2021年11月7日(日) 【本庄早稲田の杜ミュージアム開館1周年記念】企画展『大隈重信と渋沢栄一展』に行ってきました。

~2021年10月15日に、本庄早稲田の杜ミュージアムは開館1周年を迎えました~

 

 

2021年10月15日に、本庄早稲田の杜ミュージアムは開館1周年を迎えました。その記念事業として開催された『大隈重信と渋沢栄一展』に行ってきました。(※開館時にミュージアムに行ったときの様子はこちらをご覧ください。)

 

本庄早稲田の杜ミュージアムHP

 

企画展では、渋沢栄一が塙保己一の偉業顕彰のために設立した温故学会に関連する資料や、青い目の人形、渋沢栄一の書、明治政府から大隈重信宛てに送られた役職任命の辞令、渋沢栄一から大隈重信への書簡等、貴重な資料がたくさん展示されていました。

 

 


 

本庄早稲田の杜ミュージアム開館1周年記念企画展

「大隈重信と渋沢栄一展」

 

会期:

2021年9月11日(土)~11月14日(日)9:00~16:30

※月曜休館(休日の場合は翌日)

場所:

本庄早稲田の杜ミュージアム

早稲田大学展示室(早稲田リサーチパーク・コミュニケーションセンター1階)

料金

無料

 


◆パンフレット

「官僚・政界をリードする大隈重信/実業界をリードする渋沢栄一」

大隈重信は、宣教師グイド・フルベッキと佐賀藩校の致遠館で長崎に集まる志士に英語を教え、維新後は外交官、判事

として頭角を現します。渋沢栄一は、大隈重信の要請により維新政府に出仕します。二人は維新政府の要職に就き日本の

近代化と殖産興業を推進します。

渋沢栄一は、民間に転じた後も大隈重信と連絡をとりつつ、道徳と経済は一体不可分であるとの「論語と算盤」の精神で、

資本主義を支える産業育成にその生涯をささげていきます。

多くの貢献をはたした大隈重信と渋沢栄一の事績を錦絵や書翰、文書で紹介します。

 

「世界平和」

大隈重信と渋沢栄一は、東西文明の調和と世界平和こそ産業を振興し、人類の幸福を増進すると考えていました。大正13(1924)年に米国で排日移民法が成立するなど日米関係が悪化するなか、渋沢栄一はギューリック博士発表の、雛祭りに合わせて友情人形(青い目の人形)を日本に贈るという日米人形交流事業に賛同し、日本国際児童親善会を設立、日本の子どもたちに友情人形を届けました。(パンフレット内面の案内文から)

 


【50年間同志として交友を深めた大隈重信と渋沢栄一】

アカデミックドレスを着用した大隈重信
アカデミックドレスを着用した大隈重信

 

渋沢栄一と大隈重信は、大蔵省(現財務省)で出会って以来、50年にわたって同志として親しく交際を続けたと言われます。二人は互いに反骨精神を持ちながら、民間力を高めようと尽力されました。

 

明治2年(1869年)、渋沢栄一が大蔵省の一員として新しい国づくりに関わるきっかけをつくったのが大隈重信です。

明治6年(1873年)一時は大隈と対立して渋沢が大蔵省を辞した後も、二人はその後も親しい関係を続けました。

大隈重信は政治の立場から渋沢の活動を支え、渋沢も民間の立場から大隈の殖産興業政策を支えました。

大隈重信が早稲田大学を創設する際には、渋沢栄一は多額の寄付金集めの先頭に立ち、さらに1917年からは、渋沢は維持員に就任し、早稲田大学運営への協力にも尽力しました。

 

時には意見を違え激しく議論しながらも、お互いに敬意と信頼を忘れずに、生涯親しく交わり続け助け合い続けた「同志としての関係の深さ」を、今回の企画展でも感じることができました。

 

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【大隈重信(おおくま しげのぶ)

肥前国佐賀藩出身(現佐賀市)

天保9年(1838年)~大正11年(1922年)享年83歳

 

 

7歳で藩校「弘道館」に入学、優秀な成績を修めるも、漢学を中心とした閉鎖的な教育に反発し18歳で館を離れた。

 

その後は、藩の「蘭学寮」で西洋の学問を学び、1864年、26歳のときに長崎に出て副島種臣(そえじま たねおみ)とともに、宣教師フルベッキに英語やアメリカの憲法などを学んだ。

慶応元年(1865年)長崎に佐賀藩校英学塾「致遠館(ちえんかん)」を開設し、フルベッキを校長に任命した。

慶応4年(1868年)明治新政府に出仕、キリスト教徒処分問題でパークス英公使との交渉で手腕を発揮し、維新政府内での評価を高めた。その後閣僚ポストである参議に就任し、明治6年(1873年)には参議兼大蔵卿となり、維新政府の中核を担う人物の一人となり、近代国家をつくりあげるために必要な改革を進めた。

 

官僚として

※外国官の官吏、大蔵大輔、民部大輔、参議、大蔵卿を務め、駐日英国公使パークスとの外交交渉、通貨単位「円貨」の制

定(貨幣制度の改革)、会計検査院の創設、郵便事業の創始、電信の架設、鉄道の施設(新橋-横浜間)、太陽暦の導入など、国家の骨格となる事業を推進した。

 

政治家として

「日本最初の政党内閣を誕生させた」

明治14年(1881年)の明治十四年の政変」により下野してからは、政党政治の実現をめざし、イギリスの議会政治をモデルとした「立憲改進党」を結党。その後、第一次伊藤博文内閣での外務大臣就任などを経て、明治31年(1898年)に板垣退助とともに、日本初の政党内閣「隈板内閣(わいはんないかく)」を組閣し、総理大臣となった。

 

「内閣総理大臣を2回、外務大臣を5回務めた」 

第8代、第17代内閣総理大臣となり、国のために力を尽くした。

 

教育者として

「早稲田大学創設者・初代総長」

明治15年(1882年)、立憲国家の確立とそれを担う国民を育成することを目的として「東京専門学校」(現在の早稲田大学)を創立。明治40年(1907年)大隈重信は早稲田大学の初代総長となる。

大隈は、高等教育・専門教育の一方で「道徳的人格を備えなければならぬ。」「教育は人格の養成を根義とする。」など、道徳的人格の要請についても繰り返し説いていた。

 

「早稲田の校長、学長、総長」

東京専門学校時代は、校長が学校の最高責任者。明治35年(1902年)に早稲田大学と改称後、明治40年(1907年)に「総長・学長制」を新設(初代総長は大隈重信、初代学長は高田早苗)。大正12年(1923年)には大隈の死去を受けて「総長制」に一本化される。

 

早稲田大学の「建学の父・建学の母・四尊」

早稲田大学の「建学の父」と呼ばれる大隈重信「建学の母」と呼ばれる小野梓(おのあずさ)

「四尊(しそん)」は大学の礎を築いた高田早苗(たかた さなえ)・天野為之(あまの ためゆき)・市島謙吉(いちしま けんきち)・坪内逍遙(つぼうち しょうよう)。

(「四尊」とは、早稲田大学創立の中心的人物である大隈重信と小野梓を「本尊」に喩えたときに、早稲田大学草創期の基礎を築いた功労者である高田・天野・市島・坪内の4人を称えた言葉。参考までですが、本庄には、高田早苗からとった「早苗寮」と、小野梓からとった「梓寮」があります。本庄早稲田高等学校の学生たちがそこに住み高校に通っています。

 

「早稲田大学雄弁会」

明治35年(1902)年小野梓が結成し、大隈重信が初代総裁となって設立。出身者から5人の内閣総理大臣(石橋湛山、竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗)を輩出している。

 

(参照文献)

早稲田大学百年史

「キャンパスがミュージアムvol.1〈早稲田キャンパス編〉PDF1.99MB

 

明治43年(1910年)ごろ、来賓と撮影する大隈重信(左端)と渋沢栄一(右端)(早稲田大学 大学史資料センター所蔵)
明治43年(1910年)ごろ、来賓と撮影する大隈重信(左端)と渋沢栄一(右端)(早稲田大学 大学史資料センター所蔵)
東京専門学校の校舎と学生たち(1884年5月)
東京専門学校の校舎と学生たち(1884年5月)

【佐野常民と大隈重信、渋沢栄一】

1867年、佐賀藩の代表として万博に出席する一同。後列左より藤山文一、深川長右衛門、前列左より小出千之助、佐野常民、野中元右衛門(「仏国行路記」所載)
1867年、佐賀藩の代表として万博に出席する一同。後列左より藤山文一、深川長右衛門、前列左より小出千之助、佐野常民、野中元右衛門(「仏国行路記」所載)

 

佐野常民(さの つねたみ)は、大隈重信と同じ佐賀藩出身で、大隈重信より16歳年上です。

大隈とともに、「佐賀の七賢人」の1人です。

今回の企画展では、明治14年の政変後に佐野常民が大隈重信を心配して送ったという手紙が展示されていました。 

「本庄遷都論」で本庄にもゆかりのある佐野常民が大隈重信と親交があることを学ばせていただきました。

 

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※「日本赤十字の父」佐野常民

慶応3年(1867年)、パリ万博に参加する佐賀藩の代表として渡欧。そこで赤十字社の存在を知り、深い感銘を受ける。10年後の明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると「博愛社」を設立、敵味方に関係なく負傷者の救護活動を行う。この博愛社が「日本赤十字社(1887年)」の前身。

 

※「佐賀の七賢人」

幕末から明治維新にかけて活躍し、その後も功績を残した、佐賀出身の七人。鍋島直正(なべしま なおまさ)、島義勇(しま よしたけ)、佐野常民(さの つねたみ)、副島種臣(そえじま たねおみ)、大木喬任(おおき たかとう)、江藤新平(えとう しんぺい)、大隈重信(おおくま しげのぶ)の総称。

 

※「本庄遷都論」

明治11年(1878年)、元老院議員の佐野常民によってまとめられた意見書。

東京は箱根、碓氷峠を背後にして守りは堅いが、江戸湾から艦砲射撃を受けるともろい。東京は低湿地で伝染病が蔓延しやすい。消費都市として発達したため風俗が浮薄である。従って新首都は日本の中心である上州、武州に求めるべきであるが、前橋は水利がよくなく、高崎は山が迫り、冬が寒い。

一方、本庄は相当の陸地の幅があり、武州、関東の中心にある。本庄は土地が高く眺望に優れ、冬もさほど寒くない。利根川の水運に恵まれ、飲料水も豊富であるなどを理由に、「本庄は新首都として相応しい」という意見書。 

しかし、この意見書は審議されるには至らなかった。 ※「本庄遷都論」についてはこちらもご覧ください。

 

※渋沢栄一と親交があった佐野常民

渋沢は、日赤の前身である「博愛社」時代からの支援者だった。

 

※佐野と渋沢が出会ったきっかけとなったパリ万博

佐野常民は、慶応3(1867)年、佐賀藩の使節団としてパリ万博に参加した。赤十字の展示を見て感動し、この時のことが日本赤十字運動を立ち上げる大きな動機となった。

渋沢もまた、幕府が派遣する「パリ万博使節団」の一員としてパリ万博に参加した。

大河ドラマ『青天を衝け』では傷痍(しょうい)軍人の治療を行なう「廃兵院(はいへいいん)」を見て感銘を受けているシーンがあった。栄一は、西洋の福祉制度に感銘を受け、帰国後、明治7年(1874年)から養育院の運営に関与するなど、早くから社会福祉事業に取り組んだ。

 

 


今回の企画展を通して、大隈重信や渋沢栄一、佐野常民らがいかに「教育」や「福祉」、「民間力」、「産業の育成」に重点を置いて 「できるだけ多くの人にできるだけ多くの幸福を」の実現のために尽力されたか、その実行力と構想力、成し遂げたことの大きさに改めて感銘を受けました。 

 


◆ミニ企画展『ミュージアム周辺の古墳』

 

ミニ企画展『ミュージアム周辺の古墳』

 

会期 10月12日(火曜日)~12月26日(日曜日)

 

会場 本庄早稲田の杜ミュージアム交流ひろば

 

本庄早稲田の杜ミュージアムが所在する浅見山丘陵とその周辺には、 古墳時代の全期間を通して、地域を代表するような有力な古墳が築か れていました。

ミニ企画展では、これまでの発掘調査によって出土した埴輪・土器・ 副葬品などを通して、この地域の古墳の特徴を紹介します。

 


◆パンフレット

 

【本庄早稲田の杜ミュージアム周辺の古墳】

 

公卿塚古墳(くげづかこふん))「4世紀」

元富東古墳(もととみひがしこふん)「7世紀」

宥勝寺北裏遺跡(ゆうしょうじきたうらいせき) 「3世紀」

宥勝寺裏埴輪窯跡(ゆうしょうじうらはにわかまあと) 「6世紀」

浅見山Ⅰ遺跡(あさみやまⅠいせき)「4世紀」

金鑚神社古墳(かなさなじんじゃこふん)「4世紀」

生野山将軍塚古墳(なまのやましょうぐんづかこふん)「4世紀」

 

 

(パンフレット案内文より)

本庄早稲田の杜ミュージアムがある浅見山丘陵(あさみやまきゅうりょう)とその周辺には、古墳時代の全期間を通して古墳が築かれていました。古墳時代前・中期(4世紀から5世紀)には、墳丘長70mを超える前方後円墳 北堀前山1号墳(きたぼりまえやま1ごうふん)や、直径60m級の大型円墳 公卿塚古墳(くげづかこふん)・金鑚神社古墳(かなさなじんじゃこふん)など児玉地域を代表する有力な首長墓が築かれました。

 

また古墳時代後期から終末期(6世紀から7世紀)にかけては、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をもつ円墳が数多く造られ、宥勝寺裏埴輪窯跡(ゆうしょうじうらはにわかまあと) では埴輪の生産も行われていました。

 

この展示では、これまでの発掘調査によって出土した資料を通して、ミュージアム周辺の古墳を紹介します。

 

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本庄市にはたくさんの古墳があり、埼玉県の市町村の中では2番目の多さとのことです。

3世紀後半から7世紀にかけての古墳時代、北関東のこの地域は、東国文化で力をもった豪族が多かった地域であることが推測されとても興味深く思いました。