~NHKワールドジャパン番組「絹の道 ~群馬から横浜への生糸の歴史と人々を辿る~(着物研究科のシーラ・クリフさんご出演)」のご紹介~
「さいたま絹文化研究会」は、日本の蚕糸・絹文化を次代に伝えるために、秩父神社(薗田稔 宮司※現 名誉宮司)・高麗神社(高麗文康 宮司)・川越氷川神社(山田禎久 宮司)の三社の宮司様が発足された研究会です。
協力団体として、「NPO法人川越きもの散歩」様と「一般社団法人 高麗1300」様がかかわっています。
先日、会報誌「さいたま絹文化研究会通信」(Vol.32)が届きました。
会報誌の編集は、「NPO法人川越きもの散歩」代表の藤井美登利先生が担当されています。
※藤井先生のプロフィールにつきましてはこちらをご覧ください。
藤井美登利先生は、2021年に「NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を伝える県境の魅力めぐり」というテーマで連載をなさっていました。その取材がきっかけで戸谷八商店にご訪問いただき、現在も大変お世話になっています。
今回の「さいたま絹文化研究会通信」の表紙には、イギリス出身で着物研究科のシーラ・クリフさんが出演なさっているNHKワールドジャパンの番組「絹の道 ~群馬から横浜への生糸の歴史と人々を辿る~」が紹介されていました。群馬県の富岡製糸場から横浜港までの絹遺産や人々を辿る番組です。(「NHKワールドジャパン」のWebサイトにて2025年3月31日まで放送されていますのでぜひご覧ください。)
とても素晴らしい内容でしたので、以下に紹介させていただきます。
※「さいたま絹文化研究会通信」のインフォメーションのページには、4/27~6/26まで越生駅前西口総合案内所ギャラリーにて開催の「尾高浩羽先生の水墨画展」についての紹介もありました。
◆NHKワールドジャパン『Journeys in Japan』シーラ・クリフさん「絹の道 ~群馬から横浜への生糸の歴史と人々を辿る~」
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/shows/2007522/
(※2024年3月5日放送開始~2025年3月31日 まで配信中)
【Sheila Cliffe(シーラ・クリフ)さん】
【シーラ・クリフさん プロフィール】
1961年イギリス生まれ。着物研究家。十文字学園女子大学名誉教授。大学で英語と着物文化を教える傍ら、国内外で着物展覧会やファッションショーの企画・プロデュースなど多彩な活動を展開。2002年に民族衣裳文化普及協会「きもの文化普及賞」を受賞。
2012年『日本のことを英語で話そう』(東海教育研究所)、2018年ご自身初の写真集『SHEILA KIMONO STYLE』(東海教育研究所)、2021年『Sheila Kimono Style Plus(シーラの着物スタイル プラス)』(東海教育研究所)、2024年『KIMONO EVOLUTION』(芸術新聞社)など著書多数。
丹後織物工業組合のアンバサダーとして、丹後ちりめんの魅力を国内外に発信。
講演会やトークイベント、ワークショップを行うなど、活動の幅をさらに広げている。「世界は欲しいモノにあふれてる」「あさイチ」(NHK)「徹子の部屋」(テレビ朝日)ほかメディア多数出演。
「絹の道」~群馬から横浜への生糸の歴史と人々を辿る~
【群馬県富岡市 ~富岡製糸場~】
●(タカハシ カズミ)さん 富岡製糸場ガイドさん
「富岡製糸場」(群馬県富岡市)は、明治政府が日本の近代化のため、明治5年(1872年)に群馬県富岡市に設立した官営の器械製糸工場です。初代場長は、埼玉県深谷市出身の尾高惇忠です。
(※本庄市とのかかわりについて)
中山道の宿場町として栄えた「本庄宿」は、江戸時代から繭の集散地として賑わっていました。
明治時代になると、本庄町は、全国有数の繭の集散地として栄えました。
そのきっかけとなるのが、明治5年(1872年)に開業した「富岡製糸場」の初代場長「尾高惇忠」が繭の仕入れのため、本庄町の「諸井泉右衛門」らに繭の買い入れを依頼したことだと言われています。(詳細はこちらへ)
【群馬県安中市 ~碓氷製糸~】
●(土屋 真志さん)「碓氷製糸」 常務
番組の中で、碓氷製糸 常務の土屋真志さんが、「現在日本中でできる繭の約70%を碓氷製糸の工場で買い取っており、純国産の生糸の生産の一番大きな工場が、碓氷製糸です。これからも養蚕農家が作った日本の繭を使って純国産の生糸を作り続けたい、日本の絹産業を守りつづけたい」とおっしゃっていました。
絹の伝統産業を守り、歴史や技術を次世代に継承しようという、碓氷製糸さんの伝統産業に対する強い気持ちに心より敬服いたしました。
【群馬県伊勢崎市 ~進成館(田島善一家住宅主屋)~】
◆“やぐら”を利用した換気システム
~田島弥平が考案。「清涼育」を実践。明治時代に養蚕農家のモデルとなった~
●(長瀬 豊さん)田島弥平旧宅案内所サポートガイドさん
文久3年(1863年)、田島弥平は、屋根に「やぐら」を取り付け、換気や温度、湿気を調整できる養蚕に特化した母屋を、建てました。これが世界遺産「田島弥平旧宅」です。この「やぐら」を使った換気システムを持つ様式の家屋はその後養蚕民家のモデルとなり各地に広がりました。
田島弥平はまた、明治5年(1872年)、仲間とともに優良蚕種の製造・販売を行う「島村勧業会社」を設立し、横浜での貿易に携わりました。
明治12年(1879年)には、社員2名とともにイタリアへの蚕種の「直輸出」を行い、養蚕業を大きく発展させました。
●「進成館(しんせいかん)」(田島善一家住宅主屋)は、世界遺産「田島弥平旧宅」の西側にある、国登録有形文化財の大規模な蚕種製造民家です。進成館をはじめ、島村地区(伊勢崎市)には数多くの「大型養蚕・蚕種農家の建物」(絹産業文化遺産)が残っています。
※「進成館」では、毎月1回・第3日曜日に、主屋2階とやぐらを公開されています。
※「島村蚕のふるさと会」の丸橋 利光(まるはし としみつ)さんは、「進成館」での企画展等、島村地区の絹文化遺産を普及・継承するための活動に尽力され、大変お世話になっています。(※丸橋利光さんの書かれた新聞記事や企画展についてはこちらの記事もご覧ください。)
【群馬県安中市 ~めがね橋~】
群馬県安中市の「めがね橋(碓氷第三橋梁)」は、長さ91メートル、高さ31メートル。200万個以上の煉瓦で造られた日本最大級のレンガのアーチ橋です。明治15年(1882年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル氏によって設計されました。(国重要指定文化財)
日本の地形は多くの川や海に恵まれており、古くから交通・物資の輸送手段として水運が使われていました。
明治に入ると、明治政府は国策として鉄道網の整備を推進しました。明治17年(1884年)年からは。高崎線、両毛線高崎線、両毛線、上野鉄道(上信電鉄)と次々に開通。水運から鉄道へ絹の輸送手段が変化しました。
「めがね橋」は横川駅と軽井沢駅を結んでいた「旧碓氷線」の廃線跡にある鉄道橋です。明治に造られた建造物の中で、鉄道技術の粋を集めた傑作と言われています。
「さいたま絹文化研究会通信(Vol.32)」によりますと、シーラ・クリフさんのお父様もイギリス各地のアーチ橋を作る橋梁技師さんだったとのことです。
【埼玉県秩父市 ~秩父銘仙(ちちぶめいせん)~】
●(逸見 恭子さん)「逸見織物(へんみおりもの)」様HP
逸見織物様は、三代目の逸見恭子さんの祖父が1927年に創業した「秩父銘仙(ちちぶめいせん)」の老舗です。
先人達が残してくれた銘仙を、なんとか次世代に残したいという思いで、三代目の逸見恭子さんが奮闘を続けられています。(※詳細はこちらへ)
大正から昭和初期の戦前にかけて、銘仙は、女性の普段着として、またお洒落着として全国的に流行しました。
銘仙は、足利、桐生、伊勢崎、秩父、八王子の関東の五大産地で生産されました。今でも銘仙の生産を継続しているのは、秩父のみです。
【埼玉県秩父市 ~秩父太織(ちちぶふとり)・秩父神社~】
●(和田 寿子さん)「秩父太織(ちちぶふとり)」様HP
石塚賢一氏(和田寿子さんのお父様)は、秩父太織を復元させたことにより、平成8年に「秩父市指定無形文化財 秩父太織生産技術保持者」に認定されました。
「秩父銘仙」の源流は、秩父周辺の養蚕地帯の人々が自家用として作っていた「秩父太織(ちちぶふとり)」です。
不ぞろいの繭から、糸をよらない「無撚(ねん)糸」を手作業で紡ぐことで、シルク本来の滑らかな手触りと、味わい深い表情を生み出します。上武で日常使いしやすく、素朴で温かみのある風合いが特徴です。
秩父夜祭は、秩父神社の例大祭で、別名「お蚕(かいこ)祭り」とも呼ばれ、絹と深い関わりがあります。
秩父地方はかつて養蚕や絹の生産が盛んで、毎年、秩父夜祭の翌日(12月4日)に、養蚕農家が繭を奉納して1年の恵みに感謝する「蚕糸祭(さんしさい)」が行われています。(2023年12月4日NHKニュース~「蚕糸祭」 ことし生産した繭を神社に奉納・秩父)
【埼玉県川越市 ~川越唐桟(かわごえとうざん)~】
●(笠間 美寛さん)創業100年を超える老舗「呉服笠間」4代目店主
●(中里 明宏さん)株式会社マルナカ 社長
※読売新聞記事(2022年6月9日)「世界のデザイナーが頼りにする「マルナカ」、埼玉・飯能の織物の老舗」
「幕末、開国したばかりの横浜に絹織物を売りに行った川越の織物商、中島久平が英国製の細い木綿の紡績糸を入手し、それを川越周辺の織元で織らせたのが川越唐桟といわれる縞織物です。
産業革命で英国から細い木綿糸が安く入ってきました。木綿なのに絹の輝きがあると江戸っ子の間で有名になり爆発的に売れたのです。英国製の木綿糸が世界をめぐり、アジアの端の日本の横浜までもたらされ川越で商品となり日本人の服装に大きな影響を与えました。きものは世界の動向をいち早くキャッチしていたのです。」(※藤井美登利先生作成のウェブサイトウェブサイト 「前橋・川越・横浜の 絹の道」の中の~川越のひと・絹のものがたりインタビュー~より)
【神奈川県横浜市 ~横浜港・手捺染~】
●(西川武臣さん)横浜開港資料館 館長
●(遠藤 洋平さん)株式会社丸加 取締役
※株式会社丸加様「ものづくりについて」
●(ミナミ ユウゾウさん)横浜スカーフ手捺染の職人さん
横浜開港後、上武からは数多くの生糸商人が横浜に進出しました。
嬬恋村出身の中居屋重兵衛(「中居屋(銅御殿)」創業)、吾妻郡大戸村出身の加部安左衛門(「加部長屋」創業)、大間々出身の吉田幸兵衛(「吉村屋」創業)、埼玉県本庄市出身の野沢正三郎(「野沢屋」創業)、埼玉県神川町出身の原善三郎(「亀屋」創業)、高崎市出身の茂木惣兵衛(野沢正三郎の死後「野沢屋」を継ぐ)など、群馬県や埼玉県の多くの商人が横浜に進出し活躍しました。
武州高島村(現・埼玉県深谷市)出身の名主である笹井万太郎は、横浜港の建設に関わり、波止場の造成工事を16,080両(現在の34~35億円)で請け負い、2本の突堤を建設し、最初の波止場を完成させています。この波止場は、横浜港の発展とともに「象の鼻」と呼ばれる曲線形の防波堤に姿を変え、現在の大桟橋埠頭(おおさんばしふとう)の基部となっています。
原善三郎と茂木惣兵衛の二人は政治の世界でも発言力を増していき、横浜の鉄道や港湾施設などインフラ整備に大きな役割を果たしました。
明治7年(1874年)には、原善三郎、茂木惣兵衛、吉田幸兵衛の三人が「第二国立銀行」を設立。彼ら横浜商人たちの活躍により、横浜経済が発展していきました。
【神奈川県横浜市 ~三渓園(さんけいえん)】
~富岡製糸場の経営者でもあった原三渓(はら さんけい)が日本文化の保護、育成のために造園・公開~
●(吉川 利一さん)三渓園保勝会・事業課長
「三渓園」は明治39年(1906年)に、原三渓が自邸を一般開放したのが元で、約17万5000平方メートルの広大な日本庭園に京都や鎌倉などから移築した貴重な建築物が点在します。現在は「公益財団法人三溪園保勝会」が運営しています。
原三渓は、横浜の生糸豪商原善三郎の孫娘・原屋寿(やす)と出会い、原善三郎家に婿養子として入り、先代・善三郎が興した生糸売込商・原商店を31歳で引き継ぎます。この時代、生糸は常に輸出品のトップの座にあり、生糸業界では「世界のハラ」と呼ばれ日本の経済を支えました。
実業家として成功する一方で、三渓は日本美術に深い理解を示し、若い芸術家たちの支援を行いました。当時、「廃仏毀釈」など仏教文化自体を否定し棄却する流れすら生じていた状況の中で、日本文化の保護・育成に取り組みました。
三渓は自らの事業はさておいて、蚕糸業界、横浜の経済界、そして社会のために尽くす姿勢を貫きました。
関東大震災時には、渋沢栄一翁は関東で、原三渓は横浜で、二人は先頭に立って、被災者支援に尽力し続けました。
●原財閥の祖、原善三郎氏(原三渓氏の養祖父)は、文政10年(1827)武州渡瀬村(埼玉県神川町渡瀬 ※本庄市から約18km)に生まれ、文久2年(1862)に横浜で生糸売込商「亀屋」を創業。渋沢栄一翁と並び称される実業家でした。
神川町に広大な原邸別荘「天神山庭園」があります。
●川越のシンボル「時の鐘」は明治26年(1893)の大火で全焼しました。その際多額の寄付をしたのが、渋沢栄一翁や、横浜の生糸商人たち(原善三郎、野沢屋・茂木惣兵衛等)だったとのことです。
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/shows/2007522/
(※2024年3月5日放送開始~2025年3月31日 まで配信中)
◆「シーラ・クリフさん・特別モデルオリジナル川越唐桟」が販売開始
シーラ・クリフさんがデザインした川越唐桟の販売がスタートしました!
シーラ・クリフさんが川越唐桟をデザインされた理由は、その歴史的な背景にあるとのことです。
川越唐桟が織られている木綿糸は、イギリス産業革命の地マンチェスターで作られていました。
横浜港が開港すると、その糸がマンチェスターから横浜にもたらされました。その木綿糸を見つけた川越の織物商・中島久平が入間地方で織らせ、江戸へ販売。
シーラさんの家族はマンチェスターとの縁があり、そのつながりを知り、新しい川越唐桟を令和に作りたいと思い、プロジェクトが始まったとのことです。(※参照:藤井美登利先生Facebookより)
→シーラ・クリフさんがデザインした川越唐桟の販売の詳細につきましては以下の「呉服笠間」様ウェブサイトをご覧ください。(https://www.gofukukasama.shop/blank-3)
(さいたま絹文化研究会通信・インフォメーション)
【越生駅にて、尾高浩羽先生の水墨画展開催】
「さいたま絹文化研究会通信」のインフォメーションのコーナーに、渋沢栄一翁と尾高惇忠翁の玄孫である尾高浩羽先生の水墨画展のことが紹介されていました。会場は「越生駅前ギャラリー」です。越生は、渋沢栄一翁の見立て養子となった渋沢平九郎(尾高惇忠翁の弟)とゆかりの深い土地です。今回の尾高浩羽先生の水墨画展では、若くして無念の死を遂げた平九郎を追悼するため、平九郎が詠んだ和歌からイメージして描かれた作品も展示されています。
先日、第1部におうかがいしました。尾高浩羽先生の作品を拝見したとき、筆のタッチや墨の流れが生み出す動きやリズムが実際に目の前に広がるようで、水墨画というものが持つ魅力に改めて気づかされました。さらに、平九郎の和歌が添えられることで、作品に深い情感と歴史的背景が加わり、とても感銘を受けました。ぜひ多くの方に見ていただけたらと思います。
◆開催日:
【第1部】:2024年4月27日(土)〜5月31日(金)
~平九郎157回忌記念 尾高惇忠玄孫尾高浩羽水墨画展~
【第2部】:2024年6月1日(土)〜6月26日(水)
~栄一新一万円札発行記念 渋沢栄一玄孫尾高浩羽水墨画展~
◆時間:午前8時30分~午後5時
◆場所:越生駅西口総合案内所ギャラリー(MAP)
◆主催:越生町観光協会
◆入場無料、作品販売あり
◆尾高浩羽先生オフィシャルサイト(https://hiroha-odaka.com/)
《さいたま絹文化研究会通信の購読について》
シーラ・クリフさんの番組を通じて、「絹」は様々な産業や文化の土台となっていることを知りました。現在こそ「絹文化」から学ぶことの重要性を感じました。
現在の横浜の街並みは、生糸貿易と密接に関係しています。生糸貿易が繁栄し、繊維産業が発展する過程で、横浜の街並みや建造物が整備され、美しい景観が生まれました。
絹産業は日本の近代化を支え、「めがね橋」のような美しい建造物や、秩父太織、秩父銘仙、川越唐桟などの独自の織物技術を生み出しました。
田島弥平が考案した「やぐら」を用いた養蚕建物は、蚕との数え切れない対話、改良工夫を重ねることによって作られました。
富岡製糸場の自動繰糸機は、日産自動車(当時のプリンス自動車)によって開発され、トヨタ自動車のルーツは自動織機にあります。両者とも繊維産業に関わる技術であり、繭や糸との密な対話によって創出されました。
現在においても、日産やトヨタ自動車の製造現場では、自然への敬意とコミュニケーションの精神が受け継がれているのだと思います。
田中優子氏は『布のちから』(朝日新聞出版)の中で、以下のように述べられています。
「布はメディアであり、ある時代までは建築物もメディアであった。(P47)」
「布は自然を人間界に引き出して織った『自然のかたまり』であり、『ただのもの』ではない。(同・P47)」
「自然は布によって人の世に顕われ、人は自然の力を身につけようとしたのである。日本ではそれが、自然風景のかたちをとって完成されたのである。(P48)」
日本文化は、季節や自然への深い敬意から生まれました。絹の歴史や歴史的建造物、伝統的な織物、庭園、そして着物の柄の歴史も、この気持ちが根底に流れています。これら絹文化の宝を広く伝え続けることの重要性を、強く感じました。
シーラ・クリフさんの日本における絹文化の旅を通して、「絹」は単なる衣服の素材なのではなく、文化や産業の礎となっていることを改めて感じることができました。風景や建物、繭や織物の映像もとても美しかったです。
このたびは素晴らしい番組を提供してくださり、ありがとうございました。