはならない」と激しく一同を諌め、決死の説得を試みました。
この必死の説得により、栄一たちは一転して計画の中止を決意します。
栄一たちは生き残りましたが、裏で連携していた桃井可堂の天朝組は密告により計画が露見し、可堂は自首ののち、幽閉先で絶食による殉死を遂げることとなりました。
3. 見立養子・渋沢平九郎の最期
その後、栄一は一橋家に仕えて幕臣となり、慶応3年(1867年)に渡欧します。
その際、万一に備えて惇忠の弟である渋沢平九郎を「見立養子(跡継ぎ)」に迎えました。
しかし翌年、戊辰戦争が勃発。平九郎は留守中の栄一に代わり、旧幕府側の「振武軍」に加わって飯能戦争を戦いますが、軍は壊滅。敗走した平九郎は、「顔振峠(かあぶりとうげ)」(埼玉県飯能市と越生町にある峠・MAP)を経て、黒山村(現・越生町)へ逃れるも、新政府軍に包囲され、激しい奮戦の末にわずか22歳で自刃するという悲劇的な最期を遂げました。
4. 残された志と新時代への歩み
帰国後に平九郎の死を知った栄一翁は、深い悲しみに暮れました。
もしあの時、高崎城乗っ取りが実行されていたら、後の日本の歴史は大きく変わっていたはずです。
長七郎の必死の制止で命を繋いだ栄一翁は、可堂や平九郎ら志半ばで散った仲間たちの想いを背負い、日本の近代化を支える実業家として大きな足跡を残すことになったのです。
◆【金井国之丞と水戸天狗党の悲劇】
1. 桃井塾で育った「桃門の三烈士」
金井国之丞(かない くにのじょう)は、弘化4年(1847年)、武蔵国榛沢郡高畑村(現・埼玉県深谷市高畑)の名主で郷鳥見役の金井市左衛門の末子として生まれました。
幼い頃から聡明だった国之丞は、中瀬村で私塾を開いていた桃井可堂に師事し、熱心に儒学や漢学を修めます。
可堂の熱い尊王攘夷思想を全身で浴びた国之丞は、同門の川俣茂七郎、小田熊太郎とともに、後に「桃門の三烈士(とうもんのさんれっし)」と称えられるほどの、過激で純粋な尊皇志士へと成長していきました。
2. 師・桃井可堂の遺志を継ぎ、天狗党の筑波山挙兵へ
文久3年(1863年)、敬愛する師・桃井可堂が「天朝組」の計画挫折によって自首し、翌年に幽閉先で絶食殉死するという大悲劇が起きます。
10代半ばだった国之丞の胸中には、師の無念を晴らし、自らの手で国を救おうという激しい炎が燃え盛りました。
元治元年(1864年)3月、水戸藩の過激攘夷派・藤田小四郎らが筑波山で挙兵(天狗党の乱)すると、国之丞は「変名:石井政之丞」を名乗り、故郷を飛び出してこれに合流します。
当時、まだわずか18歳の少年でした。
国之丞は天狗党の一員として各地を転戦し、幕府軍や周辺諸藩の軍勢を相手に勇敢に戦い抜きました。
3. 壮絶なる中山道西上と、敦賀での最期
天狗党の本隊が追討軍に追い詰められると、首領・武田耕雲斎らは一橋慶喜(後の15代将軍)を頼って京都へ上り、朝廷に尊王攘夷の真意を直訴することを決意します。
国之丞もこの軍勢に従い、真冬の険しい中山道を突き進む、過酷極まる「西上行軍」に加わりました。
しかし、頼みにしていた一橋慶喜みずからが天狗党の追討総大将となったことを知り、彼らの希望は絶望へと変わります。
元治元年12月、極寒の越前国(福井県)敦賀にたどり着いた天狗党は、加賀藩に降伏しました。
身柄を幕府へと引き渡された志士たちを待っていたのは、ニシン蔵への監禁という非人道的な処遇と、残虐極まる厳罰でした。
そして明けて元治2年(1865年)2月16日、国之丞は敦賀の来迎寺境内にて、武田耕雲斎ら多くの同志たちとともに幕府によって処刑(斬首)されました。
享年19(満17歳)という、あまりにも早すぎる最後でした。
4.【金井国之丞と金井元治について】
■ 国之丞について
国之丞は、高畑村の名主で郷鳥見役であった金井市左衛門と、母(新戒村・荒木久兵衛為貞の娘)との間に生まれた末子です。
金井元治は、その国之丞の甥にあたります。
天狗党の挙兵後、国之丞が同志を募るため下野国寺岡村(現・栃木県足利市)を訪れた際、甥の元治は、親族とともに、国之丞に帰宅を勧めました。しかし、国之丞の決意は固く、己の信じる正義にすべてを懸ける覚悟で、志を曲げることはありませんでした。
その後、天狗党は過酷な戦いの末に悲劇的な結末を迎え、国之丞もまたその激動のなかで命を落としました。
命をかけて戦った時から47年後。大正元年(1912年)に、国之丞の忠義はついに正式に認められ、従五位が追贈されました。
■ 金井元治について
● 明治維新後の明治2年(1869年)に起きた「備前堀事件」では、金井元治は尾高惇忠、荒木翠軒、韮塚直次郎らとともに、事件の解決に尽力しました。(※詳細はこちらへ)
● 明治22年(1889年)4月1日、町村制施行により、内ヶ島村・上敷免村・大塚島村・起会村・矢島村・高畑村・谷之村・戸森村が合併し、榛沢郡大寄村が成立しました。金井元治は、その初代大寄村長に就任しています。
● 大正7年(1918年)9月、深谷市高畑の「鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)・MAP」に、渋沢栄一翁の撰文・書による「金鶴堂金井翁之碑」が建立されました。
碑の裏面には、尾高次郎、大川平三郎、諸井恒平、桃井可雄(桃井可堂の孫・渋沢商店)、石井健吾(桃井可堂の孫・第一銀行 第3代頭取)、渋沢元治(名古屋大学初代総長)、渋沢治太郎、中瀬村の齋藤安雄、河田十郎三など、多くの関係者の名が刻まれています。
※下記の写真は埼玉県深谷市高畑の「鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)」の境内に建てられた「金鶴堂金井翁之碑」(渋沢栄一翁の撰文・書)です。
◆【渋沢栄一翁による天狗党供養について】
中の家のすぐそばの薬師堂にある「水藩烈士弔魂碑」(埼玉県深谷市血洗島229−2)
渋沢栄一翁の生家「中の家」のすぐ近くにある薬師堂には、「水藩烈士弔魂碑」とよばれる石碑が建てられています。
この石碑は、元治元年(1864年)に岡部藩によって討たれた水戸藩・天狗党の浪士2名を弔うために、大正7年(1918年)に栄一翁が自ら文を撰し、揮毫したものです。
■「弔魂碑」が建立された経緯
元治元年(1864年)11月12日。
天狗党が中瀬河岸を渡ろうとした際、遅れて到着した2名が、岡部藩兵によって河原で射殺されました。
血洗島の村人たちは、非業の死を遂げた二人を哀れみ、薬師堂の近くに遺体を丁重に葬って墓石を建てました。しかし、名前が分からなかったため、「無縁」として54年間、ひっそりと葬られていました。
それから長い年月が経ち、大正7年(1918年)、血洗島村の人たちはこのまま忘れ去られてしまうことを恐れ、碑を建ててその由来を後世に伝えようとし、渋沢栄一翁私に、その経緯を記すよう依頼されたのです。
当時の「中の家」当主・渋沢治太郎(栄一翁の甥)と相談を重ね、自ら資金を出して弔魂碑の建立を進めました。
■ 栄一翁にとって「天狗党の悲劇」とは
若き日の渋沢栄一翁は、尊王攘夷の志に燃え、世を変えようと情熱を傾けていました。
しかし、天狗党の挙兵から中止、そして惨劇へと至る歴史を目の当たりにして、その悲劇を「大学」(人生における厳粛な学びの場)として受け止めたといいます。
この経験を境に、栄一翁は道理を見据えて冷静に判断し、時には危険な道を避ける勇気をも身につけていきました。
天狗党の悲劇は、後に「公益の人」と称される渋沢栄一翁の人格と思想を形づくる、決定的な転機となったのです。
[参照]
・『若き日の渋沢栄一 ~渋沢・桃井の挙兵計画』(持田 勉著、博字堂、2022年)
◆ 【語られざる敗者の記憶 ~諸生党が歩んだ長い受難の道~】
依田徳雲と朝比奈知泉(旧水戸藩士・諸生党)を通して
幕末の水戸藩といえば、世に広く知られるのは「天狗党の悲劇」です。
天狗党の人たちの志や最期は長く語り継がれ、文学や史談の中でもしばしば称えられてきました。
しかし、その陰で、より長く、より深い苦難を背負わされた人々がいました。
同じ水戸藩に属しながら “敗者”とされ、明治の世になってもなお差別と偏見に苦しんだ諸生党の人たちです。
天狗党が「悲劇の志士」として語られる一方で、諸生党は「賊軍」として長く口にすることすら憚られ、
その痛みや歩んだ道は、歴史の表舞台に出ることはありませんでした。
■ 依田徳雲の場合
今回の「大日本帝国立憲頌徳碑」の発起人である依田徳雲(よだ とくうん)は、旧水戸藩士の家に生まれました。
幕末の水戸藩では、尊王攘夷を掲げた天狗党が後世になって称えられる一方で、幕府を重んじた諸生党は激しく非難され、深い対立の渦中に置かれていました。
徳雲の家は、その諸生党に属していました。
しかし、明治維新によって立場は一変します。
維新後、諸生党の人々は「賊軍」とみなされ、家族までもが長く厳しい差別と偏見にさらされました。
徳雲もまた、その重い空気の中で少年時代を過ごした一人でした。
やがて明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の公布と帝国議会開設に伴って恩赦が行われ、ようやく諸生党の人々も法的には名誉を回復します。
しかし、それは失われた尊厳や生活をすぐに取り戻せるという意味ではありませんでした。
この恩赦をきっかけに、徳雲は動き始めます。
明治30年(1897年)、旧水戸藩士(諸生党側)の総代として、時の外務大臣・大隈重信ら政府高官に「復禄請願陳情書」を提出しました。
それは、維新後に不当に没収された家禄の復活、あるいはそれに代わる補償を求める、切実で必死の訴えでした。
そして、その延長線上にあったのが、「大日本帝国立憲頌徳碑」の建立計画だったのではないでしょうか。
国家の新しい時代を記念する巨大石碑を建立することによって、自分たちもまた近代国家日本を支える一員であったことを後世に伝えたかったのかもしれません。
しかし、石碑は完成しながらも建立されることなく終わりました。
徳雲の夢もまた、志半ばで終わったのです。
■ 朝比奈知泉の場合
また、依田徳雲の友人であり、後に著名なジャーナリストとなった朝比奈知泉も、同じく諸生党派の家に生まれました。知泉の家は水戸藩重臣・朝比奈家の分家であり、本家の当主・朝比奈泰尚(弥太郎)は、家老として諸生党を率いた最高幹部の一人でした。
しかし泰尚は、明治元年の激戦(八日市場の戦い)で戦死し、朝比奈家は深い悲しみと烙印を背負うことになりました。
知泉が7歳の頃、遊び仲間から「お前の家はかんとう(奸党)だろう」と言われ、
意味も分からず「そうだ」と答えていたという、少年時代の逸話が残っています。
しかし知泉は、その境遇に押しつぶされることなく、言論の世界へ身を投じました。
そして生涯を通じて、
「敗者にもまた、それぞれの忠義と信念があった」
という事実を訴え続けました。
晩年の大正15年(1926年)11月、知泉は、千葉県匝瑳市(そうさし)の「脱走塚(だっそうづか)・MAP」に、「水戸藩志士弔魂碑」を建立しました(撰文:朝比奈知泉)。
弔魂碑の開眼式(除幕式)で知泉は、胸に迫る思いを語りました。
水戸では「賊軍」とされ、堂々と弔うことすら許されなかった肉親や先輩たちの魂が、この千葉の地で温かく守られている、知泉は、その事実に救われました。
そして、「いつか水戸の地でも和解を成し遂げなければならない」という決意をいっそう強くしたのです。
この匝瑳での弔魂碑建立は、その後、歴史的な和解へとつながっていきました。
昭和9年(1934年)、知泉は、天狗党の室田義文(むろた よしあや)と手を結び、水戸市・祇園寺に「恩光無辺の碑(おんこうむへんのひ)」を建立しました。
篆額は天狗党の室田義文、撰文は諸生党の朝比奈知泉。
かつて激しく対立した両派の代表が、同じ碑に名を刻んだのです。
それは、歴史の勝者と敗者を超えて、ともに弔い、ともに過去を見つめ直そうとした出来事でした。
知泉はまた、長く公に供養されることのなかった、諸生党の国事殉難者523名の名を丹念に調べ上げ、
彼らの無念と忠義の心を、後世に残しました。
■ 朝比奈知泉が語る、野口雨情の伯父による依田徳雲の父への仇討ちの話
朝比奈知泉は、「水戸諸生党弔魂碑の開眼式」(『朝比奈知泉文集』昭和2年)の中で、
依田徳雲の父と、「赤い靴」、「七つの子」、「シャボン玉」などで知られる童謡詩人・野口雨情の伯父・野口勝一とのあいだに横たわる、深い因縁について語っています。
幕末の水戸藩では、天狗党と諸生党が血で血を洗う内紛を続けていました。
その過程で、野口雨情の祖父にあたる野口友太郎(天狗党派)は、敵対する吉野秀之進(諸生党派・依田徳雲の父)によって討たれます。
その後、明治元年に立場は逆転します。
捕らえられた吉野の斬首が決まると、友太郎の息子である野口勝一(雨情の伯父)は、「父の仇を自ら討つ」として、処刑の執行役を志願しました。
こうして、両家の因縁は世代をまたいで深い傷となって刻まれました。
もし雨情が、こうした歴史の痛みを幼いころから肌で感じていたのだとすれば、
雨情の紡いだあの透明な童謡の数々「赤い靴」「七つの子」「シャボン玉」は、未来を生きる子どもたちへ向けた祈りの言葉でもあったのかもしれません。
◆【金井之恭の幕末のうごき】
1. 倒幕の挙兵を模索 ~「桑原梧楼(くわばら ごろう)」としての活動~
幕末の動乱期、之恭は、新田宗家末裔とされた岩松満次郎(いわまつまんじろう)を擁立し、倒幕の挙兵を模索します。
この頃、之恭は、木崎宿の旅籠「藤屋」の娘・多計子(タケ)と結婚。
婿入りして桑原梧楼(くわばら ごろう)の名を名乗り、木崎宿を拠点に尊王運動を続けました。
文久3年(1863年)、桃井可堂(もものい かどう)が組織した「天朝組(てんちょうぐみ)」とも連携し、沼田城攻撃や横浜進軍を計画。
桃井可堂は、之恭に、資金源であった尊王攘夷派の相楽総三(さがら そうぞう)との仲介を依頼しており、相楽もこの計画に3,000両という大金を出資していました。
しかし、しかし仲間の裏切りによって計画が露見。責任を一身に背負って川越藩に自首し、幽閉先である江戸の福江藩邸にて壮絶な絶食死を遂げました。
2. 繰り返される挫折
文久3年(1863年)、桃井可堂の天朝組や、渋沢栄一らの計画は相次いで挫折しました。
しかし、之恭の倒幕への執念は消えませんでした。
■ 天狗党の乱への連動と挫折
翌元治元年(1864年)に勃発した「天狗党の乱」の際、之恭は再び相楽総三らと画策。
人心掌握のために再び新田俊純を擁立して挙兵を試みます。
しかし、この蜂起が水戸藩の藩内抗争になってきたのを見て、之恭と相楽総三は失意のまま下山しました。
■ 出流山(いづるさん)事件での失敗
その後、相楽は、薩摩藩の西郷隆盛らと手を組みます。
関東各地で強盗、放火、破壊工作を繰り返すことで幕府側を挑発し、全面対決への口実を引き出す関東独立・攪乱工作を行うこととなりました。
◇ 奥州道・東山道(栃木方面):出流山(いづるさん)での挙兵
◇ 甲州道(山梨方面):甲府城の奪取・攻略計画
◇ 東海道(神奈川方面):荻野陣屋(おぎのじんや)の襲撃
◇ 上州(群馬方面):金井之恭らによる赤城山での挙兵
その中で、「赤城山」での挙兵を託されていたのが金井之恭でした。大舘謙三郎→本庄八景
之恭は、新田義貞の末裔である新田満次郎を総大将に担ぎ出し、上野国の赤城山で、下野国の出流山(いずるさん)の舞台と連動して挙兵する手はずでした。
しかし、挙兵直前に幕府方に計画が漏えい。
金井之恭や、大館霞城(謙三郎)などの仲間たちは、挙兵前に逮捕され岩鼻陣屋(現在の高崎市)の獄に繋がれてしまいました。
■ 孤立した出流山(いずるさん)部隊の壊滅
同年11月、連携の要である赤城山からの援軍を失った「出流山部隊」(竹内啓・西山謙之助ら)は孤立し、栃木宿などで幕府軍と戦うも、わずか半月ほどで壊滅しました。
捕らえられた浪士たちの多くは、現在の佐野市にある「天明宿」の、秋山川河原で斬首されたのです。
3. 捕縛、そして救出
之恭たちは、岩鼻代官所に捕縛されてしまいます。
しかし時代は大きく動き始めていました。
ちょうどその頃、王政復古の大号令が発せられ、官軍が中山道を下向してきたのです。
之恭と仲間たちは、官軍によって救出されました。
■ 「新田官軍」の結成
救出後、之恭らは岩松満次郎の了承を得て、新政府に「新田官軍」の結成を申請し、認可されます。
上武地域の百姓を編成した新田官軍は、新政府軍とともに上州の鎮撫にあたりました。
4. 明治の夜明けと、散っていった同志への鎮魂
明治維新後、金井之恭は、新政府の官僚として中央政界に進み、大書記官や元老院議官などの要職を歴任しました。明治新政府の屋台骨を支える一人となったのです。
しかし、之恭は栄達の中にあっても、かつて共に志を掲げ、倒れていった同志たちのことを決して忘れませんでした。
明治13年(1880年)、内閣大書記官の地位にあった之恭は、長野県下諏訪で相楽総三らの十三回忌法要を盛大に執り行い、名誉回復と鎮魂のために力を尽くしました。
新しい時代の中で要職に就きながらも、散っていった仲間への思いを胸に持ち続けたその心根こそ、之恭の人柄を最もよく物語っていると思われます。
◆【 "偽官軍" の汚名を着せられた相楽総三ら「赤報隊」】
1. 相楽総三の悲劇
そして、この地域の人々を語るうえで、もう一人忘れることのできない人物がいます。
「赤報隊」隊長として知られる相楽総三ですが、幕末には上武地域とも深い縁がありました。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に勝利した新政府軍は、江戸へ向けて進軍を開始しました。
相楽総三らは、江戸進軍の先駆けとして、「赤報隊(せきほうたい)」を結成し、新政府の公認を得て、民衆の味方となる「年貢半減」を掲げて中山道を東進しました。
しかし、新政府が軍資金三百万両(現在の約 3000 億円)を、大阪の豪商三井、鴻池らから「年貢取扱い権付与」を担保に借金していたため、新政府の公約である「年貢半減令」が実行不可能なものとなり「年貢半減令」を撤回する必要が生じます。
その結果、赤報隊が京都を出発した1月15日から、わずか12日後の1月27日には、新政府は密かに「年貢半減令」を撤回してしまったのです。
新政府は、赤報隊に京都へ戻ることを命じましたが、相楽総三たちは、「今退けば官軍が嘘つきになる」と信じ、民衆への約束を守るため東進を続けました。
新政府は、自らの公約違反を隠すため、赤報隊を「偽官軍」に仕立て上げる決定を下しました。
慶応4年(1868年)3月3日、下諏訪の本陣へ作戦会議の名目で呼び出された相楽たちは、弁明の機会すら与えられず、相楽総三ら8名は、逆賊の汚名を着せられたまま、下諏訪で斬首されたのです。
2. 祖父・相楽総三の汚名を晴らすことに生涯を捧げた「亀太郎」
相楽総三の孫である木村亀太郎(きむらかめたろう)は、祖父と赤報隊の汚名を晴らすことにその生涯を捧げました。
相楽総三が処刑された後、悲報を聞いた総三の妻・照(てる)は、後を追って自害しました。
遺された一人息子の「河次郎」は、総三の姉に引き取られ、その子が「亀太郎」です。
赤報隊の子孫たちは、「偽官軍の家族」として世間の目を恐れ、先祖の歴史を隠してひっそりと暮らしていました。
しかし、亀太郎は12歳の時に初めて、自分の祖父が相楽総三であり、偽官軍の汚名を着せられて斬首された事実を知ります。
少年だった亀太郎は、国のために命を捧げながら逆賊扱いされた祖父の無念を察し、「自分の手で必ず祖父の冤罪を晴らす」と心に誓いました。
亀太郎は、貧しい生活に耐えながら、赤報隊の正当性を証明するための古い資料を、執念で集め続けました。
そして、維新の功労者や政府の要人たちを片っ端から訪ね歩くという、無謀とも言える直談判の旅に出ます。
直談判の旅において、亀太郎は、数え切れないほど何度も断られ、門前払いにあうという、想像を絶する拒絶の連続を経験しました。
3. 渋沢栄一翁との出会い
亀太郎は、飛鳥山邸の渋沢栄一翁(当時は子爵)の元にも足を運びました。
「赤報隊の汚名返上は、孫である自分の責任です」と熱弁し、天皇から位を授かる「贈位(ぞうい)」の働きかけに協力してほしいと、渋沢翁に必死に訴えました。
亀太郎の話を、渋沢翁は静かに、時折目を閉じながら聞いていたといいます。
話が終わると、渋沢翁は落ち着いた口調で、次のように述べました。
「よくここまで祖父のために尽くされました。
私も及ばずながら力を尽くしますから、遠慮なく申し出てください」
ただし渋沢翁は、自身が旧幕臣であることを理由に、
贈位請願の運動そのものには表立って関われないと説明しました。
相楽総三が倒幕派の指導者であったため、政治的な立場上の制約があったからです。
しかし渋沢翁は、できる範囲での支援を惜しみませんでした。
● 東京府知事に事情を伝えておくこと
● 長野県で請願する場合は、知事宛の依頼状を書くこと
● 手続きの進め方を助言すること
こうした具体的な後押しを約束し、亀太郎を励ましました。
話の途中で、渋沢翁は、若い頃のことにも触れました。
「当時の志士たちは、"遊郭" へ出入りすることが多かったと語りながら、
相楽総三だけは、一度も姿を見せなかった」
と述べています。
数百の浪士を率いる立場として、自らを律し、節度を保っていたのだろうと、
渋沢翁は感じていました。
さらに渋沢翁は、相楽総三について次のように評価しています。
「もし藩を背負っていたら、坂本龍馬や高杉晋作にも並ぶ人物になっていた。
存命であれば、天下を料理する人材であった。惜しむべき英傑です」
渋沢翁にとって相楽総三は、志の純度が高く、強い規律を持つ人物として映っていたようです。
その敬意が、亀太郎への誠実な対応にも表れていました。
亀太郎は飛鳥山を辞したとき、「百万の味方を得たように感じた」と後に語っています。
渋沢翁の言葉は、それほど大きな支えになったのだと思われます。
4. ついに名誉が回復される(昭和3年)
その後、亀太郎の努力と、下諏訪町の人々や、赤報隊の他の遺族たちの支えもあり、
昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位の大礼にあたり、相楽総三に「正五位」が追贈され、ついに国家から正式に名誉が回復されたのです。
5. 維新の裏で切り捨てられた人々の存在を知っている渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は、維新の裏で " 切り捨てられた人々の存在 " をよく知っていました。
「赤報隊」は、その典型です。
● 新政府に利用され
● 年貢半減令の責任を押しつけられ
● 「偽官軍」とされ
● 裁判もなく処刑された
渋沢翁は、こうした維新の「影」を直視できる数少ない維新関係者でした。
だからこそ、孫・亀太郎の訴えを聞いたとき、「これは正さねばならない歴史の不正義だ」と感じたのだと思われます。
6. 金井之恭による命懸けの「初期慰霊」
■ 十三回忌法要の主導(明治13年/1880年)
明治13年(1880年)と言えば、まだ明治政府の威光が強く、人々がその権威に萎縮していた時代でした。
そのような空気の中で、金井之恭は下諏訪の来迎寺において、相楽総三の十三回忌法要を自ら主催しました。
まだ、公に慰霊することが難しかった時期に、元同志としていち早く声を上げたのです。
金井之恭の慰霊活動は、闇に葬られかけていた「赤報隊」の存在を、再び歴史の表舞台へと引き戻す最初の大きな一歩となったのです。
7. 鉄道大臣・小川平吉の貢献
亀太郎は、鉄道大臣を務めていた小川平吉(おがわ へいきち)のもとにも支援を求めました。
小川は信州諏訪の出身で、金井之恭の長女・きんの婿養子でもあります。
● 相楽総三が金井之恭の同志であったこと
● 義父である金井之恭が生前、相楽とその部下の慰霊・顕彰に奔走していたこと
を、小川が知ると、亀太郎の願いに強く共感し、後ろ盾となることを決意しました。
現職の閣僚という大きな政治力を持つ小川平吉が支援に回ったことで、亀太郎の嘆願は一気に国家中枢へと届くことになりました。
国を動かす最後の鍵となったのは、金井之恭が残した「娘婿・小川平吉」という人脈と、小川平吉自身の政治的影響力だったのです。
このように、幕末から明治という激動の時代を生きた人々の人生は、決して成功や失敗だけでは語れないことが実感されます。
挫折し、敗れ、忘れ去られそうになった人々を、それでも誰かが覚え続け、弔い続けてきました。
その積み重ねによって、地域の歴史は今日まで受け継がれてきたのだと思います。
[参考]
・長谷川 伸 『相良総三とその同志』講談社、1988年
◆ 完成しなかった(建てられなかった)からこそ、見えてくるもの
今回、この巨大拓本を拝見して、もしこの立憲頌徳碑が、予定どおり建立されていたら、
どうだっただろうかと感じました。
もちろん高さ9メートルもの巨大石碑が現存していたなら、間違いなく圧倒的な文化財として語り継がれていたと思います。
けれども、建立されなかったからこそ、むしろその背後にあった人々の思いや、時代の流れが浮かび上がってくるようにも思うのです。
● 島村の金井之恭
● 中瀬の桃井可堂
● 桃井可堂に学び、天狗党と運命をともにして福井で斬首された金井国之丞
● 血洗島の渋沢栄一翁や尾高惇忠たち
● 顔振峠を越えて自刃した渋沢平九郎
● 偽官軍の汚名を着せられた相楽総三
● そして、諸生党の旧水戸藩士として不遇の幼少期を生きた依田徳雲と朝比奈知泉
それぞれの人生は決して一直線ではありませんでした。
歴史に名を残した者がいれば、
志半ばで倒れた人もいます。
忘れられかけた人もいれば、
ようやく光が当たり始めた者もいます。
けれども、その不完全さや脆さの中にこそ、人間らしさがあるように思います。
日本文化の研究をされていた故・松岡正剛(まつおか せいごう)さんは、「余白」や「おもかげ」という言葉をよく用いられます。
[参照]
・松岡正剛「NHK 人間講座 おもかげの国 うつろいの国 ~『日本の編集文化』を考える~」
すべてが完成し、説明し尽くされたものではなく、何かが欠けているからこそ、受け手の想像力が介入する余地が生まれ、そこに、深い物語が立ち上がってくるという考え方です。
この拓本にも、まさにその「余白」があります。
本来の主役であるはずの巨大石碑は、どこにもありません。
残されているのは、その姿を写し取った拓本のみです。
しかし、その拓本を拝見すると、かえってさまざまな光景が生まれてきます。
● 幕末の志士たちの思い
● 明治国家を築こうとした人々の理想
● 利根川流域で生きた人々のつながり
● そして、挫折した人たちの人生
利根川流域の歴史を調べていると、この地域の人々は、必ずしも歴史の勝者ばかりではありませんでした。
大大名のいないこの地域では、挫折した人や、弱者の方が圧倒的に多く、
時代の波に翻弄され続けました。
それでも、人を思い、仲間を思い、亡き人を弔いながら生きてきて、
そうした人々の記憶が折り重なって、今の地域の文化が形づくられているように思います。
依田徳雲の計画した「立憲頌徳碑」は建てられませんでしたが、
拓本は残りました。
完成されなかった(建てられなかった)からこそ、
幕末から明治へと続く激動の時代に生きた、
多くの人々の物語が湧きあがり、これまでより一層強く見えてくるのだろうと感じています。
之恭没後120回忌という節目の年に、この拓本公開という貴重な機会に立ち会えたことに、
心より感謝申し上げます。
そして、金井之恭書の之恭書の拓本公開を企画してくださった、
本庄古美術愛好会、深谷上杉・郷土史研究会、境史談会の関係者の皆さま、
このたびは、本当にありがとうございました。
◆境島小学校(旧島村小学校)について
金井之恭書の巨大拓本の会場となったのは、「旧境島小学校(旧島村小学校)」の体育館(MAP)です。(住所:群馬県伊勢崎市境島村1968-40)
「旧境島小学校(創設時:島村小学校)」は、明治6年(1873年)から平成28年(2016年)まで、143年もの歴史を紡いだ伝統ある学校です。伊勢崎市内(旧境町内)で3番目に古い歴史を持つ小学校でした。
平成28年(2016年)3月に閉校され、現在校舎の一部は、世界遺産である「田島弥平旧宅」の案内所として活用されています。
[参考]
・Go!伊勢崎HP「島村の歴史年表・関連書籍、パンフレット」
今回の拓本公開企画展には、
埼玉民俗の会・理事の矢嶋正幸さんも来場されていました。
矢嶋さんは現在、埼玉県立川の博物館で企画展を担当されているほか、
上武の県境や妻沼・深谷・本庄地域の歴史について、数多くの優れた論文を発表されている研究者です。
その矢嶋さんから、7月15日に開催されるシンポジウムのご案内をいただきました。
テーマは 「伝統漁法『瀬張漁』の今を見つめる」。
地域の自然と暮らしを見つめ直す、とても興味深い内容です。
当日の案内ポスターを下に添付いたします。
ご関心のある方は、ぜひ足を運んでみてください。
■ 公開シンポジウム 『伝統漁法「瀬張漁」の今を見つめる』
■ 日時:7月25日(土) 13:00〜16:00
■ 場所:立正大学熊谷キャンパス 19号館(アカデミックキューブ)A101教室
■ 要予約









































