~渋沢栄一翁と尾高惇忠翁二人の玄孫である尾高浩羽先生が、埼玉についての思いを書いてくださいました。~
一般社団法人埼玉県人会様発行の機関紙『埼玉往来』(令和6年2・3月号)に、水墨画家で墨アーティストの尾高浩羽先生の記事が掲載されました。
※埼玉県人会HP(https://www.saitama-kenjinkai.or.jp/)
尾高浩羽先生の埼玉県でのご活動、埼玉県に対する思いを楽しく読ませていただきました。
尾高浩羽先生は、昨年1月に戸谷八商店をご訪問くださいました。(その時の記事はこちらをご覧ください。)
「埼玉県人会」評議員の田中庸三氏と、「渋沢栄一翁と論語の里ボランティアの会」理事の蛭川隆司氏からのご紹介を通して、水墨画家の尾高浩羽先生とのご縁をいただき、とてもありがたく思っています。
◆【尾高浩羽(おだか ひろは)先生】プロフィール
双龍墨芸術文化振興会 代表
羽龍会 会長
Studio Hiroha 主宰
現代水墨画協会、墨美会、全日本中国墨画連盟、雪舟国際芸術協会会員、日本中国文化交流賞、毎日新聞社国際賞。日美展作家。他受賞多数。
スイス、イタリア、香港アートフェア。仏・西・中・インドネシア他国内外グループ展多数。
高祖父 尾高惇忠、渋沢栄一の書画の流れを曾祖父 尾高次郎、祖父 尾高豊作、父 尾高陽一らの遺作と共に尾高三代展定期開催。(銀座ギャラリー椿 ・ 広尾加藤ギャラリー ・下北沢スマートシップ ・代々木Studio Hiroha)
書の線を用いる伝統技法の次世代への継承を志し、光やガラス等新しいものを心象画として描く。近年菌類などの抽象画、コラージュにも意欲を見せる。
双龍墨芸術文化振興会を組織し会長を務める。次世代に向け日本の伝統文化の継承に努めその魅力の国内外発信を目的とする。
2021年6月埼玉県深谷市JR深谷駅構内市民ギャラリーに於書画展開催好評を得る。
1960 東京都生まれ
1983 聖心女子大学国文科 卒業
1984-1992 カナダケベック州に滞在
1984-1990 Helmut Gerth氏(透明水彩)に師事
1987-1990 Fay Sproule氏、Brigitte Schreyer氏、Wendy Whitemore氏にそれぞれ師事
1998-2008 菊水黄羽(内山雨海門下 水墨画))に師事
[グループ展]
2003 第1回三代展 ギャラリ―椿(京橋)
2007 第3回三代展 加藤ギャラリー
2003 松濤美術館公募展 入選「回廊」(水墨画)
2004 黄羽会 墨画展 アートサロンアクロス
2008 黄羽会 墨画展田中ギャラリー(銀座)
[個展]
1989 THE CREDIT VALLEYHOSPITAL(カナダ)
1991 公立図書館 Medowvale(カナダ)
1991 公立図書館 Water roo(カナダ)
2010 個展(シンガポール)
2014 個展(インドネシア)
◆深谷市技活「尾高浩羽先生」
(水墨画の伝統筆法と“意連”について)
◆「透明のモチーフ」が墨の自然の現象で描けてしまう水墨の奥深さ
水墨というのはこの墨の濃淡を使うだけで、ガラスも表現することができます。ガラスらしく、デッサンや水彩で描こうと思うととても大変なんですけど、水墨画は、スッーと、墨の自然の現象で描けてしまう。その面白さにハマって、水彩で避けていた建物・水物・透明物・人物そういうものをみんな水墨では描きたくなりました。だから画材が全く正反対、そして洋画と墨画とでは描く順序が正反対なんです。紙の白い部分を生かす部分では同じなんですけど。そういうことでどんどんハマっていって。水彩は頭の中ではイラストに近い感覚。水墨画は芸術の域で深いのかなと感じています。
◆「内山雨海」の伝統筆法「書画一体」について
私は内山雨海(うちやま うかい)という有名な書家の系列で、その水墨の筆法は、「書画一体」です。
私の「書画一体」というのは、「書の線を画にいかす、書の筆法をそのまま画にいかす」というものです。ですから、書と同じように、なぞり書きとか、全部が乾いてしまってから描き足すとか、あまりそういうことは邪道という流儀でやっております。それがある種のこだわりです。
◆伝統技術を継承する意義と新しい試みへの可能性について
水墨画というこの伝統技術を受け継ぐ、継承していくことがすごく気になっています。
今の若い方は、私も最初そうだったのですけれど、水墨画って、山水画で床の間に掛けなければいけなくて、辛気臭くて、お寺に掛かっているというイメージだったのですが、そうではない、「筆法さえ、伝統の筆法を使えば、画材はどんなものでも描けるんだ」ということに気づいて、それでヨーロッパの風景とかそういうものを描くようになりました。そうしたら、新しい風だったので海外の色んなとこからお声がかかるようになりました。
◆二度と同じものはないという「墨の色」について
その墨の色にすごくこだわっていて、例えば同じ構図を描こうと思っても、その日の天気と紙と墨、その時に溶いた水が軟水かとか、そういう事によっても墨色って全く違って出るんですね。それから硯の石が端渓(たんけい)を使ってるのか、粘板岩のお習字のお稽古用のを使ってるのか、怒って磨(す)ったのか、ゆっくり磨ったのかによって、粒子のキメが違うので墨の出方が全く違う。だからその日その日の現象なので、二度と同じものはないというオリジナルなものです。
◆「オリジナル」について
私がこだわっているのは、ずっとオリジナルにこだわっています。
オリジナルはやっぱり作家の一筆入魂の「気」が入っているという考え方です。
これを見る人に「気が出る」、「気が伝わる」、そしてその見る人の中にあるいろんな「気と呼応する」という考えを私は持っています。それを進めたいなと思っています。
◆「抽象」について
最近は、リモート時代に入って、画面越しとか、何か別の形でもアピールすることを考えなければいけないと思い、この頃は「抽象」にも手を染めています。
こちらの作品も(※上記動画7:10参照)、やはり海外から注目があって、このタイル焼きになったものが「モンゴル国立美術館」に入っています。
こちらはコラージュ。コラージュはいわゆる貼り絵ですね。自分の描き損じの紙を貼ったり、そこへ描いたり、そこへ違う色物を貼ったり、というような「抽象」です。
こちらも、制作する時に何枚も紙を重ねて、そしてこの墨の特性を生かす”傘模様”を作るやり方があるんですけど、何枚目かに”滲(にじ)み”かたが違いますよね、表に見えていたのとは全然違う「現象」が下に出てくる。それを何かに「見立て」て、また、山のような感じのものを足したりして、それで、こちらの作品は山のようなので、「不動」というタイトルを付けました。
◆日本の「見立て文化」と「意連(いれん)」について
日本の文化というのは全部「見立て」文化なんですけれども、今はスーパーリアリスティックというのがすごく流行っていて、若い方は写真のように描けると、すごい上手というようにおっしゃるのですけれど、そうではない生き方、そこが本当に芸術なんだということをみんなに伝えたいのですね。そういう意味で、「自分の図らずも出てきた現象」、書もそうです。空を舞っている時も、ずっと「意連(いれん)」といって、自分の意志がつながっているという考え方。
たまたま紙に接面した時にここに墨が黒くのるんですけれども、そこで墨継ぎして切ってしまってはもう「意連」が途切れってしまってだめなんですね。
だから、「書」を書いている時は自分の気をそのままのせているから、こうやって宙を舞っている時も、書いているということなんですよね。それで、たまたまこうやって、紙にのってという、生花でもなんでもそうなんですけれど、「出てきて見えるものは、その見えない部分の行間なり、空(くう)なり、スペースなりを表現する」、それが日本の文化の共通点です。それをみんなにすごく伝えたいと思っています。
モンゴル国立美術館の壁面に常設タイルとなった尾高浩羽先生の作品『Mystery of micro』
◆「第30回記念雪舟国際美術協会展」水墨画部門にて防府市長賞
(2023年12月開催)
「第30回記念雪舟国際美術協会展」(2023年12月開催)・水墨画部門にて防府市長賞を受賞されたとのことです。尾高浩羽先生、おめでとうございます。
◆尾高浩羽先生・系図
~渋沢栄一翁と尾高惇忠翁の玄孫~
※『渋沢敬三先生景仰録』(渋沢敬三先生景仰録編集委員会 編著、1965年)
※(余談ながら)上記系図右下の渋沢栄一翁の孫である「穂積重遠(ほづみ しげとお)」氏は、2024年4月1日からスタートしたNHK朝ドラ『虎に翼』において、主人公・寅子(伊藤沙莉さん)を法律の世界に導いた恩師「穂高重親」(小林薫さん)のモデルとのことです。穂積重遠氏は民法が専門の法学者で、東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」と呼ばれています。
ドラマのこれからの展開が楽しみです!
※1911年、小村寿太郎外相のもとで条約改正(関税自主権の回復)が達成しました。その時の駐英大使は加藤高明氏です。諸井六郎氏(諸井貫一氏の叔父)は外交官幹事として条約改正に尽力しました。
※本庄宿の旧家で、栄一翁と親戚関係にある「諸井家」も含めた系図につきましては、こちらをご覧ください。
◆尾高浩羽先生の高祖父・渋沢栄一翁
◆浩羽先生の(高祖父)尾高惇忠翁・(曽祖父)尾高次郎氏・(祖父)尾高豊作氏
※『大里郡郷土誌』(聚海書林、1983年)147頁より
※『埼玉銀行史』(埼玉銀行、1968年)393頁より
(「竜門社」の旗を持つ尾高豊作氏)
※『尾高惇忠~富岡製糸場の初代場長~』(荻野勝正氏著)より
現在の「公益財団法人 渋沢栄一記念財団」の前身である「竜門社」の名付け親は尾高惇忠翁です。
鯉が滝を登って竜になるという中国の故事に因んで名付けられたそうです。
上記写真には、尾高家三代にわたった人物が関係しています。
「竜門社」(渋沢栄一記念財団の前身)の名付け親の尾高惇忠翁、書は尾高次郎氏によるもの、旗を持つ尾高豊作氏。
(尾高惇忠翁、尾高次郎氏、尾高豊作氏は、尾高浩羽先生のそれぞれ高祖父、曽祖父、祖父にあたります。)
◆渋沢平九郎
~尾高惇忠翁の弟であり、渋沢栄一翁の見立養子となった平九郎(幕末のイケメン)~
●「飯能戦争」・平九郎の最後
慶応3年(1867年)、渋沢栄一翁がフランスに渡る際に平九郎は栄一翁の見立て養子となり幕臣としての生活を始めました。しかし、翌年、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜追討令が出されると、兄の惇忠や渋沢成一郎(喜作)とともに彰義隊を経て、振武軍に加わります。5月、振武軍は上野戦争で壊滅した彰義隊の残党を合わせて飯能に入り「能仁寺(のうにんじ)」を本陣としました。
5月23日未明から新政府軍と戦闘を開始しますが 相手の圧倒的な兵力を前に、わずか半日で振武軍は惨敗し四散、敗走しました。
平九郎は一人逃れて故郷に向う途中、顔振峠(かあぶりとうげ)を黒山(くろやま)に下った所で新政府軍に遭い、3人を相手に奮戦後、最期を悟り自刃しました。享年22(満20才)でした。
●能仁寺(のうにんじ)境内の振武軍碑「節死義唱」
昭和12年(1937年)、能仁寺(飯能市)境内に尾高豊作氏選書の振武軍碑「節死義唱」(義を唱え節に死す)が建立されました。(題字は渋沢敬三氏)
尾高豊作氏は尾高浩羽先生の祖父です。(題額は渋沢敬三氏。)
※澁澤幸子様(渋沢家本家「東の家」のご子孫)のご両親の仲人をされた方が尾高豊作氏とのことです。(※澁澤幸子様ブログ「サチコのときどきダイアリー」より)
●渋沢栄一翁と飯能
わかっているだけで5回、栄一翁は飯能を訪れているとのことです。
①嘉永6年(1853)【栄一翁13歳頃】。②安政5年(1858)【栄一翁18歳】。③元治元年(1864)、栄一翁は成一郎(喜作)とともに一橋家の家臣となり、兵隊の人選を行うためにともに一橋領を廻った時【栄一翁24歳】。④明治32年 (1899)、平九郎を供養するために尾高淳忠翁と訪れ、能仁寺に参詣した時【栄一翁60歳】。⑤大正2年(1913)、第一飯能尋常高等小学校で講演を行った時【栄一翁73歳】。※広報はんのう(2021年3月1日)PDF5.4MBより
●顔振峠(かあぶりとうげ)にある「平九郎茶屋」
顔振峠に到着した平九郎は、大刀を預け、この茶屋で草鞋(わらじ)を求めました。茶屋の主人から、越生方面は兵隊がいっぱいいるから秩父方面に行くように言われましたが、平九郎は、勧められた安全路(傘杉峠→関八州見晴台→秩父)の方には行かず、黒山方面に下って行きました。(平九郎は越生の先にある自分の故郷・深谷を想っていたかもしれません。)
●「平九郎グミ」・「自決の地碑」
平九郎が座して最後を遂げた「自刃岩(じじんいわ)」の傍らのグミの木は、平九郎の血の色を宿すような真っ赤な実をつけることから、「平九郎グミ」と呼ばれています。
昭和29年(1954年)には、「澁澤平九郎自決之地」の碑(渋沢敬三氏書)が建立されました。
●越生町の「全洞院(ぜんとういん)」・「法恩寺(ほうおんじ)」
自刃した平九郎の首は越生今市宿に晒され、骸(むくろ)は黒山村の人々によって「全洞院(ぜんとういん)」に葬られました。新政府軍によって晒された平九郎の首は、今市村の島野喜兵衛と黒岩村の横田佐兵衛によって密かに「法恩寺(ほうおんじ)」に埋葬されました。村人たちは名前も分からない隊士の壮絶な最期を讃え、「脱走の勇士様」(だっそ様)と崇めました。
●谷中霊園の「渋沢家墓地」への埋葬・全洞院には「平九郎の墓」
明治6年栄一翁は、平九郎の遺骸と、法恩寺に葬られていた首をとともに東京谷中霊園の「渋沢家墓地」に埋葬することを命じました。その後、全洞院には「澁澤平九郎之墓」が建立されました。
渋沢栄一翁は、明治32年と明治45年に「渋沢平九郎自決の地」と「全洞院」を訪れています。
●「法恩寺(ほうおんじ)」・「埋首の碑」
昭和39年(1964年)、法恩寺境内に「渋澤平九郎埋首之碑」(渋沢元治氏書)が建立されました。
※平九郎と越生町との縁については「越生観光協会」HPのこちらへ
◆深谷市にある「平九郎」の追懐碑と招魂碑
【「中の家」敷地内】
平九郎50回忌の大正6年(1917年)に、栄一翁が谷中の渋沢家墓地に建立。平成26年(2014年)に旧渋沢邸「中の家」に移設されました。※追懐碑には、平九郎が仮住まいの障子に書いた書が刻まれています。
「楽人之楽者憂人之憂(人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂い)
喰人之食者死人之事(人の食を喰らう者は人の事に死す)昌忠」
【尾高惇忠生家の墓所内】
大正元年(1912年)、尾高浩羽先生の曽祖父である尾高次郎氏によって、若くして亡くなった平九郎のために招魂碑が建立されました。
(追記)【渋沢栄一翁・平九郎ゆかりの越生町にて尾高浩羽先生の「水墨画展」開催!】
第1部:2024年4月27日~5月31日/第2部:6月1日~6月26日
場所:越生駅・西口総合案内所ギャラリー
◆開催日:
【第1部】:2024年4月27日(土)〜5月31日(金)
~平九郎157回忌記念 尾高惇忠玄孫尾高浩羽水墨画展~
【第2部】:2024年6月1日(土)〜6月26日(水)
~栄一新一万円札発行記念 渋沢栄一玄孫尾高浩羽水墨画展~
◆時間:午前8時30分~午後5時
◆場所:越生駅西口総合案内所ギャラリー(MAP)
◆主催:越生町観光協会
◆入場無料、作品販売あり
◆尾高浩羽先生オフィシャルサイト(https://hiroha-odaka.com/)
先日、尾高浩羽先生の水墨画展(第1部)に行ってきました。
今回の水墨画展は、若くして無念の死を遂げた尾高平九郎を追悼するため、平九郎が詠んだ和歌からイメージして新たに作品を描かれています。
尾高浩羽先生の作品を拝見したとき、筆のタッチや墨の流れが生み出す動きやリズムが実際に目の前に広がるようで、水墨画というものが持つ魅力に改めて気づかされました。さらに、平九郎の和歌が添えられることで、作品に深い情感と歴史的背景が加わり、とても感銘を受けました。ぜひ多くの方に見ていただけたらと思います。
【法恩寺にて墨アートが体験できる寺子屋がスタート!】
~平九郎と縁の深い「越生 法恩寺」にて開催される水墨画の寺子屋~
お寺での水墨画教室は、素晴らしい体験になると思います。
お寺は地域の歴史や文化に深くかかわっており、地域の人の交流や文化活動の場としても重要な存在です。
そのような特別な場所で尾高浩羽先生の寺子屋教室が開かれることはとても素晴らしいことだと思いました。
「出てきて見えるものは、その見えない部分の行間なり、空(くう)なり、スペースなりを表現している」
「自分の図らずも出てきた現象」を「意連(いれん)」として大切にする
上記の、尾高浩羽先生が大切になさっている言葉は、茶道や華道、陶芸、庭園など、日本の伝統文化の根底に流れている思想でもあります。
尾高浩羽先生の寺子屋教室は、子どもたちにとって、筆の流れや、墨の濃淡、偶然に出てきた墨の現象からインスピレーションを得て、表現自体の面白さを体験できる貴重な機会になると思いました。
◆「埼玉県人会」評議員の田中庸三氏
田中庸三氏は、「埼玉県人会」で評議員をなさっており、いつも大変お世話になっている方です。
私自身、田中庸三様のご紹介により、誠に光栄なことに、埼玉県人会に2019年に入会させていただきました。
田中氏は、大学生の時に、渋沢栄一翁が設立した「埼玉学生誘掖会(さいたまがくせい ゆうえきかい)」によって運営されていた「寄宿舎」に入り、寮長まで務められた方です。現在、砂土原寄宿舎OB組織「埼玉学生誘掖会舎友会」の幹事も務めていらっしゃいます。
※「埼玉学生誘掖会」HP(https://saitama-yueki.jp/)
渋沢栄一翁の志を継いで、公益のため、埼玉県のために、奮闘なさっておられる田中氏のことを心より尊敬いたしております。
※田中氏のご紹介により出席させていただいた「埼玉県人会」の新年賀詞交歓会(2020年1月28日開催)につきましてはこちらの記事をご覧ください。
◆「論語の里ボランティアの会」の理事の蛭川隆司(ひるかわ たかし)氏
2023年1月に、尾高浩羽先生と、「論語の里ボランティアの会」の理事である蛭川隆司(ひるかわ たかし)氏が戸谷八商店をご訪問くださいました。浩羽先生は、渋沢栄一翁が好きだった龍の話や、尾高惇忠翁について、水墨画の世界やその魅力についてとても楽しく教えてくださり、ありがたかったです。
※その時の様子につきましては、こちらの記事をご覧ください。
2021年に、蛭川隆司(ひるかわ たかし)氏が戸谷八商店をご訪問くださったときの記事もよろしければご覧ください。
◆渋沢栄一記念財団の機関誌『青淵』の表紙絵に掲載された浩羽先生の水墨画
渋沢栄一翁は、「血洗島の獅子舞」が大好きだったということです。
多忙な中でも、祭りの日のスケジュールを空けて必ず帰郷し、獅子舞を見ることをことのほか楽しみにしていました。
尾高浩羽先生は、「表紙絵のことば」の中で、
「命有る限り強い気を放つ絵を描き続けることでリアルの世界 水墨の魅力を伝えていきたい。」と述べられています。
※『青淵』のバックナンバー・オンラインショップ(渋沢栄一記念財団HP)
◆尾高浩羽先生「一枚の絵誕生物語 ~『石畳の味』墨の魅力を次世代へ」
※雑誌『神楽』7号(2023年3月1日)にて掲載
※『神楽(7号)』(編集発行:永野拓氏、2023年3月1日)より
「こうして誕生した『石畳の味』(ベルギー)はその後の『城壁の味』(フランス)などの世界の味シリーズのきっかけとなった。また光りを通すものガラスなどを墨で表現する面白さに惹かれた私はその後クラゲや深海の発光生物などをテーマとすることとなり、さらには、こうした新しい切り口から墨の魅力や伝統筆法心象画としての日本の水墨画八点の精神を次世代に継承するという大きな使命を実感させることとなった大切な一枚である。」
尾高浩羽先生が墨で描かれた龍や粘菌、キノコなどの作品に触れると、いつもその美しさに圧倒されます。
ただ美しいだけではなく、深い感動をもたらしてくれます。
墨によって表現された透明性が、自分の奥にある静寂を呼び起こし、内なる自然との共鳴を起こさせてくれるからかもしれないと感じました。
上記文章には、尾高浩羽先生の作品から伝わる深い感動の秘密が表現されていて、とても興味深く読ませていただきました。(また、上記文章には、ウクライナの方への支援活動や、尾高浩羽先生ご自身によって作成された貴重な尾高家と渋沢家の系図も公表されています。)
水墨画の持つ伝統と歴史、その精神を継承していこうとなさっている尾高浩羽先生の今後のご活躍を心より応援しています。
(戸谷八にある尾高浩羽先生の作品)