~渋沢栄一翁と縁が深く、実業家・外交官・作曲家などを輩出した本庄の旧家『諸井家』と、渋沢栄一翁に憧れた全国の『リトル渋沢達』について~
※渋沢栄一翁に影響を受け、ロールモデルとした地方の経済人たち(リトル渋沢達)が全国に数多くいました。彼らは次々といくつもの会社を立ち上げ、社会貢献に関わり、日本全体で民間力を高めていきました。
その地方における一事例として、以下で、本庄地域における戸谷家の場合について説明させていただきました。
◆ご参加いただいた皆様
2023年 9月27日(水)、第7回本庄まちゼミ『老舗15代目が語る中山道本庄宿』が戸谷八商店にて行われました。
今回のテーマは、渋沢栄一翁とも関係の深い本庄宿の旧家「諸井家」です。
本庄まちゼミには、本庄市広報担当の方が取材に来てくださいました。広報誌に取り上げていただいて非常に励みになり、ありがたかったです。
(※『広報ほんじょう11月号』については、こちらの記事もご覧ください。)
(戸谷八文庫蔵)
(戸谷八稲荷にて)
◆「第7回本庄まちゼミ」戸谷八商店の内容
■開催日時:
2023年 9月10日(日) 10時~11時
2023年 9月10日(日) 14時~15時
2023年 9月27日(水) 10時~11時
■講座名:№19『老舗15代目が語る中山道本庄宿』
今回のテーマは、本庄宿の旧家「諸井家」です。
渋沢栄一翁と縁が深く、実業家・外交官・作曲家・芸術劇場館長などを輩出した本庄の旧家。
※ゼミの後、埼玉県最古企業-戸谷八商店の歴史建物見学もございます。
■受講料:無料
■開催場所:戸谷八商店(本庄市中央1-7-21)
(資料)
◆渋沢栄一翁の偉業
渋沢栄一翁は、約500社の企業と、600以上の教育・社会事業団体の創設に関われた、「日本の近代化」を牽引した日本がが誇る偉人です。
渋沢栄一翁は、株式会社という組織や、金融システム、鉄道という物流システムを日本に根付かせ、「民間力」を高められました。
◆渋沢栄一翁の地方への影響力 ~『リトル渋沢』について~
渋沢栄一翁は、地方にも足を運び、様々な企業の設立に携われました。
渋沢栄一翁に憧れ、影響を受けた全国の「リトル渋沢達」は、地元でみんなでお金を出し合い「銀行」、「鉄道」を作りました。
「利益を独占するのではなく、ネットワークを大事にし、公益の視点で町全体が良くなっていく」という渋沢翁の考え方は、地方の「リトル渋沢達」によっても広められ、日本全体として「民間力」が高められていきました。
◆本庄地域での事例(諸井家の場合)
本庄において、渋沢栄一翁の影響力が最も大きかったのは諸井家です。
諸井家(東諸井家)は、江戸時代から渋沢家と縁戚関係にあります。
11代目 諸井恒平は、明治20年、渋沢栄一翁の推薦で日本煉瓦製造株式会社に勤務した後、明治40年には専務取締に就任します。大正12年には秩父セメントを創設し、「セメント王」と呼ばれる地位を築きました。
恒平の子、12代目 諸井貫一は、日本経団連・経済同友会を創設し、その他にも一族からは領事館公使や、芸術家などを輩出し、日本の近代化に貢献しています。(※諸井家についてはこちらもご覧ください。)
◆渋沢栄一翁の本庄地域への影響(戸谷家の場合)
~戸谷家では銀行、工場、鉄道など、本庄の近代化をすすめる10以上の会社の設立や、社会貢献に関わっていました。~
明治27年【株式会社本庄商業銀行】
戸谷家11代目の戸谷八郎左衛門は、諸井孝次郎らとともに、取締役として「本庄商業銀行」の設立に関わりました。
生糸産業の全盛期、「本庄商業銀行」は繭や生糸を担保に融資していました。写真の向かって左に見える「旧本庄商業煉瓦倉庫」は担保となった繭や生糸を保管する倉庫として使われたものです。
明治28年10月【本庄倉庫株式会社】※明治41年より「戸谷乾燥所」
明治28年12月【株式会社埼玉貯蓄銀行】
◆明治44年「戸谷工業部」~“戸谷式土管製造機”の特許を取得~
明治44年「本庄館製糸場」
◆大正初期に、11代目・戸谷八郎左衛門が設立に関わった株式会社
◆大正~昭和初期に、12代目・戸谷間四郎が設立に関わった会社
(左)戸谷家12代目・戸谷間四郎 (右)十間通りにある「戸谷間四郎の記念碑」
【大正8年「本庄泰平株式会社」】
関東大震災の翌年(1924年)の9月に、本庄の長峰墓地に、「本庄新聞記者団」(群馬新聞本庄支局長の馬場安吉氏)と「本庄泰平株式会社」が虐殺の慰霊碑を建立しています。(慰霊碑の裏面には、「大正十三年九月卯日 本庄記者団 泰平会社演芸部 建石」と刻まれています。)
◆「教育」を通しての社会貢献活動
※『学生寄宿舎の世界と渋沢栄一~埼玉学生誘掖会の誕生~』(渋沢史料館)より
「埼玉学生誘掖会(さいたまがくせい ゆうえきかい)」は、東京で勉学に励む埼玉県出身学生のための寄宿舎設置など、学生支援を目的に明治35年に誕生した団体です。
明治35年(1902年)、渋沢栄一翁、本多静六氏、諸井恒平氏、竹井澹如氏等が中心となって創設されました。
上記記念写真は、大正2年(1913年)に開催された「第9回埼玉学生誘掖会寄宿舎創立紀念祭」の時の写真です。
戸谷八11代目の戸谷八郎左衛門は埼玉学生誘掖会の評議員として参加していました。
※「埼玉学生誘掖会(さいたまがくせい ゆうえきかい)」についてはこちらの記事をご覧ください。
11代目八郎左衛門と12代目の間四郎は、大正11年には「本庄高等学校(旧制中学校)」に、大正12年には「本庄尋常高等小学校」への寄付を行いました。
14代目 戸谷全克は本庄高等学校の同窓会長として、「旧制中学校の正門」の復元に尽力しました。
※亡き父 戸谷全克は、本庄高等学校の第1回卒業生(旧制中学23回卒)です。旧制中学から新制高校への学校制度の変化時に生徒だったこともあり、父は、柏にある校舎には6年間通い続けていました。6年という長い期間通い続けていたため、非常に愛校心が強かったです。そのため、第6代同窓会長 岡 祐孝先生に強く勧められ、母校にご恩返しができるのならと、第7代同窓会長(平成6.6~平成20.6)を引き受けさせていただきました。父はいつも楽しそうに、歴史と伝統ある本庄高等学校同窓会のお仕事をさせていただいておりました。
本庄高等学校は、令和4年(2022年)に100周年を迎えました。(※こちらの記事もご覧ください。)
◆「社会福祉事業」に関連する活動
▼「恩賜財団済生会」について
明治44年(1911年)2月11日、明治天皇は、時の内閣総理大臣・桂太郎を御前に召され、「生活苦で医療を受けることができずに困っている人たちを施薬救療(無償で治療すること)によって救おう」と「済生勅語」を発し、お手元金150万円を下賜されたとのことです。
※渋沢栄一翁が設立にかかわった「済生会」との関係については、こちらをご覧ください。
▼「日本赤十字社」について
日本赤十字社の創設者である佐野常民(さの つねたみ)と渋沢栄一翁との出会いのきっかけは、慶応3年(1867年)に開催された「パリ万博」でした。(※詳細はこちらをご覧ください。)
佐賀藩の使節団としてパリ万博に訪れた佐野常民は、「敵味方の区別なく、救う」という赤十字の理念に感動し、明治10年(1877年)、西南戦争において傷ついた兵士を敵・味方の区別なく救う救護組織「博愛社」として設立しました。
渋沢栄一翁もパリ万博でチャリティーバザーの存在を知り、慈善事業を始めるきっかけとなりました。
渋沢翁は、日本赤十字社の前身である「博愛社」時代からの支援者で、明治13年に日本赤十字社の社員(会員)に加入、明治26年には常議員(現在の理事)として関わりました。
▼佐野常民と本庄との関わりについて
佐野常民は、明治11年(1878年)に「本庄遷都論」を唱えた本庄ともゆかりが深い人です。
当時の東京近海は、欧米船舶が往来し、いったん紛争が起きると政府所在地が攻撃される恐れのある状況にありました。
佐野常民は、外国船の攻撃を受けない地域で、水害の恐れがなく、水運が良く、高い山がなく、気候が温暖で、飲料水が確保できるという条件を指定し首都遷都を考案しました。その条件にもっとも適う土地として本庄市をあげられました。
◆戸谷家11代目と12代目が行った都市整備事業
◆12代目戸谷間四郎が行った「上毛電気鉄道の誘致」事業
戸谷間四郎は、「本庄から伊勢崎、大胡」へと向かう電車を通そうとしましたが、世界恐慌の影響を受け、工事は中止となり、上毛電気鉄道・本庄線は幻となってしまいました。
【幻の本庄線の経緯】
①1924年(大正13年)、上毛電気鉄道「前橋-桐生間」「大胡-伊勢崎-本庄間」(本庄線)の免許取得。
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②1928年(昭和3年)「前橋-桐生間」開通(一部)。
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③1929年、旧坂東大橋が「鉄道と道路の併用橋」として着工。
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④1930年前後、「世界恐慌」の影響を受ける。
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⑤上毛電気鉄道は「鉄道の敷設を断念」→「道路部分」のみ施行。
1931年、「旧坂東大橋」完成。※道路部分に「鉄道」のなごりが残る。
◆12代目戸谷間四郎が行った「十間通りの整備」事業
戸谷間四郎は、「上毛電気鉄道」の誘致とともに、本庄駅東南部の「十間通り」の整備事業も実施しました。
民間で鉄道を誘致して、新たな本庄の駅前通りの構築に従事しました。
◆本庄電気軌道株式会社 ~本庄のチンチン電車~
◆「七軒町停車場跡記念碑」前にて
~平成21年(2009年)記念碑建立~
【開設当時(大正4年)の本庄電気軌道・株主名簿】
(増田 一裕氏「本庄電気軌道株式会社・その創立から廃止まで」P62『本庄市立歴史民俗資料館紀要』第3号、本庄市立歴史民俗資料館、1992年3月より)
大正4年(1915年)の「本庄電気軌道株式会社」の株主名簿には、渋沢栄一翁の従弟(父の妹の次男)である澁澤市郎氏や、諸井恒平氏の長男である諸井貫一氏、競進社を設立した木村九蔵氏の名前が掲載されています。
【大正8年本庄電気軌道・株主名簿】
◆路面電車が実際に動いている様子
※横浜市電保存館YouTube公式チャンネル(https://youtu.be/M0WcagX8zqQ)より
横浜市電(横浜の路面電車)が動いている様子は、上記動画の4分42秒~5分30秒で見ることができます。
「本庄電気軌道」においても、営業された当時は、物珍しさもあって、一度で乗車できなかったそうです。
また、「金鑚大師(神川町)」にお参りする利用客も多く、本庄から児玉まで乗車し、児玉駅から「金鑚大師」まで歩いたとのことです。(※増田 一裕氏「本庄電気軌道株式会社・その創立から廃止まで」P62『本庄市立歴史民俗資料館紀要』第3号、本庄市立歴史民俗資料館、1992年3月より)
◆渋沢栄一翁に憧れ、次々と会社を設立した本庄人たち
パリ万博に参加する幕府使節団の一行として、フランスに渡った渋沢栄一翁は、個人の小さな資本を集めることで、大きな力を生み出すことができる「合本主義」の仕組みを学び、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れました。
「しずくの一滴一滴がやがて大河になる」
「一人がうれしいのではなく、皆が幸せになる。一人一人の力で、世を変えることができる。」
「みんなが豊かになるためには、商業が豊かにならなければならない。」
渋沢栄一翁は、地方にも何度も足を運ばれました。
当時、栄一翁の銀行設立にかかわった各地方の経済人たちは、「リトル渋沢」として、それぞれ何個も会社をつくり、日本全体として「民間力」を高めていきました。
本庄でもみんなから資本を集めて新しい事業に投資する株式会社がたくさん作られました。
たとえば、本庄電気軌道株式会社には、地元の方たち159名の方がお金を出し合い、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の言葉である、「しずくの一滴一滴がやがて大河になる」 ように、【本庄-児玉間】に埼玉県でも2番目の早さで路面電車が走ることになりました。
この鉄道を作ろうという意欲は、埼玉県人の実業家たちに火を付け、その後、秩父鉄道や、西武鉄道、東武鉄道等、埼玉の骨格となる交通網を作るさきがけともなりました。
本庄電気軌道の株主には、後に渋沢家の“中の家”を継ぐことになる渋沢市郎氏、治太郎氏をはじめ、諸井家の諸井貫一氏、恒平氏、木村九蔵氏等、そうそうたる経済人たちが協力してくださっています。
渋沢栄一翁に憧れた地元の埼玉の経営者たちは、「公益の精神」を持ち、「民間力」を高めるために、鉄道や金融機関や、各種工場等を次々に設立していきました。
新一万円札の顔になる渋沢栄一翁はもちろん、埼玉県だけでなく、日本中の全ての地域に影響力を持ち、各地方の心ある経営者たちの公益の魂に火を付け、各地で自分たちの資本を使って、次々に銀行や、鉄道を設立していきました。
渋沢栄一翁が始めた株式会社という開かれた制度は、日本においては、単なるお金儲けの組織ではなく、「論語と算盤」という言葉に代表されるように、公益心や道徳心に基づいた民間を豊かにする画期的な近代の制度として、日本全国に根付くことになりました。
渋沢栄一翁のすごさは、本庄地域における、規模としては小さいけれど、本庄商業銀行や、本庄電気軌道が、多数の小さな資本が集まって、皆が知恵を出し合って協力して運営されて地元を豊かにしていった姿を追いかけるだけでも、伝わってきます。
実際、本庄地域だけでなく、日本中で本庄商業銀行や本庄電気軌道のような会社が何千、何万と、作られ、各地方を豊かにしていきました。
株式会社という制度を渋沢栄一翁が提唱する「論語と算盤」という深みのある精神をもって、日本中に根付かせることに成功したことは、本当に奇跡的なことだし、日本にとって、また世界にとっても、非常に素晴らしいことだと改めて感じています。
渋沢栄一翁は、貧しい家庭出身の大川平三郎氏や、浅野総一郎氏を登用したりもしました。
そしてまた、公益の観点から、東京都の水道管を選定するにあたって、日本製を使えという声が大きい中、水道管そのものの機能や疫病を防ぐという視点から、あえて海外製の水道管を選ぶことを決めたりするなど、現代でも判断が難しい問題を広い視野を持って、解決していらっしゃいます。
(※水道管の選定時については、渋沢翁の以下の二つの話が特に興味深いです。)
(※公益財団法人渋沢栄一記念財団「デジタル版『実験論語処世談』」より)
資本主義や株式会社という制度が、格差の問題やSDGs的な観点からゆれうごいている中、日本で、資本主義を根付かせることに初めて成功した渋沢栄一翁の精神に戻って考えることには大きな意義があると思います。
来年、7月に渋沢栄一翁が新一万円札の顔になるにあたって、渋沢栄一翁の地元である埼玉北部において、明治・大正時代に渋沢栄一翁の影響を受けた実業家たちの足跡を辿ることも、格差の問題の解決や、SDGs的な観点を深めるためにも、重要な材料を提供することができると私は考えます。
これから、本庄の経済人たちが明治・大正時代を通して、様々な会社を作っていった経緯なども史料に基づいて勉強していきたいと思います。
このたびは、戸谷八商店での「第7回本庄まちゼミ」にご参加くださった皆々様、本当にありがとうございました。