~戦前は『空を翔ける飛行士』として、戦中は『満州開拓団員』として、戦後は『農業指導者・教育者・文筆家』として、そして生涯にわたり男女平等や女性教育を推進する『女性運動家』として、多岐にわたって活躍した上里町の偉人・西﨑キクさん~
『西﨑キク特別展』 ~日本人女性初の海外飛行から90周年~
埼玉県児玉郡上里町が生んだ偉人、西﨑キクさん(1912年~1979年)は、日本人女性として初めて海外飛行を成し遂げた「空のパイオニア」です。彼女は「白菊号」で満州国・新京までの長距離飛行を成し遂げ、その功績で「ハーモン・トロフィー」を受賞しました。
その偉業から90周年を迎える今年、上里町役場の町民ホールで特別展が開かれています。
西﨑キクさんは、生涯にわたって多彩な分野で活躍されました。戦前には飛行士として空を翔け、戦中には満州開拓団員として活動。戦後は農業指導や教育、執筆に力を注ぎ、生涯を通して男女平等や女性教育の推進にも取り組んだ女性運動家としても知られています。
会場には、キクさんが初めて海外飛行に使用したプロペラ機「白菊号」の模型や、貴重な写真、新聞記事などが展示されています。また、70枚ものパネルで、彼女の生涯や功績をじっくりと振り返ることができます。
さらに、地元の「上里町アドバイザー紙芝居部」のみなさんが、キクさんを題材にした紙芝居『郷土の偉人 西﨑キクものがたり』を上演。また、このグループの皆さんは昨年、キクさんの人生をテーマにした『西﨑キクかるた』も作り、展示会場でもそのかるたを楽しむことができます。
"あ"「浅間山噴火した朝 西﨑キクは七本木に 生まれた」
"き"「教師 開拓者 上里町の偉人」
"は"「ハーモン・トロフィー賞と 終身会員賞の 名誉を受賞」
"ま"「満州国開拓団 空の女王から 開拓の花嫁へ」
"み"「みんなが見上げる 坂東大橋へ まっしぐら」
特別展は1月17日(金)から30日(木)まで開催中です。日頃見られない貴重な資料をたくさん見ることができます。西﨑キクさんの軌跡に触れ、功績を知ることができる貴重な展示会です。ぜひこの機会に、ご家族やお友達と一緒に足を運んでみてください。
【海外飛行90周年記念『西﨑キク特別展』~大空と大地を駆けぬけた生涯をたどる~】
◆開催期間:2025年1月17日(金) ~ 1月30日(木)
◆時間:午前9時~午後5時(最終日は午後3時まで)
◆場所:上里町役場町民ホール
◆主催:上里町 子育て共生課 人権・男女共同参画係、教育委員会 生涯学習課文化財係、郷土資料館
◆共催:上里町 アドバイザー紙芝居部
◆上里町HP「郷土の偉人・西﨑キク」
https://www.town.kamisato.saitama.jp/ijin/
◆逆境の時代を生き抜いた「西﨑キクさん」
◆パイロットを夢見て
西﨑キクさんは、日本人女性として初めて海外飛行を成功させた飛行士です。1912年(大正元年)11月、埼玉県の松本家に生まれました。1929年(昭和4年)に「埼玉女子師範学校(浦和町)」を卒業し、わずか16歳で地元の「神保原尋常小学校(現 上里町立神保原小学校)」の教員となります。
その年の秋、児童たちと出かけたサイクリングで訪れた「尾島飛行場」。そこで目にした飛行機のラストフライトが、キクさんの「空への夢」を目覚めさせました。この出来事について、キクさん自身は「空へ舞い上がらせる導火線になった」と語っています。
1931年(昭和6年)、教員を辞めたキクさんは東京・深川にあった「第一飛行学校」に入学しました。そして1933年(昭和8年)8月には二等飛行操縦士試験に合格し、日本人女性初の「水上飛行機操縦士」となったのです。
◆郷土訪問飛行
飛行士の資格を取得したキクさんは、愛知県知事や「埼玉県人会」の支援を受けて地元訪問飛行を計画しました。地元でも「後援会」や「協賛会」が結成され、歓迎ムードが高まります。さらには「郷土訪問の歌」も作られ、町中がキクさんを迎える準備に盛り上がりました。
1933年(昭和8年)10月15日、キクさんは「一三式水上機」に乗り、愛知県新舞子の安藤飛行機研究所を出発。静岡県の根岸飛行場と東京都の羽田東京水上飛行場で給油し、午後1時に地元坂東大橋上空へ到着しました。群衆数万人が見守る中、上空を三度旋回して敬意を表した後、華麗に着水しました。
◆日本人女性初の海外飛行
1934年(昭和9年)には「陸上飛行操縦士」の免許も取得。同年10月には、日本と満州国の友好を目的とした「満州親善飛行」を計画します。キクさんは「白菊号」に乗り込み、羽田飛行場を出発。羽田~満州国新京(現・長春市)の約2,440キロを14日間で飛行しました。途中、不時着というアクシデントもありましたが、11月4日に新京へ到着。これにより、日本人女性として初の海外飛行を実現しました。
この偉業に対し、航空関係者をたたえる「ハーモン・トロフィー」が授与され、キクさんは「空の女王」として大きな注目を浴びることになりました。
◆満州への入植 ~新たな挑戦~
その後、1937年の樺太祝賀飛行中に悪天候で不時着を経験。飛行士としての活動を断念せざるを得なくなり、翌年、猪岡武雄さんと結婚。夫と共に「満州国の開拓団」に参加し、教員や農業に従事します。華やかな「空の女王」から「開拓の花嫁」への転身。このニュースは多くの日本人に驚きを与えました。
しかし、1941年(昭和16年)12月、現地で夫・猪岡武雄さんと死別。それでも開拓への情熱は失わず、縁あって1943年(昭和18年)4月、開拓団の指導員である西﨑了(鴻巣市出身)さんと再婚しました。1944年(昭和19年)には長男「峻(たかし)」さんが誕生し、ようやくキクさんが北満の大地に根をはりはじめたとき、時代が再びキクさんの人生を翻弄しはじめました。
◆敗戦と引き揚げの苦難
1945年(昭和20年)8月4日、終戦のわずか11日前、夫の西﨑了さんが召集を受け戦地へ旅立ちました。そのわずか5日後、ソ連軍が満州に侵攻。キクさんは幼い長男・峻(たかし)さんを抱え、必死の避難生活を送りました。8月15日、日本は敗戦。混乱の中、キクさんたちの開拓団「埼玉村」は日本への帰国を目指して動き出しました。厳しい旅の途中、奉天収容所で峻さんが肺炎を患い、キクさんは最愛の息子を失います。雪の中で小さな体を埋葬するその姿は、彼女の心に深い傷を残しました。
それでも、キクさんは力を振り絞り、開拓団の仲間とともに帰国の道を進み続けました。ようやく1946年(昭和21年)6月9日、埼玉県庁に到着。しかし、出発時492人いた団員のうち、日本の地を踏むことができたのはわずか133人でした。大切な家族や仲間を失うという大きな代償を払いながらも、キクさんは故郷に生還したのです。
◆農業と女性の地位向上への尽力
戦後、上里町で中学校教師として勤めるかたわら「七本木の開拓団員」として埼玉県上里町七本木の「のっぺ」と呼ばれる酸性土壌で農業を開始。西瓜やうどの栽培に力を注ぎ、農業経営を軌道に乗せます。昭和36年には体験記『酸性土壌に生きる』で農林大臣賞を受賞しました。
また、昭和48年からは社会教育指導員として地域の婦人教育に取り組み、「婦人だより」の刊行や婦人学級を通じて、女性の生活や文化の向上のために尽力しました。
◆逆境の時代を生き抜いた西﨑キクさん
1979年、66歳でその生涯を閉じるまで、キクさんは困難と挑戦の連続の中を力強く生き抜きました。
キクさんは、求められた色紙に「ただ一度の人生だから自分の可能性を追い求めよう」と書き、「自分の歩んできた人生に悔いはない。もし生まれ変われるなら、また同じ道を歩みたい」と言っていたそうです。
夢を追い続け、逆境に立ち向かう姿は、多くの女性に勇気と希望を与えました。キクさんの歩みは、挑戦することの大切さ、そして自分らしく生きることの素晴らしさを教えてくれています。
◆海外飛行90周年記念「西﨑キク特別展」パンフレット
本書の執筆は、上里町教育委員会 生涯学習課文化財係の林 道義さん。
展示は、林 道義さん、同係の生野一志さん、ほかスタッフの方たちによって実施。
(※『西﨑キク特別展』パンフレットより)
◆「西﨑キク特別展」パネル
◆ごあいさつ
この度は、海外飛行90周年記念特別展「西﨑キク 大空と大地を駆けぬけた生涯をたどる」にご来場いただき、誠にありがとうございます。
西﨑キクは上里町大字七本木の出身で、戦前は航空機の操縦士、戦中は満蒙開拓団に従事し、戦後は農業指導者や教育者、さらには文筆家としてマルチに活躍した人物です。また、生涯をとおし男女平等の推進や女性教育に取り組んだ女性運動家としても活躍されました。
特に航空機の操縦士としては、我が国に航空機が登場した昭和初頭において、日本人女性として初めて海外飛行を行った経歴を持っています。
令和6年11月は、彼女が海外飛行を行ってから、ちょうど90年の節目の年になります。本展示では、これを記念し西﨑キクの輝かしい功績をご紹介します。
またその一方で、彼女の青春時代は我が国が戦争に向かって突き進んでいった時期にあたります。そのため彼女の生涯は、多くの不条理と隣り合わせであり、それらと向き合ったものでもありました。昭和という激動の時代の中で、懸命に生きた彼女の姿を皆さまに知っていただけましたら幸いです。
上里町役場 子育て共生課
上里町教育委員会 生涯学習課
上里町 アドバイザー紙芝居部
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆第1章 幼少から教員時代
出生
キクの生家は、児玉郡旧七本木村大字久保新田(現在の上里町大字七本木字久保新田周辺)の松本家です。同家は、主に小麦の栽培や養蚕等で生計を立てる農家でした。麦作や野菜の栽培を行いながら、養蚕で収穫される繭を出荷することで現金収入を得ていました。このような家庭は、高度経済成長以前の上里町ではごくありふれた家庭です。
大正元年(1912)11月、キクは松本家の次女として生まれました。彼女のきょうだいは7人おり、彼らに囲まれ好奇心旺盛、かつ、お転婆な幼少期を過ごします。
例えば3歳の頃、大人たちが目を離した瞬間に、蚕を飼う蚕室のてっぺんまで登りきり、大空に向かってバンザイをしたといいます。もちろん、下でそれを見ていた大人たちは青ざめ、肝を冷やしました。天性の冒険家気質ともいえるでしょうか。いずれにせよ、後に飛行士となるキクの生涯を暗示するものといえます。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆師範学校時代
少女時代のキクは、地元の七本木尋常小学校、同高等小学校を卒業し、いったんは和装学校に入学させられそうになります。しかし、キクは両親を説得し、昭和2年(1927)、浦和の埼玉県女子師範学校(現在の埼玉大学教育学部の前身)短期部に入学します。
ここでも持前のお転婆は相も変わらず、入試の際は筆記試験を早めに切り上げ、校庭でバスケットボールをしたり、理科の試験で珍回答を書いて、入学後に笑いのネタにされる等、この頃の逸話には、いとまがありません。
しかし、成績は非常に優秀でこの時の入試も倍率は7倍を超えていたといいます。同級生たちも、キクのことを「非常に朗らかな人」、「成績よく、どちらかといえばシッカリした人」と回想しており、優秀な学生だったことが分かります。また、この頃から文学的な素養が高く、得意教科は地理と体育、そして作文でした。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆教員時代のキク
キクは、無事2年で師範学校を卒業し、晴れて神保原尋常小学校(現在の神保原小学校)に教師として着任します。昭和4年(1929)、16歳のことでした。当時の小学校は、7歳から13歳の子供たちが通うものです。着任当日、キクは彼らを前にして、「これから私は皆さんのよいお友達になって、皆さんと一緒に勉強させて頂きます」と緊張しながらスピーチを行いました。
キクの自伝ではこの頃、生徒たちとスポーツをしたり、歌をうたったり、石神社の境内で絵を描いたりした思い出が楽しげに綴られています。新任で小柄だったキクは、生徒たちにとって年の近いお姉さんのような存在でした。
その年、キクは生徒たちを引率して現在の群馬県太田市へサイクリングに出かけました。帰り道、同市利根川沿いにあった尾島飛行場で航空機のテストフライトに遭遇します。キク自身、この体験を「空へ舞い上がらせる導火線になった」と表現しており、この瞬間、飛行士となることを決意したのでした。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆第2章 飛行機操縦士免許の取得と郷土訪問旅行
飛行士を志す
尾島飛行場での体験によってキクの運命は、にわかに動き出しました。サイクリングから帰るとキクは早速、航空機に関するテキストを取り寄せ、仕事後に独学で勉強を開始します。
さらに昭和6年(1931)、18歳のキクはついに教職を辞し、念願の飛行学校への入学を果たします。はじめは、現在の東京江東区にあった第一飛行学校、さらに必須の飛行時間を確保するため、単身で愛知県知多半島にあった安藤飛行機研究所に転入します。同校では同期生の墜落死や命がけでパラシュート降下を経験する等、過酷な訓練を受け、昭和8年(1933)、晴れて水上飛行機の二等飛行機操縦士免許を取得しました。水上飛行機とは、機体の下にフロートと呼ばれる浮きを着け、水面から離着陸できる飛行機のことを指します。キクはこのタイプの飛行機の免許を日本人の女性として初めて取得しました。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆郷土訪問飛行
キクが飛行士の免許を取得した直後の昭和8年10月15日、埼玉県全体をコースとした「郷土訪問飛行」が実施されました。
飛行当日、愛知県の安藤飛行機研究所から東京羽田を経由し、旧旭村の利根川(現在の本庄市山王堂の坂東大橋周辺)に着水するコースが取られ、その場で歓迎式が行われました。川岸には、キクの姿を一目見ようと見物人が大挙して押しかけており、当時の新聞記事ではその数を10万人超(キク自身は7万人とも回想)と報道しています。
歓迎式には家族のほか、教え子である神保原小学校の生徒達も駆け付けました。生徒らによる祝辞が述べられ、花束、飛行機の絵等が贈呈されました。
さらに3日後には、児玉郡全域、浦和、川口、所沢を巡回し、それぞれの小学校の上空から感謝のメッセージを書いたビラをまき、埼玉県を後にしました。こうして、キクの「郷土訪問飛行」は大成功を収めたのでした。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆第3章 紅翼の時代 日本人女性初の海外飛行
準備
キクは郷土訪問飛行の翌年、「満州親善飛行」を計画します。満州国とは、現在の中国東北部を領域とした国です。この試みが成功すれば、日本の女性飛行士による初の海外飛行記録となります。またこの頃は満州事変直後であり、時代は戦争に向かっていました。この飛行には、同国との「親善」やそこに駐留する日本軍への「慰問」といったお題目がつけられました。
中国大陸は広く、水辺の少ない内陸部を飛行機で移動するには、水上飛行機では不向きでした。キクは長距離飛行に備え、東京杉並にあった亜細亜飛行学校で陸上飛行機に乗るための免許を改めて取得します。
さらに時を同じくして、同じ亜細亜飛行学校に所属していた女性飛行士 馬淵テフ子もキクを追いかける形で、「満州親善飛行」の実施を表明しました。彼女の飛行計画はキクと同じ航路、同じ機体、同じ目的を持つもので、人々はあたかも二人をライバルのようにとらえて注目しました。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆日本人女性初の海外飛行実現
「満州親善飛行」は、昭和9年(1934)10月22日から始まります。羽田飛行場を出発し、朝鮮半島を経て満州国首都新京を目指すものでした。
いくつかの中継地を経由して10月26日に福岡県太刀洗飛行場に到着、さらに日本海を越え、現在の韓国のウルサン、さらにソウルを目指しました。しかし、ガス欠が発生し、白菊号は農地の中に不時着してしまいます。日没後で辺りは暗闇に包まれていました。キクは、死を覚悟で暗闇の中に着地しました。
キクと白菊号は2日後、ソウルから新義州(現在の北朝鮮)へ向け飛行に復帰、さらに新義州から満州国境を越え、11月3日に奉天、翌4日には旅の最終目的地である新京に到着します。この瞬間、日本人女性初の海外飛行が達成されました。また、馬渕テフ子も翌日に新京に到着、出迎えに来たキクと嬉し涙をこぼし、お互いの無事を確かめ合いました。
さらに半年後、その年に最も活躍した女性飛行士としてパリの国際飛行家連盟よりハーモン・トロフィー賞が贈られ、世界的にその功績がたたえられました。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆女性パイロットの育成と差別解消をめざす
キクと馬淵テフ子が海外飛行を行った前後で、二人が力を入れて解決を目指していた課題に女性飛行士の育成と彼女たちへの差別解消があります。
キクたちが満州を目指した直前の昭和8年6月、二人の母校の亜細亜飛行学校では、女子部を設立し、女性飛行士の本格的な養成を始めました。キクもテフ子も助教官として後進たちの指導にあたります。
さらに翌7月、二人は、各地の女性飛行士を集め、「女子飛行士クラブ」を結成します。この会は、女性飛行士同士の親睦を深めることを目的とした集団とされますが、同時に女性飛行士への差別撤廃をスローガンに掲げていました。戦前は、法律によって女性の商業用飛行機の操縦免許(一等飛行機操縦士免許)の取得が許されていませんでした。キクとテフ子たち「女子飛行士クラブ」は、これに異を唱え、女性も一等飛行機操縦士免許を取得できるよう、制度改正の必要性を訴えました。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆紅翼の時代の終焉
昭和12年(1937)7月には、当時、日本統治下にあった樺太(現 サハリン南部)の豊原市に向け祝賀訪問飛行を行います。
仙台、青森を経て、津軽海峡の上空のことでした。海峡の真ん中で突如、エンジンが停止します。寒さでガソリンを送る部品が機能しなくなったのでした。さらに雨と濃霧が立ち込めており、視界は皆無でした。さすがのキクも墜落を覚悟したといいます。しかしその刹那、一瞬だけ霧の切れ間に貨物船が横切るのが見えました。キクは貨物船に向け「今降りる、頼みます!!」と大声を上げ、機体を降下させました。
午後3時28分38秒、幸運にもキクは救助され、九死に一生を得たのでした。しかし、この事故により「樺太祝賀訪問飛行」は中止となりました。
またこの月、日中戦争が勃発し、日本は戦争への道を突き進みます。戦争の激化とともに、民間航空機は自由に空を飛ぶことが難しくなりました。キクの飛行士としての挑戦、またキャリアも「樺太祝賀訪問飛行」とともに終わりを迎えました。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆第4章 満州入植から終戦
満州での暮らし
失意のキクは猪岡武雄と結婚。さらに持ち前の好奇心と冒険心を発揮して「満蒙開拓団」として満州に渡る決意をします。
「満蒙開拓団」は終戦前まで行われた国家政策です。当時、国内景気の低迷を受け、それまでの農村の生産力では人々の暮らしを支えることができなくなりました。そのため、満州国に移民として農村の人々を入植させ、開拓させることで農地を広げ、本土の農村の負担を軽減させようとしたものでした。また、満州国の北側にはソ連が位置しており、ソ連からの防衛や満州国の支配強化といった軍事的側面もありました。
キクは昭和13年(1938)3月、満州国北東部の北安省(現在の黒竜江省)に作られた「埼玉村」に夫と共に入植しています。キクは、日本とは大きく異なる環境に戸惑いながら、開墾や農作業に従事します。また教員としての経験を生かし、村に日本人学校を作り、自ら教壇に立ちました。
しかし、キクを取り巻く環境は大きく変動します。昭和16年(1941)に夫 武雄が病死し、途方に暮れる中で、同じ開拓団の指導員であった西﨑了と昭和18年(1943)に再婚します。翌年には長男に恵まれますが、敗色が濃厚となった昭和20年(1945)には、了が出征してしまいます。キクは幼子を抱え、家を守ることになりました。
◆ソ連からの逃避行
終戦直前、ソ連軍が満州への侵攻を開始します。満州国は崩壊し、キクたちは、一夜にして難民と化してしまいました。ソ連軍や襲撃してくる匪賊から逃れるため、キクと村人たちは村を捨て、南へ逃避しました。この時期、男性は戦争に出征しており、村に残された人々は、女性や老人、子供たちが多くを占めていました。その逃避行は過酷を極めるものであり、村人たちは、ソ連軍や匪賊による略奪や暴力、伝染病、そして飢えに晒されました。この途中でキクは、最愛の息子を病で亡くしています。また、日本人であることが分かると迫害を受ける可能性があったため、飛行機の免許証や写真、ハーモン・トロフィーまでも処分しています。しかし、その荒んだ日々においても、敵であるはずのソ連兵から食料を分けてもらい、また中国人にかくまってもらうなど、人の優しさにふれながらキクは少しずつ明るさを取り戻していきました。
昭和21年(1946)6月1日、ボロボロのキク達を乗せた引き上げ船が日本に向け出港しました。この時、帰国できた村人は492人中、わずか133人でした。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆第5章 戦後 農業技術者・教育者として
昭和21年6月9日、キクは最愛の息子や仲間等、多くを失いながらも帰国することができました。夫はシベリアに抑留されており、すぐに帰国できない状況にありました。そのため、キクは彼の帰りを待ちながら教員として勤務することになります。そんな暮らしが2年ほど続いた昭和23年(1948)、キクは七本木村の「戦後開拓」に参加し、現在の上里町大字七本木三田に入植します。開拓団でキクは様々なことに挑戦し、自宅はさながら農業試験場のような様相だったといいます。この頃、キクが栽培した農作物は、陸稲や大豆、サツマイモ、大根、白菜、スイカ、メロン、ウド、さらには乳牛や鶏、緬羊(羊毛用の羊)、ヌートリア(南米原産のネズミの仲間、毛皮に利用)など、幅広いものでした。三田周辺は、火山灰が降り積もってできた痩せた赤土であり、必ずしも農業に向いた土地ではありませんでした。しかし、様々な工夫を凝らしながら安定した農業生産ができるよう、キクは努力を重ねていきました。さらにそれらの経験をまとめ、昭和36年(1961)に論文「酸性土壌に生きる」を発表しています。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆晩年
昭和48年(1973)には、キクは上里町教育委員会の社会教育指導員に委嘱され、婦人教育の普及に尽力しています。教育委員会・婦人会連絡協議会の会報である『婦人だより』の創刊や、昭和50年にメキシコで開かれた国連主催の第1回世界女性会議への参加など、女性の生活や文化の向上に取り組みました。また、日本婦人航空協会の理事にもなっています。
この時期、執筆活動も旺盛でエッセイや体験記、私小説を盛んに記しています。昭和50年(1975)8月には、自身の体験を次世代に伝えるべく、自伝『紅翼と拓魂の記(こうよく と たくこん のき)』を上梓し、彼女の作品、ひいてはその生涯の集大成となっています。さらに昭和51年(1976)、戦前の女性飛行士をテーマにしたNHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』(浅茅陽子主演)の放送が開始されました。この放送でキクは主人公のモデルの一人として注目を集めます。
昭和54年(1979)、脳溢血のため、急逝。キクはその波乱に満ちた66年の生涯を終えました。偏見や戦争等、彼女の生涯の大部分は時代や社会に翻弄されたものといえます。しかし、その中にあってもたくましく生きた生涯でした。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆終わりに その後の西﨑キク
その後、時代は瞬く間に流れ、平成11年(1999)6月23日に男女共同参画社会基本法が施行されます。この法律は男女の人権を等しく保証し、平等に参加できる社会を目指す法律です。生前、キクが行ってきた活動は、この法律が標榜する「男女平等共同参画」に通じるものとされ、再び脚光を浴びるようになりました。また、黎明期の女性パイロットという観点から航空雑誌はもちろん、さらに女性向けファッション誌等で特集され、幅広い層から注目を集めるようになります。町ではキクの没後25年にあたる平成16年(2004)から西﨑キクに関する顕彰事業を本格的に始動させ、彼女を紹介するホームページの開設や、平成17年(2005)には、その功績と生涯を紹介する冊子『夢 青き空から』等を発行し、現在に続く顕彰事業を本格化させていきました。
※『西﨑キク特別展』パネルより
また、キクに関する顕彰活動は、町民を中心とした民間でも進められており、平成22年(2010)には埼玉県男女共同参画アドバイザー養成講座の受講者のうち有志の方々によって、西﨑キクの紙芝居が、令和6年(2024)にはカルタが制作され、彼女の遺志を次世代へ継承する努力が進められています。
このように上里町では、これまで西﨑キクの波乱万丈な生涯が語り継がれてきました。
彼女の功績は今後、現在の我々や未来の人々にどのような影響を与えるのでしょうか。その答えは、どこまで長く正しく彼女のことを伝えていけるか、今後の我々にかかっているといえます。
※『西﨑キク特別展』パネルより
◆紙芝居『郷土の偉人 西﨑キクものがたり』
~「上里町アドバイザー紙芝居部」の皆さん制作の紙芝居~
◆『西﨑キク かるた』
~「上里町アドバイザー紙芝居部」の皆さん制作のカルタ~
地元の『上里町アドバイザー紙芝居部』の皆さんが制作された紙芝居『郷土の偉人 西﨑キクものがたり』や『西﨑キク かるた』からは、手描きの温かみが感じられ、西﨑キクさんを大切に思う気持ちがとても伝わりました。
紙芝居やカルタは、地元の偉人を楽しく学ぶきっかけとなる素晴らしいアイデアだと思いました。
◆「西﨑キク特別展」が新聞に掲載
(2025年1月19日朝日新聞)
(2025年1月20日毎日新聞)
(2025年1月18日埼玉新聞)
◆NHKの首都圏ニュースで「西﨑キク特別展」が紹介
2025年1月22日(水)のNHK首都圏ニュースで、「埼玉 女性パイロット日本初の海外飛行成功 西﨑キクの展示会」が紹介されました。(※詳細はこちらへ)
地元の「上里町アドバイザー紙芝居部」の皆さんが、キクさんを題材にした紙芝居『郷土の偉人 西﨑キクものがたり』を上演し、子どもたちや地元の方々が熱心に観覧していました。
(上演を見守っていた方の中には、塙保己一顕彰会の事業部会委員である田中学氏もいらっしゃいました。)
西﨑キクさんの姪である井上美千代さんは、
「本当に元気で前向きなおばでした。時代を越えて、キクのように希望を持って生きてほしいですね」
とお話しされていました。
◆【コラム 郷土の偉人と養蚕】について
埼玉県の三大偉人といえば、荻野吟子、渋沢栄一、塙保己一の三人です。荻野は日本の女医第1号、渋沢栄一は政財界で活躍、塙保己一はハンディキャップを克服し、歴史書『群書類従』の編纂をします。分野はそれぞれバラバラですが、彼らの共通点があります。いずれも埼玉県北で生まれ育ったという点です。そして、この地域は養蚕が盛んな地域でありました。事実、荻野、渋沢家は養蚕を行っていたことが知られています。様々な理由が考えられますが、養蚕による現金収入があったため、教育にもお金をかけることができたと考えられます。また、蚕の飼育には科学的な知識や考え方が不可欠でした。知識をつけ、考えるという養蚕によって培われた習慣が偉人を育てたともいえそうです。西﨑キクもそういった風土の中で成長していきました。
※「西﨑キク特別展」パンフレットより
このコラムを読んで、荻野吟子さん、渋沢栄一翁、塙保己一先生といった偉人たちがいずれも埼玉県北部で生まれ育ち、その地域特有の「養蚕」が、彼らの成長にどのように影響を与えたのかを考察している点が非常に興味深かったです。
「養蚕」は、当時、この地域において重要な産業でありました。それが「教育」や、「知識習得」の一環としても機能していたという視点は新鮮でした。
とくに、蚕の飼育には科学的な知識や観察力、問題解決能力等が必要とされ、そのような知識を身につけることが、偉業を成し遂げるための基盤となっていたことに改めて気づかされました。
このコラムを通じて、埼玉県北部の歴史や文化の深さを再認識することができました。
◆西﨑キクさんの「郷土訪問飛行」と大川平三郎氏
西﨑キクさんの二等飛行機操縦士免許の取得と「郷土訪問飛行」の実現に、愛知県知事や「埼玉県人会」会長の大川平三郎氏をはじめとする多くの方々が尽力されていました。(※上里町HP「郷土の偉人・西﨑キク」の「郷土訪問飛行」より)
昭和8年(1933年)8月に二等飛行機操縦士免許を取得した西﨑キクさんは、同年10月15日午前6時10分、「一三式水上機」に乗り、愛知県新舞子の「安藤飛行機研究所」を出発しました。その後、静岡県の「根岸飛行場」と東京都の「羽田東京水上飛行場」で給油を行い、午後1時に埼玉県本庄市の「坂東大橋」付近の上空に到達しました。数万人もの出迎えの人々が見守る中、キクさんは上空を三度旋回して敬意を表し、見事に利根川の上に着水しました。地元出身の女性パイロットが夢を叶え、その勇敢な姿を通じて地元の人々が勇気づけられた様子が目に浮かびます。
「埼玉県人会」が西﨑キクさんの快挙を喜び、その夢を後押ししていたことは、当時の人々の郷土愛の深さと連帯感の強さを感じました。「埼玉県人会」の初代会長は渋沢栄一翁です。そして当時二代目会長を務めた大川平三郎氏が地域の発展に尽力し続けていたことを考えると、この「郷土訪問飛行」が単なる偉業ではなく、埼玉の人々にとって誇りであり希望でもあったことが伝わってきました。
余談ではありますが、大川平三郎氏が社長として関わった「上毛電気鉄道」(「中央前橋 - 西桐生間」が1928年に開業)の敷設計画に、私の曽祖父である戸谷間四郎(戸谷家12代目)も関わっていました。当時は、「大胡」から分岐し、「伊勢崎」を経由して、「坂東大橋」を経て、埼玉県の「本庄」に至る路線の計画がありましたが、昭和の大恐慌のあおりを受けて実現しませんでした。(※こちらもご覧ください。)
家族の一員として、郷土の歴史に何らかの形で関与していたことを知ると、より一層この歴史の重みを感じました。
西﨑キクさんと、キクさんを支えた人たちの物語に触れ、これからも地域の歴史と文化を伝えていきたいと強く思いました。
◆中村民夫先生制作「西﨑キクさんの偉業を称えたブロンズの記念彫刻」
中村民夫先生(1932~2024年)は、本庄市・上里町を代表する画家です。先生は私の姉の中学時代の美術の先生でもあり、そのご縁で「戸谷八商店」にもたびたび足を運んでくださいました。昨年12月、先生がご逝去されたことを心よりお悔やみ申し上げます。
生前、中村先生から、上里町の偉人・西﨑キクさんを称えるためにブロンズの記念彫刻(レリーフ)を制作し、上里町に寄付されたお話を伺ったことがあります。西﨑キクさんのご自宅は、中村先生の奥様のご実家の隣にあり、そのご縁がきっかけで偉業を称え、後世に伝えるためにレリーフを制作されたとのことでした。(※詳細はこちらをご覧ください。)
今回の『西﨑キク特別展』では、その中村先生のレリーフも展示されています。
中村先生は、「ただ一度の人生だから、自分の可能性に挑戦しよう」というキクさんの大切にしていた言葉を、まさに生きた方だと思います。(※中村民夫先生についてはこちらをご覧ください。)
西﨑キクさんの世界的な偉業が、中村先生の作品を通じても多くの人々に伝えられ続けることを心から願っています。
会場には、西﨑キクさんが使用したプロペラ機『白菊号』の模型をはじめ、貴重な写真や新聞記事が展示されており、当時の空のロマンが生き生きと感じられました。
とくに、70枚ものパネルで彼女の生涯や功績をじっくりと振り返ることができ、解説文の丁寧さに感銘を受けました。
展示パネルの最後にあった文章に、
『彼女の功績は今後、現在の我々や未来の人々にどのような影響を与えるのでしょうか。その答えは、どこまで長く正しく彼女のことを伝えていけるか、今後の我々にかかっているといえます。』
という一文がありました。
この言葉には深く考えさせられました。西﨑キクさんの功績を知ることは、私たち自身に、逆境に立ち向かう勇気や、困難な時代にあっても未来への希望を持ち続けて信念を貫くことの大切さを教えてくれます。
さらに、キクさんの偉業を伝えることは、未来の世代にとっても重要です。西﨑キクさんの物語を学ぶことで、若い世代は、単に歴史を学ぶだけではなく、自分の夢に挑戦する勇気を持ち、新しい可能性や選択肢を見つける手助けとなると思います。
西﨑キクさんの挑戦と功績は、地域の誇りであると同時に、未来を切り拓く力強いメッセージでもあります。
ぜひこの展示会に足を運び、キクさんの生涯を体感していただければと思いました。