阿夫利天神社(本庄市)の例大祭に行って来ました。

 

 

 

 

2020年9月3日(木)は、阿夫利天神社(本庄市)の例大祭でした。

昼と夜の2回、お参りに行ってきました。

 

 

◆昼の光景

 

 

◆夜の光景

灯篭のやわらかい光が幻想的で、社殿が奥に見えて、厳かな雰囲気を感じました。

 

 

◆灯篭

 

 

◆阿夫利天神社社殿の天井画

(昼に撮影)

 

 

(夜に撮影)

 

 

8月下旬に中村民夫先生が戸谷八商店に来られました。

金鑚神社の神輿殿の天井画を先日拝見したことをお伝えすると、中村先生は、阿夫利天神社社殿の天井画についても、ご自身と本庄の画家の方々によって描かれていることを教えてくださいました。

 

本日の例大祭で阿夫利天神社の天井画を拝見しました。一枚一枚の作品が色とりどりに丁寧に描かれており、社殿をやさしく包み込んでいました。天井画からは、本庄の人々の幸せを祈ってくださる地元の画家の方々の思いが伝わってくるようで心があたたかくなりました。

※金鑚神社の天井画についてはこちらへ

※麓原会と中村民夫先生についてはこちらをご覧ください。

 

 

中村民夫先生の天井画について

 

 

 

◆阿夫利天神社社殿

(中村民夫先生作品)

 

 

 

◆金鑚神社神輿殿の天井画

(中村民夫先生作品)

金鑚神社神輿殿天井画「玉水双龍」
金鑚神社神輿殿天井画「玉水双龍」

 

 

金鑚神社神輿殿天井画「四神画」(東「青龍」・南「朱雀」・西「白虎」・北「玄武」)

 

 

 


◆阿夫利天神社のご由緒

 

 

「阿夫利神社(あふりじんじゃ)」は、社伝によると、平安時代後期の寿永年間(1182-1185)に源頼朝によって領地を受けた児玉党の庄太郎家長児玉庄太夫家弘が築いた栗崎館に、かねてより厚く信仰していた相州大山(現 神奈川県伊勢原市)の「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」を領地内のこの地に勧請したのが始まりと伝えられております。

 

室町時代中期の文明13年(1481)庄藤太郎雪茂(僧号伊安)が「若泉山安養院無量寺」を開基し、以後明治初年の神仏分離まで、安養院が別当職を務めました。

※庄藤太郎雪茂の弟は本庄信明(ほんじょうのぶあき)で、北堀の東本庄(本庄市北堀)の地に「東本庄館」を築きました。

 

江戸時代中期の天明3年(1783)7月の大干ばつの時、「石尊社」を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれております。

 

一方、「天神社」は、「阿夫利天神社由緒書」(埼玉叢書第三巻所収)によれば、室町時代後期の天正2年(1574)本庄城主本庄宮内少輔実忠の命により城の鎮守として奉斎されたことに始まります。本庄氏退去後、城主となった小笠原掃部太夫も鎮座地の他に五反余の土地を寄進し「天神林」と名付けました。

 

江戸時代初期の慶長17年(1612)小笠原氏が国替えとなり本庄城が廃城となると、天神社は村人の手によって守られ、名主七左衛門・問屋伊左衛門らが中心となって、寛永6年(1629)に御霊を天神林に再建した祠に移しました。そして、寛文7年(1667)に同社は、別当寺菅霊山自在院慈恩寺境内(現 本庄市照若町)に移されました。

 

その後、大正2年(1913)に町役場建設用地として天神社鎮座地が指定されたことにより、阿夫利神社に合祀され、社号を「阿夫利天神社(あふりてんじんしゃ)」と改称しました。

 

平成12年(2000)1月、放火により社殿を焼失するも御神体は残り、平成14年(2002)9月に社殿は再建され現在に至っております。

 

ご祭神は、大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)、天満天神(てんまてんじん・菅原道真公)大雷大神(おおいかつちのおおかみ)、高龗大神(たかおかみおおかみ)です。 

 

 

 

◆「阿夫利天神社」が誕生するまで

~阿夫利神社と天神社の合祀~

 

 

①弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠が本庄城築城に際し、「天神社」を城の鎮守として天神林(台町)に勧請したものです。栗林からは「神宮寺(慈恩寺)」が移され「椿稲荷神社」も西本庄の若泉稲荷神社より勧請されました。

 

②天正18年(1590)本庄氏の滅亡後、新しい城主である小笠原信嶺は、椿稲荷神社(現材の「城山稲荷神社」)を新城内に移転しました。現在の「城山稲荷神社」です。

※「天神社」と「神宮寺」については天神林5反が寄進され小笠原氏によって保護されました。

 

③小笠原氏が国替え(古河へ転封)となり本庄城が廃城となると、「天神社」と「神宮寺」は衰微しました。

寛文7年(1667)「神宮寺」は「慈恩寺」として寺坂(現照若町)に再興され、「天神社」は、別当寺菅霊山自在院慈恩寺境内(現 本庄市照若町)に移されました。

 

④小笠原氏時代には金鑚神社が鎮守とされましたが、地元の人々は「天神社」を古鎮守として崇敬していました。

大正2年(1913)町役場建設にともない、「阿夫利神社」に「天神社」を合祀し、「阿夫利天神社(あふりてんじんしゃ)」が誕生しました。

 

 

※『本庄のむかし こぼればなし(p132-133)』(柴崎起三雄著)を参照させていただきました。

 

 


◆大山阿夫利神社について(神奈川県伊勢原市)

 

 

 

 

 「阿夫利神社」の本社は、相州大山(おおやま・神奈川県伊勢原市)の「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」です。大山は、古くから山岳信仰の対象として知られ、山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていました。

山頂の自然石(雨降石)を御神体としたことから、「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」と呼ばれ、ご祭神を大山祇命(おおやまつみのみこと)、大雷命(おおいかつちみこと・大山では大天狗)、高龗神(たかおかみのかみ・大山では小天狗)としています。

※明治の神仏分離令により阿夫利神社に改称されましたが、本庄では、今でも「石尊様」と呼ぶ人が多いです。

(『本庄のむかし こぼればなし』柴崎起三雄著を参照しました)

 

江戸時代には関東全域から多くの人が大山詣りをし、各地に「大山講」が生まれました。  

大山への参詣者が各地から通る道は「大山道」と呼ばれ、たくさんの道標や石碑が置かています。 

 

 

五雲亭(歌川)貞秀による大山講の図「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」安政5(1858)年 出典:「東海イズム知の遺産第19回(江戸庶民の人気娯楽大山詣」より

 

 

◆大山参詣の道「大山道」

 

 

【田村通り大山道】藤沢宿からの大山詣りに通う、田村通り大山道の起点にある神奈川県藤沢市四ツ谷の「一の鳥居」

 

 

【田村通り大山道】藤沢にある、田村通り大山道の起点となる道標

 

 


【青山通り大山道】世田谷区三軒茶屋交差点の分れにある

 

 

【柏尾通り大山道】この経路の起点は不動坂と呼ばれる。不動明王堂の道標、石碑などが多くみられる。


 

 

◆「大山石尊良辧瀧之図」 歌川国芳

文政2-3年(1819-1820)大山石尊(現・大山阿夫利神社)の滝に参拝する男達。参拝者で賑わう様子が伝わってくる。(「大山阿夫利神社」Wikipediaより) 

 

 

 


◆お神酒上げ(おみきあげ)の神事

 

 

お神酒樽(『本庄のむかし こぼればなし(p134)』より)
お神酒樽(『本庄のむかし こぼればなし(p134)』より)

 

 

毎年9月3日の例祭には、午前11時に「神楽」が奉納され、午後6時から水を恵む神様に御神酒をあげ感謝する「御神酒上げ神事」が行なわれます。

 

 

「氏子十二か町では夕刻、町名の入った提灯を下げ、自治会長を先頭に氏子代表等が神社に参拝し、昇殿すると持参した「お神酒樽」を神前に供え、お祓いを受ける。

 

上町には別に精緻な彫刻を施したお宮造りの「御神酒枠」一対があり、御神酒枠には四角い穴があいており、ここに天秤棒を通して担ぐようになっている。以前は大山の山開きの期間に代参が「御神酒枠」を担いで大山詣りをしたのであろう。

本町や台町「お神酒樽」には明治5年の墨書があり、他町も同じ頃に造られたと思われる。「お神酒樽」は一対で、紐で結び首から下げられるようになっており、以前は鳶(職人)の頭がこの役を勤めた。

 

現在は「お神酒樽」に酒は入れず、事前に神社に酒を届けておく。参拝後は神社で御神酒をいただき、更に各町内に戻り自治会館または料理屋などで直会(なおらい)を行う。

 

本町では中山道に自身番を置いていた大正期頃までは、自身番よりお神酒樽を首にかけた鳶の頭(親方)を先頭として、四斗樽の酒を荷車に載せ、「阿夫利神御神酒」の幟(のぼり)をたて、木遣(きやり)と共に中山道を神社に向かった。」(『本庄のむかし こぼればなし(p134)』柴崎起三雄著より)

 

 

「阿夫利神御神酒」の幟(のぼり)が立てられ、高らかに町中に響き渡る木遣(きやり)の声を聞いてみたいと思いました。

 

 

「阿夫利神御神酒」の幟(のぼり)
「阿夫利神御神酒」の幟(のぼり)

 

 

 

◆阿夫利天神社 神楽殿

 

 

毎年9月3日の午前11時から金鑚神楽本庄組による神楽が奉納されます。

※金鑚神楽についてはこちらをご参照ください。

 

 

◆不動明王の石像

『今昔郷土集』(本庄市自治会連合会)より
『今昔郷土集』(本庄市自治会連合会)より

 

 

阿夫利神社の本社がある神奈川県伊勢原市の大山は、自然石を御神体とすることで「石尊様(せきそんさま)」とも呼ばれています。

本庄でも人々は、阿夫利神社のある高台を「石尊様」、「石尊山」と呼んでいました。

 

阿夫利神社は雨乞いの神として信仰され、天明7年の大干ばつでは、阿夫利神社崖下(現 若泉第一公園)の池の中洲に御神体を移して雨乞いをしたところ、霊験によって雨が降り、湧き水も復活したと伝えられています。

 

現在、崖下西側の傾斜面に3体の石造物があります。いずれも「不動明王」の眷属(けんぞく)の童子と考えられています。

阿夫利神社本社(神奈川県伊勢原市)の「神宮寺」である「大山寺(おおやまでら)」が「不動明王」を本尊としていることから、崖下にある3体の石造物も、不動信仰にともなう石像と考えられます。

 

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※不動明王は「お不動さん」の名で親しまれ、密教の根本尊である「大日如来」の化身であると見なされています。

不動明王は三十六の眷属(童子)を従えています。

 

※大山阿夫利神社は、もともとは「阿夫利神社」の名称でしたが、中世に神仏習合が盛んになると、大山頂上の岩石を「不動明王」を本地とする「石尊権現」が信仰されるようになり、社名を「石尊社(せきそんしゃ)」と変更しました。「石尊権現」は、「石尊大権現・大山寺」から全国の「石尊社」に勧請され祀られました。

神仏分離の後は、「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、元の「阿夫利神社」に改称されました。

 

「本庄の阿夫利神社にもかつて不動尊の化身である倶利伽羅不動(くりからふどう)を象徴する、剣を取り巻く龍の彫刻をあらわした大きな奉納額が掲げられていた」とのことです。(『本庄地元学だより第29号』増田未来望著より)

 

 

不動明王(国宝・醍醐寺蔵)
不動明王(国宝・醍醐寺蔵)

 

 

倶利伽羅不動彫刻額(『本庄地元学だより第29号』増田未来望著より)
倶利伽羅不動彫刻額(『本庄地元学だより第29号』増田未来望著より)

 

 


 

 

◆「出世稲荷神社」

阿夫利天神社の境内と社務所の間の道を西に少し歩くと「出世稲荷神社」があります。

素焼きのお稲荷様がたくさん並べられていました。