2021年8月25日(水) 「渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会」の蛭川隆司氏と、「北関東宮彫研究会会員」の青柳宣雄氏、「渋沢栄一記念館」解説員の木村栄一氏の3名の方が戸谷八商店に来てくださいました。

~「花輪の彫刻師集団」と「中瀬河岸と鎌倉街道」「渋沢栄一翁と南牧村・信州佐久とのかかわり」等について~

 

戸谷八稲荷前にて(左から蛭川隆司氏・青柳宣雄氏・木村栄一氏)
戸谷八稲荷前にて(左から蛭川隆司氏・青柳宣雄氏・木村栄一氏)
戸谷八離れにて(左から(左から木村栄一氏・青柳宣雄氏・蛭川隆司氏)
戸谷八離れにて(左から(左から木村栄一氏・青柳宣雄氏・蛭川隆司氏)

 

2021年8月25日(水) 「渋沢栄一翁と論語の里 ボランティアの会」の蛭川隆司(ひるかわ たかし)氏と、「北関東宮彫研究会会員」の青柳宣雄(あおやぎ のりお)氏「渋沢栄一記念館」解説員の木村栄一(きむら えいいち)氏の3名の方が戸谷八商店に来てくださいました。

 

蛭川氏は、先月(7月14日)にもご訪問くださり、渋沢栄一翁や神道無念流剣術家の大川平兵衛翁、日本の石油王と呼ばれた小倉常吉翁のお話を聞かせていただきとても勉強になりました。※7月14日の様子については、こちらをご覧ください。

 

今回は、「北関東宮彫研究会会員」の青柳宣雄氏と、「渋沢栄一記念館」解説員の木村栄一氏のお二方にはじめてお会いすることができて、とてもありがたく思っています。

 

 


◆あかがね(銅)街道と日光例幣使街道沿いに発生した彫刻師集団について

江戸時代中期~後期にかけて「あかがね(銅)街道」沿いと「日光例幣使街道」沿いに彫刻師集団が誕生し、北関東を中心に多くの作品を残しました。
江戸時代中期~後期にかけて「あかがね(銅)街道」沿いと「日光例幣使街道」沿いに彫刻師集団が誕生し、北関東を中心に多くの作品を残しました。

 

江戸の中期~後期にかけて、渡良瀬川に沿ったあかがね(銅)街道と、日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)沿いには、日光東照宮妻沼歓喜院聖天堂(めぬまかんぎいんしょうてんどう)の彫刻に携わった彫物師の集団が存在していました。

その中でも花輪(現在の群馬県みどり市花輪)の高松又八(たかまつまたはち)の弟子たちは、妻沼の聖天堂をはじめ、北関東を中心に多くのすぐれた作品を残しています。花輪の高松又八をリーダとする彫刻師集団の手掛けた作品のうち、「横瀬神社」(埼玉県深谷市横瀬)についてはこちらをご覧ください

 

《高松又八をリーダーとする「上州彫刻集団」の系譜》

高松又八(彫物師の祖)ー石原吟八郎(又八の弟子)ー前原藤次郎・関口文治郎(吟八郎の弟子) 

 

花輪の彫刻師集団が手掛けた「妻沼聖天山の国宝・歓喜院聖天堂の彫刻」

※4trave.jpより

 

■あかがね(銅)街道とは

江戸時代初期、慶安2年(1649年)、足尾の銅を江戸に運ぶために幕府が制定した街道です。

足尾から採掘された銅を、馬の背に乗せて利根川の河岸まで運び、船で江戸まで送りました。

 

 

■日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)とは

江戸時代、朝廷は日光に改葬された徳川家康の神霊にに奉幣(ほうへい)(神に供える品物を納めること)を行う勅使(ちょくし)(天皇の使者)を毎年派遣しました。これらの人々を例幣使(れいへいし)といい、彼らが利用した街道であることから日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)と名付けられました。京都から中山道を通って上州倉賀野宿へ。 倉賀野の東で中山道から別れて日光に向かいました。

日光例幣使として選ばれたのは公家の人々で、この制度は正保3年(1646年)から慶応3年(1867年)までの221年間、一回も中止することなく続けられたそうです。

 

一行は50~70人ほどの集団で、毎年4月1日に京都を出発し、中山道・例幣使街道を通り、4月15日に日光に到着しました。そして16日に持参した供え物を納め、帰りは宇都宮、江戸を経由し東海道で京都に帰るのが一般的でした。

 

■あかがね(銅)街道と日光例幣使街道とが交わる「木崎(きざき)宿」

「木崎宿碑」
「木崎宿碑」

あかがね(銅)街道と、日光例幣使街道の交わるところに、「木崎(きざき)宿」がありました。木崎宿は、足尾銅鉱山関係者が数多く利用した事もあり、文化元年(1804年)の旅籠の数は27軒程でしたが後に63軒となり日光例幣使街道最大の宿場町となりました。

 

■中山道と日光例幣使街道とが交わる「倉賀野(くらがの)宿」

『倉賀野宿の分岐点』
『倉賀野宿の分岐点』

 

倉賀野宿東にある分岐点(ぶんきてん)には、石造りの『道しるべ』と『常夜灯(じょうやとう)』がが建てられています。

「倉賀野(くらがの)宿」は、中山道と日光例幣使街道の追分(おいわけ・街道の分岐点)の宿場町として、さらには利根川支流・烏川の倉賀野河岸への物資の集散地としても賑わいました。最盛期に舟問屋74軒、舟運船150余艘が活動していたとされています。

 

倉賀野宿の分岐点にある『道しるべ』
倉賀野宿の分岐点にある『道しるべ』

※道しるべは高さ1.64mで、西面には『従是右江戸道 左日光道』、東面には『南無阿弥陀仏 亀涌水書』とあります。 

 

『常夜灯』
『常夜灯』

※高さ3.73mで、西面には『日光道』、南面に『中山道』、北面に『常夜燈』、東面に『文化十一年(1814)甲戌正月十四日 高橋佳年女書』と刻まれています。

また、基台には312名の寄進者の名が刻まれています。その中には江戸時代の有名力士、雷電為右衛門(らいでんためえもん)の名も見られます。本庄宿からも、戸谷半兵衛・森田市郎左衛門・森田助左衛門・内田伊左衛門・神岡玄俊・紅葉屋孫兵衛など、18名が寄進者として名を連ねています。

 

 


■鹿沼(かぬま)の彫刻屋台

 

鹿沼宿は、日光例弊使街道壬生通り(みぶどうり・日光西街道)の宿場町であったことから、日光東照宮の彫刻師が冬、仕事が無く下山し、あるいは、日光の帰り道に宿場や村の依頼により造ったものであるという伝承があります。

毎年10月の今宮神社の例祭(鹿沼の秋祭り)に、鹿沼の屋台行事が行われます。

祭りに繰り出される彫刻屋台が、全部で38台あり、その中でも江戸時代に建造された13台と当時の彫刻をつける1台、合わせて14台の屋台が鹿沼市の有形文化財に指定されています。屋台の彫刻は、主に後藤家、磯部家、石塚家が手掛けています。

 

※鹿沼の屋台作者についてはこちら(鹿沼市HP「屋台作者」)

※屋台用語についてはこちら(鹿沼市HP「屋台用語」)

 


◆青柳宣雄氏からいただいた北関東彫刻師とその作品の資料

青柳宣雄氏からいただいた資料
青柳宣雄氏からいただいた資料

 

「北関東宮彫研究会会員」の青柳宣雄(あおやぎ のりお)氏から、北関東の彫刻師集団について、ご自身が長年研究されてきたものをまとめられた資料をいただきました。

 

上州彫刻師集団系譜図や、北関東の彫刻師とその作品、それを年代順にまとめたもの、大谷政五郎とその一門の作品について、横瀬神社(深谷市横瀬)本殿の彫刻について等の貴重な研究資料です。心より感謝申し上げます。

 

 

◆鹿島神社(深谷市下手計)

 

青柳氏からいただいた資料をもとに、鹿島神社(深谷市下手計)に行ってきました。

鹿島神社は、尾高惇忠翁の生家がある下手計の鎮守です。

 

■「藍香尾高翁頌徳碑(らんこう おだかおう しょうとくひ)」

尾高惇忠翁の偉業を伝える巨大な碑です。

碑の題字は、徳川慶喜の揮毫で、碑文は三島毅、書は日下部東作(鳴鶴)によるものです。

 

 

■鹿島神社 拝殿

渋沢栄一翁による『鹿島神社』
渋沢栄一翁による『鹿島神社』
尾高惇忠の子、次郎氏による『克己復禮』
尾高惇忠の子、次郎氏による『克己復禮』

尾高次郎氏は、惇忠翁の次男です。

渋沢栄一翁の下で銀行家として活躍し、武州銀行(現在の埼玉りそな銀行)を設立し初代頭取となりました。

 

 


 

本殿は覆屋内部に収められていたため、外からはみることができませんでしたが、隙間からほんの少しだけ、精緻な彫刻を見ることができました。

 

「『宮彫(みやほり)』とは寺社の建物などに施された木彫りの彫刻の事で、『江戸彫』あるいは『透かし彫』とも呼ばれている。

社寺建築は日光東照宮の建築様式に影響を受け、江戸時代後期に華麗な建物様式に変化し、建物の周りには精巧で緻密な彫刻が施されるようになった。

そして、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である『例幣使街道』沿い、また、足尾銅山から群馬の平塚河岸まで銅を運ぶ道、『銅(あかがね)街道』沿いに高松又八をリーダーとする彫刻師の集団が発生した。いわゆる『上州彫刻師集団』である。大谷政五郎も高松又八の流れを汲む『上州彫刻師集団』の中の彫刻師である。」※『深谷市下手計の彫刻師 大谷政五郎とその一門 鹿島神社・本殿』(北関東宮彫研究会 青柳宣雄著)より

 

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大谷政五郎は、深谷市下手計出身の彫刻師で、高松又八の弟子たちの一人です。

 

《高松又八→江戸の吉田茂八の系譜》 

高松又八(群馬の花輪)ー吉田茂八徳章(江戸)ー後藤茂右衛門(江戸橋本町)ー磯部儀左衛門(栃木の冨田)ー大谷政五郎(深谷市下手計)

 

※後藤茂右衛門は、妻沼の聖天堂(国宝)の彫刻に携わりました。

※磯部儀左衛門は鹿沼の彫刻屋台を手掛けています。

※大谷政五郎は、磯部儀左衛門の弟子です。

鹿島神社の他に、大谷政五郎関連の作品として、安養院地蔵堂(深谷市高島)、戸谷塚諏訪神社(伊勢崎市)、妙光寺本堂(深谷市下手計)、源勝寺(深谷市岡部)、平石馬頭尊堂(秩父市吉田久長)、八宮神社(埼玉県小川町)、摩多利神社(熊谷市妻沼)、慈眼寺(甘楽郡南牧村)、蛭川家の大黒天(深谷市下手計)等があります。(青柳宣雄氏著『深谷市下手計の彫刻師 大谷政五郎とその一門』より)

 

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青柳宣雄氏の資料はとてもわかりやすく、「親子龍」「猩々(しょうじょう)」「李白観瀑図(りはくかんばくず)」「韓信の股くぐり」「周の武王(ぶおう)」「普賢菩薩と文殊菩薩」等、題材についても丁寧に解説してくださっていて、とてもありがたかったです。

戸谷塚の諏訪神社については、以前から関心があったので、本殿の彫刻は、深谷市下手計出身の大谷政五郎や飯島初五郎が手掛けているということで、とても興味深かったです。

蛭川氏の家に、花輪の彫刻師集団の一人である大谷政五郎の作品(大黒天)があることも知って感動しました。

 

今後、青柳氏の資料を参考にさせていただきながら、作品を実際に目にして北関東の彫刻師集団の作品を味わっていきたいと思いました。

 

 


◆中瀬を通る鎌倉街道について

 

蛭川氏から、中瀬にも、鎌倉街道が通っていたことをお聞きしました。 

 

深谷市は、北に利根川が流れ、「中瀬河岸(なかぜかし)」があり、江戸との物資・人の往来の中継基地として、大いに栄えました。 

 

■中瀬河岸(なかぜかし)

中瀬河岸は、正徳2年(1712年)、江戸城紅葉山(もみじやま)御殿の材木を、「河十(かわじゅう)」問屋が秩父から買い付け、中瀬河岸から送って以降急速に発展したとのことです。

 

■鎌倉街道道跡の碑

深谷市を通る鎌倉街道
深谷市を通る鎌倉街道

  

「鎌倉時代、源頼朝(よりとも)が中瀬の渡しを渡り新田の荘へ通ったと吾妻鑑に載っている。元弘(げんこう)3年(1333年)新田義貞(よしさだ)生品神社(いくしなじんじゃ)で挙兵し鎌倉に攻め上った軍勢の進撃路は諸説あるがこの辺りで利根川を渡ったのではないか。 目印にしたと伝わる深谷市高島の榧(かや)の木はこの碑から300mの位置にある。日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)が対岸を通る。江戸時代、中瀬は利根川の渡船場として栄えた。」※ 深次郎氏HP「深谷市中瀬の史跡めぐり(1/4)の『①鎌倉街道跡の碑』」より 

 

■高島諏訪神社の榧(樹齢1200年)

「高島の榧(かや)」 ※深谷市指定天然記念物
「高島の榧(かや)」 ※深谷市指定天然記念物

◆島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)

 

蛭川氏から、岡部みちの駅の裏にある『島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)』(埼玉県深谷市岡3354)についてもお聞きしました。

 

 

『島護(しまもり)』というのは、このあたりにある”島”や”瀬”のつく地名の地域(四瀬八島・よせはっとう)が、利根川の氾濫でたびたび大きな被害を受けたため、この神社を地域の守護神として信仰したためといわれています。

天明3年(1783年)の浅間山の噴火による利根川の氾濫の時に、この地方で災難を免れることができたのは「島護産泰神社」の霊験によるものと言われました。

 

「四瀬八島」(薄黄色は利根川の氾濫によって作られた微高地・自然堤防) ※国土地理院地図・治水地形分類図をもとに作成
「四瀬八島」(薄黄色は利根川の氾濫によって作られた微高地・自然堤防) ※国土地理院地図・治水地形分類図をもとに作成

 

「四瀬八島(よせはっとう)」とは、四つの瀬と、八つの島に由来します。

 

■四瀬

横瀬(よこぜ)、中瀬(なかぜ)、滝瀬(たきせ)、小和瀬(こわぜ)

■八島

南西島(みなみにしじま)、北西島(きたにしじま)、大塚島(おおつかじま)、内ケ島(うちがしま)、高島(たかしま)、矢島(やじま)、血洗島(ちあらいじま)、伊勢島(いせじま)

 

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※深谷城(現在の深谷小学校および深谷城址公園付近)は、古河公方(こがくぼう)の侵攻に備えて、深谷上杉氏の上杉房憲が、深谷の櫛挽台地(くしびきだいち)の北端部付近に築き、その周辺に城下町が形成されたことを教えていただきました。

本庄城も、深谷城と同様に、本庄台地の北端に築かれているので、とても興味深かったです。

 

※深谷市は北部には、利根川の運んだ土砂等でできた肥沃な低地「妻沼低地(めぬまていち)」が広がり、南部には荒川が運んだ土砂等でできた扇状地「櫛引台地(くしびきだいち)」が広がっています。

 

 

 

島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)

 当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。

 当社を島護(”とうご”等とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。

 また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一○日の春祭には、里神楽が奉納される』(案内板より)

 

 


◆『馬喰い(うまくい)さつき』の話

~南牧村(なんもくむら)に栄一翁が訪れた際のエピソード~

 

蛭川氏は、渋沢栄一翁とかかわりのある南牧村(なんもくむら)の市川圭三さんのお話を聞かせてくださいました。

 

市川さんは、2021年3月28日のNHK大河ドラマ「青天を衝け 紀行(第7回)」『馬喰いさつき』の逸話の中で登場した子孫の方です。

栄一翁が青年の頃、藍玉を売るために信州の取引先を訪れていました。南牧村の市川さんの先祖・嘉兵衛さん宅はそのひとつでした。2人が藍玉の商談中、庭先につないでいた栄一翁の馬が市川さんの鉢植えのサツキを食べてしまったといいます。

栄一翁はおわびに、紙に「愛染明王(あいぜんみょうおう)」の文字と年月日を書いて、嘉兵衛さんに渡しました。氏名は出世後に書くと約束し、弁償を免れたとされています。 

 

その後、嘉兵衛さんはサツキを鉢から畑に植え替え、栄一翁が書いた文字は記念に石に刻んだとのことです。

 

 

栄一翁と藍玉の取引をした市川嘉兵衛さんの子孫、市川圭三さん
栄一翁と藍玉の取引をした市川嘉兵衛さんの子孫、市川圭三さん
「愛染明王」の石碑
「愛染明王」の石碑

◆渋沢栄一翁と藍玉の取引をしていた市川さん

 

市川さん(南牧村大日向)の家は紺屋(こうや)を営んでいましたが、その後は酒屋になり、圭三さんが生まれた頃は養蚕と農業をおこなっていたとのことです。

 

市川圭三さんの家には、当時、「渋沢家と取引していた紺屋名が記された書類(血洗島 澁澤市郎右衛門の名前入り)」や、藍染をする際に使われた大量の「型紙(かたがみ)」が残されているとのことでした。

 

蛭川氏のお話をお聞きして、今回の南牧村の市川さん邸や、先日お伝えした神川町渡瀬の浅田氏邸など、実際に渋沢家と藍玉の取引をしていた家が、埼玉県・群馬県内に数多くあることを実感することができて、大変勉強になりました。

 

NHK大河ドラマ『青天を衝け』紀行の中で紹介されてから、市川さん邸には栄一翁のファンが何人も訪れているとのことです。

 

「栄一翁の父 市郎右衛門から送られた藍玉取引の文書」 ※右上の割印に『血洗島 渋澤市郎右衛門』の文字や、吉井町・福島町・一宮町・下仁田町など近隣の取引先の名前が見えます。
「栄一翁の父 市郎右衛門から送られた藍玉取引の文書」 ※右上の割印に『血洗島 渋澤市郎右衛門』の文字や、吉井町・福島町・一宮町・下仁田町など近隣の取引先の名前が見えます。
染め物の「型紙」(市川家所蔵)
染め物の「型紙」(市川家所蔵)

(参考)型染めの技法

ニッポンのワザドットコム「藍形染作家」より

(「型染め(かたぞめ)」とは、型紙を使って布の上に防染糊(ぼうせんのり)を置き、染液に浸して染め、水洗いで糊(のり)を落として模様を表す染め方です。)

 

 

◆血洗島から信州佐久まで栄一翁がたどったルートについて

 

当時、血洗島から信州佐久までどのようなルートをたどったかについて教えていただきました。

栄一翁は、「下仁田(しもにた)」から「南牧村(なんもくむら)」を経由して、「星尾峠(ほしおとうげ)」を越えて「信州佐久」へたどったとのことです。

 

 

※中山道は天下の公道のため、貨物は宿々で庭銭を払い、常備の伝馬で継ぎ送りするのが原則でした。そのため、費用と時間を節約するため、渋沢家はじめ、民間の物流は脇道の利用が多かったとのことです。(佐久市HP『五郎兵衛記念館 館長の豆知識第2回 渋沢栄一を守り育てた佐久と古文書の世界』より)

 

※渋沢栄一伝記資料の『雨夜譚会談話筆記』の中に、上州から信州へ抜ける峠は、北から順に、碓氷峠、香坂峠、志賀峠、内山峠、戸沢峠(星尾峠)等があったことが述べられています。栄一翁は、積雪期の「香坂峠」越えで遭難しかけた際に、佐久の老夫婦によって命を助けられたエピソードを紹介しています。栄一翁が「香坂峠」で九死に一生を得た時のエピソード(『雨夜譚会談話筆記』下・第778-781頁 渋沢栄一記念財団(DK010008k-0013)第1巻 P207-208 より

 


栄一翁とゆかりのある上州南牧村と信州佐久の人たち

◆栄一翁が滞在した羽沢館(市川五郎兵衛邸)

~南牧村羽沢館の市川家と交流を続けていた渋沢栄一翁~

南牧村民俗資料館(市川五郎兵衛屋敷・羽沢館)
南牧村民俗資料館(市川五郎兵衛屋敷・羽沢館)
南牧村民俗資料館裏にある「市川五郎兵衛の墓」(南牧村羽沢)
南牧村民俗資料館裏にある「市川五郎兵衛の墓」(南牧村羽沢)

 

上野国甘楽郡羽沢村、現在の群馬県南牧村羽沢(なんもくむら はざわ)にある「羽沢館(はざわかん)」は、市川五郎兵衛の屋敷です。現在、城跡には南牧村民俗資料館が建っています。

栄一翁は、信州佐久に向かう途中、羽沢の市川五郎兵衛邸に滞在していたということです。

 

「道は藤岡道とか、小幡道ともいわれた脇道で藤岡・富岡・下仁田を経て南牧谷へ入ります。渋沢たちは市川五郎兵衛家の羽沢館に逗留し、そこから一気に星尾集落・戸沢峠(星尾峠)そして信州佐久内山峡という道筋を選ぶこともありました。

それは漢詩・漢籍に深く心を寄せる栄一と尾高にとって、羽沢館の市川一族には、書家、漢詩人の市川米庵・万斎がいたり、また、五郎兵衛眞信※の五男健吾は文政12年(1829)生れ、尾高惇忠は文政13年(1830)、健吾の弟、万平は天保10年(1839)生れ、渋沢栄一は天保11年(1840)と、市川兄弟と渋沢・尾高は年恰好も同じこともあり生涯変わらない交際を続けることになります。」※佐久市HP五郎兵衛記念館館長の豆知識⓸世界遺産『官営富岡製糸場』と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たちより

 

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【参考 市川氏について】

 

市川五郎兵衛眞信「五郎兵衛用水(佐久市)」を作った市川五郎兵衛真親(さねちか)から数えて6代目にあたります。

 

市川五郎兵衛真親(さねちか)は、羽沢城(はざわじょう)の5代目城主でした。戦国時代の元亀2年(1571年)ころに羽沢村(現群馬県南牧村)に生まれ、市川家は甲斐国の武田家につかえていました。ところが、五郎兵衛が生まれてまもなく武田家は滅びてしまいます。これによって市川家は主を失ってしまいますが、それを見た徳川家康から仕官の誘いがあったと伝えられています。

 

※市川氏の先祖は、新羅三郎(清和源氏源義光)で、平安時代、市川氏は山梨県甲斐国八代郡市川荘を賜り、居を構えていました。南北朝の争乱時南朝側(新田氏)についた市川氏は足利氏に敗れ、市川荘から南牧村に移り住み、その後、武田氏の臣下となったとのことです。(「市川五郎兵衛と新田開発」栗田亘著 PDF2.74MBより)

 

※南牧村と下仁田町には「武田勝頼の嫡男・信勝の落ち延び伝説」があります。

天正10(1582年)年3月織田・徳川連合軍による武田家滅亡の折、武田勝頼の嫡男・信勝は実は天目山で自害しておらず、土屋山城守高久という武士に連れられて、南牧村の「羽根沢」に落ち延びたという伝説です。なお、生き延びた武田信勝はその後、息子信義とともに大坂の陣(慶長19年:1614)に豊臣方として出陣し、信勝は武運拙く戦死しましたが、信義は無事で、父信勝の首級を携えて帰国し、武田の姓を隠して、市川四郎兵衛貞吉の分家として、現下仁田町大桑原にその居を構えたという伝説です。※(参考)「武田信勝は上州下仁田へ落ち延びたか」「上野の戦国史」「山城めぐり」

 

※市川五郎兵衛真親(さねちか)から6代目にあたる五郎兵衛眞信の5男健吾は、後に藤岡市の折茂家に養子入りし、明治11年(1878年)には緑野・多胡・南甘楽の初代郡長となっています。「高山社」の創業者高山長五郎を陰ながら支えました。

五郎兵衛眞信の6男万平は、熊谷宿本陣の竹井家を継ぎ、慶応3年(1865年)、14代当主竹井澹如(たけい たんじょ)です。(竹井澹如の二女「三知」は、本庄宿の旧家「諸井恒平」の妻です。)

澹如は、荒川の水害を防ぐため私財を投じて「万平出し」と呼ばれる突堤(とってい)を築きました。その他、荒川桑園の開拓、渋沢栄一翁らとの埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)の創立等、郷土の振興発展に尽くしました。※(参考)「佐久市HP五郎兵衛記念館館長の豆知識⓸世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち」より

 

※市川五郎兵衛真親(さねちか)の墓は、長野県佐久市五郎兵衛記念館の横にもあります。寛文5年(1665年)9月9日五郎兵衛は94歳で亡くなり、遺言によって矢嶋原の救里が丘(木瓜峯・きうりみね)に葬られました。村人たちは五郎兵衛の徳を慕ってその場所に「真親神社(さねちかじんじゃ)」を建て、村の名前を五郎兵衛新田村としました。 

 

※儒学者の市河寛斎、書家の市河米庵、万庵(英語学の祖・市河三喜の父)は、上州の南牧村大塩沢の市川家から出ています。

もともと、南牧村羽沢の市川家(五郎兵衛新田を開発した五郎兵衛真親の市川家)と、南牧村砺沢の市川家、南牧村大塩沢の市河家(寛斎・米庵の市河家)は、同じ先祖で、市川五郎兵衛真親の曽祖父の時代に、長男は砺沢村へ、次男は羽沢村へ、三男は大塩沢へというように分かれたとのことです。(『郷土のしおり西上州』より

(※市河三喜の妻は、渋沢栄一翁の曾孫・晴子です。晴子は、栄一翁と千代の長女・歌子と穂積陳重の三女です。)

 


◆佐久市の偉人 市川五郎兵衛(いちかわごろべえ)について

(1571年~1665年)

~家康からの仕官の誘いを断って、「殖産開拓許可の朱印状」をもらい、南牧村砺沢の砥石山の鉱山経営や、佐久市の新田開発等地域に貢献した~

 

文禄2年(1593年)12月16日、徳川家康から大久保長安を通して授けられた朱印状(市川恒世氏所蔵)
文禄2年(1593年)12月16日、徳川家康から大久保長安を通して授けられた朱印状(市川恒世氏所蔵)

※佐久市HP(佐久の先人検討事業「市川五郎兵衛」PDF1,188KB)より

 

市川五郎兵衛真親(さねちか)は、戦国時代の元亀2年(1571年)ころに、上野国甘楽郡羽沢村(はざわむら)、現在の群馬県南牧村羽沢(なんもくむら はざわ)に生まれました。

そのころ市川家は、甲斐国の武田家につかえていました。五郎兵衛の家は武士の家だったのです。

ところが、五郎兵衛がまだ幼いころに武田家が滅びてしまい、市川家は主を失ってしまいました。

これをみた徳川家康から、江戸に来て家来になるようにたびたび誘われました。

しかし、五郎兵衛は、「志すでに武に非ず、殖産興業にあり」と返答してその誘いを断りました。代わりに、家康は、大久保長安を通して「家康の領地内ならどこでも自由に鉱山開発・新田開発をしてよろしい」という朱印状を五郎兵衛に授けました。文禄2年(1593年)12月16日のことでした。

市川家は武士をすてて、鉱山開発・新田開発という事業の道を選んだのです。

こうして五郎兵衛は、この「朱印状」を根拠にして、隣村の砥沢村(とざわむら)、現在の南牧村砥沢(なんもくむら とざわ)で鉱山の一種である砥石山(といしやま)の経営を行い、朱印状を与えらえて20年後には、信州佐久地方へやってきて、新田開発を行いました。 

 

佐久市HP(五郎兵衛記念館)

漫画でわかる!市川五郎兵衛物語(PDF:444KB)※五郎兵衛記念館HP

■佐久市HP(佐久の先人検討事業「市川五郎兵衛」PDF1,188KB)

■市川五郎兵衛による五郎兵衛新田の開発(斎藤 洋一著)PDF927KB 

 

◆全国でも有数の砥石産地~砥石山の「砥石採石場跡」

 

群馬県南牧村の砥沢(とざわ)地域は、合成砥石(ごうせいといし)が普及する20世紀半ばまで、全国でも有数の砥石産地でした。16世紀半ばに砥石の採掘が始まり、江戸時代には幕府指定の御用砥(ごようと)の産地として発展しました。

 

砥石は当時の生活に欠かせないものでした。武士が刀を手入れするのも砥石、農民が鍬や鎌などを研ぐのも、町民が包丁などを研ぐのも砥石でした。

 

産出した砥石は、富岡を経由して江戸まで運ばれました。

 

砥石を採掘していた「砥石山の採石場跡」(群馬県甘楽郡南牧村砺沢)
砥石を採掘していた「砥石山の採石場跡」(群馬県甘楽郡南牧村砺沢)
砥石の採石と搬出に携わった人たち(最盛期には500人が携わっていたそうです。)
砥石の採石と搬出に携わった人たち(最盛期には500人が携わっていたそうです。)
南牧村の採石場の貴重な写真や絵図(南牧村民俗資料館所蔵)
南牧村の採石場の貴重な写真や絵図(南牧村民俗資料館所蔵)

◆砥石が江戸まで運ばれたルートと富岡の発展

~南牧村で採掘された砥石(といし)は、下仁田、富岡を経由して、倉賀野まで荷駄で運ばれ、そこから水運で江戸に運ばれた。中継地点の富岡は、砥石を契機に発展した~

南牧村で採掘された砥石(といし)は、下仁田、富岡を経由して、倉賀野まで荷駄で運ばれ、そこから水運で江戸に運ばれました。

 

「砥石は重いから船で運べれば効率が良いのだが、南牧川や鏑川は船で運ぶには水量が少ない切り出された砥石は、砥沢から下仁田・富岡を経て藤岡(倉賀野)まで馬で運ばれ、その後は船で江戸に運ばれたらしい。中継地点の富岡は砥石を契機に発展したという。1955年(昭和30年)に出版された『富岡史』は、『砥石輸送と富岡』の項(83-118頁)の冒頭で、『砥沢砥が無かったならば、富岡という町は生まれなかったとも云へる』と指摘している。中継地点として下仁田や藤岡も潤ったと思われる。」

 

 

◆私財を投じて開削された「五郎兵衛用水(ごろべえようすい)」

~南牧村砥沢で砥石山(といしやま)経営を行ったあと、市川五郎兵衛は、砥石山で培った高度な土木技術を生かしながら、信州佐久地方の人々のために全長約20kmの「五郎兵衛用水」を開削した~

 

取水口が蓼科山(たてしなやま)の山麓にある全長20kmの「五郎兵衛用水」
取水口が蓼科山(たてしなやま)の山麓にある全長20kmの「五郎兵衛用水」

全長約20kmの五郎兵衛用水が支える肥沃な地「五郎兵衛新田」

※佐久市YouTube動画(世界かんがい施設遺産 五郎兵衛用水)より

 

市川五郎兵衛は、砥石山(といしやま)の経営を行い、信州佐久地方へやってきました。

当時、矢嶋原(やしまはら・旧五郎兵衛新田村・現佐久市浅科地区)は、不毛の草原でした。水田を作るために必要な用水がなかったからです。

五郎兵衛は、「水さえ引ければこの地を甦らせることができる」と考え、徳川家康からもらった朱印状をもとに、寛永3年(1626年)、市川五郎兵衛は小諸藩から正式に新田開発の許しを得て、用水の整備と新田開発の大事業をはじめました。

 

矢嶋原(やしまはら)は、千曲川(ちくまがわ)の河岸段丘上にあり、水量豊富な千曲川からの取水は不可能でした。

五郎兵衛は3年半かけて蓼科山に取水口を探し出し、蓼科山(たてしなやま)の山麓から、全長約20kmの用水を作りました。

 

用水を開削するためには大量の資金・労働力・高度な土木技術が必要でした。

資金には、南牧村で採掘された砥石(といし)を売ったお金が使われました。

 

五郎兵衛用水は、江戸時代初期としては最先端の土木技術が採用されていました。

起伏の激しい地形に合わせ、トンネルの掘削(くっさく)や川の上を通す水路橋、平坦地のように見えても窪地となっている場所には、盛り土を行って水路を造成する築堰(つきせぎ)など、江戸時代初期としては最先端の技術が採用されていました。五郎兵衛は、トンネルの掘削時には、南牧山の砥石山で働いていた技術者を呼び寄せ、測量の仕方や、ノミの使い方を佐久の人々に教えたと伝えられています。 

こうして、5年の歳月をかけた寛永8年(1631年)ころ、用水路が完成しました。現在、市川五郎兵衛が私財を投じてつくった用水は、「五郎兵衛用水(ごろべえようすい)」と呼ばれています。 五郎兵衛用水によって地域は発展し、中山道の宿場町としても繁栄しました。

 

「五郎兵衛用水」は、2018年、「世界かんがい施設遺産」に登録されています。  

 


◆栄一と生涯交流が続いた市川五郎兵衛の子孫たち

■熊谷市の偉人 竹井澹如(たけい たんじょ)

竹井澹如(たけい たんじょ)天保10年(1839年)~大正元年(1912年)
竹井澹如(たけい たんじょ)天保10年(1839年)~大正元年(1912年)
「竹井澹如翁碑(たけいたんじょおうひ)」 ※万平公園内の旧熊谷堤の上に建立されています。
「竹井澹如翁碑(たけいたんじょおうひ)」 ※万平公園内の旧熊谷堤の上に建立されています。

市川五郎兵衛の子孫に、「万平(まんぺい)」がいます。

万平は、五郎兵衛から数えて6代目にあたる五郎兵衛眞信の6男として上野国甘楽郡羽沢村(現群馬県甘楽郡南牧村)で生まれました。

14歳の時に江戸に出て、慶応元年(1865年)、熊谷宿本陣の竹井家を継ぎ、14代当主竹井澹如(たけい たんじょ)と名乗りました。

 

澹如(たんじょ)は、政治面の関心が高く、明治12年(1879)初代の埼玉県議長になり、政治面で活躍しました。

中央政界の大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとも親交があり、明治6年(1873年)陸奥宗光に働きかけて熊谷県誕生に尽力したことでも有名です。

 

教育面では、明治35年(1902年)、渋沢栄一翁、本多静六、諸井恒平らとともに、埼玉学生誘掖会(さいたまがくせい ゆうえきかい)を設立し、在京の埼玉県出身の苦学生のために寄宿舎の建設と奨学金等、学生支援を行いました。(※埼玉学生誘掖会についてはこちらもご覧ください。)

 

澹如は、慶応年間に鎌倉町に別邸を置き、池亭と回遊式庭園を設けました。ここには、昭憲皇太后や渋沢栄一翁、大隈重信、徳富蘇峰など多くのの名士が来遊し、現在は市指定名勝「星溪園(せいけいえん)」となっています。

 

産業・土木関係においても大きな功績を残しました。明治2年(1869年)、前年に荒川が出水して北岸の堤防が決壊したことを受け、私財を投じて「万平出し」と呼ばれる突堤(とってい)を築き、熊谷の人々を水害から守りました。

 

その後、洪水から守られるようになった河川敷内農地に大量の桑の木を植え数十町歩に及ぶ広大な桑園を開拓し、地域の養蚕業の発展を図り、官営富岡製糸場の安定した経営を側面から支援しました。

 

竹井澹如の次女(三知)は、秩父セメントの創業者諸井恒平(もろいつねへい)の妻です。 (※諸井家についてはこちらへ)

 

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【参考文献】

■熊谷デジタルミュージアム(竹井澹如)

■佐久市HP 五郎兵衛記念館館長の豆知識⓸世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち

■埼玉学生誘掖会(さいたまがくせいゆうえきかい)HP

■渋沢栄一記念財団HP(38 学生寄宿舎の世界と渋沢栄一『埼玉学生誘掖会の誕生』)

 

■「星渓園(せいけいえん)」

~竹井澹如によって慶応年間から明治初年にかけて造られた回遊式庭園

「星渓園(せいけいえん)」 
「星渓園(せいけいえん)」 

※徒然なる阿弥慈の熊谷さんぽより

 

元和9年(1623年)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が、星川の源となりました。

澹如翁が、ここに別邸を設け、「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園としました。(熊谷市HP「星渓園」より)

 

 

■富岡製糸場の用地選定に貢献した折茂健吾・竹井澹如兄弟

B11433 富岡製糸場附近 鏑川南東よりの遠景。仮首長館と思われる建物が見える。(東京国立博物館所蔵写真)
B11433 富岡製糸場附近 鏑川南東よりの遠景。仮首長館と思われる建物が見える。(東京国立博物館所蔵写真)
B11438 富岡製糸場 建設中の繰糸所(東京国立博物館所蔵写真)
B11438 富岡製糸場 建設中の繰糸所(東京国立博物館所蔵写真)

『上州富岡製糸場之図』長谷川竹葉画 明治9年(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館所蔵)
『上州富岡製糸場之図』長谷川竹葉画 明治9年(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館所蔵)
富岡製糸場の初代場長 尾高惇忠翁
富岡製糸場の初代場長 尾高惇忠翁

※Wikipediaより

 

竹井澹如の兄は、藤岡市の折茂家を継いだ「折茂健吾(おりも けんご)」です。

明治11年(1878)には緑野・多胡・南甘楽の初代郡長に就任し、そして明治19年(1886年)57歳で退任するまでの35年間、地方行政発展のためにその半生を捧げました。

 

折茂健吾・竹井澹如兄弟は、明治5年(1872年)に建設された、日本で最初の官営模範製糸場『富岡製糸場』の用地選定の際にも貢献しました。

 

当時、建設用地を選定するためにはいくつかの条件があり、その中でも、広大な敷地の確保に栄一翁は苦心していました。

 

【官営模範製糸所 用地選定の条件】

●上州・信越地方には養蚕農家が多くあり良質の繭が集めやすい。

●蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる。

●近くを流れる川(鏑川)から製糸に必要な水が得られる。

製糸場を建設するための広大な用地が用意されている(整地をしなくてよいこと)。

 

富岡のこの地は、もともと、江戸初期に代官だった中野七蔵が、南牧の砥沢で採掘されていた砥石の輸送のための中継地のために新田開発(整地)をしていたところでした。しかし、人事異動により中野代官が他へ転出してしまったために、着工されることなく、予定地のみが残されていました。

 

折茂健吾・竹井澹如兄弟は、富岡のこの地を栄一翁に勧め、無事に富岡製糸場は竣工されることとなりました。初代場長には尾高惇忠が就任しました。

 

 

【参考文献】

■ものづくり総合大会(208 富岡が初の官営製糸場の地に選らばれたわけ)

■世界遺産富岡製糸場(歴史を学ぶ)

■佐久市HP 五郎兵衛記念館館長の豆知識⓸世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち

 

 


【信州佐久の木内芳軒】

◆栄一翁の学問の師匠 木内芳軒(きうち ほうけん)

~信州佐久郡下県村(現在の佐久市伴野)の大漢学者~

「木内芳軒」
「木内芳軒」

※写真提供:木内拓郎さん佐久歴史の道 案内人の会Twitterより

 

渋沢栄一翁は、藍玉の商いで信州を訪れた時はわざわざ回り道をし、木内芳軒(きうち ほうけん)宅で漢学を語るのを何よりの喜びとしていたそうです。

 

木内芳軒は、文政10年(1827年)信州佐久郡下県村(しもあがたむら・現在の佐久市伴野)の木内家の5男として生まれました。木内家は、佐久郡下県村(しもあがたむら・現在の佐久市伴野)の名主を代々つとめる、百石余りを有する豪農でした。父の善兵衛(ぜんべえ)は篤志家としてもよく知られ、代官から、善行を積み「積善の家」としてご褒美に名字を許すというお達しを受けた時も、誰でも行う人の道だからと、返上したということです。

 

芳軒は、幼少から南画や漢学を好み、佐久間象山とも親交がありました。

 

芳軒の開いた漢学塾「静古軒」からは多くの子弟が育ち、渋沢栄一翁もその一人でした。藍商人として信濃を訪れた栄一翁は、何度か芳軒のもとに滞在し、剣術を教える一方で芳軒からは学問を教わったといいます。

 

 

◆尾高長七郎を救った木内芳軒家族

 

文久2年(1862年)、老中安藤信正が水戸藩士らに襲撃される事件「坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)」が起きると、尾高長七郎は、幕府から追われる身となってしまいました。それを知った栄一翁は、4里(約16km)の道を駆けぬけて熊谷宿で長七郎を探し出し、江戸には向かわず京都にいくよう長七郎を説得しました。

 

渋沢家からの依頼を受けた木内芳軒家族は、命をかけて長七郎をかくまい京都までの逃避行を成功させました。 

 

◆木内芳軒に対する栄一翁の言葉

 

栄一翁は木内芳軒について、大正6年(1917年)5月15日の信州小諸での講演で次のように語っています。

「私は農業の暇に藍玉を商売しておりまして、御当地にも、なお南佐久にも、もしくは小県にも各地方を巡廻いたしまして、取引上の友達も沢山ございましたが、多少文学を好みましたために、千曲川の南辺でございましょうか下県という所に木内芳軒という人がありました。既に故人になられましたが、この人は詩作を巧みになさいまして、その遺稿もなお存しているようでございます。これらは最も記憶に留っている御一人でございます。原文は、青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本(DK570292k-0001)第57巻 P596

 

明治維新後、芳軒は栄一翁達から仕官の誘いを受けますが断り続け、束縛されない詩歌を賦す自由な日々を送っていました。しかし明治5年(1872年)芳軒は大病を患い46歳の若さで亡くなりました。

 

木内家の石碑「寄題木内氏吞山懐壑楼」

※佐久歴史の道 案内人の会Twitterより

 


◆『青天を衝け』のタイトルの基となった栄一翁の『内山峡之詩』

~藍玉の売り込みをするのと同時に、漢詩の世界を大切にしていた栄一翁~

 

渋沢栄一翁と尾高惇忠翁は、藍玉を信州へ売り込みの途中で『巡信紀詩(じゅんしんきし)』を著作しました。その中に栄一翁の長詩『内山峡之詩(うちやまきょうのし)』が収められています。

 

 

 

※花花日和より

大河ドラマのタイトルとなった『衝青天』の文字が刻まれています。

『内山峡詩碑』は、栄一翁他界から9年後の昭和15年(1940年)に地元の有志によって建立されました。

木内芳軒の外孫木内敬篤も、地元の有志の一人でした。

 


『内山峡之詩』

 

襄山蜿蜒如波浪  西接信山相送迎

奇険就中内山峡  天然崔嵬如刓成

刀陰耕夫青淵子  販鬻向信取路程

小春初八好風景  蒼松紅楓草鞋軽

三尺腰刀渉桟道  一巻肩書攀崢嶸

渉攀益深険弥酷  奇巌怪石磊々横

勢衝青天攘臂躋  気穿白雲唾手征

日亭未牌達絶頂  四望風色十分晴

遠近細弁濃与淡  幾青幾紅更渺茫

始知壮観存奇嶮  探尽真趣游子行

恍惚此時覚有得  慨然拍掌歎一声

君不見遁世清心士 吐気呑露求蓬瀛

又不見岌々名利客 朝奔暮走趁浮栄

不識中間存大道  徒将一隅誤終生

大道由来随処在  天下万事成於誠

父子惟親君臣義  友敬相待弟与兄

彼輩着眼不到此  可憐自甘払人情 

篇成長吟澗谷応  風捲落葉満山鳴

 

 

襄山(じょうざん)蜿蜒(えんえん)として波浪の如く 西は信山に接して相送迎す

奇険は就中(なかんずく)内山峡 天然の崔嵬(さいかい)けずり成すが如し

刀陰の耕夫 青渕子(せいえんし) 販鬻(はんいく)信に向ひて路程を取る

小春初八(しょうしゅんしょはつ)好風景 蒼松紅楓(そうしょうこうふう)草鞋(そうあい)は軽し

三尺の腰刀(ようとう)桟道(さんどう)を渉り 一巻の肩書崢(そう)こうを攀(よ)づ

渉攀(しょうはん)益々深くして険弥々(けんいよいよ)酷(きび)しく

奇巌怪石(きがんかいせき)磊々(らいらい)として横(よこた)はる

勢は青天を衝き臂(ひじ)を攘(かかげ)て躋(のぼ)り

気は白雲を穿(うが)ち手に唾(つば)して征(ゆ)く

日亭未牌(にっていびはい)絶頂に達し 四望の風色十分に晴る

遠近細辧(こまかにべん)す濃と淡と 幾青幾紅(いくせいいくこう)更に渺茫(びょうぼう)たり

始めて知りぬ壮観は奇険に存するを 真趣を探り尽くして遊子行く

恍惚として此(こ)の時得る有るを覚ゆ

慨然(がいぜん)として掌(しょう)を拍(う)って歎(たん)ずること一聲(いっせい)

君見ずや遁世清心(とんせいせいしん)の士 気を吐き露(つゆ)を呑みて蓬瀛(ほうえい)を求むるを

又見ずや名利に汲々(きゅうきゅう)たるの客 朝に弄(いじく)り暮に走りて浮栄(ふえい)を趁(お)ふを

識らず中間に大道の存するを 徒らに一隅を将(も)って終生(しゅうせい)を誤つ

大道は由来随所(ゆらいずいしょ)に在り 天下万事(てんかばんじ)誠(まこと)に成る

父子は惟(これ)親(しん) 君臣(くんしん)は義 友敬相待つ(ゆうけいあいまつ)弟(てい)と兄(けい)と

彼の輩(はい)着眼は此に到らず 憐れむべし自ら甘んじて人情を払うを

篇(へん)成りて長吟すれば澗谷(かんこく)応(こた)へ 風は落葉を捲(ま)いて満山(まんざん)鳴る

 

昭和十五年十一月廿四日建立 後学 木内敬篤 謹書

 

・・・・・・・・・・・・・

 

 【現代語訳】※「佐久市・佐久観光協会」の説明板より

高い(上州の)山は蛇のように曲がりくねり波の様である

西は信州の山に接して互いに送迎してくれる

とりわけ珍しく険しいのは内山の峡

天然の高く険しい山は、えぐられてできたようだ

刀の陰で田畑を耕す私、青淵子

商いのため、信州に向かって行程をとる

小春(旧暦10月)の八日、よい風景である

蒼い松、紅の楓、草鞋の足取りは軽く

三尺の刀を腰に差し、桟道を渉っていく

一巻の書を背負い、険しい山道をよじ登る

歩き回ること、ますます深くして、険しさはいよいよ過酷となる

奇妙な形をした珍しい岩々が数多く横たわっている

勢いは青天を突き刺すようで、うでまくりして登り

気持ちは白雲を貫き通すようで、手に唾をして行く

 

日は末牌(未の刻・午後2時)にいたり、頂上に達すれば

四方に望む風景は十分に晴れている

遠近が細やかに区別できる、濃淡によってである

幾つもの青、幾つもの紅、さらに果てしなく広い

初めて知った、壮観が珍しく険しいところにあることを

真の趣を探りつくす、旅人は行く

心を奮い立たせ手のひらをたたいて感嘆の一声を上げる

君は見ないのだろうか煩わしい世間を離れて暮らす清心の士が

気を吐き、露を呑み、神仙が住むという蓬瀛の山を求めるのを

また見ないだろうか(見てください)、あくせくして名誉や利益を求める客が

朝に向かって夕暮れに走って、はかない栄華を追うのを

極端ではない所に人の行う正しい道があることを知らずに

むなしく社会の片隅で人生をやりそこなう

人の行う正しい道は、もともと至る所にある

天下のすべてのことは、誠からなる

父子の関係は親(親愛)であり、君臣の関係は義(礼儀)である

愛情と敬意を、互いに持つ弟と兄とは

かの輩の着眼はここまで達していない

憐れむべきことだ、自ら人情に払いのけるのを甘んじて受け入れることは

詩が完成し、長き吟じれば谷がそれに応じる

風は落ち葉を巻き上げて、山全体が鳴り響く

 


◆「詩人」としての栄一翁

~山本七平氏著『渋沢栄一 近代の創造』から~

 

山本七平氏は、『渋沢栄一 近代の創造』の中で、渋沢栄一翁が若き日に詠んだ詩「内山峡之詩」を引用しながら、幕末から明治、大正、昭和の激動の時代を生き抜き、日本の基盤を築いたた栄一翁の心の風景を考察されています。

 

渋沢栄一は確かに『不倒翁』である。何しろ、幕末・明治・大正・昭和と生き抜き、さまざまな危機に遭遇しながら常に蹉跌なく社会で活動して行けたということ、それは『奇蹟』と言ってよいかも知れぬ。

そしてこのように長期間『不倒翁』でありつづけたことは、決して要領よく立ちまわったからではなく、時流に迎合しつづけたからでもない。(中略) 

彼の経験した社会の一大変化は『昭和史』の変化よりさらにすさまじいものであり、要領や迎合で対処できるような生やさしいものではなかった。(中略)

ではなぜ彼が『不倒』であり得たのか。

一言でいえば彼も藍香も詩人だったからである。

こういえば人は奇妙に思うかもしれぬ。また奇矯な弁を弄している誤解されるかも知れぬ。

それならば『詩作の人』と言ってもよい。

この場合、彼の作った詩が文学的に価値のあるものか否かは問題ではない。 

彼はどんな時でも『詩作』という、『自分だけの世界の人間』になり得たということである。いわば社会の変転の激しい時ほど、このような『不易』な『自己の世界』をもって、はじめて変転する社会に対応できるわけである。 

これが、現代では失われかつ忘れられている幕末・明治人の特質のひとつであろう。(p164-165)」

 

『自分の詩的世界をつくり、自らその中に居る能力』こそ人間のみが持つ『不易』なるものであろう。それは確かに人を『不倒』にしうるし、それがあれば変転する『流行』に対応しうる。(p182)」(『渋沢栄一 近代の創造』山本七平著・祥伝社より)

 

栄一翁は、幕末・明治・大正・昭和と激動の期間を生き抜き、どんなに現実の社会が不安定で混沌としていようとも、栄一翁の心の深部には、内山峡で詠んだような漢詩の世界があったのだと思います。

それこそが、栄一翁の人間性の深みであり、対立するものを昇華させながら軽やかに次々と新しいものを生み出していった栄一翁の力の源泉にもなっているのだと思いました。

 

 

 

◆諸井貫一氏が語った栄一翁

 

渋沢栄一翁は、死の間際、近親を集めて陶淵明の「帰去来の辞」を暗誦して聞かせ、「自分の心境はこれを出でない」と語られたとのことです。

 

私は澁澤翁といえば、いつも詩聖ゲーテを連想する。ゲーテは詩人であり、翁は主として我が国産業のために貢献された人であるから、その経歴には相違あるが、その精神生活は、共に非常に豊富であり、その発達は人間としてまれに見る最高度を示している。

 ゲーテは青年時代、イルメナウの森林をさまよい、一小屋にたどり着き、その壁間(へきかん)に大自然の静寂を詠んだ次のような詩を記した。

  山々の嶺に憩いあり/木々の梢に/そよ風の動きも見えず/

  鳥は林に声をひそめぬ/待て、しばし/我も休まん

 幾星霜(いくせいそう)の後、八十一歳の老齢に達したゲーテは、懐旧(かいきゅう)の情に堪えずイルメナウの森林にその小屋を訪れて、半ば朽ち傾いたその壁間に往年の詩を探り読んで、自分もやがて人生の休息に入ることを深く感じ、感極まって泣いたと伝えられる。

 

ちょうど翁も病没される直前、親戚の人々を枕元に集めて、陶淵明の帰去来の辞(ききょらいのじ)を暗唱して、自分の現在の心境はかくのごときものであると語られたという。その辞の一説に

  雲無心以出岫(くもむしんにして しゅうをいず)

  鳥倦飛而知還(とりとぶにうんで かえるをしる)

という句がある。自分はその心境の酷似せるに驚く。

翁にしろ、ゲーテにしろ、その死は大自然との合一であり、大自然への還元である。その死は同時に無限の生命への復活である。」(『週刊ダイヤモンド(2019年5月11日号)~諸井貫一(秩父セメント取締役)による渋沢栄一の思い出~』より)

 

※雲は無心に山裾から湧き上がり(雲のように無心に自在に、水にも似て千変万化しつつ、少しもとどこおることなく)、また鳥は、飛ぶのに飽きればおのずから巣に帰るように、自然法爾(じねんほうに)に生きることのたとえ。

 

 


◆蛭川隆司氏からいただいた『小倉常吉伝』

『小倉常吉伝』(奥田英雄著、小倉常吉伝刊行会、昭和51年11月発行)

『小倉常吉伝』より ※特約店招待会。中央やや右に立っているのが小倉常吉翁。
『小倉常吉伝』より ※特約店招待会。中央やや右に立っているのが小倉常吉翁。

 

ご訪問後、蛭川氏から、『小倉常吉伝』をいただきました。

幕末から明治にかけて、渋沢栄一翁(第一国立銀行創設)や、原善三郎(第二国立銀行創設)等、埼玉県北人は、発展途上の明治金融界をリードしていました。

小倉常吉もこれら先覚者の影響を受け石油王になりました。セメント王であった諸井家をはじめ、埼玉出身の経済人の活動についてこれからさらに勉強を重ねていきたいと思いました。

 

 

蛭川さん、青柳さん、木村さん、この度は、ありがとうございました!!